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肆
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*
弓月は憑き物が嫌いだった。人間を器にして取り憑く彼らが嫌いだった。外見は本人でありながら、全く別のものに変えてしまう奴らが嫌いだった。そのくせ、斬る感触は人間のそれらが嫌いだった。
やはり、無意識に避けていたのだろう。それともあえて目に入れないようにしていたのか。意識の底に沈んでいた……否、あえて奥に沈めておいた記憶から逃げるために。
弓月はわざと、肩に担いだ刀を鳴らす。きちりとわずかな金属音を立てて、紅い刃は闇を映した。
深夜一時半。暗い裏路地を通りながら、弓月は隣を歩く尊杜に尋ねる。
「お前一人で行くことは考えなかったのか」
昼間の格好とは異なって露出は少ないが、彼の衣装は依然として派手なままだった。いくらなんでも蛍光グリーンはないだろうと思うが、口に出して突っ込む気力もない。
「皇楽と妃綺が二人がかりで勝てなかったんだから、かよわいあたしが一人で勝てるはずないでしょ」
弟の皇楽と妹の妃綺。あの二人は弓月より年下だが、その腕は若いながらかなり高いレベルに入る。その指導役でもあり、彼らの兄であるこの男が果たして何をしているのかといえば、実のところまったく分からないのだった。
ふらりと行方をくらませたかと思えば、ネイルアートだのマッサージだのの店に入り浸っていたり、とかく行動の読めない男なのだ。弓月自身、仕事に赴く彼を見るのはこれが初めてだった。
そういえば。
「皇楽と妃綺は」
「元気よ。一応、ね」
規則正しいヒールの音が、真夜中の路地裏に木霊する。無機質な壁に無機質な音が跳ね返り、彼の内側に込められた苛立ちを物語っていた。
「皇楽は左足と左腕を骨折、妃綺はあばら三本と右腕と鎖骨を骨折したけど、生きてるだけで奇跡だわ。……女だったって。十五、六の、イマドキの女の子。あの二人が勝てないんじゃ、よっぽど怨みが深いんだわね」
鬼はただの憑き物ではない。相手の恨みを嗅ぎ取り、それを引きずり出して取り憑く。取り憑いた器の怨念が深いほど、鬼はその力を増していく。そして憑かれた人間は、怨みに染まった魂を食われて身体を乗っ取られてしまうのだ。
その後の行動はただ二つ。物理的な空腹を満たすことと、空腹を満たすための狩りを実行するだけ。人を狩り、人を喰らう人の皮を被った化け物になり果てる。救う方法は、無い。
そうなった以上、妖狩はそれを斬らなければならない。人に仇なす妖は、いかほどの理由があれ始末する――たとえそれが、自分を受け入れてくれた幼馴染であったとしても。
口腔内が唐突に苦味を訴えた。視界がぶれてノイズが走る。耳鳴りが酷い。その向こう側で『彼女』が笑っている。嗤っている。十年前と同じ姿で、十年前と同じように、笑っている。
「……弓月?」
塀に手をついて身体を折り曲げ、急にこみ上げてきた吐き気を無理やり喉奥へ押し戻す。額に浮いていた汗が、二筋三筋顎を伝い落ちていった。胃は未だ痙攣し、刺すような痛みが残っている。
「やだ、顔色悪いわよ。まさか本当に怖いの?」
声が、情けなくかすれて震えている。記憶の蓋が開きかけている。
「違ぇ……昔死んじまった奴のことを、思い出しちまっただけだ」
このままではまずい。刀を振るばかりか、満足に戦うことすらできない。
落ち着け。彼女はもう死んだ。十年前に死んだのだ。そうだ、彼女は。
「あの子はあなたが殺したんだものね」
唐突に湧いた声が、弓月の耳を貫いた。呼吸が止まる。心臓が跳ねる。
「誰だ! どこにいる!」
尊杜の緊迫した物言いが、やけに鈍い残響を帯びている。そして、
「あの子はあなたが殺したんだものね」
彼女の言葉は、それと相反するように通って聞こえた。
闇の中に、くっきりと浮かび上がる影が一つ。見たことのないセーラー服を血まみれにして、指の先も口周りも血まみれにして、少女は笑っていた。艶やかな黒髪を乱したままで、滑らかな白い肌を染めたままで、少女は嗤っていた。
「久しぶりね、ゆづ」
呼吸が、止まる。汗が、流れる。
「久しぶりね、ゆづ」
一人で輪唱をするように、少女は茫洋とした口調で繰り返す。今まで一度も見たこともない、会ったことすらない少女だ。
だが、知っている。ねっとりと全身にまとわりつくような、この気配。十年前と同じ――あのときと同じ、鬼の気配だ。
「私のこと、覚えてる? 私のこと、覚えてる?」
息を吸おうにも、ひゅう、とかすれた音しかしない。瞬きができない。喉が渇いている。膝から力が抜けて、みっともなく震えていた。
「死んだと思った? 死んだと思った?」
