計略の華

雪野 千夏

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第44話 (宇佐見視点)

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ほの暗いを通り越して、ほぼ真っ暗なバーだった。雑居ビルの二階にあるそこは小さな表札が看板替わり一歩店内に入れば足元も隣の人の顔すらも見えない。小さなテーブル席が一つと、分厚い一枚板のカウンター。七人入れば満席という小さな店だった。灯りはといえば、テーブル席にキャンドルが一つ、カウンター席に二つ。バーテンの手元を照らす灯りもぎりぎりまで光源を落としてあった。酒のラベルすらキャンドルに近づけなければ見えない。明るい酒を飲む店ではない。しっとり、夜を噛みしめる店だった。

出荷が一時停止になったというウィスキーを口に含み、当たり前のように隣に座った男を見た。



「ストーカーですか」

「ここを教えたのは俺だっただろう?同じものを。久しぶりだな」



だからと言って今日ここにくる必要性はない。

暗闇に足を取られることなく、席に着いた従兄は革張りの椅子のクッションを調節した。



「そうですね」

「あれでよかったのか」

「そうですね」



それ以上何も言わないとみてとると、従兄はゆっくりとグラスを傾けた。

他の客が店を後にし、店内が二人だけになる。バーテンが裏へと消えた。



「お前がいれあげるほどのよさは分からなかったが」

「わからなくて結構です」

「それにしてもなんのためだ?」

「どうも彼女に結婚の意思はないそうです」

「は?あれだけ釣書きをばらまいておいてか?」



一時期その筋では望月グループの次女の噂でもちきりだった。なにせ、めぼしいところには軒並み縁談の話がいったのだ。常識的に考えてもあり得なかった。しかし、それは裏を返せば、それだけ望月建造が後継者に対し真剣になっているのだとも見て取れた。兄に等しい従兄もそう考えたからこそ、自分宛の見合いを宇佐見に回したのだ。



「言われましたよ、種だけくれと」

「はっ?」

「子供だけ産んで建造氏に投げつけてやるみたいですよ」

「本気か?そんなこと母となった女ができるものか。茉奈を見ていて思ったが母になった人間の母性は並じゃないぞ。自分の体の中で育っていくのだぞ」



自分の妻を引き合いに出す従兄をうっすらと笑った。大和撫子を絵にかいたような従兄の妻と、必要なら子供だけ産んで自由になろうとする加奈を同じ性別というだけで一緒くたにするのは違うだろう。有能な経営者な従兄も堅いことだ。



「さあどうですかね」

「惚れたのか?」

「さあ、どうでしょうね」



興味を持ったのは、その瞳。好きでもない男に落ちたくないとシーツの上でもがくさまはいっそ哀れで、だからこそ欲を煽られた。自分の中に潜む女の矛盾と、望む未来としがらみの中で喘ぎながら悶える姿に、初めて人間を美しいと思わせられた。風景しか描かなかった自分が、人間を描いてみようかと思う程度には気に入った自覚はあった。



「災難だな」

「そうですか?」

「お前がじゃない、彼女がだ。そんな捻じれた愛を向けられたら身動きがとれないだろう」



従兄はため息をついた。

今日、あの女は梶谷とかいう男と本当に話せるのだろうか。何を話すのか。それとも話さないのか。大事な人がいる、と言って自分を拒んだ彼女は、何を選ぶのか。それともえらばないのか。



「そうでしょうか。僕も別に結婚に興味はないですからね。捻じれていると思うのは、考えが固執しているだけでしょう。常識にとらわれすぎですよ」

「お前は……まあ、相変わらずだな。ピンチの時は考えもつかないことを言ってくれるのが頼もしいが。厄介だな。お前の手綱を握れる女などいないと思ったが、もし彼女が握れるというのなら、ぜひともお願いしたいな。そうすれば、臼井グループもいくらか楽に回るだろう」

「別に彼女と付き合ったからって、仕事を請けたりしませんよ」

「だが、望月の婿になるということは後継者になるということだろう」



それは、また別の話だ。自分の人生を捧げるほどの興味はない。

だが、



「興味があるのですよ、彼女に」



種だけ欲しいなどと言ってのけ、やってみせる気でいる彼女がおかしかった。幼いほどのその真っすぐさがどこで折れるのか。それとも、健気にもやってのけるのか。

知らず笑みが浮かんだ。

ああ、今電話をしてみようか。一体彼女はなんていうだろうか。
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