俺と料理と彼女と家と

washusatomi

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第8話 ターキッシュレストラン

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 千石さんは俺の意気込み程にはノッてくれなかった。

 電話口で「トルコ料理店?」と割と平坦な声で言い、「ま、いいかもね」と付け足した。ちょっと期待外れの薄いリアクションだが、それでも美女が一緒に夕食を共にしてくれることになったのは素直に喜ばしい。

 俺が選んだ店は、トルコ料理の中でも高級店だ。スルタンをも魅了したという洗練された料理を口にすれば、きっと千石さんの気持ちも盛り上がるだろう。

 待ち合わせ場所に現れた千石さんは、俺の格好を見て意外そうな声を上げた。

「ジャケット着て来たの? 随分ちゃんとした格好ね」

 だって、宮廷料理だし、グルメサイトでメニューを確認したがなかなかのお値段だ。高級レストランなんだから、ジャケットは必要じゃないのかな。

「だって、トルコ料理なんでしょう?」

「いや、日本にだって1000円以内で食べられる定食屋さんもあれば、何万円もする懐石料理のお店があるから。今日行くお店だってトルコ料理でも宮廷料理だから……」

「ふうん」

 百聞は一見に如かず。レストランの外装を見れば、そこは確かに街中の親しみやすいケバブ屋さんと異なる雰囲気が明らかだった。

「へええ。エスニック料理でも、フレンチやイタリアンのお店みたいな雰囲気ね」

「う……うん」

 うん? 中東らしい雰囲気だと思うしトルコの旗も飾られているからフレンチとの違いの方が大きいように思えるが……。まあ日本よりもヨーロッパに近い分、高級っぽい雰囲気がフレンチレストランと似通うと言って言えなくはないか。

 予約していたので、その座席に案内された。

 隣のテーブルで、欧米系の、いかにもビジネスエリートらしい雰囲気の3人連れが英語でなにか会談している。

 暫く黙っていた千石さんが「すごい」と呟いた。

「何が?」

「あの人たち、世界的大企業のアルファ社よ」

 ああ、千石さんは英語のリスニングも完璧だから彼らの会話の中身も聞き取れるんだ。俺は研究に必要な論文を英語で読んで、自分も必要に迫られれば英語で論文を書くことがあるけれど。英語四技能の内、「聞く」と「話す」は大の苦手だ。

「世界的大企業のトップシークレットを盗み聞きできたりして?」と俺が冗談を飛ばしてみると、彼女は苦笑だけを寄越した。

「何か、日本支社のリクルートについて話し合ってるみたい」

 そこにまた客が来たようだ。

 店の人に案内されて、東南アジア系の女性が二人、俺たちのテーブルの横を通りがかった。友人同士で連れ合って来たらしい。そのうち一人が千石さんを見て大きな笑みを浮かべて話しかけて来た。

 う……。これも早口の英語だ。俺には聞き取れない。

 話しかけられた千石さんは怪訝そうな顔で相手を見上げている。別に英語が聞き取れないわけではなく、自分が話しかけられる心当たりがないからのようだった。

 英語で「あの、どこかで会ったことありましたか?」と相手に尋ねている。

 先方の言葉に「ミズ・タムラ」という言葉が出たので、俺もついその女性をまじまじと見つめてしまった。彼女は俺の視線に気づくと、日本語に切り替えてくれる。

「私たちは、М国から参りマシタ。タムラさんの、しょくどうでコドモがお世話になってオリマス」

 やや発音が微妙だが、謙譲語の使い方は正確だ。おお、トリリンガル。この人は田村さんの子ども食堂にお子さんが通っているお宅のお母さんなんだ。

 それでも日本語より英語の方が楽なようで、千石さんと英語でしばらく会話している。千石さんは外国映画の中の人のように大きなリアクションだ。どこか眩しい思いで俺は彼女達を見ていた。