記憶の蓋が――開く。
十年前、幼馴染は二人いた。岡田比呂也。そしてもう一人。
鬼に憑かれた、少女が一人。
「真帆……違う、真帆に憑いてやがった、鬼、か」
「そうよ」
少女は虚ろに笑みを返す。異形の者に憑かれた証、二本の角が影を落とす。
「そうよ。ゆづ、ねえ、やめちゃおうよ」
「どういう……ことなの、弓月」
尊杜の言葉に答えられない。喉に声が貼り付いて、これっぽっちも出そうになかった。十年前のあの時と、真帆を殺したときと同じように。
ぐらりと強い目眩が襲う。バランスを崩し、体重が後ろに傾いた。
「ゆづ、ねえ、やめちゃおうよ……私を斬るのは、もう嫌だよね」
脳が言葉を解した瞬間、右のわき腹を壮絶な力でえぐられた。
「私を斬るのは、もう、嫌だよね」
悲鳴すら、あげることができなかった。
* * *
ゆづ、と最初に呼んだのは、真帆が一番最初だった。
「何でゆづなんだ」
「だってなんかかわいいでしょ」
「弓月って呼べばいいじゃねぇか」
「だめー、それじゃあニックネームになんないじゃん」
可愛いだなんて言われ慣れてなくて、照れ臭かったことを覚えている。
「……勝手にしろっ」
「うん、わかった」
彼女は二人目の友達になった。異端の自分と、友達になってくれた。
やがて、妖と戦っていることを知られた。比呂也あたりから聞いたのだろう。そうしたら、どうやったら助けられるかと真剣に聞いてきた。何もしなくていいと答えたら、彼女は涙目でこう言ったのだ。
「駄目! ゆづはすっごく大変なんだって聞いたんだもん! 大事な友だちのこと、助けてあげるのは当然でしょ!」
本当に嬉しかった。……嬉しかったのだ。
ゆづはさ、と、彼女は言う。いつものように少しだけ大人びた表情で、優しく笑いながら言う。
「比呂也くんといっしょに住んでるんだよね」
「うん。俺、親いねぇもん」
河川敷、歩く先には比呂也がいる。二人にトンボを捕まえるのだと、躍起になって飛び回っていた。そこに自分と彼女が混ざっていないだけの、至って普通の光景だった。
少しの沈黙の後、彼女はもう一度ゆづはさ、と切り出した。
「比呂也くんのこと、どう思ってるの」
どうしてそんなことを聞くのだろうと、そのときは不思議でたまらなかった。
「好きだよ」
それはただ単に、友達としての意味だった。他意はない。自分にとってすれば、比呂也も真帆も、平等に好きだったのだ。
――彼女もそうだと、思い込んでいたのだ。
「そっか」
「何で?」
彼女は笑ったまま、ゆったりと頭を振った。
「何でもないの」
彼女の長い黒髪が、夕日に染まった風に撫でられてなびいたのを覚えている。
最近真帆が変なんだ、と比呂也は言った。
「ずうっと『ゆづはいいなぁ』っていってる」
「あ?」
「あとね」
今よりも随分と線の細かった彼は、不安げに大きな瞳を瞬いてうつむいた。
「『ゆづ、どこか行ったりしないのかな』って……いってる」
そのときはまだ、言葉の意味を深く考えなかった。考えられなかった。考えようとも、思わなかった。
「俺……何だか、こわいよ。真帆のおでこ、へんなふうにもりあがってて……真帆じゃないみたいで、こわい」
症状を聞いた時点で、異変に気づくべきだったのに。
「大丈夫だ。たぶん、すぐなおる」
聞こえなかったふりをした。自分の身内がまさか、そんなことになるなんて思いたくなかったから。
「なあ、弓月はそうならないよな? ずっといっしょがいい。弓月のことも、真帆のことも、俺大好きだもん」
「ならねぇさ。みんな俺が守ってやるよ。それが俺の役目だもんな。比呂也も真帆も、みーんな守ってやるぜ」
わかって、いなかった。テレビ番組のヒーローのようにいくわけがないと、あのときは理解していなかったのだ。
一目で異形とわかる者だけが妖ではないことを――身近な人間が妖になる可能性があることを、受け入れようとしていなかったのだ。
ゆづはさ、と、彼女は言う。いつものように少しだけ大人びた表情で、優しく笑いながら言う。
「すっごいずるいね」
「何の、はなし」
路地裏、佇む先には彼女が一人待っていた。幼い指先も服も顔も真っ赤になっていて、ただいつものように微笑んでいる。
長くて艶のある黒髪も、それを吸って重たく肩に垂れ下がっている。横たわるのは恐らく彼女の両親か、それとも全く別の人か。至って普通でない――日常の裏側の光景だった。
少しの沈黙の後、彼女はもう一度ゆづはさ、と切り出した。
「わたしが比呂也くんのこと、好きだってしっててあぁ言ったんだ」
どうしてそんなことを聞くのだろうと、愕然とした意識の向こうで思った。
「そんなこと、ねぇよ」
それはただ単に、友達としての意味だった。他意はない。自分にとってすれば、比呂也も真帆もほかの友達も、みんな平等に好きだったのだ。
