アヤカシガリ

緑谷

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(上)

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 某県立、冠桜かんざくら高等学校。

 一応高い進学率と、割と有名なスポーツ選手をぽつぽつ送り出してきた、それなりにこの付近では名の通る高校である。

 冬服は男女共に白を基調とし、男子は詰襟で下はワイシャツのみ、女子はセーラー服でスカート丈は膝が隠れるまでと決められている。ソックスの色は白または黒か紺、ワンポイントは許可。蒼のラインが涼しげだが、真冬にこれはないと生徒からは不評である。

 まあ、まだ春だからさして問題はないはずだ。クラスの喧騒を他所に、一人頬杖をついてそれを眺めていた。入学式も終わり、ようやく慌しさも減り始めた、季節も五月へ差し掛かるある日の二時間目……の、休み時間。もうすぐこのうららかな日差しは強くなり、周辺の緑もいっそう深みを増していく。その最後の穏やかな日差しの中、まどろむには最適の時間帯だった。

氷室ひむろサンっ」
「なーなー氷室サン、ちょっとくらい話してくれてもいいじゃーん」
弓月ゆづきちゃんって呼んでいい? なー弓月ちゃーん」

 だというのに、なぜわざわざ上級生に囲まれなくちゃならないのだろうか。派手に色を抜いた茶髪と、腰までずり下げたズボンと、サイドを長く伸ばして隠してある金ピアスがかなり鬱陶しい。そういうのは知り合いに一人いるだけでいい。あれの場合はもっと派手派手しくてもっとキンキラキンなわけなのだが、まあともかく。

「噂どおりだな、全然セーラー似合ってねえし」
「やっぱ男なんじゃね?」

(ほっとけ。それを口に出して言うんじゃねえよ、空気読め)

 明らかに嫌な顔をしていると思うのだが、彼らは全く気づいていない。

「深夜に歩き回ってるってホント? 俺のダチが見たってーんだよねー」
「何々、話せないくらいやばいバイトとかしてんの? アッチ系なの? 給料いい?」
「なーなー教えてよー、チクッたりしねーからさー。お小遣いほしいんだよねー」

 これこのように、それなりに名の通る進学校ではあるものの、個人の事情により規則を破る者は大多数存在する。
 頬杖をつきながら、氷室弓月は眉を寄せた。教室中から注がれる好奇の視線が鬱陶しい。

 事情があるから話せない、と断ればこの有様である。その事情ですら、説明しても信じてもらえないことくらい、今までの経験から重々承知の上だった。理解してもらうには、まず自分と相手の立場の違いから話さなければならないだろう。理解を得られるとは思っていない。時間の無駄になる。だから、個人的にそれは避けたかった。

 とどのつまり、はっきり言って、邪魔なのだ。

「いーじゃん、ちょっとだけだってー」
「ホントホント。な、いいだろー?」

 もともとそんなに気は長くない。むしろ導火線は人より短いと自負している。気を許した相手以外には、触られるのだってごめんだ。その特定の相手も、今はいない。随分長い手洗いだが、おそらくびびっているだけだろう。早く戻ってくればいいのだが、奴はチキンだから仕方がない。

 それにしても馴れ馴れしい。べたべた触るな。今肩に触った奴誰だ。腕回すな。暑い。重い。香水の臭いが移ったらどうしてくれるんだ。

 苛立ちは静かに降り積もり、積もり積もった挙句に引火した。引火の後は爆発だけ。それを抑える理由などない。

 机に思い切り両手を打ちつけ、黙らせた。教室内が水を打ったように静まり返る。呆けている面々を一人ずつにらみ、引きつる口許を歪めて笑った。

「……知らないほうがいいこともありますよ、先輩方。もっとも、命が惜しくないなら紹介してあげてもいいですがね? どうします、殺るか、殺られるか、好きなほう選んでくださいよ」

 地を這うようなその声に、あっという間に人垣が消えた。クラスメイトは硬直したまま動かない。空気も凍って動かない。

「わっりぃな弓月! 野暮用で遅くなっちまったい!」

 底抜けに明るい声が響いたのは、予鈴が鳴るまであと五分のところだった。凍った空気が砕かれて、徐々に活気が戻ってくる。つかの間の開放感に浸っていた弓月は、ようやく現れた彼を見て、再び眉間にしわを刻んだ。

「ん? 何だよ、また機嫌悪くしてんのかあ? 全く、お前の怒りのポイント全然分かんねーよなあ」

 いっそすがすがしいまでの表情を一瞥し、弓月は白いプリーツスカートの糸くずを取る。

 岡田比呂也おかだ・ひろや。弓道部所属。短い髪をざっと後ろに梳き流した、黙っていれば顔立ちはいい幼馴染だ。彼が幼稚園に行く前からの付き合いであり、弓月の居候先の次男坊だった。ちなみに長男は一人暮らしなので家にはいないが、時折『仕事』の関係でそちらに赴くと快く宿を貸してくれる。そのたびに比呂也のことをよろしく頼まれるのだが、もう既に不本意ながらよろしくしている。

