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陸
(上)
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強く、激しく大地を叩く雨音が、沈黙の隙間を埋めていく。誰も、何も言わない。
「……心当たりは、ないんだな」
弓月は声を押し殺し、女将に尋ねた。
「えぇ……存じ上げません」
女将も蒼い顔のまま弓月に応じる。目を合わせないままの女将の様子を眺め、弓月は胸の内側で呟いた。
(答えが妙だな)
心当たりはないかと聞いているのに、答えは「知らない」という。この妙なずれは一体なんだ。まるで誰かをかばっているような――
と、尊杜がわずかに顔をあげ、弓月の耳元に低く囁いた。
「数が多すぎて、どこから仕掛けてくるか読めないわ。でも、いる。屋内にいる」
その言葉が終わるとほぼ同時に、旅館の東側からあの気配がにじみ出してきた。先ほどよりも濃い、周囲一帯を覆わんばかりの気配が足下に絡み付いてくる。
「尊杜、行くぞ」
「はいはーい」
尊杜が能天気に答えたその瞬間、女将が突如立ち上がり、弾かれたように走り出した。
「夕市さん! 夕市さんが、夕市さんが殺されてしまう……!」
そんな馬鹿な。弓月は一瞬驚愕のあまり呆然とした。
一般の、何の力もないただの人間が、妖気を察知することはほぼ不可能に近い。それにも関わらず、女将は迷うことなく“それ”が流れてくる方へ足を向けた。妖の持っている殺意にも、敏感に反応した。
そうなれば、答えは自ずと絞られてくる。弓月は尊杜に目配せし、すぐさま後を追いかける。殺意が湧いている以上、ぐずぐずしてはいられない。
肌を覆う不快な気配。小蛇たちの発するものと、もう一つ――女将からも感じられた妙な気配が、彼女とはまた別の場所から漂ってくるのを、弓月は確かに感じていた。
フロントを走りぬけ、旅館の東側へ駆けていく。渡り廊下の奥へと進むにつれて、気配はより鮮明になっていく。曖昧にまとまっていたそれは、やがて一つ一つはっきりと己の形を現し始めていた。足下を蛇が這いずり回り、弓月を挑発するかのように、ある部屋へと向かっていく。
女将は躊躇いもせずに一つの扉を開け放ち、絹を裂くような悲鳴をあげた。
「夕市さん!!」
尊杜に続けて部屋に飛び込み、舌打ちする。
目前に広がるのは、部屋中にひしめく蛇の群れ。黒い鱗を照り返しながら絶え間なくうごめき、群れては絡む蛇の大群に埋もれ、力なく天井へと差し伸べられた人間の腕。それが時折、思い出したかのようにかすかに動く。まだ生きている。
そして蛇の塊の傍らには、うごめくソレを冷ややかな眼差しで見下ろす女。黒い着物に身を包んでいるが、顔立ちは女将によく似ている。どこか影のある美貌は、ほのかな笑みに彩られていた。
「うそ、」
彼女を見た女将が目を見開き、よろめいて、喘ぐ。
「嘘……楓、なの……?」
絞るようにこぼれた名に、女は淡い微笑をより深める。
「久しぶり、姉さん」
その片袖からは、蛇が水のごとくぼたぼたと溢れ落ちていた。押し寄せるそれらの頭には、鈍く光る銀輪の模様。屋根裏にいた憑き神に違いない。
こいつだ。確信を得た刹那、弓月は吼えた。
「尊杜ォ!! 引きずりだせ!! 術は使うな、俺がやる!!」
「わぁってるわよ!! んもうっ、人使い荒いわね!」
怒鳴り返しながらも、尊杜が果敢に蛇の群れへと飛び掛かる。蛇の群れが鎌首をもたげ、一斉に尊杜へ牙を剥く。
ひらいたひらいた 何の花がひらいた
れんげの花がひらいた