しぼり出した声はかすれて、情けなく震えていた。彼女は笑みを深めて指を持ち上げる。
「ゆづ」
「真帆」
どこにも視点を映さない彼女の瞳は、まるで鏡のようにこちらを映していた。
「わたしね、ゆづなんか死んじゃえばいいって思ったの」
空虚な眼差しに映る自分の顔は、ひどく狼狽して泣きそうだったことを覚えている。そして彼女の表情は、ぞっとするくらいに嬉しそうだったことを覚えている。
それから。それから、……それから。
掌に残った刀の感触を覚えている。
刀を通して伝わってきた、彼女の体の細さを覚えている。
首をはねる直前に、彼女が叫んだ言葉を覚えている。
妖狩の掟を、心の底から呪ったことを覚えている。
童歌を歌えなくなったことも、声すら出なくなったことも。
全部、全部。
覚えている。
* * *
頬に鈍い衝撃が走って、弓月は重い目蓋を持ち上げる。
「弓月! ちょっと、寝てる場合じゃないわよ! 起きなさい! 起きろっつってんだろが!」
尊杜の顔が、徐々に明確になっていく。焦りのせいもあるのか、最後の言葉と同時にもう一発殴られた。抵抗らしい抵抗すらできず、彼の拳をモロに受ける。痛い。
まだ生きていたのか。ようやく覚醒した意識の下で実感する。尊杜の膝に頭を乗せたまま周囲を見回す。先ほどと異なり、道幅も狭かった。周囲にはビルが立ち並んでいる。どうやら彼は、昏倒した自分を抱えてここに隠れたようだった。
わき腹に手をやって傷を確認する。ぬるりとした生温かい熱を、手袋越しに感じ取る。出血は思ったよりも酷くなかったが、傷は思ったよりも深かった。ジャケットを脱いで傷口にまきつけ、簡単な止血をする。
「あーびっくりした! 腕引っ張るタイミングがもう少し遅かったら、あんた完全にどてっ腹ぶち抜かれてお陀仏だったわよ! 感謝しなさいよね。あとで極上パフェをおごらせてあげるから」
攻撃される直前に、体重が後ろへ傾いたのはそのせいか。なにやらとんでもない注文をつけられた気がするが、ともかく礼の意味を込めて一つうなずく。
納得すると、今度は痛みがダイレクトに響いた。
「……ッ」
思わず身をよじって顔をしかめる。依然として声は出ない。情けなくかすれた呼吸音が、喉から漏れてくるだけだった。
「しっかし、なるほどね……こりゃ厄介だわ。あんたの知り合いが鬼に憑かれて、あんたはそれを斬った。でも鬼だけが生き延びて、違う娘に取り憑いたと。そういうことか」
相変わらず、嫌味なほど洞察力の鋭い男である。一つ訂正を入れるとすれば、知り合いなどという遠い間柄ではなく、自分の生い立ちも全て受け入れて友達だと言ってくれた、幼馴染だった。
遠くから不規則に乱れた足音が近づいてくる。文字通りの復讐の鬼が、着実に近づいてくる。
弓月は奥歯を噛み締め、空いた手で拳を作る。ここで彼女を斬らなければ、多くの罪なき人々が犠牲になる。憑かれた者は、既にその肉体の者ではない。鬼なのだ。妖なのだ。
頭では分かっているのに、過去の思い出がだぶってそれを拒む。
真帆を、大事な友だちを始末できるはずがない――違うと分かっているけれど、どうしてもこの少女に、同じ年になった真帆の姿を重ねてしまう。
「……弓月」
よほど悲惨な表情だったのだろう。尊杜が痛ましそうに眉を寄せた。
狩る対象に同情してはいけない。共感してはいけない。分かっている。結局、抗うことなどできないのだ。どれだけ抵抗したところで、根っこの部分は妖狩の定めに縛られている。逃れることなど、できはしない。抵抗するだけ無駄なのだ。
尊杜の背中の向こう側、ゆらりと白い影が揺れた。血の濃い臭いがこちらにまで流れてくる。
「みぃつけた」
嬉しそうに目を細め、彼女はおぼつかない足取りで歩いてくる。弓月も身体を起こして彼女を見つめた。尊杜との声が聞こえた気がするが、弓月はあえて無視をする。
「みぃつけた。ゆづ、ゆづ。遊ぼうよ、遊ぼうよ。お仕事なんてやめちゃおうよ」
繰り返し繰り返し、彼女は恨み言を呟きながら足を運ぶ。弓月も引き止める腕を払いのけ、刀を杖に立ち上がる。鏡の表面に似た瞳には、虚ろな目をした自分がいる。驚くほど無表情で、驚くほど冷静に、弓月は自分の像を眺めた。
「お仕事なんてやめちゃおうよ。昔みたいに、一緒に遊ぼう」
鬼から避けていたのは、彼女のことを思い出すからだ。男であれ女であれ、殺してしまった彼女のことを思い出さずにはいられなかったからだ。だから逃げた。逃げずにはいられなかった。そのツケが今、回ってきたのかもしれない。
蓋は開かれた。後戻りはもう、できない。
「昔みたいに、一緒に遊ぼう。ねえ、ねえ」
それならばもういっそのこと、全部投げ出してしまおうか。再び朦朧とし始めた思考回路の中で、ふとそんなことを考える。用意された選択肢から選ぶのは非常に癪だが、もう考えることすら疲れた。もう、どうでもいい。
