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20. 皇太后への見舞い(一)
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この騒ぎ以降、春賢からの接触は無くなった。
ふだんの白蘭は華都の商人達と連絡を取り合うのに忙しいが、今日は時間があいたのでザロと廂房で冬籟に売る品物を選んでいる。
ザロが「この駱駝の螺鈿細工の五弦琵琶、冬籟様から東妃様への贈り物にいかがですかね?」とかかげて見せた。いあわせた雲雀がその話題に食いつく。
「琵琶! いいですねぇ。演奏するとき抱きますもんねぇ!」
雲雀は胸先で指を組み、宙を見つめた。
「黒の貴公子の秘めた恋。片恋にもんもんとする美青年が相手の女性に楽器を贈る。女性が自分の選んだ楽器を抱いて美しい音をつむぎ出す光景を想像し、美青年の目から涙が一筋……。うーん、萌えますね!」
白蘭は思わず「雲雀……」と話しかけた。
「早く字を覚えてそういう妄想は物語にしよう。架空のお話でなら思う存分想像の翼を広げていいから」
「そうですねぇ……。想い人の細くたおやかな指が弦に触れるたびに、それを見つめる美青年が……」
「うんうん、それは素敵なお話になりそうね。だから今は頭の中で温めておこう?」
雲雀が「はぁい」と答えたきり空想の世界に入り込む。ザロが目頭で「放っといていいんですかい?」と問うが、白蘭は苦笑いを返すにとどめた。
将来ひとかどの文筆家になった雲雀が書くかもしれない恋物語もそれはそれで面白そうだが、現実の冬籟とは少し違うように思う。
当の東妃本人の前では甘えも出るのか拗ねて見せたりもしていたが、白蘭に「終わったことだ」と言い切った彼は決然としていた。東妃への贈りものだって、白蘭がその利益を説かなければ話にのってこなかったことだろう。それに彼は卓瑛と東妃の新婚生活を邪魔するまいともしている。
彼は二人のためにも自分の未練を断とうとしている。胸の奥でくすぶるものがあっても、周りに誰もいないからといってメソメソ泣くなど彼は自身に許さないのではないだろうか。
一緒になろうと求愛したそうだから彼にも男としての欲望もあるのだろうが、他の妃の入内後の東妃の立場を心配してもいる。彼の愛情には、単なる欲望だけでなく家族として過ごした相手への情愛も色濃い。
ここが白蘭の父親と大違いだと思う。
幼い頃、母に連れられ、父親が妻妾達と開いた宴席に出た場面が思い出された。父が女達に向ける視線と、母を含め女達が父に送る視線が複雑に交錯する、その大人達の間の妙に濃密な空気が白蘭には不快だった。
「東妃様に贈りものをしては?」と進言したときの冬籟の切なそうな顔。白蘭に気づいて瞳に浮かべた含羞の色。ただ欲望を垂れ流すだけの人間ならあんな表情などするまい。
他者を気遣い己を律する彼は、意外と、白蘭が美しいと思うものを美しいと思い、醜いと思うものを醜いと思う感性の持ち主なのかもしれない。
春賢に対しても白蘭を「男に媚びない独立独歩の商人だ」と擁護してくれたし、やたら子ども扱いする点をのぞけば、彼は自分の良き理解者になってくれそうな気もする。
突然、その冬籟の「いるか? 商人」という声がした。雲雀が「ひやあっ!」と大声で驚く。好き放題に妄想していた人物が現れたのだから当然か。
冬籟が「なんだ、雲雀。昼間に幽鬼でも見たかのような驚きようだな」と戸口で立ち止まる。
「いえっ、そのっ」
「宿に来たら廂房で仕事中だと聞いて女将に通してもらったんだが。邪魔をしたか?」
問われた白蘭が「いえ、ちょうど東妃様への品を選んでおりました。ご覧になりますか?」と問い返すと、冬籟は首を振った。
「いや。商人、今日は別件だ。皇太后様が今日は体調が良いので、あんたに会いたいと仰せだ。今から出られるか?」
夕餉の前に雲雀の手習いがあるが、雲雀の方から「どうぞお見舞いしてさしあげて下さい。私は自習しておきますよぅ」と申し出てくれた。