弓月は唄う。牙と鱗の圧力を必死に掻き分け、尊杜がうずもれている人間を探す。絡みつかれながらもあがき、もがきながら腕をねじ込み、わずかな隙間へさらに腕を押し込んだ。
「いったたた!! いて、馬鹿!! もうっ、跡になっちゃうじゃない! 最悪! 早くしてよ弓月ぃ!!」
腕を噛まれ、締め上げられながら、尊杜がやせ衰えた男性を蛇の海からどうにかして引き上げた。女が笑みを消して舌打ちし、こちらへ目線を滑らせる。
ひらいたと思ったら いつの間にかつぼんだ
同時にちりと白焔が散る。手のうちには真紅の刀。唄い終わると同時に、弓月は白炎を荒れ狂う蛇の海へと叩きつけた。
浄化の炎がほとばしり、次々と蛇たちを飲み込んでいく。のたうち暴れまわる流れはやがて、灰すら残らず空気に溶ける。次々と引火して灰になる蛇たちを、女は冷めた目で眺めていた。
「楓……あなた、今までどこへ……どうして、こんなこと」
目の前で起きていたことにショックを受けていたのだろう。へたりこんだ女将が息も絶え絶えに、女へ問いを投げかける。楓と呼ばれた女は、再度笑みを唇に刷いた。
「姉さん。私ね、姉さんのこと大好きよ」
「何を……言っているの……」
「だからね。こうして、邪魔なモノを全部取ってるの。そうすれば、姉さんは幸せになる。姉さんを不幸にするモノは、一つ残らず消えてしまえばいいんだわ」
蛇が再び、女の両袖から湧き出した。襲い掛かる流れを一刀の元に断ち割り、焔を走らせ斬り伏せる。その切っ先を女へと向けたとき、白魚の手が弓月へと突き出された。斬り損ねた蛇たちが、袖から生まれるそれらと絡まりあう。それからまるで鉄砲水のように、一斉に弓月へ飛びかかった。
三つとや 皆様子供衆は楽遊び 楽遊び
穴一こまどり羽根をつく 羽根をつく
弓月は刃を持ち上げて、低く静かに唄を接ぐ。『月朱雀』が鋭い紅に煌めき、激しい焔を生み出した。勢いを増した焔は、女の両袖を飲み込むように燃え移る。女はそれでも顔色を変えず、帯から匕首を抜いて袖を断つ。燃え上がった袖布は、やけに重たい音を立てて床に転がった。
「ばいばい。また来るわね」
薄笑いを浮かべたまま、女は軽やかに身を翻した。華奢な背はあっという間に闇へと消える。
「楓! 待って、どういうこと、楓!」
悲痛な女将の叫び声だけが、雨の降りしきる夜の空気に吸い込まれていった。
*
あとに残るのは、静寂。眠る夫の世話をしながら、女将は沈んだ声音で語る。
「楓は、私の妹です。年も一つしか離れておらず、いつも私と一緒にいてくれました。結婚を一番喜んでくれたのも、楓でした」
しんと静まった部屋には、彼女の声と、彼女の夫の弱弱しい呼吸音、そして雨の雫が屋根を叩く音だけが、余韻を残しながら絶え間なく響いている。
「お願いします。楓は一体どうしてしまったのか、教えて下さいませんか」
あえて何も言わないまま、弓月は女将を眺めてみる。
女将の顔は蒼白で、今にも倒れてしまいそうだった。比呂也はそれが気になるのだろう、早く言えと無言で催促してくる。
――もう、どうにでもなれ。勝手についてきたほうが悪いんだ。弓月は心の中で一つ毒づき、口を開いた。
「……女将さん。あんたにはきつい話だと思うが、それでもいいな」
重い言葉に、女将は顔を上げて少女を凝視した。覚悟を秘めるまなざしを真正面から受け止めて、一度途切れた言葉をつなぐ。
「あんたの家筋は恐らく、憑き神を使役する者だ。乱暴に言っちまえば、妖怪の一種を手なずけて使役する力を持った家だ。厳密に言やぁ妖とは言わねぇんだが、妖狩は憑き神も妖として扱ってる。憑き神は自分の意思を持たねぇ分、使用者の言われるまま他人に害を及ぼすこともあるからな」