「鬼ごっこしようか。鬼ごっこしようか。私が鬼ね。私が鬼ね」
細い指がいっぱいに広げられ、こちらに向けて伸べられている。
「痛いのは嫌だよ。痛いのは、嫌だよ?」
あと六メートル、五メートル、四メートル――
「ほうら、ほうら」
伸びる指。伸びる腕。爪が真紅をまとってぬらりときらめく。
「つかまえ」
そしてふと、
「た」
彼女の腕が、消えた。遠くのほうで、重いものが落ちる音がする。視線をやらずとも、それが彼女の腕だということに気づいていた。
いつの間にか、彼女と弓月の合間に人影があった。振りぬかれただろう黒い刃が、血に濡れて光沢を放っている。
「……あ、れ? あれ?」
呆然と、愕然と、彼女は呟く。弓月にも一体何が起きたのか、理解することはできなかった。それは尊杜も同様だったらしい。人影を凝視したまま絶句している。
「日本の本家が醜態を曝すか」
声がした。
「前回は逃し、今回は始末すらしようとしない。目障りだ。斬るか死ぬか、どちらかにしろ」
よく通る、硬く冷えた低い音に、温度すら持たない感情が入り込んでいる。背筋を這い登る冷たい殺意に、弓月は思わず柄を握る手に力を込め、刀を引き寄せた。
刀を握って佇んでいるのは、小柄な若い男であった。精気の感じられない肌は蒼白く、整った顔立ちのせいで作り物めいた印象を与えている。
漆黒の髪は長かったが、背中の辺りで乱雑に切られていた。しなやかな体躯は痩せぎすで、黒い絹製のチャイナドレスをまとっている。袖は長く袖口が大きい。手の辺りまで隠れている。腰には服にそぐわぬチェーンベルトを巻きつけていた。艶やかな布地に躍るは龍。薄い布の下穿きはしなやかな脚のラインを柔く透かし、布で作られた靴はかかとがないせいか、さやかな足音すら吸い取っている。
何よりも目を引くのは、切れ長一重の眼に宿る、凍り付くほどに冷たい光だ。さすがの弓月でもおぞましささえ感じるほどに強く、激しいその色は、まるで世界のすべてを憎悪しているかのようであった。
そして気づく。あの廃屋で、フランス窓の枠にもたれて煙草を吸っていた――あの男だということに。
尊杜が息を飲み、わずかに身を引いて呟く。
「どうして……どうして、あなたが、ここに」
知り合いか。目で問えば、尊杜はひとつ首を振り、彼の持つ刀を示した。
弓月の持つ『月朱雀』と、形状も刀身の長さもよく似ている。違うところといえば、禍々しいほどに黒い刃だろうか。
「あれは、妖魔退散の力を持つ『月』の刀が一振り……『闇月牙』」
まとわりついた液体が、音も立てずに地に染みる。
「あれを持っているのは、中国にいる妖狩、最後の純血、……宵黑幻、彼だけよ」
男は己の名を呼ばれても、反応一つ返さなかった。
「う――う」
彼の背後で彼女が呻く。落とされた腕の断面が、嫌な音を立てて煙を上げていた。既に妖に堕ちた身が、妖魔退散の力に触れて拒否反応を起こしているのだ。
「どうした。早く息の根を止めろ。それとも怖くて斬れぬとでも言うか」
流暢な日本語で淡々と綴られる音は、あまりにも残酷で無慈悲だった。男の氷のような眼差しが、こちらへと向けられる。
気に入らない。弓月はわずかに顎を引き、男をにらむ。命令されることも嫌いだが、何よりも本能が嫌悪感を催している。なぜなのかは弓月自身にも分からない。ただ、この男の存在自体がひどく苛立った。
男は感情の欠片も露出させずに、弓月を見据えている。全身を凍った針が刺し貫くような感覚がよぎっていく。力の入れすぎで震える手を何とか制し、視線を合わせること数刻。
「始末しないつもりか」
問いかけが、投げられた。
弓月は口を閉ざしたまま、奥の鬼へ目をやった。壊死し始めている傷口を押さえ、彼女は痛みに奇声を上げている。
憑き物が嫌いだった。人間を器にして取り憑く彼らが嫌いだった。外見は本人でありながら、全く別のものに変えてしまう奴らが嫌いだった。そのくせ、斬る感触は人間のそれらが嫌いだった。たとえ違うものなのだと分かっていても、真帆のことが意識の隅にこびりついて離れなかった。
そうだ。自分は彼女を助けたかったのだ。たとえどれだけ嫌われていたとしても、どれだけ怨まれていたとして
も、彼女を人間に戻してあげたかった。もう絶対に元に戻らないと分かっている。だが、可能性はゼロではないはず。あのときは何も知らない子どもだった。今なら、何かができるかもしれない。これは紛れもなく、自分の意思だ。妖狩の契約にはない、自分で決めたことだ。
弓月は一つ、うなずいた。問いへの返答と、自分にまかせろという意味を込め、下がるように手で示す。男の瞳が意味ありげに細められ、しなやかな身体がついと動き、