「そういや弓月、桜下さくらげ通りの通り魔事件、解決したらしいぜ。さっすがだなー。でさ、通り魔の正体、ガシャ髑髏……だっけ。調べたんだけどさ、人を脅かすだけの妖怪なんだよな。んで、妖魔が絡んでるらしいんだろ? ちょっと疑問なんだけど、妖魔と妖怪ってどう違うの?」

「朝説明しただろうがよ。忘れたのか、それとも便所行ったときに一緒に流しちまったのか? 随分長ぇよなぁ、おい。休み時間始まった瞬間にダッシュかけてやがったのによお」
「いやーははは」

 険を帯びた声に、比呂也は乾いた笑いを立てる。自分のせいで怒っているのだとは、空気を読まないと定評があっても理解できたらしい。

「その、スミマセン……あの人らが怖くていけませんでした、チキンな俺を思う存分罵ってください」
「このチキン野郎」

 望みどおり投げやりに罵れば、比呂也はますます縮こまってうなだれてしまった。自分で言ったくせに、妙な奴である。

 しかし、そのあまりにしょぼくれた表情は、幼い頃をどうしても思い出して微妙な心地になる。

「別に助けてもらおうなんざ考えてもねぇから、安心しろ。お前は守られる側なんだから気にすんな」
「安心できねーし、納得できねーよ……」

 一応のフォローに、比呂也はどこか複雑そうな面持ちで呟いた。その言葉は、予鈴の音に重なって砕け散る。その残滓を肌で感じながら、弓月は一つ息をついた。

 何のかんの言いながら、彼は弓月の長きにわたる友であり、弓月の身の上を知りながらも受け入れてくれる、数少ない理解者であった。


 時刻は黄昏に差し掛かる頃。帰り道の桜下通りは、すっかり葉桜の様相となっていた。数日前まで辺り一面が桜色に覆われていたというのに、今は等間隔で設置された街頭に照らされて緑を透かしている。季節の移ろいは早いものである。

 頭上に差し伸べられた枝葉からは、どことなく澱んだ色合いの空が広がっていた。何かが出そうな、そんな空の下で説明は続く。

「妖魔と妖怪の違いってのは結構あるんだぜ? この世界はことわりに守られている……妖怪はその理から外れた者。妖魔は理を乱す者。妖怪は物や動物が年月を経て成るな。妖魔は妖魔ってぇでかい種族の中、ランクが決まってるらしい。早い話が『ここ』の者か『あっち』の者か、それだけだ」

 乾いた桜の花びらを踏みながら、弓月と比呂也は並んで歩く。数センチ低い比呂也の顔が、視界の端できょとりとする。

「『ここ』と『あっち』?」

 これも説明した気がするのだが、あえて言及はしないでおく。

「『ここ』は今、俺たちのいる世界。『あっち』は……まあ、平たく言やぁ『異界』だな。俺たちのいる世界とは別の、妖魔たちの暮らす世界」
「……そんなもんがあんのか?」
「聞かれたって知るかよ。ただ、奴らはひずみを無理やりこじ開けてやってくるってことは確実だな」

 妖魔がこじ開けた歪は、何度も出入りを繰り返すうちに大きくなる。そのうち出入りする数も増し、やがては強力な妖魔が大量に流入する。共に流れ込んでくる大量の妖気は、人間や他の生き物に著しい害を及ぼす。周辺環境が根本から変化してしまうのだ。

 妖魔は妖気が濃くなればなるほど集まりやすい。いつしか歪は風穴となり、妖魔の住まう巣窟へと化す。

「そうならないために、俺たちがいる」

 言いながら、弓月はちらりと並木の隙間へ目を滑らせた。つられて比呂也もそちらを眺め、げ、と声をあげて弓月の影に隠れる。

 空中には小さな裂け目、中から異形のものが身を乗り出していた。顔の半分が金の目玉、口は人間で言う耳の付近まで大きく開いている。鋭い牙と爪、細長い腕、背中には細長い肉の束がうねっている。

「最下級の妖魔だな」

 妖魔は通常、常人の目には見えない。しかし稀に「見える」ようになる者も存在する。比呂也の場合、弓月がそばにいるために影響を受け、見えるようになってしまったらしい。

 見えるということは、決してよいことではない。見えるだけで何の力も持たなければ、妖魔になぶり殺されるだけなのだから。

 ――だからこそ、弓月はここにいるのだ。不本意ながら、大昔の中国にいたご先祖様のせいで。

「下がってろ」

 低く幼馴染に告げれば、彼はきつく唇を噛んで後退した。素早く周囲を見回し、誰もいないことを確認する。通学バッグのポケットに手を突っ込み、中を探ってつかみ出す。下半身を引き抜こうともがく妖魔をにらみつけ、弓月は呟くように唄い始めた。