青ざめた頬をさらに青ざめさせて、女将は小刻みに体を震わせる。
「そ、れが……一体何の関係があるというのですか……」
「あんたの妹は、明確な殺意をもって憑き神を使っている。……人間に害が及んでいる以上、放っておくわけにはいかない」
女将の目が潤んだ。白い両の手を握り締めて、すがるように弓月を見つめている。
「それ……それは、それは、」
震える唇がひどく痛々しい。が、これは決められたこと。事実と、契約なのだ――どうあがいても、どれだけ否定しても、これだけは変えられない。
弓月はゆっくりと言葉を継ぎ足した。
「憑き物使いの呪いは深い。憑き物使いを殺さなければ、あんたの旦那にかけられた呪いは解けない。憑き神だけを駆除しても、大元が望めばいくらでも憑き神は湧く。ゆえにあんたの妹も……始末の対象になる」
ひっ、と女将が悲鳴をあげた。蛇を見たときとは比べ物にならないくらい、悲痛な色がにじんでいた。
「楓を……楓を、殺すのですか……」
「そうしなけりゃ、いずれあんたの旦那が死ぬぜ。元々はあんたの旦那を助けるっていうのが依頼内容だ」
衣服の裾を握り締め、女将は涙を流しながら弓月に乞う。
「お願いします、どうか、どうか楓の命だけは……お願いします、お金は倍額お支払いしますから!」
「そうなるとあんたの旦那が死ぬ」
金などここでは無用の長物。金で何とかなれば、こんなに苦労はしていない。ましてや他人にそれを押し付けることもない。選択肢は最初から用意されていないのだ。示されていないものを、選ぶことはできない。
「二人とも助けてはくださらないのですか!?」
女将の指は、力の入りすぎで細かく震えていた。
「倍額払われたところで、俺にはどうすることもできやしねぇ。これは既に決まっていること、妖狩に決められた決まりごとだ」
決まりごと。我ながら、反吐が出る。胸中で悪態をつきながら、できる限り感情を排除して突き放す。
「あんたの旦那を助けるなら、あんたの妹は死ななくちゃならない。あんたの妹を助けるなら、あんたの旦那は死ななくちゃならない」
硬く握り締められた指を振り払い、背を向ける。なぜかひどく苛立たしかった。それは他人に自分と似たようなことを押し付ける苛立ちだったのか、それとも選ぶ余地があるこの女性に対する妬ましさだったのか、弓月自身にもよく分からなかった。
「あんたは選べる。どちらを助けるのか、どちらを捨てるのか……決められなければそれでいい。そのときは俺が、こちらの契約に基づいて始末をする」
硬い空気に消える音は、自分でも予想以上に冷たい響きを帯びていた。
弓月は再び伸ばされてきた彼女の手を再度振り払い、出口に向かう。吐き気がした。すれ違いざま、近くに控えていた尊杜に言葉を投げた。
「ここで見てろ。結界が必要なら、張っておけ」
「ホンット、人使い荒いわね……最悪だわ」
文句とジト目を返事に変えて、尊杜は泣き崩れる女将の傍に座り込んだ。和歌を読み上げる彼を置き、弓月は部屋の外に出る。
雨のせいで大分気温が下がっていた。渡り廊下の外からは、湿った空気が水のように足へまとわりついている。風が出ているのだろう、吹き込んでくる水滴が頬を濡らす。
このまま本館に戻って、気配のする方角の部屋に待機すればいい。相手が外にいるならば、そこにできるだけ近い場所にいるべきだ。気配が動くと同時に飛び出せば、依頼人の元にたどり着く前に始末できる。
見せるわけにはいかない。たとえそれが幼馴染でも、人を斬るところなんて見せるべきではない。何とかして、かぎつける前に終わらせなければ。
