アヤカシガリ

緑谷

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 彼女が前へ身体を折る。胸もとに埋められたそれは、確かに弓月の手にした『月朱雀』だった。肉を裂き、骨を断つ嫌な感触が、柄を通して這い登ってくる。

 男の蒼白い手が、弓月の手首をつかんでいた。とんでもない力で握り締められている。眼差し同様氷のように冷たい手、これが刀を刺させしめたのだと気づくのに、時間はかからなかった。

 彼女の腕が、自分のほうへ伸ばされる。顔が仰のいた。まるで怯えているように、瞬きもせずにこちらを見つめている。全身の血が音を立てて下に流れていく。目の前が再び霞がかり、手足が冷たく凍りつく。

 彼女は、小さく唇を動かした。何を言っているのかは聞こえなかった。かすかに笑んだ気がするが、確認することはできなかった。苦しげに身体が反り返り、角の間から得体の知れぬ液体がほとばしる。何かが飛び出した、しかしそれを追う間もなく絶叫がとどろき、そしてそれきり沈黙した。

 手が離れた。重力に伴って刀が落ちる。同時に彼女の細い身体が焔に包まれ大地に伏した。自分の操るものと違う、真紅の焔が彼女を塵へと変えていく。

 頭の中が滅茶苦茶になって真っ白になって、まともに思考することすらかなわない。喉からほとばしる叫びですら、音になることはなかった。

「愚かだな。そんな選択肢は、最初から存在していない」

 嘲りを瞳に含ませて、男は弓月を一瞥する。

 弓月は喉に貼りついた声を無理やり引き剥がし、やり場のない怒りと共に男に叩きつけた。空いた腕を伸ばし、男の胸倉をつかみあげる。

「何で、何でだ!! あいつ、あいつ戻ったのに! もしかしたら……もしかしたら、人間に戻せたかもしれないのに!」

 ここでも選択しなければいけないのか。なぜだ、どうして、助けてはいけないのか、可能性を求めてはいけないのか、なぜ、どうして。単語の羅列が意識を埋め、全てが音にならないまま消えていく。言葉として出すことができない。溢れてくる怒りに震えながら、弓月は男をにらみつける。

「愚問だな。我らの本分は『狩る』ことだ。『助ける』という意味は含まれていない」

 叩きつけた言葉は、いともあっさりと両断される。男は依然として無表情のままだった。

「ただの人間だろうと妖だろうと、幼馴染だろうと身内だろうと他人だろうと、斬れば皆須らくただの肉塊になる。同じモノだ」

 否――薄く、笑っていた。

「何を躊躇する必要がある。解せんな。今までそうして斬り捨ててきたのだろう? たかだか鬼一匹を斬ったところで、死体が一つ増えるだけだ」

 怒りで混乱していた意識が、急激に冷えていく。

 今何と言った。『ただの人間だろうと妖だろうと』『斬れば須らくただの肉塊になる』?

 それは、つまり、

「てめぇ……人間も、斬った、のか」

 男は低く喉の奥で嗤う。

「今更、だ」

 凄艶なその笑みには、狂気が色濃く彫り込まれていた。

 細い身から立ち上るその気配が、弓月に牙を剥いている。氷のように冷たく、鉛のように重い。息が詰まりそうだ。

「俺は俺の本能のままに獲物を狩るだけ、その中に人間もいたというだけの話」

 鈍い蒼に染め上げられた眼差しが、縦に裂けた獣の瞳孔が、弓月の姿を捉えて離さない。脳が警鐘を鳴らしている。最後の純血。契約に囚われ、縛られ続けてきた一族の、始まりの血だけで構成された者。

 なぜここまで狂うことができる。なにが彼を狂わせた。

「契約を……破棄したのか!? まさか、そんな……なぜ本家が!」

 麻痺しかけた思考を、尊杜みことの言葉が打ち砕いた。砕かれた思考は、再び色を失っていく。

「お前たちが知る意味もない」

 その答えは、肯定以外の何者でもなかった。

 契約を破棄したということは、三者のどれも選ばなかった結果に他ならない。つまり選びたかった道の先に待っているのは、

「……ふざけんな」

 歯軋りをしながら、弓月は声をしぼり出す。転がる刀を拾い上げ、その切っ先を男へ突きつけた。

「弓月! やめなさい、あんた今自分が何してるか分かってるの!?」
「うるせぇ」

 尊杜の悲鳴を遮る。選択させてくれなかった、この男が気に入らない。助けるという選択肢すら斬り捨てた、この男が気に入らない。自分が選びたかった先に、この男が待っているのが気に入らない。

