アヤカシガリ

緑谷

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(上)

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 弓月は成す術もなく大男に引きずられていた。抗っても余計な体力を使うだけだと分かっているし、事実力で彼に勝つことは難しいだろう。そんなわけで抵抗を早々に諦め、そのままぼんやりと引っ張られるに任せていた。

 やがて家の近くにある公園にやってくる。夏休みの真っ最中のはずだが、人気はなくしんと静まり返っている。彼はそのまま弓月を引っ張り込むと、ベンチの上に放り出した。

「っし。これでゆっくり話せるぜ」
「……あっそ」

 怪我をした肩をかばいつつ、何とかして起き上がる。公園のそこかしこでは、蝉が刹那の命を誇って鳴いていた。

「どっこいしょ」

 オッサン臭い掛け声と共に、男が隣に腰掛ける。その動きに合わせて、首にかけたひしゃげたドッグタグがちゃりと小さく音を立てた。精悍な顔は相変わらずにやにやと笑い、弓月のほうを面白そうに眺めている。

「何か用か」
「おう。話すっぞ」

 簡潔かつ単純明快だった。分かりやすくていっそ清々しい。

 じゃなくて。

「……話すことなんか何もねぇ」
「そんな苛々すんな。俺があるんだよ。例えば――」

 言いながら、男は弓月を正面から見据えた。その眼に、思わず怯んで身を引く。心の内側まで見透かされてしまいそうな、それほどまっすぐな瞳だった。比呂也に似ている、と何となく思う。あいつも真正面から目を見るから、何とも居心地が悪くなるのだ。

「――妖狩の契約のこととかな」

 言葉に次いで、ばんばんと力任せに叩かれる。これで再起不能になったら、慰謝料はこいつに請求しよう。痛みを何とかして噛み殺し、呻く。

「おう、悪ぃ悪ぃ。強く叩きすぎたな」
「強く弱くとかいう問題じゃねぇだろうが……」

 自分の力を把握していないらしい。それとも主観がおめでたいのか。恐らくはその両方だ。そして話をしなければ、この男は自分を解放してくれないだろう。

 全く、嫌になる。弓月は一つ息を吐き、座りなおして呟いた。

「……妖狩は独自の契約に基づいて妖を狩っている」
「おう、そうだな」
「選択肢にないものは選ぶことができねぇ。無理やり選択肢を作ることはできねぇし、作ったら契約違反になる」
「その通り」
「じゃあ、契約に違反するとどうなるんだ」

 虎の名を持つ男は、んー、とうなって頭を掻いた。鈍い金に染められた髪が、指の動きに合わせて揺れる。

「正直に話せば、俺ぁいきなり妖狩の力ぁ目覚めたから、契約のことはあいつと会って初めて知ったんだ」

 稀に、そういうものがいることは知っていた。妖狩の血筋の者が、何らかのショックを受けて力に目覚めてしまうのだ。とはいえ、覚醒した者は一代限りしか力を行使できないし、言の葉を織り武器を出すこともできない。ましてや最近の人間ならば、身体はほとんど人間と変わらない。契約のことは言わずもがな、知っているほうが少ない。

 それがよくもまあ、したり顔で語れるものだ。怒り半分、呆れ半分で続きを促した。立ち上がろうにも押さえつけられているから、さっさと終わらせてしまうのが一番いい。

 男は一つうなずいて、神妙な顔つきで言葉を継ぐ。

「具体的にどうのってのは知らねぇし、契約違反っつっても極端なのしか分からねぇ」
「極端な……?」 

 契約は、基本的に人間を守ることが前提として作られている。これに違反すれば罰を受けるというが、その罰の内容は知らされていない。

 一番大きな契約違反は、人間の盾になる義務を放棄すること。

「それはつまり」

 心の内側でも読んだのか、虎牙フーヤはその続きを補った。

「妖に憑かれていない、ただの人間を殺すこと」

 それこそが、最大にして最悪の契約違反。守るべき対象を殺傷するということは、盾としての義務を最悪な形で放棄したという証拠である。

 人間を斬った。どこかで同じことを聞かなかったか。

「……っ、まさか」


『ただの人間だろうと妖だろうと、幼馴染だろうと身内だろうと他人だろうと、斬れば皆須らくただの肉塊になる』


「ま……そういうことだ」

 なぜか寂しそうに虎牙は言った。弓月から目を離し、遠くのほうを眺めている。

「契約に背くと、身体のどこかに病の印が浮き出るんだそうだ。そうして少しずつ魂を病んでいく。心の闇に囚われて、いずれは狂って死んじまうんだと」
「自分から破棄すると……あぁいうふうになるのか」

