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閑話
記憶の残り香
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宣言の通り、弓月は鬼を手にかけた2日後から率先して憑き物憑きを狩るように意識した。鬼から受けた傷の痛みはひどかったが、これぐらいの傷は日常茶飯事だ。今更どうということはない。
そもそも休んでいる暇などないのだ、そういう“モノ”なのだから。もとより妖狩は傷の治りが早い。妖を狩っているうちに、どうせ治る。今までもそうしてきたし、これからもきっとそうでしかない。
人間の抜け殻を自らの手で刺し貫くたびに、強い吐き気がこみあげる。それでもやらなければならない。逃げることなんて、許されていないのだから。
心を殺して淡々と、いつものようにこなしていく。昔からしてきたルーチンに、避けてきたことが増えた。たったそれだけだ。それだけだったはずなのに――異変は突然、訪れた。
鬼を殺して一週間後、復帰してから六日後。
突然、声が出なくなった。
別に喉が痛いだとか、そういうわけではない。むしろ体調は、怪我をしていることを除けば健康そのもので、風邪の兆候も一切なかった。
腫れもない。痛みもない。咳もない。熱もない。ただ、まるで喉が凍り付いてしまったかのように、音が言葉をかたどれない。いくら何かを話そうと口を開いても、ただひうひうと空気が擦れる音が漏れるばかり。
義理の両親はいたく心配し、病院を受診するようにすすめてきたが、弓月は身振りで丁重に断った。
――心当たりがあるので。数日で治りますから安心してください。
筆談で簡単に意思を伝えれば、夫妻はやっと安堵したようだった。
数日で治る、というのは嘘だ。いつ治るかもわからないが、これ以上余計な心労をかけるわけにはいかなかった。
少し休んだら、という夫妻の提案をありがたく受け、数日間は自宅にいることに決めた。いろいろと詮索されるのも今の状態では面倒だし、それならば質の悪い風邪にかかった、と言っていたほうがいい。
尊杜へは「声が出なくなった」とメッセージを送り、一瞬で既読がつくのに嘆息する。例によって例のごとく、死ぬほど暇なのだろう。
『大丈夫なの?』
『知らん』
『なにそれ どれぐらいで治りそう?』
『知るかよ』
『ああもう字打つのめんどくさい 電話したいわ』
『こっちのが静かでいい』
くだらないやり取りを重ねていく。
『いつから?』
並ぶ文字列に少し、指が止まる。手のひらによみがえる肉と骨の感触に、吐き気がこみあげてくる。
『鬼と会った日から』
それだけ伝えるのが精いっぱいだった。
小さな端末の向こう側にいるだろう尊杜は、果たしてそこから何を感じ取ったのだろうか。少しだけ、返信に間が開く。
『とりあえず あんたがいない間はあたしがどうにかしてあげる 復帰したら何かおごりなさいよ』
細く長く息を吐いて、「悪い。よろしく」とだけ返事を打つ。最後に尊杜から「りょーかい!」「BYE!」とスタンプが押されて、それきり会話は終わりとなった。
端末を枕元へ放り投げ、ごろりと寝がえりを打つ。痛み止めが切れてきたのか、脇腹の痛みが徐々に意識を侵食していく。少しばかり無理をしすぎたのかもしれない、と今更ながらに思った。
*
階段がきしむ音と人の気配で目が覚める。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。隣の部屋で、何かやら物音がする。耳をすませば、階下からはニュースの音が漏れ聞こえてくる。おそらく、比呂也が帰ってきたのだろう。時計を見れば、19時を20分ほど過ぎていた。
「弓月ー、飯食えるか? って、声出ねえんだっけ……飯残してあるけど、いるか? いらねーなら一回で、いるなら二回な」
両親から話を聞いたのだろう。弓月は小さく息をつき、のろのろと身体を起こした。扉を乱暴に一回たたいて、またベッドに倒れ込む。
鬼にえぐられた脇腹がひどく痛む。うめき声すらあげることができず、そのまま体を折って丸まった。