 契約を外れた先には狂気しかないということを、認めたくない。

「純血だか何だか知らねぇが……てめぇの存在自体が、俺の癇に障るんだよ」
「弱い娘を斬ったからか、それとも人間も妖も斬るからか」

 弓月は答えない。握り締めた刀の切っ先が震えている。忘れかけていた傷口の痛みが、再び意識を蝕み始めた。

 男が笑みを深くする。紛れもなくそれは嘲笑だった。刀を振るい、斜に構える。

「いいだろう、臭小鬼クソガキ。お前の勝手な幻想もろとも、骨の先まで残さぬよう徹底的に叩き壊してやる」

 漆黒の刃がわずかな光に照らされて鈍く輝く。月の無い夜ならば、恐らくは刀身すら見ることはできないだろう。その代わり、全身から放たれる殺意の刃が、こちらの心臓を深々と刺し貫いていた。

 嗤っている。いっそ不気味なくらいに凄艶に、相手が声もあげず嗤っている。足がすくむ、腕が震える、それを無理やり押さえつけて、相手の気配を必死に探る。乾いた喉で呼吸をする。

 一つ、二つ、三つ、同時に――動いた。互いの切っ先が互いの胸を、どちらが先に貫くか。

 その、直後。

 突然身体が硬直した。あと一歩が踏み出せない。切っ先を指に挟まれ押し留められている。相手も同じ状態だった。煙草のにおいが鼻先をかすめ、視界に新たな色彩が生まれる。

 くすんだ金色と、目の覚めるような赤。髪とバンダナの色だということは、乱入者がこちらを向いたときに気がついた。埃で汚れた白シャツに、黒革のジャケットを羽織った男だ。諸所が破れたジーンズにごついブーツ、ひしゃげた金属板のついた鎖を首からかけている。硬そうな髪は乱雑に束ねられ、背中に流されていた。額のバンダナがやけに似合う。年は恐らく二十代の後半、弓月よりも頭二つ分は高い、長身の若者だった。

「そこまでにしときな。同族同士で戦うなんざ、夢見悪ぃぜ」

 中国訛の残る、比較的上手い日本語で制止がかかった。耳あたりのよい低音と敵意のなさが、警戒心を緩和させる。眉間にしわを寄せて苦笑しているが、どちらかと言えば子どもをあやすのにも似た表情だった。

「誰だ、てめぇ」
「李白の李に虎の牙。李虎牙リ・フーヤ。喧嘩屋で、妖狩。黑幻を追っかけてきた。すぐにいなくなるから、困る」

 親しげな響きを帯びてかたどられた男の名は、彼らが同郷の出なのだということを、そしてただの同郷の友ではないことを、如実に物語っていた。

「虎牙」

 一方、憎しみとも判別できない形相で男が声を放つ。次いで鋭い金属音が響いた。男が青年の指から刀を引き抜き、地面に叩きつけた音だった。

「おー怖ぇ。何そんな怒ってんだか」

 むしろ余裕すらうかがえる。肩をすくめ、呆れた様子で男の手首を捕まえた。今度は相当力を入れているのだろう、男が何度か身をよじったが、手が離れることはなかった。

 これだけの殺意をにじませている相手に、こんな真似をするなど考えられない。よほどの命知らずなのか、それともただの馬鹿なのか。

「……邪魔すんな」
「それは聞けねぇな。お前怪我してる。それに俺は、こいつ止めるって約束がある」

 青年は弓月のわき腹を示し、それからつかんだ手首の先を示した。

閉嘴だまれ、虎牙!!」

 苛立ちのためか焦りのためか、男が異国の言葉で声を荒らげる。それにも動じず、虎牙と名乗った青年は続けた。

「黙れ、だとよ。珍しいな……こいつ、ちっと興奮してっから連れてく」

 青年は語りながらも、暴れる男の腹に一発拳を叩き込んだ。あまりの唐突さ加減に、弓月も一瞬だけ唖然とする。さすがに拘束されていては逃れられない。男は青年を見上げて何事かを毒づき、身体を折り曲げて気絶する。取り落とされた黒い刀は、やがて空気に溶けるようにかき消えた。

「何か、言われたか?」

 男を片手で担ぎ上げ、青年が問う。

「……別に」

 青年から視線を外し、弓月は低く答えた。少女の身体があった場所には、既に塵の一つも残っていない。それが、ひどく虚しかった。いつも自分が行っていることなのに、だ。


『そんな選択肢は、最初から存在していない』


 改めて突きつけられた現実と、選ばなければならない苦痛が重くのしかかる。憑かれた人間を助ける方法を、探すことすらできないなんて。

 逃げたいと思っていた。敷かれたレールから外れて、自分の好きなように生きたいと思っていた。せめて人間と同じように、生きていたかった。それすら否定された今、どうしていいのか分からない。