 それは分からねえ、と彼は答えた。

「俺はあくまであいつのことしか知らねぇからな。他のことに違反するとどうなるのか、正直よく分からねぇんだ。ただ……多分、心を病むことには変わりねぇんだと、俺は思ってる」

 だからあのとき、妙な焦りを覚えたのか。いずれ自分もそうなるのだと――こんな風に狂っていくのだと、確信にも似た感触があったのか。弓月はぼんやりと、そのときのことを思い返した。

 ではなおさら、契約に無いことをしてはいけないのだ。心を病み、人間も妖も斬り続けてさらに病む。悪循環もいいところである。

 流れるような動きで、彼はポケットから煙草を取り出した。ジッポで火をつけ、口に含む。

「ん。吸うか?」
「未成年に勧めんじゃねぇ」
「こりゃぁうっかりだ」

 短い笑いの後、ゆったりと紫煙が漂い始めた。煙草独特の香りが、周囲の空気に混じっていく。

「あんたとあいつは一体どんな関係なんだ?」
「あいつから何か聞いてるのか?」

 質問に質問で返された。弓月は一つ舌打ちし、打ち返された問いに答える。

「……負の感情でつながれてて、互いが互いを信じてないって言ってたぜ」
「ひでぇなぁ。あいつ俺のことそう思ってんのかよ」

 意外にも、彼は傷ついた顔をした。本気で心外そうである。片方の眉を器用に持ち上げ、拗ねたようにくるくると煙草をいじくっている。

「否定はしねぇけど……それにしたってひどいじゃねぇか」

 そして意外にも、あの男の言葉を否定しなかった。

「否定、しねぇのか」
「おう。本当のことだ。あいつは俺にとって命の恩人だ。でもあいつは、俺の女のことを殺した。負の感情で云々ってのは、間違いじゃねぇ」

 だがな、と虎牙はまた寂しそうに笑った。

「それだけだったら、俺はあいつと一緒にいねぇ。負の感情でしかつながってねえなんて、寂しいじゃねぇか」

 また一つ、煙を吐く。それから足を組み直して弓月を見た。

「あいつもな、不器用な奴なんだよ。んでもって生真面目で頑固だからよ、こうだと思い込んだらそうとしか動けねぇんだ。病は治らねぇと思ってる。自分は狂っていくだけなんだと思ってる。絆なんか脆くて、自分にはそんなもの必要ないと思い込んでる。だから俺が近くにいて、根気強く説得してるってわけさ」

 少しばかりの沈黙が、蝉の合唱に混じって降り注ぐ。木漏れ日を揺らす風は、幾分か熱が引きつつあった。

「復讐は……考えたことあるのか」
「ある」

 即答、だった。

「実際あいつを刺したこともある。ま、結果は見ての通りだ……その間にまあ、いろいろあってな。最終的にはあいつを止めるって決意したっていう感じだ。後で怒られたけどな。何でわざわざ放っておいてくれないんだ、馬鹿野郎ってな。だけどホラなんつーんだ、あれだあれ、馬鹿な子ほど可愛いっていうだろ」

「全然違う意味じゃねぇか」

 恐らくは虚勢を張っているから放っておけないと言いたいのだろうが、そこを指摘しても分かるとは到底思えなかった。日本語難しいな、と彼は頭を掻いて笑う。

「本家だ何だって言われて、苦労して生きてきたんだろ。だから面倒くせぇことは言わねぇが……お前ら、もう少し肩の力ぁ抜けねぇのか? 難しく考える必要ねぇぞ」

 少しだけカチンときた。言われるまでもない、できるものだったらとっくの昔にやっている。難しく考えなければならないことだってある。妖狩の本家と呼ばれ、死ぬことも殺さないことも許されない場所にいて、肩の力を抜いて生きることがどれだけ難しいか。