  一つとや 一夜明ければにぎやかで にぎやかで
  お飾り立てたる松飾 松飾


 手のひらに握りこんでいた髪用のピンが、鋭く細く変化する。大きさは中指一本分、二つに折られたそれを押し開けて、唄は次へと続いていく。


  二つとや 双葉の松は色ようて 色ようて
  三蓋松さんがいまつ上総山かずさやま 上総山


 鋼の色に白が重なる。炎のように揺らめく白は清らかで、時折銀を含んで宙へと散った。

 渾身の力を込めて腕を薙ぐ。狙いは違わず、妖魔の巨大な両の眼を貫いた。耳障りな断末魔の後、妖魔は白い炎に包まれて消える。歪は一瞬ノイズを走らせ、音も立てずに消滅する。その隙間に人影を見た気がしたが、きちんと確認をする前に、歪は跡形もなく消え去ってしまった。

「な、何が起きたんだ……?」

 両目を痛そうに細めながら、比呂也がそろりと顔を出す。

「歪を消すにゃ何通りかのやり方がある。一つは、歪を守る奴を倒す。一つは、歪を直接縫い合わせちまう。一つは、今みてぇに歪が広がりきる前に、広げた張本人を倒す」

 今はもう何もない空間を一瞥し、弓月は歩みを再開した。生暖かい風が頬を撫で、九十本もの桜をざわめかせていく。

童歌わらべうたでもふさげるのか? いつもみたいにさ」
「童歌とは限らねぇよ。童歌は俺専用の媒体だ。力を使うために最も適した言葉があるか、使う奴にあっている言葉の繰り方はどれか。俺はそれがたまたま童歌ってだけだ」

 とりあえず、一般人にとってはさしも重要でない位置にある童歌だが、弓月にとってはこれほど重要なものは存在し得ない。童歌は武器であり、祓うための念仏であり、防壁であり、命であるのだ。これを捨てることは、すなわち死を意味する。

「最初は嫌だったさ。今だって面倒臭ぇよ。でも、こいつがなけりゃ死ぬから仕方なくやってんだよ」
「……そういうもんなのか?」
「そういうもんだ。大昔の契約は絶対だからな。誰かのために命投げ出せって言われてるんだぜ、ったくやってらんねぇよ」

 弓月はぶっきらぼうに吐き捨てた。

 妖狩。それは古の中国より発祥した、人ならざるものたちの総称。さる時の帝と契約を交わし、妖狩は人の盾となった。人間のために妖を狩り、人間のために自らが盾となる。これが妖狩に定められた義務であり、宿命でもあり、生きていく意味だ。その背に負い、負ったままで一生を終える。

 そんなのはごめんだ、と弓月は思う。生まれたときから、否、生まれる以前から決まっている契約に振り回されるのは嫌だった。両親だって、妖狩の運命とやらに振り回された挙句、幼い弓月を残して死んだ。人間の盾になり、妖魔に食い殺されたのだという。 

 何とかして逃れられないかと考えたこともある。一時は妖狩の使命を放棄したことさえある。けれど、どう足掻いても抜け出すことは不可能だった。何もせずとも妖は来る。比呂也だって、襲われたことは二度三度ではない。

 そう。こいつはいつも勝手についてくる。何度襲われても決して懲りようとはしない。幼馴染のことは何でも知っておきたい、と笑ったこの男に、脱力した数はもう数え切れない。知ってもいいことなんて何一つないというのに、だ。

「いっつも思うんだけどさぁ。偉いよな、お前」
「は?」

 と、突然比呂也が言い放った。面くらい、素っ頓狂な声が出る。

「だってよ、その、大昔の契約ちゃんと守ってるんだろ? 仕方ないとか面倒臭ぇって言ってるけどよ、何だかんだ文句言いつつ、顔も知らない人たちのために戦ってるわけじゃんか。俺も近くでいっぱい見てきたけど……なかなかできねーぜ、そういうの。同じことしろって言われたら、たぶん無理だよ。だから、偉いなってさ」

 弓月は呆然として比呂也を眺めた。次いで笑いがこみ上げてくる。

「お前、馬鹿だな。空気読めよ」
「なっ……何だとぅっ!」

 むがー、とよく分からない奇声をあげて、比呂也は両腕を振り上げた。それが間抜けだって言ってんだよ、と付け加え、弓月は内心で自嘲する。

 彼は何も知らないのだ。この忌々しい契約に基づいて、自分が一体どういうことをしてきたのか。自分の『仕事』が、どのようなところまで及んでいるのか。知らないからこそ、彼は無条件で信頼を寄せてくる。それが心地よくもあり、同時にひどく苦痛を伴うこともある。

(知らないってぇことは、いいことなのかもしれねぇがな)

 胸の奥で呟いて、弓月はひょいと拳をかわした。
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