フロント前に差し掛かる。立ち止まって周囲に目を走らせ、気配の流れる方向をつかもうとした、その直後。
「弓月! おい、弓月待てよ!」
腕を強くつかまれ引っ張られた。反動で身体が回転し、ちょうど対面する形になる。嫌になるほど見飽きた顔、腕がつかまれ、きつく握られていた。
「んだよ」
「お前、冗談だろ? 人のこと……こ、殺す、なんて、そんなことあるはずねぇよな」
震える声でそういう比呂也は、真っ蒼になっていた。あぁそうか、と弓月は他人事のように思い出す。
(こいつ、俺が『そういうの』をやらねぇ理由を知らないんだっけか……)
仕事の際についてきたこともあるが、全て異形の生き物たちが相手だった。人間も範疇に入るなど知らなかったのだろうし、予想すらしていなかったのだろう。
もっとも、当たり前と言えば当たり前だ。真帆の一件以来憑き物関連の仕事は請けていないし、何よりも弓月自身が話をしていない。無知は罪だとはよく言うが、一般人が何も知らないのは当然のことである。
そう。弓月と比呂也は、何もかもが違うのだ。
「お前には関係ねぇだろ。【ここ】は、俺の領分だ。一般人がいていい場所じゃねぇ。俺は確かに言ったよな。仕事だから邪魔するなって」
このまま何も見ないほうがいい。これ以上何も知らないほうがいい。自分と彼は別のもの。同じようには生きられない。同じ価値観を共有することなんて、できないのだ。
「妖狩の仕事は、人間を守護すること。人間の盾となり、人間を守ること。人間に仇を成す妖は斬り、仇を成す妖に力を貸した人間もまた、妖と見なして斬る」
沈黙が重い。遠くに響く雨音が、レースのように空間を覆う。
「あの女を放っておけば、犠牲はもっと増えるだろう――人間と妖どちらを助けるかなんて、決まってるだろ」
「妖にだまされてるのかもしれねぇだろ? 勝手に悪いって決め付けるなよ」
比呂也が呻き、弓月をにらみつける。
――絆ほど脆弱なものはない
唐突に振って湧いたその言葉は、今の弓月にとって奇妙なほど甘く聞こえた。こんな簡単に切れてしまうのなら、いっそのことここで全てを断ち切ったほうがいいのかもしれない。
弓月も真正面から比呂也を見据える。視線にたじろいだのだろう、腕をつかむ指がかすかに震えた。
「馬鹿か。憑き神は家に憑く。その家筋の中でも、ことさら強い怨念を持った奴が憑き神を操れる。自分の意思でなけりゃ、憑き神は動かねぇ。それにな、比呂也」
あえて緩慢な口調で、弓月は続きを口にした。
「妖にだまされていようが、そうじゃなかろうが……妖と手ぇ組んだかそうじゃねぇかで決まるんだぜ。妖に加担した時点で、妖狩の中では妖と同等とみなされる。そういう契約になっている。妖に同情してはいけない。妖に共感してはいけない。だから俺は共感しねぇ。同情もしねぇ。斬られる理由をつくったそっちが悪ぃ」
力の緩んだ手を、渾身の力で跳ね除けた。弾かれた反動で比呂也がよろめき、二歩ほど下がって立ち止まる。
二人が並ぶ、いつもの構図ではない。今は一人と、一人だ。一人と一人の間には、決して埋めることのできない溝がある。越えられない線がある。そんなことは、初めからわかっていたことなのに。
「俺は妖狩で、てめぇらは人間……考え方が違うんだよ。軽蔑するならすりゃあいいさ。あの女は斬る。絶対に助けることなんかしねぇ」
これでいい。弓月は心の内側で呟く。そしてなぜか、ひどく泣きたかった。
雨は当分、止みそうになかった。
「……心当たりは、ないんだな」
弓月は声を押し殺し、女将に尋ねた。
「えぇ……存じ上げません」