「皇太后様だって、故郷から来たお身内にお会いになりたいとお思いですよ、きっと」
白蘭の方も尊敬する皇太后様にお元気な間にお会いしたい。そもそも、この場面で会いたくないと言うのも不自然だ。白蘭は雲雀に礼を言い、後宮の中心にある皇后の住まい、側燕宮に向かうことにした。
龍凰門からは泰墨宮や青濤宮へ向かう小径ではなく、真っ直ぐにのびる磚で舗装された道を歩く。今日の森は静かで、冬籟の規則正しい靴音だけが白蘭の耳をたたいていた。
「商人、今日はやけに無口だな。どうした?」
白蘭は説明に迷う。
「……雲雀を人買いから助けるときに、なりゆききで王族の娘だと明かしましたが。本当はそんなに大っぴらにするつもりじゃなかったんですよね……。皇太后様が重いご病気でいらしたので、こうしてお見舞いする機会ができてそれはいいんですが……」
冬籟がもの問いたげだ。どう説明しようか。
「皇太后様は琥王の姉君です。私が王族なのに商人として華都に来たことをどうお思いになるか。そのう、厳しい方だと思うので……何か叱られるのではないかと……」
「皇太后様は政に臨むときには峻厳でも、それ以外ではむしろもの柔らかい方だ。俺もあんたが王族なのに商人になったと聞いて面喰ったが、今のあんたを見てるとそういう生き方もありなんじゃないかと思う。皇太后様も案外面白がられるかもしれんぞ」
「それは……どうでしょう……」
この件について皇太后との間でどんなやりとりになるのか。白蘭はそれが気がかりでしかたなかった。
側燕宮は他の宮と異なり丹塗りの園墻に囲まれている。その墻に穿たれた洞門をくぐると、左手に苔むした岩に囲まれた池があった。そのほとりに柳が水面をなでるように植えられ、そばに小さな塚がある。磚の道は小高い丘を登るなだらかな階段となり、その先に黄釉の瓦を葺いた宮殿が建てられていた。
「墨泰宮や青濤宮と違いますね」
「そりゃ妃ではなく皇后の住まいだからな。妃の宮殿より盛り土をして高い位置にあるし、太極宮からの道が入口まで舗装されているのもここだけだ」
黄昏を迎える病室を彩るためか、何人かの宮女が宮殿のそばで花を鋏で切っている。彼女達が冬籟に気づき、中の一人が裳裾をさばきながら小走りで駆け下りてきた。「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」と案内され、白蘭たちは宮殿の臥室まで通される。
羅の帳ごしに、灯火の傍に牀があるらしいのが透けて見える。宮女が手で持ち上げてくれた帳をくぐると、まず目に入ったのは、仰臥する女性が絹の衾「の上で軽く組んだ両手だった。やせ細った指に青い血管の浮いた張りのない肌は持ち主の老いを物語っている。その衫の胸元からのぞく筋張った首の向こうにある顔も、西域の人間らしい高い鼻梁が白蘭と似ているものの、頬がそげ、病みやつれて生気に乏しい。
宮女に「冬籟様とお客人がお見えですよ」と囁かれて、皇太后はゆっくりと瞼を持ち上げた。かつては天青の輝きがあっただろう瞳は、垂れた瞼の奥でかすかにその色を見せるに過ぎない。
「冬籟……よく来たわね。その子が白蘭? ……どうぞお掛けなさい」
その声もかすれて弱々しく、もとは金色と聞いていた髪は色あせ白髪が多い。
年齢以上に老け込んでおられるのは死病に取りつかれているせいだろうか。本来ゆっくりと進むべき老いが、余命の短さにあわせて一気に押しよせてきたかのようだ。
皇太后が宮女に支えられながら半身を起こす。牀の傍の二つの丸椅子の一つに冬籟が座り、白蘭は自分が腰かける前に丁寧に揖礼を取った。
「初めてお目にかかります。琥商人の白蘭と申します」
白蘭が椅子に座ると、皇太后が実務に優れた方らしく単刀直入に話に入る。
「はじめまして、白蘭。確かに貴女の顔は私の若い頃に似ています。だから血縁はあるのだろうと思いますが、私には商家に養子に出たという王族に心当たりがありません。どういうことなのでしょう?」
親に捨てられた白蘭のことなど、わざわざ華都まで知らせる者はいなかったのだろう。白蘭は早口で母の名を告げた。それを聞いた皇太后が「ならば……」と何か言いかけたのに、被せるように先を続けた。