「おい」

 不意に額が叩かれ、よろめく。

「よし。あとで俺が話聞いてやる」
「は?」

 面食らって思わず聞き返した。青年はにやりと歯を見せて笑い、弓月の頭をかき混ぜる。手を振り払ってにらみつけても、彼は嬉しそうに笑っているだけだった。

「お前と俺、随分気が合いそうだからな。悩みやらなにやらあるだろ、俺も助言あればしてやる」
「いらねぇ」
「そう言うな。お前、迷ってる。だから俺は、手を出すだけだ……たぶん、また近いうちに会う。そのときな」

 じゃあ、ときびすを返し、青年はゆっくりと歩き去る。その後姿を見送ってから、弓月はふと隣を眺めた。

「尊杜、いたのか」
「いたわよ」

 オカマがふてくされていた。

「あたしそっちのけで話進めないでちょうだいよ。ひどいわひどいわ、あたしばっかのけ者にされちゃうなんて、あたし泣いちゃうわよえーんえーん」

 鬱陶しさが倍増されていた。

「……悪かったな」

 とりあえず謝っておくことにした。満足したらしく、いいわよもうパフェ二つで許してあげるわ、と答えが返ってきた。単純な男である。

 一呼吸置いてから、尊杜が小さく詫びを入れる。

「あたしも、悪かったわね。正直あんたが甘えてるだけかと思ってた」
「いい。説明してなかったこっちの落ち度だからな」

 この十年間、誰にも言わずに隠し続けてきたことだ。幼馴染にも言っていない。この事実を知っているのは、いまや自分だけになってしまった。これからもずっと、この痛みを隠し続けていくのだろう。

「……これからは、どうすんの」
「安心しろ。これからはきちんと憑き物憑きの始末もする」

 たとえそれが身内以外だったとしても、元は人間だったものを斬る嫌悪感は変わらない。だがもう、逃げることはできない。逃げ道がなければ、逃げる意味もない。逃げるという選択肢など、最初から存在していないのだから。そういうことだ。

 尊杜はただ、そう、と呟いただけだった。今の弓月には、それだけで十分だった。





 身体を引きずるようにして家に戻る。比呂也の部屋以外明かりがついていなかった。好都合だ。こんな状態では、養父母に余計な心配をかけてしまうから。

 尊杜の応急手当により、どうにか血は止まっていた。だが、失われた分はなかなか戻らない。下着だけになって傷口を消毒し、包帯を適当に巻いて横になる。波のように襲ってくる痛みは、痛み止めがないから仕方がない。慣れているとはいえ、かなり苦しかった。

 毛布をかけることも忘れ、弓月はじっと薄暗い部屋の一点を見つめていた。汗がひどい。気を紛らわせようにもそれができない。考えをめぐらせれば、鬼に憑かれた少女のことしか出てこない。その少女のことを思い返せば、否応にも真帆のことに行き着いてしまう。