思考はそこで強制的に終了した。終わらざるを、得なかった。
弓月は憑き物が嫌いだった。人間を器にして取り憑く彼らが嫌いだった。外見は本人でありながら、全く別のものに変えてしまう奴らが嫌いだった。そのくせ、斬る感触は人間のそれらが嫌いだった。
やはり、無意識に避けていたのだろう。それともあえて目に入れないようにしていたのか。意識の底に沈んでいた……否、あえて奥に沈めておいた記憶から逃げるために。
弓月はわざと、肩に担いだ刀を鳴らす。きちりとわずかな金属音を立てて、紅い刃は闇を映した。
深夜一時半。暗い裏路地を通りながら、弓月は隣を歩く尊杜に尋ねる。
「お前一人で行くことは考えなかったのか」
昼間の格好とは異なって露出は少ないが、彼の衣装は依然として派手なままだった。いくらなんでも蛍光グリーンはないだろうと思うが、口に出して突っ込む気力もない。
「皇楽と妃綺が二人がかりで勝てなかったんだから、かよわいあたしが一人で勝てるはずないでしょ」
弟の皇楽と妹の妃綺。あの二人は弓月より年下だが、その腕は若いながらかなり高いレベルに入る。その指導役でもあり、彼らの兄であるこの男が果たして何をしているのかといえば、実のところまったく分からないのだった。
ふらりと行方をくらませたかと思えば、ネイルアートだのマッサージだのの店に入り浸っていたり、とかく行動の読めない男なのだ。弓月自身、仕事に赴く彼を見るのはこれが初めてだった。
そういえば。
「皇楽と妃綺は」
「元気よ。一応、ね」
規則正しいヒールの音が、真夜中の路地裏に木霊する。無機質な壁に無機質な音が跳ね返り、彼の内側に込められた苛立ちを物語っていた。
「皇楽は左足と左腕を骨折、妃綺はあばら三本と右腕と鎖骨を骨折したけど、生きてるだけで奇跡だわ。……女だったって。十五、六の、イマドキの女の子。あの二人が勝てないんじゃ、よっぽど怨みが深いんだわね」
鬼はただの憑き物ではない。相手の恨みを嗅ぎ取り、それを引きずり出して取り憑く。取り憑いた器の怨念が深いほど、鬼はその力を増していく。そして憑かれた人間は、怨みに染まった魂を食われて身体を乗っ取られてしまうのだ。
その後の行動はただ二つ。物理的な空腹を満たすことと、空腹を満たすための狩りを実行するだけ。人を狩り、人を喰らう人の皮を被った化け物になり果てる。救う方法は、無い。
そうなった以上、妖狩はそれを斬らなければならない。人に仇なす妖は、いかほどの理由があれ始末する――たとえそれが、自分を受け入れてくれた幼馴染であったとしても。
口腔内が唐突に苦味を訴えた。視界がぶれてノイズが走る。耳鳴りが酷い。その向こう側で『彼女』が笑っている。嗤っている。十年前と同じ姿で、十年前と同じように、笑っている。
「……弓月?」
塀に手をついて身体を折り曲げ、急にこみ上げてきた吐き気を無理やり喉奥へ押し戻す。額に浮いていた汗が、二筋三筋顎を伝い落ちていった。胃は未だ痙攣し、刺すような痛みが残っている。
「やだ、顔色悪いわよ。まさか本当に怖いの?」
声が、情けなくかすれて震えている。記憶の蓋が開きかけている。
「違ぇ……昔死んじまった奴のことを、思い出しちまっただけだ」
このままではまずい。刀を振るばかりか、満足に戦うことすらできない。
落ち着け。彼女はもう死んだ。十年前に死んだのだ。そうだ、彼女は。
「あの子はあなたが殺したんだものね」
唐突に湧いた声が、弓月の耳を貫いた。呼吸が止まる。心臓が跳ねる。
「誰だ! どこにいる!」
尊杜の緊迫した物言いが、やけに鈍い残響を帯びている。そして、
「あの子はあなたが殺したんだものね」
彼女の言葉は、それと相反するように通って聞こえた。
闇の中に、くっきりと浮かび上がる影が一つ。見たことのないセーラー服を血まみれにして、指の先も口周りも血まみれにして、少女は笑っていた。艶やかな黒髪を乱したままで、滑らかな白い肌を染めたままで、少女は嗤っていた。
「久しぶりね、ゆづ」
呼吸が、止まる。汗が、流れる。
「久しぶりね、ゆづ」
一人で輪唱をするように、少女は茫洋とした口調で繰り返す。今まで一度も見たこともない、会ったことすらない少女だ。
だが、知っている。ねっとりと全身にまとわりつくような、この気配。十年前と同じ――あのときと同じ、鬼の気配だ。
「私のこと、覚えてる? 私のこと、覚えてる?」
息を吸おうにも、ひゅう、とかすれた音しかしない。瞬きができない。喉が渇いている。膝から力が抜けて、みっともなく震えていた。
「死んだと思った? 死んだと思った?」
記憶の蓋が――開く。
十年前、幼馴染は二人いた。岡田比呂也。そしてもう一人。
鬼に憑かれた、少女が一人。
「真帆……違う、真帆に憑いてやがった、鬼、か」
「そうよ」