繰り返し繰り返し、あの鬼の死に際がよみがえる。胸に生えた黒い刃、血に濡れたそこに映る、空っぽの瞳。己の血脈に連なる男の、冷えた眼差し。痛みと熱。吐き気がする。
くそ、と毒づく声はない。ただ吐息が喉にこすれて、情けない音を漏らすばかりだった。
頭の中では、未だに過去と今が交錯し続けている。年頃の娘は幼い少女に、幼い少女はその面影を残したまま同い年ぐらいの娘に。移り変わる姿のまま、声は重なり、波打ち、引いて、寄せて、しきりに弓月へ恨み言を連ねている。
耳をふさぐ。やめろと呻く言葉すら、喉は音に変換してくれない。声は届かず、鬼は記憶にある少女の身体で、少女の言葉で、呪詛を紡ぎ絡めていく。
手のひらから、血のにおいが取れない。皮膚からあの感触がぬぐえない。震えが止まらない。こみあげてくる胃酸を何度も飲み下していた、そのとき。
鼻先を、ふと甘く柔らかな香りがかすめた。思わず目を開けて顔をあげれば、暗がりの中、比呂也がマグカップを突き出している。
「ほら、飲めよ。なんか腹に入れねーとつらいだろ」
口を開くと同時に押し付けられ、弓月はまた唇を引き結んだ。反射的にカップを握りしめ、指先に広がる熱と顔にかかる湯気とにおいに目を細める。
ホットミルクだ。柔い白の水面に薄く膜が張っているのが、暗がりに慣れた視界に映る。
比呂也は勝手に勉強机の明かりをともすと、椅子に腰かけた。自分の分も持ってきたらしい。
「あ、それ、蜂蜜入りだから」
誰も聞いてないのにそう言って、息を吹きかけ一口すする。あち、と漏れた小さな声が、蛍光灯の無機質な光と部屋を閉ざす薄暗がりの境に転がった。
弓月もそれにならって口をつける。甘いにおい。温められたミルクの滑らかな味と、溶けた蜂蜜の優しい甘味が喉を滑り落ちていく。
ぼんやりとマグカップの縁をなぞり、ふと思い出す。真帆が死んだあと――弓月が最初に真帆を殺したあの日から、ほんの数日あとのことを。
真帆の葬儀を終えて少ししてから、弓月は一切声が出せなくなった。今回と同じように、突然の症状だった。数日間様子を見ていたが結果は変わらず、夫婦は心配して医者にも連れていったが、原因はまったくわからなかった。
薄暗い部屋の隅で、声もあげずうずくまっていた弓月を見かねたのだろうか、当時弓月よりも小さかった比呂也は、子どもの手にはずいぶんと大きなカップいっぱいに、蜂蜜たっぷりのホットミルクをなみなみと注いで持ってきたのだった。
痛みが和らぐ。こいつは昔からずっとおせっかいだった。今もまったく変わってない。背丈も声も変わったというのに。
――持ってくるのに、めちゃくちゃこぼしてたな。
吐息だけでそうつぶやく弓月の言葉が聞こえたのか。比呂也は「だってめちゃくちゃ重たかったんだもんよ」と唇を尖らせた。
「小学生の手に、大人用のでけぇやつだしさ。あれでもがんばったほうだぜ? 褒めてほしい」
戯言は軽く受け流し、またホットミルクを一口含む。じわりと目の奥が痛くなる。涙は出ないが、鼻の奥がつんと痛くなる。
「これ飲んだらさ、またあんときみたいにめいっぱい泣いてもいいんだぜ」
小さく比呂也が言葉を落とす。弓月は黙ったまま、また薄く膜の張ったミルクの表面を眺めていた。
あのときは、ただどうしようもなく幼かった。どうしても、どうしても涙をこらえることができなかった。幼い弓月が声なき声で泣きじゃくるのを、幼い比呂也はもらい泣きしながらも背中をさすっていた。大人用のマグカップを片手で持つことすら苦労しただろうその小さな手のひらを、弓月は確かに覚えている。ホットミルクで温められたその感触を、今もなお。
長く、長く息をつく。涙はもう出てこないが、代わりに目と鼻の奥がつんと痛んだ。
ぐいとミルクをあおり、また長く息を吐いた。
「……忘れろって言ったはずだがな、それ」
そうしてこぼした言葉は、ひどくかすれてがさがさになっている。たった一日声が出なかっただけで、こんなひどい音になるものだろうか。
比呂也が一瞬腰を浮かせかけ、クールぶって座りなおす。
「そーだったっけ? 忘れてたわ」