女将も蒼い顔のまま弓月に応じる。目を合わせないままの女将の様子を眺め、弓月は胸の内側で呟いた。
(答えが妙だな)
心当たりはないかと聞いているのに、答えは「知らない」という。この妙なずれは一体なんだ。まるで誰かをかばっているような――
と、尊杜がわずかに顔をあげ、弓月の耳元に低く囁いた。
「数が多すぎて、どこから仕掛けてくるか読めないわ。でも、いる。屋内にいる」
その言葉が終わるとほぼ同時に、旅館の東側からあの気配がにじみ出してきた。先ほどよりも濃い、周囲一帯を覆わんばかりの気配が足下に絡み付いてくる。
「尊杜、行くぞ」
「はいはーい」
尊杜が能天気に答えたその瞬間、女将が突如立ち上がり、弾かれたように走り出した。
「夕市さん! 夕市さんが、夕市さんが殺されてしまう……!」
そんな馬鹿な。弓月は一瞬驚愕のあまり呆然とした。
一般の、何の力もないただの人間が、妖気を察知することはほぼ不可能に近い。それにも関わらず、女将は迷うことなく“それ”が流れてくる方へ足を向けた。妖の持っている殺意にも、敏感に反応した。
そうなれば、答えは自ずと絞られてくる。弓月は尊杜に目配せし、すぐさま後を追いかける。殺意が湧いている以上、ぐずぐずしてはいられない。
肌を覆う不快な気配。小蛇たちの発するものと、もう一つ――女将からも感じられた妙な気配が、彼女とはまた別の場所から漂ってくるのを、弓月は確かに感じていた。
フロントを走りぬけ、旅館の東側へ駆けていく。渡り廊下の奥へと進むにつれて、気配はより鮮明になっていく。曖昧にまとまっていたそれは、やがて一つ一つはっきりと己の形を現し始めていた。足下を蛇が這いずり回り、弓月を挑発するかのように、ある部屋へと向かっていく。
女将は躊躇いもせずに一つの扉を開け放ち、絹を裂くような悲鳴をあげた。
「夕市さん!!」
尊杜に続けて部屋に飛び込み、舌打ちする。
目前に広がるのは、部屋中にひしめく蛇の群れ。黒い鱗を照り返しながら絶え間なくうごめき、群れては絡む蛇の大群に埋もれ、力なく天井へと差し伸べられた人間の腕。それが時折、思い出したかのようにかすかに動く。まだ生きている。
そして蛇の塊の傍らには、うごめくソレを冷ややかな眼差しで見下ろす女。黒い着物に身を包んでいるが、顔立ちは女将によく似ている。どこか影のある美貌は、ほのかな笑みに彩られていた。
「うそ、」
彼女を見た女将が目を見開き、よろめいて、喘ぐ。
「嘘……楓、なの……?」
絞るようにこぼれた名に、女は淡い微笑をより深める。
「久しぶり、姉さん」
その片袖からは、蛇が水のごとくぼたぼたと溢れ落ちていた。押し寄せるそれらの頭には、鈍く光る銀輪の模様。屋根裏にいた憑き神に違いない。
こいつだ。確信を得た刹那、弓月は吼えた。
「尊杜ォ!! 引きずりだせ!! 術は使うな、俺がやる!!」
「わぁってるわよ!! んもうっ、人使い荒いわね!」
怒鳴り返しながらも、尊杜が果敢に蛇の群れへと飛び掛かる。蛇の群れが鎌首をもたげ、一斉に尊杜へ牙を剥く。
ひらいたひらいた 何の花がひらいた
れんげの花がひらいた
弓月は唄う。牙と鱗の圧力を必死に掻き分け、尊杜がうずもれている人間を探す。絡みつかれながらもあがき、もがきながら腕をねじ込み、わずかな隙間へさらに腕を押し込んだ。
「いったたた!! いて、馬鹿!! もうっ、跡になっちゃうじゃない! 最悪! 早くしてよ弓月ぃ!!」
腕を噛まれ、締め上げられながら、尊杜がやせ衰えた男性を蛇の海からどうにかして引き上げた。女が笑みを消して舌打ちし、こちらへ目線を滑らせる。
ひらいたと思ったら いつの間にかつぼんだ