 二人はアルファ社のエリート集団の向こうの隣のテーブルに通された。

 千石さんが無表情でテーブルのナプキンを弄っている。俺は、日本人同士よりずっとテンションが高い英会話に疲れたのかなと思っていた。

 だけど、千石さんの不機嫌は続く。

「なんで、かわいそうな難民の人がこんなレストランに来てるのかしら」

「お友達と会ってるんじゃないの?」

「だって、難民なんだよ? こんなレストランで贅沢するなんて不謹慎よ。子どもが福祉の食堂でお世話になっているのに」

 ええと……。田村さんの食堂って低所得でないと利用できないんだったっけ? いや。確かに貧困家庭で経済的に食事を用意できない家庭の救済も子どもの食堂の目的の一つだが……。田村さんの説明では、別に貧困ではなくても、夕食を独りで食べる環境の子どもに寂しい思いをさせないようにすることも目的にしていたはずだ。

 M国のお母さんは仕事が忙しくて、お子さんは一人になってしまう。逆に言えばお母さんには仕事があって貧困というほどではないんだろう。そして、仕事仲間と夕食を共にするのは息抜きだったり同国人同士での情報交換だったりするのだろうと思う。

 俺がそれを伝えても、千石さんは口を曲げている。

「身の丈に合った場所で食べればいいのに」

 うーーん。彼女たちの懐事情が許すならどこで食べても彼女達の自由なんじゃないかなあ……。

 アルファ社の一人が、彼女達に声を掛けた。いかにもアメリカ人らしい英語と、東南アジアのものらしい英語とは少し響きが異なるが、もちろん同じ英語だから会話が弾む。

 千石さんが苛々としている。ああ、本当はあの英語バリバリで話すグローバルな集団に入りたいんだろうな。だけど、英語ができない俺が一緒だから入れない。

 スミマセン……と俺は申し訳ない気持ちでコップの水を飲んだ。

 きゅっと千石さんが拳を握る。

 そこに料理が運ばれてきた。その料理もろくに見ずに、千石さんは眉をひそめて俺に顔を寄せる。ア、アップは嬉しいけど、その険しい顔はなぜ?

「あのM国のお母さん、アルファ社に引き抜かれるみたい」

「はあ」

 俺の間の抜けた返事にお構いなく、千石さんは声を潜めて早口で言い募る。

「日本でスタッフを探していたんですって。英語ができる事務員を。それであのお母さんをウチに来ないかって誘っているの。あ、条件面で折り合いついたみたい」

 千石さんは再び黙り込んで聞き耳を立てている。

「やだ。そんなのかなりの好待遇じゃない。報酬を支払い過ぎよ。それに育児中に配慮してオフィスアワーも早くていいですって?」

「よ、良かったじゃん。お父さんが病気で、お子さんが家に一人ですごしがちだったんだから」

 そ、そうだよな。気の毒な事情が一つ解消して、ここは喜ぶ場面だよな。なのに千石さんは口元を歪めて憎々しげにテーブルの隅を睨みつけている。

「ズルいと思わない?」

「な、何が?」

 苛立たしそうに千石さんは視線を俺に向けた。どんな表情であれ、千石さんは千石さんに変わりなく、大きな造作の美しい顔立ちが崩壊したわけではない。なのにこの顔つきはひどく醜く見えた。

「かわいそうな難民のくせに、私たち日本人を差し置いて、世界トップの大企業での好待遇のポストを横取りするなんて」

「……」

「不公平よ。レストランで隣り合わせに座ったってだけのコネで滑り込むなんて」

「……」

 いつまでも無言な俺に彼女は苛立ったようだ。

「コネよ、コネ。コネ入社が同期にいたら、一ノ瀬君だってズルいと思うでしょう?」

 そりゃあ……。それは新卒で入社する際の就活で何かズルをした人間がいたらそう思うかもしれないけど……。

「いや……この場合は途中入社だし……外資系企業の採用だし……」

 そもそも日本の新卒一括採用が世界的に見て珍しい雇用慣行だったんじゃなかったっけ? 日本とそれ以外の国の雇用を巡る文化が違うから、日本人の場合と比較して「ズル」呼ばわりすることはないんじゃないか。

