アヤカシガリ

緑谷

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(下)

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 隙をついて比呂也を後ろに引っ張り込み、かばいながら相手を見る。

 気配が強くなっていく。紛れもない、これは怒気から来る殺意と怨みだ。微笑までたたえていた女の顔は、憤怒のそれに変化している。

「そう、あなたもあなたも私から姉さんを奪うつもりなのね……許さない、許さない、許さないわ。呪われろ呪われろ呪われろ呪われろ、呪われろォォ!!」

 しぼり出されひび割れたその音は呪詛。ソレが引き金となり、蛇が一斉に襲い掛かってきた。

 小さな蛇の群れが津波となってなだれ込んでくる。その向こう側で大蛇が牙をむき、弓月を目指して突き進んできた。

 あの大蛇は面倒かもしれない。刀を構え、足の裏に力を込める――その直後。

「うわぁっ!?」

 バランスを崩し、比呂也が成すすべもなく転倒した。そんな無防備な獲物を目の前にして、ケモノたちが見逃すはずがない。

「馬鹿野郎!」

 弓月がとっさに身を翻して助けようとするが、楓がそれを許さない。大蛇を数匹引きずり出し、袖の下にある壷から無数の蛇を呼んで、けたたましく笑っていた。

 蛇の群れが比呂也を飲み込む。悲鳴とくぐもった呻き声が、流れを縫って聞こえた。

「比呂也!」

 空に向けて突き出した手が、力を失っていく。あのままでは息ができず、窒息死するだろう。

(あぁクソ、面倒臭ぇことさせやがって……!)

 刀を大きく振りかぶり、弓月は早口で炎を呼んだ。


  三つとや 皆様子供衆は楽遊び 楽遊び
  穴一こまどり羽根をつく 羽根をつく


 刀が白焔をほとばしらせる。唄に導かれて生まれた炎は、流れに沿って駆け巡り、一瞬にして燃やし尽くした。

 何が起こったのか分からないらしく、比呂也は幾度も目を瞬く。

「……あれ?」
「あれ、じゃねぇよ。ホントお前邪魔しかしねぇな、足手まとい」

 腹いせに、思い切りすねを蹴りつける。さすがに自分のしでかしたことについて反省をしているのか、比呂也はばつが悪そうに目をそらした。

「……ごめん」
「ごめんで済むなら警察はいらねぇんだよ、大馬鹿野郎」

 これでは何のために突き放したのか分からない。呆れてため息をついてから、弓月は奥でヒステリーを起こす女を指し示す。

「俺が言った意味が分かったか? あの女、お前を殺そうとして蛇を呼び出した。そうじゃなけりゃ憑き神は動かねぇ。憑き神は怨念で動く生き物……使う奴の心ん中に、常に怨みと憎しみがなけりゃ」

 ぶつりと言葉が途切れた。比呂也の後ろ、すぐそこに、大蛇が這いよっていた。既に距離は一メートルもない。牙を剥き、目前にいる獲物を食い殺そうと口を開いている。

 このままでは比呂也が危ない。刀を構え直す時間もない。他の武器を呼ぶ余裕も無い。


 ならば。


 弓月はとっさに比呂也の肩をつかみ、強引に立ち位置を入れ替えた。比呂也が何かを言うか言わないか、判別する暇すらなかった。

 左肩と二の腕に、太い牙が突き刺さる。痛みと熱が同時に襲うが、歯を食いしばって耐え抜いた。呻きも喉で押し留めた。腕の痺れは何とかなるだろう。汗は雨が流してくれる。顔色だけは仕方がない。

「弓月! 弓月、お前、俺をかばって……」

 狼狽する比呂也を目で制す。ここで心を乱してはならない。下手をすれば、錯乱している間に憑き神をつけられる。その前に決着をつけねばならない。これだけ何度も呼び出しているのなら、そろそろ限界が近いはずだ。おそらくこの蛇を何とかすれば。

「……うるせぇな、ちったぁ黙れよ」

 噛み締めた歯の間からそう言うと、弓月は痛みを堪えながら刀を逆手に持ち、大蛇の喉を突き通した。大蛇は鮮血をほとばしらせながらのた打ち回り、やがて絶命して消え去った。

 楓の身体が二つに折れ、濡れた大地に倒れ伏す。案の定、力を使い果たしたのだ。人間にも妖にも、肉体の限度というものがある。むやみやたらに力を使えば、命すら削られて死に至る。