少女は虚ろに笑みを返す。異形の者に憑かれた証、二本の角が影を落とす。
「そうよ。ゆづ、ねえ、やめちゃおうよ」
「どういう……ことなの、弓月」
尊杜の言葉に答えられない。喉に声が貼り付いて、これっぽっちも出そうになかった。十年前のあの時と、真帆を殺したときと同じように。
ぐらりと強い目眩が襲う。バランスを崩し、体重が後ろに傾いた。
「ゆづ、ねえ、やめちゃおうよ……私を斬るのは、もう嫌だよね」
脳が言葉を解した瞬間、右のわき腹を壮絶な力でえぐられた。
「私を斬るのは、もう、嫌だよね」
悲鳴すら、あげることができなかった。
* * *
ゆづ、と最初に呼んだのは、真帆が一番最初だった。
「何でゆづなんだ」
「だってなんかかわいいでしょ」
「弓月って呼べばいいじゃねぇか」
「だめー、それじゃあニックネームになんないじゃん」
可愛いだなんて言われ慣れてなくて、照れ臭かったことを覚えている。
「……勝手にしろっ」
「うん、わかった」
彼女は二人目の友達になった。異端の自分と、友達になってくれた。
やがて、妖と戦っていることを知られた。比呂也あたりから聞いたのだろう。そうしたら、どうやったら助けられるかと真剣に聞いてきた。何もしなくていいと答えたら、彼女は涙目でこう言ったのだ。
「駄目! ゆづはすっごく大変なんだって聞いたんだもん! 大事な友だちのこと、助けてあげるのは当然でしょ!」
本当に嬉しかった。……嬉しかったのだ。
ゆづはさ、と、彼女は言う。いつものように少しだけ大人びた表情で、優しく笑いながら言う。
「比呂也くんといっしょに住んでるんだよね」
「うん。俺、親いねぇもん」
河川敷、歩く先には比呂也がいる。二人にトンボを捕まえるのだと、躍起になって飛び回っていた。そこに自分と彼女が混ざっていないだけの、至って普通の光景だった。
少しの沈黙の後、彼女はもう一度ゆづはさ、と切り出した。
「比呂也くんのこと、どう思ってるの」
どうしてそんなことを聞くのだろうと、そのときは不思議でたまらなかった。
「好きだよ」
それはただ単に、友達としての意味だった。他意はない。自分にとってすれば、比呂也も真帆も、平等に好きだったのだ。
――彼女もそうだと、思い込んでいたのだ。
「そっか」
「何で?」
彼女は笑ったまま、ゆったりと頭を振った。
「何でもないの」
彼女の長い黒髪が、夕日に染まった風に撫でられてなびいたのを覚えている。
最近真帆が変なんだ、と比呂也は言った。
「ずうっと『ゆづはいいなぁ』っていってる」
「あ?」
「あとね」
今よりも随分と線の細かった彼は、不安げに大きな瞳を瞬いてうつむいた。
「『ゆづ、どこか行ったりしないのかな』って……いってる」
そのときはまだ、言葉の意味を深く考えなかった。考えられなかった。考えようとも、思わなかった。
「俺……何だか、こわいよ。真帆のおでこ、へんなふうにもりあがってて……真帆じゃないみたいで、こわい」
症状を聞いた時点で、異変に気づくべきだったのに。
「大丈夫だ。たぶん、すぐなおる」
聞こえなかったふりをした。自分の身内がまさか、そんなことになるなんて思いたくなかったから。
「なあ、弓月はそうならないよな? ずっといっしょがいい。弓月のことも、真帆のことも、俺大好きだもん」
「ならねぇさ。みんな俺が守ってやるよ。それが俺の役目だもんな。比呂也も真帆も、みーんな守ってやるぜ」
わかって、いなかった。テレビ番組のヒーローのようにいくわけがないと、あのときは理解していなかったのだ。
一目で異形とわかる者だけが妖ではないことを――身近な人間が妖になる可能性があることを、受け入れようとしていなかったのだ。
ゆづはさ、と、彼女は言う。いつものように少しだけ大人びた表情で、優しく笑いながら言う。
「すっごいずるいね」
「何の、はなし」
路地裏、佇む先には彼女が一人待っていた。幼い指先も服も顔も真っ赤になっていて、ただいつものように微笑んでいる。
長くて艶のある黒髪も、それを吸って重たく肩に垂れ下がっている。横たわるのは恐らく彼女の両親か、それとも全く別の人か。至って普通でない――日常の裏側の光景だった。
少しの沈黙の後、彼女はもう一度ゆづはさ、と切り出した。
「わたしが比呂也くんのこと、好きだってしっててあぁ言ったんだ」
どうしてそんなことを聞くのだろうと、愕然とした意識の向こうで思った。
「そんなこと、ねぇよ」
それはただ単に、友達としての意味だった。他意はない。自分にとってすれば、比呂也も真帆もほかの友達も、みんな平等に好きだったのだ。
しぼり出した声はかすれて、情けなく震えていた。彼女は笑みを深めて指を持ち上げる。
「ゆづ」
「真帆」
どこにも視点を映さない彼女の瞳は、まるで鏡のようにこちらを映していた。