「ここは日本よ? 優秀な日本人はいっぱいいるわ。それなのに、たまたまレストランで隣に座った難民を採用するなんて」

 日本人の優秀で外資に転職したい人間は相応に就職活動しているだろうし、アルファ社との人事採用者とレストランで隣り合わせることもあるだろう。その中でアルファ社のニーズにあった人がいれば採用されるだろうし、その点は別に日本人とそれ以外に対して差があるとは思えない。

「でも……偶然そんなご縁があったということで……」

 今日たまたまアルファ社の人がM国のお母さんと話してみて、アルファ社と彼女とのマッチングが上手く行ったということなんじゃないか。この世から偶然性を全く排除することはできないから文句言っても仕方ないじゃないか。それに採用されたって、もし彼女がアルファ社の求める人材でなければ解雇されることだろう。良くも悪くも外資系はそのへんドライだそうだ。気軽に採用する分、双方メリットが無ければ気軽に雇用関係を終わらせるような印象がある。

「まあ、たまたま採用されても、上手く行かなければ辞めることになると思うよ」

「そうよね!」と千石さんの声が弾んだ。俺はようやく千石さんの喜ぶことを言ったらしいが……。

「あの人、後進国の女性だもの。実力があるわけないんだから、アルファ社もすぐに首にするわよね」

 俺は千石さんが何を言っているのか分からなくなった。

 実力……。M国のお母さんは母国のインテリ層だ。アルファ社にはアルファ社として期待する能力があるのだろうし、採用してみて彼女自身を見て雇用を継続するか判断するだろう。M国の難民とか後進国の女性とか、別にアルファ社にとっては関係ない話だ。ってか、そもそもあの人は「かわいそうな難民」でもないし。

 千石さんは気を取り直そうとしたようで、ようやくグラスを手に取って、俺に微笑みかける。

「なんか嫌なもの見ちゃったけど。気にしてちゃ駄目よね」

「嫌なもの?」

 千石さんは笑顔を貼り付けながら、眉だけをひそめて見せた。

「移民が移民先の仕事を奪う場面に直面したじゃん。嫌よねえ。やっぱり移民問題は慎重であるべきだわ」

「……移民問題とは関係なくない?」

 途中入社、外資系、英語というスキル、日本に住む外国人ならではの視点の有無……かなり特殊な事例であり、「移民問題」などと一般化するようなことではないだろう。

 千石さんは「なんで?」と口を尖らせる。

「難民とか移民とか受け入れると日本人の不利益だわ」

 移民が急に大量に押し寄せれば、受け皿の整っていない社会に何らかの混乱は起きてしまうだろう。確かに、それは社会問題だ。

 しかし、今起こっていることは、千石さんが「かわいそう」と上から目線で決めつけていた相手が「かわいそう」ではなく、自分と同じかそれ以上の地位を手に入れたことが千石さんの「見込み違い」だったというだけのことじゃないか。そもそも、その「かわいそう」という憐れみだって、M国のお母さんには当てはまらないのだと田村さんが何度も説明してきたはずだ。

 千石さんは料理を口に運んだ。

「かわいそうだと思って色々寄付してきたけど、裏切られた気持ちだわ」

 もぐもぐと料理を咀嚼しながら、「かわいそうな人なら助けなきゃっと思うけど。難民とか移民とかはねえ」とこの話題は続く。

 その間。料理の感想はない。今は料理を味わうことよりも、M国のお母さんへの憤りで頭が一杯なのだろう。

 だけど……どんなに機嫌が良かろうと、千石さんがトルコ料理を味わうことはないだろうと俺は思う。

 いや、今後どこの国の料理を食べてもそうじゃないだろうか。彼女は世界の料理を楽しむような味覚の持ち主ではないのだ。

 M国の肉じゃがの日本のカレーと似ているところと似ていないところを知ろうとせず、「自分にとって珍しいかどうか」しか興味がない。それは人間についても「かわいそうか」どうかでしか見られないことと根は一緒だと思う。
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