ふだんの白蘭は華都の商人達と連絡を取り合うのに忙しいが、今日は時間があいたのでザロと廂房で冬籟に売る品物を選んでいる。
ザロが「この駱駝の螺鈿細工の五弦琵琶、冬籟様から東妃様への贈り物にいかがですかね?」とかかげて見せた。いあわせた雲雀がその話題に食いつく。
「琵琶! いいですねぇ。演奏するとき抱きますもんねぇ!」
雲雀は胸先で指を組み、宙を見つめた。
「黒の貴公子の秘めた恋。片恋にもんもんとする美青年が相手の女性に楽器を贈る。女性が自分の選んだ楽器を抱いて美しい音をつむぎ出す光景を想像し、美青年の目から涙が一筋……。うーん、萌えますね!」
白蘭は思わず「雲雀……」と話しかけた。
「早く字を覚えてそういう妄想は物語にしよう。架空のお話でなら思う存分想像の翼を広げていいから」
「そうですねぇ……。想い人の細くたおやかな指が弦に触れるたびに、それを見つめる美青年が……」
「うんうん、それは素敵なお話になりそうね。だから今は頭の中で温めておこう?」
雲雀が「はぁい」と答えたきり空想の世界に入り込む。ザロが目頭で「放っといていいんですかい?」と問うが、白蘭は苦笑いを返すにとどめた。
将来ひとかどの文筆家になった雲雀が書くかもしれない恋物語もそれはそれで面白そうだが、現実の冬籟とは少し違うように思う。
当の東妃本人の前では甘えも出るのか拗ねて見せたりもしていたが、白蘭に「終わったことだ」と言い切った彼は決然としていた。東妃への贈りものだって、白蘭がその利益を説かなければ話にのってこなかったことだろう。それに彼は卓瑛と東妃の新婚生活を邪魔するまいともしている。
彼は二人のためにも自分の未練を断とうとしている。胸の奥でくすぶるものがあっても、周りに誰もいないからといってメソメソ泣くなど彼は自身に許さないのではないだろうか。
一緒になろうと求愛したそうだから彼にも男としての欲望もあるのだろうが、他の妃の入内後の東妃の立場を心配してもいる。彼の愛情には、単なる欲望だけでなく家族として過ごした相手への情愛も色濃い。
ここが白蘭の父親と大違いだと思う。
幼い頃、母に連れられ、父親が妻妾達と開いた宴席に出た場面が思い出された。父が女達に向ける視線と、母を含め女達が父に送る視線が複雑に交錯する、その大人達の間の妙に濃密な空気が白蘭には不快だった。
「東妃様に贈りものをしては?」と進言したときの冬籟の切なそうな顔。白蘭に気づいて瞳に浮かべた含羞の色。ただ欲望を垂れ流すだけの人間ならあんな表情などするまい。
他者を気遣い己を律する彼は、意外と、白蘭が美しいと思うものを美しいと思い、醜いと思うものを醜いと思う感性の持ち主なのかもしれない。
春賢に対しても白蘭を「男に媚びない独立独歩の商人だ」と擁護してくれたし、やたら子ども扱いする点をのぞけば、彼は自分の良き理解者になってくれそうな気もする。
突然、その冬籟の「いるか? 商人」という声がした。雲雀が「ひやあっ!」と大声で驚く。好き放題に妄想していた人物が現れたのだから当然か。
冬籟が「なんだ、雲雀。昼間に幽鬼でも見たかのような驚きようだな」と戸口で立ち止まる。
「いえっ、そのっ」
「宿に来たら廂房で仕事中だと聞いて女将に通してもらったんだが。邪魔をしたか?」
問われた白蘭が「いえ、ちょうど東妃様への品を選んでおりました。ご覧になりますか?」と問い返すと、冬籟は首を振った。
「いや。商人、今日は別件だ。皇太后様が今日は体調が良いので、あんたに会いたいと仰せだ。今から出られるか?」
夕餉の前に雲雀の手習いがあるが、雲雀の方から「どうぞお見舞いしてさしあげて下さい。私は自習しておきますよぅ」と申し出てくれた。
「皇太后様だって、故郷から来たお身内にお会いになりたいとお思いですよ、きっと」
白蘭の方も尊敬する皇太后様にお元気な間にお会いしたい。そもそも、この場面で会いたくないと言うのも不自然だ。白蘭は雲雀に礼を言い、後宮の中心にある皇后の住まい、側燕宮に向かうことにした。