同時にちりと白焔が散る。手のうちには真紅の刀。唄い終わると同時に、弓月は白炎を荒れ狂う蛇の海へと叩きつけた。
浄化の炎がほとばしり、次々と蛇たちを飲み込んでいく。のたうち暴れまわる流れはやがて、灰すら残らず空気に溶ける。次々と引火して灰になる蛇たちを、女は冷めた目で眺めていた。
「楓……あなた、今までどこへ……どうして、こんなこと」
目の前で起きていたことにショックを受けていたのだろう。へたりこんだ女将が息も絶え絶えに、女へ問いを投げかける。楓と呼ばれた女は、再度笑みを唇に刷いた。
「姉さん。私ね、姉さんのこと大好きよ」
「何を……言っているの……」
「だからね。こうして、邪魔なモノを全部取ってるの。そうすれば、姉さんは幸せになる。姉さんを不幸にするモノは、一つ残らず消えてしまえばいいんだわ」
蛇が再び、女の両袖から湧き出した。襲い掛かる流れを一刀の元に断ち割り、焔を走らせ斬り伏せる。その切っ先を女へと向けたとき、白魚の手が弓月へと突き出された。斬り損ねた蛇たちが、袖から生まれるそれらと絡まりあう。それからまるで鉄砲水のように、一斉に弓月へ飛びかかった。
三つとや 皆様子供衆は楽遊び 楽遊び
穴一こまどり羽根をつく 羽根をつく
弓月は刃を持ち上げて、低く静かに唄を接ぐ。『月朱雀』が鋭い紅に煌めき、激しい焔を生み出した。勢いを増した焔は、女の両袖を飲み込むように燃え移る。女はそれでも顔色を変えず、帯から匕首を抜いて袖を断つ。燃え上がった袖布は、やけに重たい音を立てて床に転がった。
「ばいばい。また来るわね」
薄笑いを浮かべたまま、女は軽やかに身を翻した。華奢な背はあっという間に闇へと消える。
「楓! 待って、どういうこと、楓!」
悲痛な女将の叫び声だけが、雨の降りしきる夜の空気に吸い込まれていった。
*
あとに残るのは、静寂。眠る夫の世話をしながら、女将は沈んだ声音で語る。
「楓は、私の妹です。年も一つしか離れておらず、いつも私と一緒にいてくれました。結婚を一番喜んでくれたのも、楓でした」
しんと静まった部屋には、彼女の声と、彼女の夫の弱弱しい呼吸音、そして雨の雫が屋根を叩く音だけが、余韻を残しながら絶え間なく響いている。
「お願いします。楓は一体どうしてしまったのか、教えて下さいませんか」
あえて何も言わないまま、弓月は女将を眺めてみる。
女将の顔は蒼白で、今にも倒れてしまいそうだった。比呂也はそれが気になるのだろう、早く言えと無言で催促してくる。
――もう、どうにでもなれ。勝手についてきたほうが悪いんだ。弓月は心の中で一つ毒づき、口を開いた。
「……女将さん。あんたにはきつい話だと思うが、それでもいいな」
重い言葉に、女将は顔を上げて少女を凝視した。覚悟を秘めるまなざしを真正面から受け止めて、一度途切れた言葉をつなぐ。
「あんたの家筋は恐らく、憑き神を使役する者だ。乱暴に言っちまえば、妖怪の一種を手なずけて使役する力を持った家だ。厳密に言やぁ妖とは言わねぇんだが、妖狩は憑き神も妖として扱ってる。憑き神は自分の意思を持たねぇ分、使用者の言われるまま他人に害を及ぼすこともあるからな」
青ざめた頬をさらに青ざめさせて、女将は小刻みに体を震わせる。
「そ、れが……一体何の関係があるというのですか……」
「あんたの妹は、明確な殺意をもって憑き神を使っている。……人間に害が及んでいる以上、放っておくわけにはいかない」
女将の目が潤んだ。白い両の手を握り締めて、すがるように弓月を見つめている。
「それ……それは、それは、」