「わたしね、ゆづなんか死んじゃえばいいって思ったの」
空虚な眼差しに映る自分の顔は、ひどく狼狽して泣きそうだったことを覚えている。そして彼女の表情は、ぞっとするくらいに嬉しそうだったことを覚えている。
それから。それから、……それから。
掌に残った刀の感触を覚えている。
刀を通して伝わってきた、彼女の体の細さを覚えている。
首をはねる直前に、彼女が叫んだ言葉を覚えている。
妖狩の掟を、心の底から呪ったことを覚えている。
童歌を歌えなくなったことも、声すら出なくなったことも。
全部、全部。
覚えている。
* * *
頬に鈍い衝撃が走って、弓月は重い目蓋を持ち上げる。
「弓月! ちょっと、寝てる場合じゃないわよ! 起きなさい! 起きろっつってんだろが!」
尊杜の顔が、徐々に明確になっていく。焦りのせいもあるのか、最後の言葉と同時にもう一発殴られた。抵抗らしい抵抗すらできず、彼の拳をモロに受ける。痛い。
まだ生きていたのか。ようやく覚醒した意識の下で実感する。尊杜の膝に頭を乗せたまま周囲を見回す。先ほどと異なり、道幅も狭かった。周囲にはビルが立ち並んでいる。どうやら彼は、昏倒した自分を抱えてここに隠れたようだった。
わき腹に手をやって傷を確認する。ぬるりとした生温かい熱を、手袋越しに感じ取る。出血は思ったよりも酷くなかったが、傷は思ったよりも深かった。ジャケットを脱いで傷口にまきつけ、簡単な止血をする。
「あーびっくりした! 腕引っ張るタイミングがもう少し遅かったら、あんた完全にどてっ腹ぶち抜かれてお陀仏だったわよ! 感謝しなさいよね。あとで極上パフェをおごらせてあげるから」
攻撃される直前に、体重が後ろへ傾いたのはそのせいか。なにやらとんでもない注文をつけられた気がするが、ともかく礼の意味を込めて一つうなずく。
納得すると、今度は痛みがダイレクトに響いた。
「……ッ」
思わず身をよじって顔をしかめる。依然として声は出ない。情けなくかすれた呼吸音が、喉から漏れてくるだけだった。
「しっかし、なるほどね……こりゃ厄介だわ。あんたの知り合いが鬼に憑かれて、あんたはそれを斬った。でも鬼だけが生き延びて、違う娘に取り憑いたと。そういうことか」
相変わらず、嫌味なほど洞察力の鋭い男である。一つ訂正を入れるとすれば、知り合いなどという遠い間柄ではなく、自分の生い立ちも全て受け入れて友達だと言ってくれた、幼馴染だった。
遠くから不規則に乱れた足音が近づいてくる。文字通りの復讐の鬼が、着実に近づいてくる。
弓月は奥歯を噛み締め、空いた手で拳を作る。ここで彼女を斬らなければ、多くの罪なき人々が犠牲になる。憑かれた者は、既にその肉体の者ではない。鬼なのだ。妖なのだ。
頭では分かっているのに、過去の思い出がだぶってそれを拒む。
真帆を、大事な友だちを始末できるはずがない――違うと分かっているけれど、どうしてもこの少女に、同じ年になった真帆の姿を重ねてしまう。
「……弓月」
よほど悲惨な表情だったのだろう。尊杜が痛ましそうに眉を寄せた。
狩る対象に同情してはいけない。共感してはいけない。分かっている。結局、抗うことなどできないのだ。どれだけ抵抗したところで、根っこの部分は妖狩の定めに縛られている。逃れることなど、できはしない。抵抗するだけ無駄なのだ。
尊杜の背中の向こう側、ゆらりと白い影が揺れた。血の濃い臭いがこちらにまで流れてくる。
「みぃつけた」
嬉しそうに目を細め、彼女はおぼつかない足取りで歩いてくる。弓月も身体を起こして彼女を見つめた。尊杜との声が聞こえた気がするが、弓月はあえて無視をする。
「みぃつけた。ゆづ、ゆづ。遊ぼうよ、遊ぼうよ。お仕事なんてやめちゃおうよ」
繰り返し繰り返し、彼女は恨み言を呟きながら足を運ぶ。弓月も引き止める腕を払いのけ、刀を杖に立ち上がる。鏡の表面に似た瞳には、虚ろな目をした自分がいる。驚くほど無表情で、驚くほど冷静に、弓月は自分の像を眺めた。
「お仕事なんてやめちゃおうよ。昔みたいに、一緒に遊ぼう」
鬼から避けていたのは、彼女のことを思い出すからだ。男であれ女であれ、殺してしまった彼女のことを思い出さずにはいられなかったからだ。だから逃げた。逃げずにはいられなかった。そのツケが今、回ってきたのかもしれない。
蓋は開かれた。後戻りはもう、できない。
「昔みたいに、一緒に遊ぼう。ねえ、ねえ」
それならばもういっそのこと、全部投げ出してしまおうか。再び朦朧とし始めた思考回路の中で、ふとそんなことを考える。用意された選択肢から選ぶのは非常に癪だが、もう考えることすら疲れた。もう、どうでもいい。
「鬼ごっこしようか。鬼ごっこしようか。私が鬼ね。私が鬼ね」