龍凰門からは泰墨宮や青濤宮へ向かう小径ではなく、真っ直ぐにのびる磚で舗装された道を歩く。今日の森は静かで、冬籟の規則正しい靴音だけが白蘭の耳をたたいていた。
「商人、今日はやけに無口だな。どうした?」
白蘭は説明に迷う。
「……雲雀を人買いから助けるときに、なりゆききで王族の娘だと明かしましたが。本当はそんなに大っぴらにするつもりじゃなかったんですよね……。皇太后様が重いご病気でいらしたので、こうしてお見舞いする機会ができてそれはいいんですが……」
冬籟がもの問いたげだ。どう説明しようか。
「皇太后様は琥王の姉君です。私が王族なのに商人として華都に来たことをどうお思いになるか。そのう、厳しい方だと思うので……何か叱られるのではないかと……」
「皇太后様は政に臨むときには峻厳でも、それ以外ではむしろもの柔らかい方だ。俺もあんたが王族なのに商人になったと聞いて面喰ったが、今のあんたを見てるとそういう生き方もありなんじゃないかと思う。皇太后様も案外面白がられるかもしれんぞ」
「それは……どうでしょう……」
この件について皇太后との間でどんなやりとりになるのか。白蘭はそれが気がかりでしかたなかった。
側燕宮は他の宮と異なり丹塗りの園墻に囲まれている。その墻に穿たれた洞門をくぐると、左手に苔むした岩に囲まれた池があった。そのほとりに柳が水面をなでるように植えられ、そばに小さな塚がある。磚の道は小高い丘を登るなだらかな階段となり、その先に黄釉の瓦を葺いた宮殿が建てられていた。
「墨泰宮や青濤宮と違いますね」
「そりゃ妃ではなく皇后の住まいだからな。妃の宮殿より盛り土をして高い位置にあるし、太極宮からの道が入口まで舗装されているのもここだけだ」
黄昏を迎える病室を彩るためか、何人かの宮女が宮殿のそばで花を鋏で切っている。彼女達が冬籟に気づき、中の一人が裳裾をさばきながら小走りで駆け下りてきた。「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」と案内され、白蘭たちは宮殿の臥室まで通される。
羅の帳ごしに、灯火の傍に牀があるらしいのが透けて見える。宮女が手で持ち上げてくれた帳をくぐると、まず目に入ったのは、仰臥する女性が絹の衾「の上で軽く組んだ両手だった。やせ細った指に青い血管の浮いた張りのない肌は持ち主の老いを物語っている。その衫の胸元からのぞく筋張った首の向こうにある顔も、西域の人間らしい高い鼻梁が白蘭と似ているものの、頬がそげ、病みやつれて生気に乏しい。
宮女に「冬籟様とお客人がお見えですよ」と囁かれて、皇太后はゆっくりと瞼を持ち上げた。かつては天青の輝きがあっただろう瞳は、垂れた瞼の奥でかすかにその色を見せるに過ぎない。
「冬籟……よく来たわね。その子が白蘭? ……どうぞお掛けなさい」
その声もかすれて弱々しく、もとは金色と聞いていた髪は色あせ白髪が多い。
年齢以上に老け込んでおられるのは死病に取りつかれているせいだろうか。本来ゆっくりと進むべき老いが、余命の短さにあわせて一気に押しよせてきたかのようだ。
皇太后が宮女に支えられながら半身を起こす。牀の傍の二つの丸椅子の一つに冬籟が座り、白蘭は自分が腰かける前に丁寧に揖礼を取った。
「初めてお目にかかります。琥商人の白蘭と申します」
白蘭が椅子に座ると、皇太后が実務に優れた方らしく単刀直入に話に入る。
「はじめまして、白蘭。確かに貴女の顔は私の若い頃に似ています。だから血縁はあるのだろうと思いますが、私には商家に養子に出たという王族に心当たりがありません。どういうことなのでしょう?」
親に捨てられた白蘭のことなど、わざわざ華都まで知らせる者はいなかったのだろう。白蘭は早口で母の名を告げた。それを聞いた皇太后が「ならば……」と何か言いかけたのに、被せるように先を続けた。
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