【R18】雨に濡れた猫は優しい温もりを手に入れるか

茅野ガク

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前編

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 泣いてる。
 空が、泣いてる。

 ザァザァと。夜の早い段階から降りだしたらしい雨は、日付が変わってもまだ続いている。

(うるさい……寒い……)

 濡れて肌に張り付く布の感触が気持ち悪い。
 シルバーアッシュに染めた前髪から伝う滴が鬱陶しい。
 アスファルトに寝ていたせいで全身が悲鳴を上げる。
 いくら7月と言っても、このまま道路ココに転がっていたらヤバいかもしれない。

(頭、いってぇ……。何杯呑んだんだっけ? クソ怠いし。……最悪。アイツら、こんなところに置いてきやがって)

 普段ならあの程度の酒量でこんな醜態を晒すことはしない。
 だが今夜は不意打ちで入った連絡に柄にもなく動揺し、悪酔いしてしまった。

(終電は、終わったか……。誰か……迎え……)

 幸い荷物は無事らしい。ポケットに突っ込んだスマホを出そうとして、止める。

 いない。誰も、自分をこんな時間に繁華街の外れまで迎えに来てくれるような存在など、いない。
 事実、一緒にクラブで騒いでいた連れはどこかへ行ってしまった。今頃は引っかけた女とラブホのベッドの中だろう。

 男も女も。人並み以上に整った容姿のおかげで一晩一緒に過ごす相手には不自由しなくても、本当に困った時に自分を助けてくれるような関係の人間は、自分のアドレス帳の中に一人もいない。

 このずぶ濡れの酒臭い格好でタクシーは捕まるだろうか。

(乗車拒否、されっかな……。いや、マジ、その前に立ち上がれるかどうかすらビミョー)

 グルグルと景色が歪む。胃が、ひっくり返りそうに痙攣する。

 ぶちまけてしまおうか。
 どうせ自分には守るべき外聞も何もないのだ。このごみごみした街の一角を汚すことなど、今更だろう。
 普段から自己評価の低い思考が、今夜はいつにも増してネガティブに走り出す。 

(ホント、俺の人生イイコトねぇな。……あぁでも、こんな、雨の日だったな)



『──ほら、これ使いなよ。君にはちょっと大きいかもしれないけど、俺2本持ってるから』



 ザァザァと降り続ける雨。差し出された紺色の傘。背の高い男のシルエット。
 座り込んだ自分を引き上げてくれた、温かな手。
 あれはいつのことだっただろう。

(たぶん、小1だから、14年前か……? あの年だけは、嫌いじゃない……)

 唯一とも言える柔らかな記憶に気分がマシになる気がする。呼吸が、ほんの少しだけ楽になる。

 でももう自分は21歳で。底辺高校を出た後はフラフラしているだけのフリーターで。
 こんな風に酔い潰れて路地裏に転がっている成人した男に差し出される救いの手など無いだろう。
 
 それでも。
 それでも誰か。

 雨以外の滴で滲むネオンの光に手を伸ばしたその時──


「え、もしかしてミオ君? 大丈夫っ?」


 聞き覚えのある声が自分を呼んだ。





+ + +





「……土屋つちやさん、タオルありがとうございます。着替えも借りちゃって、すみません」
「ちゃんと温まれた? ああ、顔色良くなったね。俺のスウェットも丈は大丈夫そうだ。けど最近の子は細いから。幅はちょっと弛いかな」
「最近の子って、言い方がオッサン臭いですよ土屋さん。でも俺、170後半あるから土屋さんの背が高くて助かりました。180以上有りますよね? 見つけてくれたのが土屋さんじゃなかったら、あんなに簡単に肩貸して貰えなかったかも」
「最後に測ったのは前回の健康診断の時だけど、確か184㎝くらいじゃなかったかな。メタボ対策にジムに通ってたのが役にたって光栄だ」

 そう言ってこの部屋とスウェットの持ち主は鷹揚に笑う。
 土屋隆治つちやりゅうじ。ミオが週5でバイトをしているバーの常連客だ。
 土屋とはこの一年ほど毎週顔をあわせていたが、仕事中に親しく話すことはほぼ無かった。ただの客と店員だった。だからまさか、その男が自分を拾ってくれるとは思わなかった。
 しかも下着こそドライヤーで乾かした自分のものだが、部屋着まで貸してくれるとは。

「いや、ホントちょっとマジでヤバかったんで土屋さんが通りかかってくれて本気で助かりました。しかも部屋にまで入れて貰って」
「ミオくんの家より俺の家の方が近かったからね」
「しかし広いっすね。マンションのワンフロア持ってる人とか、俺初めて見ました」
「俺くらいの歳ならそんなに珍しくないよ」

 俺くらいの歳。そう言われて土屋の顔をじっと見るがジムで鍛えているだけあってその肌は若々しく健康的だ。言うほどの年齢には見えない。

「……土屋さんって何歳なんですか?」
「知らなかったっけ? 今年36だよ」
「36! いやいや36歳でこんな広いマンションの部屋持ってる人ってあんまいないと思いますよ?! つか、もっと若く見えますね!」
「そうかな、ミオくんみたいに若い子に言われると自信ついちゃうな」
「あ、すみません。やっぱその言い方オッサン臭いです」
「何をっ」
「ちょ、くすぐった、やめっ、ハハハ!」

 大きな手に脇腹をくすぐられ身を捩りながらソファへと逃げる。

 不思議だ。
 いくら常連と言えどお互いプライベートをほぼ知らなかった相手とこんな風に笑いあっているなんて。
 いつも他の女性客から熱い視線を送られている土屋がこんな子供みたいな行動をするなんて。

(すごい意外だ。確かに品のいい飲み方をするいいお客さんだったけど、バイトの俺にまで身内にするみたいに接してくれるんだ……)

 土屋は常に一人で店に来ていたから、声をあげて笑う姿を初めて見た。バリトンボイスが優しく部屋の空気を震わせる。

「──と、こんな時間にはしゃぐのは良くないね。いくら防音がしっかりしている建物でもそろそろ自重しよう。ミオ君、酔いは醒めたみたいだけどもう少し水分取っておくかい?」
「……あ、じゃあお水貰ってもいいですか」

 確かにアルコールはだいぶ分解されたようだけど、気分はなんだかフワフワしたままだ。
 ずぶ濡れで道路に転がっていた数十分前が嘘みたいだ。

「ちょうどペットボトルの買い置きが有ったから。どうぞ」
「ありがとうございます。──っ」


 指先が。
 ほんの少し触れた指がミオの爪の形をなぞり、離れていく。
 それだけで、部屋の空気が濃厚なものに変わる。
 土屋は相変わらず穏やかに微笑んでいるが、その焦茶の瞳の奥にはミオへの熱が見えた。


「…………土屋さんって、男でも抱ける人ですか?」
「さあ……どうかな? ミオ君はどう思う?」
「ずっとノンケだと思ってたんですけど。でも今の土屋さんは、俺を抱く男達と同じ目をしてる」
「男『達』か。……きっと同性同士のことに関してはミオ君の方が経験豊富だね」
「試して、みます?」

 自分の容姿が相手に与える影響を自覚して。
 だけどいつになく騒ぐ胸の鼓動を冷静なふりで抑え込んで。
 精一杯男の欲を煽るように唇を舐めながら微笑んで見せる。


「……寝室まで案内しよう。おいで。こっちだよ」


 その広い背中に何故か懐かしさを感じながら、土屋についてリビングを後にした。
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