とぼけたような表情は、あのときと何も変わらない。真帆が死んだときと同じだ。何一つ変わらない。そしてそれはきっと、棘のように残るに違いない。あのときのように。
弓月は小さく鼻を鳴らし、ゆっくりをそれ飲み干していく。やがてすっかり空っぽになったマグカップに、ほのかにミルクと蜂蜜の香りが残っていた。
そもそも休んでいる暇などないのだ、そういう“モノ”なのだから。もとより妖狩は傷の治りが早い。妖を狩っているうちに、どうせ治る。今までもそうしてきたし、これからもきっとそうでしかない。
人間の抜け殻を自らの手で刺し貫くたびに、強い吐き気がこみあげる。それでもやらなければならない。逃げることなんて、許されていないのだから。
心を殺して淡々と、いつものようにこなしていく。昔からしてきたルーチンに、避けてきたことが増えた。たったそれだけだ。それだけだったはずなのに――異変は突然、訪れた。
鬼を殺して一週間後、復帰してから六日後。
突然、声が出なくなった。
別に喉が痛いだとか、そういうわけではない。むしろ体調は、怪我をしていることを除けば健康そのもので、風邪の兆候も一切なかった。
腫れもない。痛みもない。咳もない。熱もない。ただ、まるで喉が凍り付いてしまったかのように、音が言葉をかたどれない。いくら何かを話そうと口を開いても、ただひうひうと空気が擦れる音が漏れるばかり。
義理の両親はいたく心配し、病院を受診するようにすすめてきたが、弓月は身振りで丁重に断った。
――心当たりがあるので。数日で治りますから安心してください。
筆談で簡単に意思を伝えれば、夫妻はやっと安堵したようだった。
数日で治る、というのは嘘だ。いつ治るかもわからないが、これ以上余計な心労をかけるわけにはいかなかった。
少し休んだら、という夫妻の提案をありがたく受け、数日間は自宅にいることに決めた。いろいろと詮索されるのも今の状態では面倒だし、それならば質の悪い風邪にかかった、と言っていたほうがいい。
尊杜へは「声が出なくなった」とメッセージを送り、一瞬で既読がつくのに嘆息する。例によって例のごとく、死ぬほど暇なのだろう。
『大丈夫なの?』
『知らん』
『なにそれ どれぐらいで治りそう?』
『知るかよ』
『ああもう字打つのめんどくさい 電話したいわ』
『こっちのが静かでいい』
くだらないやり取りを重ねていく。
『いつから?』
並ぶ文字列に少し、指が止まる。手のひらによみがえる肉と骨の感触に、吐き気がこみあげてくる。
『鬼と会った日から』
それだけ伝えるのが精いっぱいだった。
小さな端末の向こう側にいるだろう尊杜は、果たしてそこから何を感じ取ったのだろうか。少しだけ、返信に間が開く。
『とりあえず あんたがいない間はあたしがどうにかしてあげる 復帰したら何かおごりなさいよ』
細く長く息を吐いて、「悪い。よろしく」とだけ返事を打つ。最後に尊杜から「りょーかい!」「BYE!」とスタンプが押されて、それきり会話は終わりとなった。
端末を枕元へ放り投げ、ごろりと寝がえりを打つ。痛み止めが切れてきたのか、脇腹の痛みが徐々に意識を侵食していく。少しばかり無理をしすぎたのかもしれない、と今更ながらに思った。
*
階段がきしむ音と人の気配で目が覚める。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。隣の部屋で、何かやら物音がする。耳をすませば、階下からはニュースの音が漏れ聞こえてくる。おそらく、比呂也が帰ってきたのだろう。時計を見れば、19時を20分ほど過ぎていた。
「弓月ー、飯食えるか? って、声出ねえんだっけ……飯残してあるけど、いるか? いらねーなら一回で、いるなら二回な」
両親から話を聞いたのだろう。弓月は小さく息をつき、のろのろと身体を起こした。扉を乱暴に一回たたいて、またベッドに倒れ込む。
鬼にえぐられた脇腹がひどく痛む。うめき声すらあげることができず、そのまま体を折って丸まった。
繰り返し繰り返し、あの鬼の死に際がよみがえる。胸に生えた黒い刃、血に濡れたそこに映る、空っぽの瞳。己の血脈に連なる男の、冷えた眼差し。痛みと熱。吐き気がする。