 雨に傷口が濡らされ、血は止まることなく外へ流れ出していく。手先が血液を失って、自分の体ではないくらいに硬く冷たくなっていく。弓月はそれをどこか他人事のように感じていた。

「弓月、止血したほうが」

 皮手袋に包まれた手を握り締め、比呂也が焦りをにじませる。先ほど喧嘩したことを忘れているのだろう。だが不思議と、幼馴染の体温は心地よかった。

「構うな。これくらい大したこたぁねぇ」
「だけど」

 今は甘えている場合ではない。弓月は刀の先で旅館を示し、比呂也の手を解いて指笛を吹いた。一陣の風と共に、尊杜みことがふわりと地面に降り立つ。

「こいつを元の場所に連れてけ」
「りょーかい」
「何、弓月、おい」
「比呂也」

 鋭く言葉を遮って、弓月は一つ頭を振る。突き放したというのに、本末転倒もはなはだしい。拒絶したというのにこの様だ。

 けれど、これだけはどうしても譲れなかった。たとえ絆がなかったとしても、恐らく自分は同じことを言うだろう。

「……てめぇは、幼馴染が人を殺す瞬間を見てぇってのか」

 呟くように尋ねると、比呂也は黙ってうなだれる。

 憑き神の呪縛を解くためには、妖狩が自らの手で断ち切らなければならない。だが、たとえ妖として認識されていたとしても、相手はただの人間なのだ。人間を斬るのに躊躇わない者はいない、でも斬れないとは言わせてもらえない。自分は妖狩で、妖を斬るのは当然だから。

 できないのならば逃げるしかなかった。逃げられないと分かっていても、逃げずにはいられなかった。怖かったのだ。幼馴染に嫌われるのが、絆が壊れてしまうのが怖かった。だから突き放したのに、こいつは来てしまった。これが最後の賭けだったのに、そんなことすら関係なしに来てしまった。

 本当に馬鹿だな、こいつも俺も――小さく一人ごちながら、弓月は再三比呂也を促した。

 比呂也が一度口を開く。が、何も思いつかなかったのだろう。うつむいて首を振り、尊杜の背に担がれる。来たときと同じようにして、尊杜の姿がかき消える。それを最後まで見届けて、弓月はゆっくりと楓の元へ歩いていった。

 彼女は仰向けに横たわり、顔を背けていた。倒れたときにほどけた髪は、水たまりに浸って音もなく揺らめいている。傍らに落ちた螺鈿細工の赤い櫛だけが、悲しげに雨のしずくを受け止めている。

「言い残すことは」

 低く問うと、楓は喘ぐ息の下でぽつりと呟いた。

「私はね、……姉さんが大好きだったの……優しくて、頭がよくて、大好きだった……」

 走馬灯が見えているのか。それとも幼い記憶を思い返しているのか。死にゆくものの告白を、弓月は丁寧に拾い上げて胸に収めていく。

「私は体が弱くて、たまに外に出ると、いじめられて……泣きながら帰ってくると、姉さんはすぐに飛んできてくれた。泣き止むまで、ずっとそばに、いてくれたの……」

 黒い衣に包まれた胸がせわしなく上下する。命を削って蛇を呼び出していたのだ、もう長くない。

「ずっと一緒よって、約束したの……でも、あの男は姉さんを私から奪ってしまったの……ずっと一緒じゃ、なくなっちゃったの……」

 白い頬を、雨が伝う。雨ではない雫が幾筋も、混じって溶けて落ちていく。

「……、……許せ、なかった……姉さんを奪ったあの男も、結婚を承諾した両親も、結婚を促した姉さんの友人も、みんなみんな、許せなかった……」

 沈黙が、降りしきる雨音に混じって降りしきる。喉を空気がこすれるひうひうという音が、彼女の口からわずかに聞こえる。

 弓月は黙ったまま続きを待った。きっと彼女も聞いてほしいから、最期の力を振り絞って語っているのだろう。そう思えた。

「……姉さんが、大好きだった……でも、それと、同じくらいに、許せなかったの……姉さんに、ただ傍に、いてほしかった、……ただそれだけだったの……よ……」

 そうして女はぱたりと目を閉じた。長い睫毛が震えている。呼吸も浅く、ゆっくりになってきていた。

「これで、お終い……人を呪った、反動、よね……私は、罰を、受けるのだわ」

 小さな呟きに、弓月は答える。

「罪はいつか償われる。……償い終わったときは、あっちで存分に幸せになれ」

 そんな確証はどこにもない。自分にそんな言葉をかける資格があるのかと問われれば、それは否だ。

 しかし、たとえ気休めであったとしても――それで彼女が少しでも救われるのなら。助ける方法が選べないなら、せめて言葉で楽にしてやりたい。それくらいなら、きっと許してもらえるだろう。