 彼女は何も悪くないのに。ただ、比呂也のことが好きだっただけなのに。どうして斬らなければならなかった。どうして、選ばせてもらえない。

 嗚咽が漏れそうになって歯を食いしばる、と同時に部屋の扉が開いた。

「弓月?」

 身を起こそうとして、うめく。ひどい痛みだ、これではまともに動けない。

 比呂也はしばらく目を泳がせ、うつむいて部屋に入ってくる。無言のままに毛布をつかみ、下着のままだった弓月にかぶせる。それからベッドに腰をかけ、弓月の顔を覗きこむ。

「怪我したんだな」
「まぁな……」

 頭がぼんやりする。うまく焦点があわない。

 比呂也は一言、そうか、とだけ呟いて、首にかけていたタオルを弓月の額に押し付けた。髪が濡れている。風呂にでも入っていたのだろう。

 沈黙が降りる。普段はうるさいほど話しかけてくるくせに、今日は不気味なほど静かだった。

「何も聞かねぇんだな」

 呟くように尋ねれば、

「……言いたくないんだろ? じゃあ、無理には聞かない」

 同じように呟きで答えが返る。この様子では、何が起きたのかもある程度は把握されているのだろう。

 そのほうがいい、とだけ言ってから、弓月は大きく息をついた。喉に絡まる吐息が気持ち悪い。あやすような手の動きも、どうしてかひどく癪に障った。

 何も知らないくせに。乱暴にその手を跳ね除けて、弓月は再び痛みにうめく。

「……弓月」

 ためらうような間の後に、言葉が闇に波紋を作った。

「あの、さ……その、やっぱり次は俺も連れて……」
「駄目だ」

 最後まで言わせず、さえぎった。苛立ちが胸をふさぎ、呼吸をさらに詰まらせる。

 比呂也は目を瞬いた。驚いているのか、狼狽しているのか、弓月には分からなかった。

「な、何だよ、そんな危なくなってんのかよ?」
「そうじゃねぇ。けど駄目だ。二度とお前は連れていかねぇ」

 巻き込めない。彼と自分は違うものだ。彼は人間で守るべきもので、自分は人間を守る盾にすぎない。守れないならば意味がないのだ。真帆のように。

 比呂也が声を荒らげる。

「どうしてだ!? 確かにこないだはちょっと失敗しちまったけど、ちゃんと原因を考えて反省した! 弓月の足手まといにならねーように、どう動いたらいいのかも考えた! 次は同じヘマはしねぇ、だから……!」

 なるほど。蜘蛛の後、不自然なくらい仕事関連の話をしなかったのは、次回のシミュレートをしていたからか。馬鹿馬鹿しいほどにまっすぐで、単純で、腹が立つ。

「騒ぐな、傷に響くんだよ」

 大声は出せないから、あえて冷たく言い放った。

「……ごめん」

 謝罪の言葉には、それでも色濃い不満がうかがえる。どうしても納得できないのだろう。当然だ、今まではある程度までは許可していたのだから。

 けれども、それではもう駄目なのだ。これ以上は巻き込めない。踏み込ませては、いけない。

「比呂也。お前、何でそこまでついてきたがる?」
「だ、だって……お前のこと、心配で」

 呆れるほどの馬鹿加減に、苛立ちは頂点に達した。

「もういい」

 え、と短く声が漏れる。それを無視して、言葉をつなげた。

「俺のことなんざ、そこまで気にしなくていいって言ってるんだよ」
「そんなの……!」

「これ以上首突っ込むな。お前は、妖こそ見えるが……普通の、何の力もない、人間なんだ。鬼や憑き物がお前に憑くことだってあるんだぜ。そしたら、俺は……」

 唐突に、突き上げるような胃の痛みを感じた。腹の底が焼け付いて痙攣している。弓月はとっさに口を押さえた。全身が急激に冷えていく。手足の感覚が遠くなっていく。鼓動がやたら速くてうるさい。耳鳴りがする。傷口だけが、燃えるように熱かった。

 よみがえる光景に、全身が激しく震えた。

「弓月! おい、大丈夫か、弓月!?」

 肩をつかむ手を振り払う。どうしてそこまでするのかが理解できない。別物なのに。関係ないのに。何も知らないくせに。

「構うな! もういい、もう、無理して俺に、付き合う必要なんざねぇんだよ」
「無理なんてしてねぇよ。お前は俺の大事な……幼馴染だ。心配すんのは当然だろ? 妖狩だからとかそういうのなしに、友だちとして心配させてくれよ」

 真摯な音の羅列には、ふざけた色が見当たらない。いっそふざけてさえいればよかった。妖狩だからこそ区別するのだと、もっと冷たく突っぱねられたのに。

「お前のこと、助けたいんだ」

 昔、同じことを言った少女がいた。その子は鬼に取り憑かれ、幼い妖狩に殺された。自分が近くにいれば、きっと彼は不幸になる。真帆の二の舞になってしまう。こんな契約さえなかったら、こんな身の上でなかったら、もっと別の結果になっただろう。

 様々な感情が滅茶苦茶に交じり合って、何がなんだか分からない。柄にもなく泣きそうになり、弓月はぶっきらぼうに命令した。 

「でてけ。……一人に、させろ」
「嫌だ」

 いつもならば文句を言いつつ従う彼が、強い口調で拒絶した。苛立ちよりも先に、なぜか悲しくなってしまい、それがまたさらに苛立った。

「……でてけって言ってんだろ」
「嫌だ」
「構うな」
「嫌だ」

 痛みをこらえて身体をひねり、座る比呂也へ背を向ける。

「ここにいる」
「……馬鹿野郎」

 巻き込みたくない。巻き込めない。これ以上誰かを巻き込むなんて、これ以上親しい者を『契約』の下で殺すなんてごめんだ。どうして理解してくれない。どうしてそこまで、一緒にいたがる。

「どいつもこいつも、大馬鹿野郎だ」

 苛立ちと、得体の知れぬ悲しさが全身を包む。朦朧とする視界の向こう、呆然とする少女の顔を思い浮かべて、弓月はぎり、と歯軋りした。


 二人の幼馴染の合間に積もるは、ただただ静寂だけである。それすらも飲み込む深い闇夜、真夏の夜更けのことである。
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