震える唇がひどく痛々しい。が、これは決められたこと。事実と、契約なのだ――どうあがいても、どれだけ否定しても、これだけは変えられない。
弓月はゆっくりと言葉を継ぎ足した。
「憑き物使いの呪いは深い。憑き物使いを殺さなければ、あんたの旦那にかけられた呪いは解けない。憑き神だけを駆除しても、大元が望めばいくらでも憑き神は湧く。ゆえにあんたの妹も……始末の対象になる」
ひっ、と女将が悲鳴をあげた。蛇を見たときとは比べ物にならないくらい、悲痛な色がにじんでいた。
「楓を……楓を、殺すのですか……」
「そうしなけりゃ、いずれあんたの旦那が死ぬぜ。元々はあんたの旦那を助けるっていうのが依頼内容だ」
衣服の裾を握り締め、女将は涙を流しながら弓月に乞う。
「お願いします、どうか、どうか楓の命だけは……お願いします、お金は倍額お支払いしますから!」
「そうなるとあんたの旦那が死ぬ」
金などここでは無用の長物。金で何とかなれば、こんなに苦労はしていない。ましてや他人にそれを押し付けることもない。選択肢は最初から用意されていないのだ。示されていないものを、選ぶことはできない。
「二人とも助けてはくださらないのですか!?」
女将の指は、力の入りすぎで細かく震えていた。
「倍額払われたところで、俺にはどうすることもできやしねぇ。これは既に決まっていること、妖狩に決められた決まりごとだ」
決まりごと。我ながら、反吐が出る。胸中で悪態をつきながら、できる限り感情を排除して突き放す。
「あんたの旦那を助けるなら、あんたの妹は死ななくちゃならない。あんたの妹を助けるなら、あんたの旦那は死ななくちゃならない」
硬く握り締められた指を振り払い、背を向ける。なぜかひどく苛立たしかった。それは他人に自分と似たようなことを押し付ける苛立ちだったのか、それとも選ぶ余地があるこの女性に対する妬ましさだったのか、弓月自身にもよく分からなかった。
「あんたは選べる。どちらを助けるのか、どちらを捨てるのか……決められなければそれでいい。そのときは俺が、こちらの契約に基づいて始末をする」
硬い空気に消える音は、自分でも予想以上に冷たい響きを帯びていた。
弓月は再び伸ばされてきた彼女の手を再度振り払い、出口に向かう。吐き気がした。すれ違いざま、近くに控えていた尊杜に言葉を投げた。
「ここで見てろ。結界が必要なら、張っておけ」
「ホンット、人使い荒いわね……最悪だわ」
文句とジト目を返事に変えて、尊杜は泣き崩れる女将の傍に座り込んだ。和歌を読み上げる彼を置き、弓月は部屋の外に出る。
雨のせいで大分気温が下がっていた。渡り廊下の外からは、湿った空気が水のように足へまとわりついている。風が出ているのだろう、吹き込んでくる水滴が頬を濡らす。
このまま本館に戻って、気配のする方角の部屋に待機すればいい。相手が外にいるならば、そこにできるだけ近い場所にいるべきだ。気配が動くと同時に飛び出せば、依頼人の元にたどり着く前に始末できる。
見せるわけにはいかない。たとえそれが幼馴染でも、人を斬るところなんて見せるべきではない。何とかして、かぎつける前に終わらせなければ。
フロント前に差し掛かる。立ち止まって周囲に目を走らせ、気配の流れる方向をつかもうとした、その直後。
「弓月! おい、弓月待てよ!」
腕を強くつかまれ引っ張られた。反動で身体が回転し、ちょうど対面する形になる。嫌になるほど見飽きた顔、腕がつかまれ、きつく握られていた。
「んだよ」
「お前、冗談だろ? 人のこと……こ、殺す、なんて、そんなことあるはずねぇよな」
震える声でそういう比呂也は、真っ蒼になっていた。あぁそうか、と弓月は他人事のように思い出す。