 弓月は静かに目を伏せる。ゆっくりと、刀を持ち上げ振りかざす。真紅の身が雨を受け、なお白い焔をまとってきらめいた。楓が微笑む。

「……そう、言って、もらえるなんて……ありが、とう……辛いこと……押し付けて、ごめんな、さい」

 最期の言葉も拾い上げ、弓月は刀を振り下ろした。





 電車を降り、帰る途中の道すがら。弓月は一人、陽炎を踏みしめて歩いていた。

 比呂也も尊杜ももういない。駅に着いたあと、それぞれが各々の用事があると言って別れてしまった。今は弓月ただ一人が、ぶらぶらと当てもなく歩き回っている。

 もう昨日のことになる。あの後――妹の櫛とかんざしを持ち帰り、渡したときに、弓月はあえてこう言った。

『俺を恨みたければ恨んでもいい。憎みたければ憎んでも構わない。あんたの妹を殺したっていう事実は変わらないからな』

 女将からは責められると思っていた。憎まれると思っていた。罵られると思っていた。だが、そんな弓月を待っていたのは、女将の感謝の言葉だった。

『妹を救ってくださって、ありがとうございました』

 無理やり言っているようには見えなかった。心の底から感謝をしているように、女将は頭を下げたのだ。

『妹が、夢の中で教えてくれました。あなたは悪くないとも言っていました。本当に……嬉しそうに笑って、もう大丈夫、と……あの子の心をを救ってくださったのに、どうして憎むことがございましょうか』

「憎んでくれりゃ、いっそ楽なのによ……」

 ぽつりと零れた独り言は、焼けたアスファルトに触れて消える。

 罵ってくれればよかった。そうすれば、人間と妖狩の考えが違うからと、思い込むことができたのに。境界線を引いて、溝を開いて、一人になることができたのに。

 重い足を引きずりながら坂を登る。ここを越えて公園を突っ切れば家に着く。比呂也はもう家にいるだろうか。どういう顔をして会えばいいのだろう。

 嘆息する弓月の肩を、いきなり誰かに叩かれた。否、殴られたと言ったほうがいいだろう。蛇の牙が突き立てられた、ちょうどその部分を的確にえぐっている。あまりの痛みに悶絶し、思わず電柱にすがり付いて額を打ちつけた。声を出さないのは、なけなしのプライドである。

「お、何だ? 新しい遊びか?」

 妙なイントネーションと馬鹿みたいに明るい語調の、よく響く男の声がする。

「……違ぇよ馬鹿たれ……」

 痛みをこらえて後ろを振り向けば、満面の笑みを浮かべた金髪の青年が歯を見せて笑っていた。

 さすがに日中は暑いのだろう。革のジャケットを腰に巻きつけ、白いタンクトップにジーンズだけのシンプルな恰好をしている。片側だけおろした前髪と、額に巻き付けた紅いバンダナだけは変わらない。

 李虎牙リ・フーヤ。あの夜、黒の始祖とともにいた、喧嘩屋を名乗る男である。

「ま、いーや。約束どおり、話しに来たぜ」

 人の話を聞かなさそうな男だとは思っていたが、本当に人の話を聞かない奴だ。どこかの誰かを連想させる。呆れてものも言えなかった。

 そんな弓月の様子を知ってか知らずか、男はにやりとガラの悪い笑みを浮かべる。

「ここで会えたのも縁だ。ちっとばかし話ぃ聞いてやるよ」
「は」
「悩むのは身体に悪ぃぜ。お兄さんが話してやっから。なー? こっちだこっち」

 頭も身体もついていかないまま、弓月の腕はがっちりつかまれ、強引に引きずられていく。

「おい、冗談じゃねぇぞ。こっちだって仕事明けで疲れてんだ」
「まーまーいーからいーから」

 まるで喉でも鳴らしそうなほど、金の虎はご機嫌だった。今はそんな気分じゃないと主張しても、まったくもって聞いちゃいない。

 やれやれだ。弓月は早々に抵抗を諦め、重いままの心をしっかり抱えなおして引きずられていた。


 雨の名残で空気が潤み、陽炎と共に景色をぼかす、夏休みの昼下がりのことである。
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