「そういう風に生きろってぇ言われてきたんだ、できるわけねぇだろ」
「やる前から決め付けるのは感心しねぇな」

 不意に笑みを深めて、虎牙は弓月の顔を覗き込む。意地が悪いと言うよりは、悪戯を思いついた子どものような表情だった。

「じゃあ、そういう風に生きるのをやめりゃいい」
「んな簡単にやめられりゃ、こんな悩むこともねぇだろうがよ。どうせ逃げられねぇんだから、やめることだってできやしねぇだろ」
「じゃあ、誰かに助けてもらえばいい。逃げらんねぇって分かってるなら、誰かと一緒に前に進めばいい」

 は、と間抜けな声が喉をついた。それは笑いだったのかもしれないし、呆れて出した声だったのかもしれない。

「冗談じゃねぇ。んな甘えたことができると思ってるのか」

 誰かに頼ることは許されない。それこそ、そんな選択肢は存在していない。妖狩は盾、その身でもって人を守る。それが誇りというわけではないけれど、誰かに甘えることはプライドが許さなかった。

 突然額に衝撃が走る。がん、と背もたれに後頭部をぶつけた。視界がぶれる。痛い。

「馬鹿だなぁお前。難しく考えるなってんだよ」

 馬鹿に馬鹿と呼ばれるは気に入らないが、頭がつかまれて身動きが取れない。痛みはないが、よほど綺麗にフィットしているのだろう。力を入れても動けない。

 と、髪がくしゃりとかき混ぜられ、そのまま手が離れていった。

「一つ聞くがな。お前がそうしちゃ駄目だ、こうしなきゃなんねぇって考えは、一体どこから来てるんだ? 厳密に決まってるのは、契約の部分だけだろ」

 不意を突かれ、言葉に詰まる。自分の考えが、一体どこから来ているのか。そんなこと、今まで一度も気にしたことはなかった。

 確かに妖狩の契約にあるのは、盾としての使命と義務だけで、個人の生き方には何ひとつ触れられていない。人間を殺すな、人間を守れ、妖を狩れ。基本的なものはこの三つ、解釈の方法は個人で異なってくる。

「意外とこいつぁ大雑把でな。考え方一つでどうにだってなる。守るべきところは守り、それ以外は案外どうだっていいんだぜ」

 では自分は、妖狩の契約に縛られていただけではなく、そこから派生した自分の解釈に縛られていたのか。がんじがらめにしていたのは、他ならぬ自分自身だったというのだろうか。

 黙りこんだ弓月に、虎牙がまた笑いかける。本当によく笑う男だった。この男、やっぱり幼馴染によく似ている。

「何も助けを求めるのは恥ずかしいことじゃねぇ。いつまでも頼りっぱなしなのは駄目だが、たまにはそういうのも悪くねぇだろ。苦しいってときは苦しいって言え。辛いときは辛いって言っていいんだ。そんなこと言っちゃいけねぇなんて、契約には書いてねえしな?」

「……随分乱暴な解釈だな」

 呆れが先行してうまい言葉が思いつかない。嘆息してそう呟くと、男はなぜか満足げにうなずいてみせる。

「不器用な本家の奴らにゃ、これぐらいで十分だ。周りがこうやって引っ張ってかねぇと、どうもぐるぐる悩むみてぇだしな。こういう頑固な奴にはよ、支えがなくちゃなんともなんねぇ。そうだろ、お前?」