くそ、と毒づく声はない。ただ吐息が喉にこすれて、情けない音を漏らすばかりだった。
頭の中では、未だに過去と今が交錯し続けている。年頃の娘は幼い少女に、幼い少女はその面影を残したまま同い年ぐらいの娘に。移り変わる姿のまま、声は重なり、波打ち、引いて、寄せて、しきりに弓月へ恨み言を連ねている。
耳をふさぐ。やめろと呻く言葉すら、喉は音に変換してくれない。声は届かず、鬼は記憶にある少女の身体で、少女の言葉で、呪詛を紡ぎ絡めていく。
手のひらから、血のにおいが取れない。皮膚からあの感触がぬぐえない。震えが止まらない。こみあげてくる胃酸を何度も飲み下していた、そのとき。
鼻先を、ふと甘く柔らかな香りがかすめた。思わず目を開けて顔をあげれば、暗がりの中、比呂也がマグカップを突き出している。
「ほら、飲めよ。なんか腹に入れねーとつらいだろ」
口を開くと同時に押し付けられ、弓月はまた唇を引き結んだ。反射的にカップを握りしめ、指先に広がる熱と顔にかかる湯気とにおいに目を細める。
ホットミルクだ。柔い白の水面に薄く膜が張っているのが、暗がりに慣れた視界に映る。
比呂也は勝手に勉強机の明かりをともすと、椅子に腰かけた。自分の分も持ってきたらしい。
「あ、それ、蜂蜜入りだから」
誰も聞いてないのにそう言って、息を吹きかけ一口すする。あち、と漏れた小さな声が、蛍光灯の無機質な光と部屋を閉ざす薄暗がりの境に転がった。
弓月もそれにならって口をつける。甘いにおい。温められたミルクの滑らかな味と、溶けた蜂蜜の優しい甘味が喉を滑り落ちていく。
ぼんやりとマグカップの縁をなぞり、ふと思い出す。真帆が死んだあと――弓月が最初に真帆を殺したあの日から、ほんの数日あとのことを。
真帆の葬儀を終えて少ししてから、弓月は一切声が出せなくなった。今回と同じように、突然の症状だった。数日間様子を見ていたが結果は変わらず、夫婦は心配して医者にも連れていったが、原因はまったくわからなかった。
薄暗い部屋の隅で、声もあげずうずくまっていた弓月を見かねたのだろうか、当時弓月よりも小さかった比呂也は、子どもの手にはずいぶんと大きなカップいっぱいに、蜂蜜たっぷりのホットミルクをなみなみと注いで持ってきたのだった。
痛みが和らぐ。こいつは昔からずっとおせっかいだった。今もまったく変わってない。背丈も声も変わったというのに。
――持ってくるのに、めちゃくちゃこぼしてたな。
吐息だけでそうつぶやく弓月の言葉が聞こえたのか。比呂也は「だってめちゃくちゃ重たかったんだもんよ」と唇を尖らせた。
「小学生の手に、大人用のでけぇやつだしさ。あれでもがんばったほうだぜ? 褒めてほしい」
戯言は軽く受け流し、またホットミルクを一口含む。じわりと目の奥が痛くなる。涙は出ないが、鼻の奥がつんと痛くなる。
「これ飲んだらさ、またあんときみたいにめいっぱい泣いてもいいんだぜ」
小さく比呂也が言葉を落とす。弓月は黙ったまま、また薄く膜の張ったミルクの表面を眺めていた。
あのときは、ただどうしようもなく幼かった。どうしても、どうしても涙をこらえることができなかった。幼い弓月が声なき声で泣きじゃくるのを、幼い比呂也はもらい泣きしながらも背中をさすっていた。大人用のマグカップを片手で持つことすら苦労しただろうその小さな手のひらを、弓月は確かに覚えている。ホットミルクで温められたその感触を、今もなお。
長く、長く息をつく。涙はもう出てこないが、代わりに目と鼻の奥がつんと痛んだ。
ぐいとミルクをあおり、また長く息を吐いた。
「……忘れろって言ったはずだがな、それ」
そうしてこぼした言葉は、ひどくかすれてがさがさになっている。たった一日声が出なかっただけで、こんなひどい音になるものだろうか。
比呂也が一瞬腰を浮かせかけ、クールぶって座りなおす。
「そーだったっけ? 忘れてたわ」
とぼけたような表情は、あのときと何も変わらない。真帆が死んだときと同じだ。何一つ変わらない。そしてそれはきっと、棘のように残るに違いない。あのときのように。
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