細い指がいっぱいに広げられ、こちらに向けて伸べられている。
「痛いのは嫌だよ。痛いのは、嫌だよ?」
あと六メートル、五メートル、四メートル――
「ほうら、ほうら」
伸びる指。伸びる腕。爪が真紅をまとってぬらりときらめく。
「つかまえ」
そしてふと、
「た」
彼女の腕が、消えた。遠くのほうで、重いものが落ちる音がする。視線をやらずとも、それが彼女の腕だということに気づいていた。
いつの間にか、彼女と弓月の合間に人影があった。振りぬかれただろう黒い刃が、血に濡れて光沢を放っている。
「……あ、れ? あれ?」
呆然と、愕然と、彼女は呟く。弓月にも一体何が起きたのか、理解することはできなかった。それは尊杜も同様だったらしい。人影を凝視したまま絶句している。
「日本の本家が醜態を曝すか」
声がした。
「前回は逃し、今回は始末すらしようとしない。目障りだ。斬るか死ぬか、どちらかにしろ」
よく通る、硬く冷えた低い音に、温度すら持たない感情が入り込んでいる。背筋を這い登る冷たい殺意に、弓月は思わず柄を握る手に力を込め、刀を引き寄せた。
刀を握って佇んでいるのは、小柄な若い男であった。精気の感じられない肌は蒼白く、整った顔立ちのせいで作り物めいた印象を与えている。
漆黒の髪は長かったが、背中の辺りで乱雑に切られていた。しなやかな体躯は痩せぎすで、黒い絹製のチャイナドレスをまとっている。袖は長く袖口が大きい。手の辺りまで隠れている。腰には服にそぐわぬチェーンベルトを巻きつけていた。艶やかな布地に躍るは龍。薄い布の下穿きはしなやかな脚のラインを柔く透かし、布で作られた靴はかかとがないせいか、さやかな足音すら吸い取っている。
何よりも目を引くのは、切れ長一重の眼に宿る、凍り付くほどに冷たい光だ。さすがの弓月でもおぞましささえ感じるほどに強く、激しいその色は、まるで世界のすべてを憎悪しているかのようであった。
そして気づく。あの廃屋で、フランス窓の枠にもたれて煙草を吸っていた――あの男だということに。
尊杜が息を飲み、わずかに身を引いて呟く。
「どうして……どうして、あなたが、ここに」
知り合いか。目で問えば、尊杜はひとつ首を振り、彼の持つ刀を示した。
弓月の持つ『月朱雀』と、形状も刀身の長さもよく似ている。違うところといえば、禍々しいほどに黒い刃だろうか。
「あれは、妖魔退散の力を持つ『月』の刀が一振り……『闇月牙』」
まとわりついた液体が、音も立てずに地に染みる。
「あれを持っているのは、中国にいる妖狩、最後の純血、……宵黑幻、彼だけよ」
男は己の名を呼ばれても、反応一つ返さなかった。
「う――う」
彼の背後で彼女が呻く。落とされた腕の断面が、嫌な音を立てて煙を上げていた。既に妖に堕ちた身が、妖魔退散の力に触れて拒否反応を起こしているのだ。
「どうした。早く息の根を止めろ。それとも怖くて斬れぬとでも言うか」
流暢な日本語で淡々と綴られる音は、あまりにも残酷で無慈悲だった。男の氷のような眼差しが、こちらへと向けられる。
気に入らない。弓月はわずかに顎を引き、男をにらむ。命令されることも嫌いだが、何よりも本能が嫌悪感を催している。なぜなのかは弓月自身にも分からない。ただ、この男の存在自体がひどく苛立った。
男は感情の欠片も露出させずに、弓月を見据えている。全身を凍った針が刺し貫くような感覚がよぎっていく。力の入れすぎで震える手を何とか制し、視線を合わせること数刻。
「始末しないつもりか」
問いかけが、投げられた。
弓月は口を閉ざしたまま、奥の鬼へ目をやった。壊死し始めている傷口を押さえ、彼女は痛みに奇声を上げている。
憑き物が嫌いだった。人間を器にして取り憑く彼らが嫌いだった。外見は本人でありながら、全く別のものに変えてしまう奴らが嫌いだった。そのくせ、斬る感触は人間のそれらが嫌いだった。たとえ違うものなのだと分かっていても、真帆のことが意識の隅にこびりついて離れなかった。
そうだ。自分は彼女を助けたかったのだ。たとえどれだけ嫌われていたとしても、どれだけ怨まれていたとして
も、彼女を人間に戻してあげたかった。もう絶対に元に戻らないと分かっている。だが、可能性はゼロではないはず。あのときは何も知らない子どもだった。今なら、何かができるかもしれない。これは紛れもなく、自分の意思だ。妖狩の契約にはない、自分で決めたことだ。
弓月は一つ、うなずいた。問いへの返答と、自分にまかせろという意味を込め、下がるように手で示す。男の瞳が意味ありげに細められ、しなやかな身体がついと動き、
思考はそこで強制的に終了した。終わらざるを、得なかった。
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