 それから弓月にではなく、向こうの木陰に声を投げる。少しの間を置いて、気まずそうに現れた影は一つ。いつもの見慣れた顔が、そこにあった。

「お前、帰ったんじゃなかったのか」
「俺が捕まえたんだよ」

 虎牙が悪びれもせずに言い放つ。余計なことを、とにらみつけるが、予想通り流された。

「何かうろうろしてたからな。言いたいことでもあるんじゃねぇかと思ってよ」

 弓月はそのまま、視線を幼馴染に移動する。岡田比呂也。一人と一人。境界線を隔てた向こうとこちら。

「……なんだよ」

 比呂也はまっすぐに弓月を見つめ、突然頭を深く下げた。

「弓月、ごめん!」
「は?」

 本日この声を出すのは何度目だろう。弓月は頭の片隅で思う。

「お前、何言ってんだ?」
「俺、お前のこと何も考えてなかった。弓月がそういうこと考えて、すごく苦しかったんだって思ってなかった。理解しようともしないで、勝手に腹立てて……だから、ごめん」

 知らずに緊張していたらしい。弓月も長く息を吐き、肩にこもっていた力を抜く。一度突き放したのだから、何を言われるのかと思ったのかもしれない。

「……謝られても困るだけだ。別に気にしてねぇ」

 こういうのは苦手だ。誰かに謝られることも、誰かに謝ることも、基本的に好きではない。別に自分は悪いことをしているわけではないし、彼らだってそう解釈していただけだから、悪いことをされていたわけでもない。

 いたたまれず、視線を引き剥がしてそっぽを向く。

「嘘だ。お前、絶対気にしてるだろ」

 見破られたか。舌打ちして、弓月はさらに違う方角を眺める。

 ここで妥協はしたくない。一度境界線を示したのだから、せめて自分だけは徹底的にしておかなければ。

「気にしてねぇって言ってるだろ」

 答えが癇に障ったのだろう。突っかかってきた。

「嘘つくなよ! お前昔っからそうやって」

 苛立ちながら、弓月も負けじと言い返す。

「お前が俺の何を知ってるってぇんだよ」
「お前が教えねぇんだろ! 幼馴染なのになんで隠し事するんだよ!」
「はいはいはいはい」

 弓月がさらに言葉を重ねようとしたとき、虎牙が相変わらずにやにやと笑いながら割り込んできた。耳についているリングピアスが、鈍い銀に煌めいて目の奥を射る。派手な紅のバンダナも、木漏れ日を映して二色の影を落としていた。

「その通りその通り。隠し事なんざしててもしょうがねぇ。それにな、たった一回だけのお前の人生だ。契約に縛られたところ以外は、全部お前の意志でどうにでもなる。考え方一つ、って奴さ。そのために周りに人間がいるんだよ。それとさっきも言ったがな、もうちっと肩の力ぁ抜いて生きろや。そうすりゃぁ多少は楽になるぜ」

 その銀の光が、滑らかに動いて隠れた。額にぽんと軽い衝撃がくわえられる。気がついたときには、既に金の虎は後姿を見せていた。ひらひらと片手を振り、もう片手をポケットに突っ込んで、彼は緩やかな足取りで去っていく。

(……力抜いて、周りに支えてもらって……か)

 ちらりと後ろを振り向いた。幼馴染の少年が、弓月と少しだけ距離を置いて佇んでいる。ほんのわずかな距離だ。大股に歩いて、三歩もない。

(できんのか? 俺とこいつらじゃ、考え方も何もかも違うってのに……)

「弓月!」

 弓月の思考を遮って、比呂也の声が公園に響く。

「なんだよ」

 それに応じる弓月のそれが、蝉の合唱に折り重なった。砂地に浸み入り零れる音は、やがて風に吹かれ空の彼方へ消えていく。

「帰ろうぜ。仕事だろ?」

 さらさらと、木々の合間を風が縫っていく。

「あ、その前に何か買ってこうぜ。喉渇いただろ」

 距離は大股で三歩。一人と一人。

 比呂也がためらいもせず歩いてきて、弓月の腕を引っ張った。二歩、一歩、並んで、つかまれる。距離はもうない。境界線も越えて、溝すら飛び越えて、弓月の隣に立っている。それはもちろん、弓月も同じだ。

(……まぁ、いいか)

 弓月も今度は、大人しく引っ張られることにする。今はただ、胸を満たす安堵に身を任せていたかった。
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