(こいつ、俺が『そういうの』をやらねぇ理由を知らないんだっけか……)
仕事の際についてきたこともあるが、全て異形の生き物たちが相手だった。人間も範疇に入るなど知らなかったのだろうし、予想すらしていなかったのだろう。
もっとも、当たり前と言えば当たり前だ。真帆の一件以来憑き物関連の仕事は請けていないし、何よりも弓月自身が話をしていない。無知は罪だとはよく言うが、一般人が何も知らないのは当然のことである。
そう。弓月と比呂也は、何もかもが違うのだ。
「お前には関係ねぇだろ。【ここ】は、俺の領分だ。一般人がいていい場所じゃねぇ。俺は確かに言ったよな。仕事だから邪魔するなって」
このまま何も見ないほうがいい。これ以上何も知らないほうがいい。自分と彼は別のもの。同じようには生きられない。同じ価値観を共有することなんて、できないのだ。
「妖狩の仕事は、人間を守護すること。人間の盾となり、人間を守ること。人間に仇を成す妖は斬り、仇を成す妖に力を貸した人間もまた、妖と見なして斬る」
沈黙が重い。遠くに響く雨音が、レースのように空間を覆う。
「あの女を放っておけば、犠牲はもっと増えるだろう――人間と妖どちらを助けるかなんて、決まってるだろ」
「妖にだまされてるのかもしれねぇだろ? 勝手に悪いって決め付けるなよ」
比呂也が呻き、弓月をにらみつける。
――絆ほど脆弱なものはない
唐突に振って湧いたその言葉は、今の弓月にとって奇妙なほど甘く聞こえた。こんな簡単に切れてしまうのなら、いっそのことここで全てを断ち切ったほうがいいのかもしれない。
弓月も真正面から比呂也を見据える。視線にたじろいだのだろう、腕をつかむ指がかすかに震えた。
「馬鹿か。憑き神は家に憑く。その家筋の中でも、ことさら強い怨念を持った奴が憑き神を操れる。自分の意思でなけりゃ、憑き神は動かねぇ。それにな、比呂也」
あえて緩慢な口調で、弓月は続きを口にした。
「妖にだまされていようが、そうじゃなかろうが……妖と手ぇ組んだかそうじゃねぇかで決まるんだぜ。妖に加担した時点で、妖狩の中では妖と同等とみなされる。そういう契約になっている。妖に同情してはいけない。妖に共感してはいけない。だから俺は共感しねぇ。同情もしねぇ。斬られる理由をつくったそっちが悪ぃ」
力の緩んだ手を、渾身の力で跳ね除けた。弾かれた反動で比呂也がよろめき、二歩ほど下がって立ち止まる。
二人が並ぶ、いつもの構図ではない。今は一人と、一人だ。一人と一人の間には、決して埋めることのできない溝がある。越えられない線がある。そんなことは、初めからわかっていたことなのに。
「俺は妖狩で、てめぇらは人間……考え方が違うんだよ。軽蔑するならすりゃあいいさ。あの女は斬る。絶対に助けることなんかしねぇ」
これでいい。弓月は心の内側で呟く。そしてなぜか、ひどく泣きたかった。
雨は当分、止みそうになかった。
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「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
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・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
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