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第五章 聖なる夜をいとし子と
クレイボーン伯爵邸
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デビッドの運転する車がお屋敷の車寄せに入って止まると、重たそうな玄関の扉が開いて二人の人間が出てきた。
男性と女性というよりもおじいちゃんとおばあちゃんと言ったほうがいいかもしれない。二人とも雪で滑らないように扉を掴みながらゆっくりと歩いて、やっと所定の位置につくと曲がりかけている腰を精一杯伸ばして威厳を保った。
「ようこそいらっしゃいました。クレイボーン伯爵閣下、並びにミズ・セーラ・クルー様。ミズ・クルー、私、執事のウィルキンズと申します。ゲホッ…ゴホッゴホッ。」
ウィルキンズと自己紹介したおじいさんは、隣のおばあさんに背中をさすられてひどく咳き込みだした。
「大丈夫かい、ウィルキンズ? まだ風邪が治ってないんだろう。無理しないで休んでてよ。」
デビッドがおばあさんと協力して、嫌がるウィルキンズを玄関の中へ連れて行く。
「いや、でも。ゴホッ、奥様になる方にご挨拶を…ゴホッゴホッ。」
「もう、かえってマイナスイメージですよっ! いくら言っても聞かないんだから。」
一緒にいたおばあさんが呆れてウィルキンズを詰っている。
「あのー、体調の悪い中、挨拶してくださってありがとうございます。よろしくお願いします。どうか休んでください。」
セーラが見かねて声をかけると、ウィルキンズは涙目になりながらよろよろと奥の方に引っ込んで行った。
「ミズ・クルー、失礼いたしました。私、女中頭のマギー・ウィルキンズと申します。マギーとお呼びください。」
「ウィルキンズ…もしかして。」
「はい、さっきのが馬鹿亭主です。申し訳ありません。こんな大事な時に風邪をひいてしまいまして。それでなくてもデビッド様のお役に立てていないのに…辞めさせられても何も言えませんわ。」
二人ともこの先の職の不安を抱えているようだ。
セーラは側にいたデビッドを見上げた。デビッドは何も言わずに目をそらした。
「マギー、前にも言ったがそのことは後でまた話そう。悪いようにはしないから。」
「はい、わかりました。詳しいことはローラに説明するように申し付けております。閣下、ミズ・クルー、クレイボーン邸での滞在をどうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。」
マギーはそう言うと、ゆっくりと膝を曲げてお辞儀をして、ウィルキンズの後を追うように奥へ引き取って行った。
デビッドはローラの方を向いて、曖昧な微笑みを浮かべた。
「最初からこんな所を見せるつもりじゃなかったんだけど、この家にもいろいろ問題が山積みでね。出来たらセーラに助けて欲しいんだ。」
そんなことを言われても、こんな大きなお屋敷の問題に対して私に何ができるのだろう?
車の中で泣き出したデイビーを抱きかかえて降ろしながら、セーラは不安にとらわれていた。
家族用の居間と説明された重厚な部屋に座って、セーラがデイビーにお乳を飲ませていると、たくさんの荷物を抱えたデビッドが部屋に入って来た。
「本当にこれ全部が必要なのか?!」
「ええ、私の着替えはあの小さいバッグだけなの。これは全部デイビーのものよ。」
「生まれたての一人の赤ん坊に、ここまで荷物がいるとはね。デイビー専用の荷物持ちが必要だな。」
オシメなどの消耗品以外は、エミリーが用意してくれたトラムのおさがりだ。
デビッドと知り合って、こういう状況にならなかったら、これらの赤ちゃん用品を全部買わなければならなかったのだと気づいた時には、セーラは自分の手持ちのお金のことを思ってゾッとした。
生活が破綻するギリギリのところだったのだ。セーラを捨てた母親も同じ立場だったのだろう。こうなって初めて母親のことを理解できる気がする。
実際に世話をしてみるまで、赤ちゃんがこんなに着替えが必要な生き物だとは思ってもみなかった。お乳を戻したり、おしっこを飛ばしたりして、一日に何度着替えさせなければならないことか…。
デビッドも甥や姪が多いとは言っても、こういう裏方の事情は知らなかったようだ。
デイビーがお腹に満足して寝てくれたので、そうっとベビーカーに寝かせると、それを押して食事室に行った。
暗くて重々しい屋敷の廊下には、現代風のベビーカーが不似合いに感じる。
デビッドが気にしていないので大丈夫なのだろうが、どこかから難しい顔をしたおばあさんが飛び出してきて「この廊下をそんなものを押して歩くなんてっ!」と怒鳴られそうな気がした。
食事室に座り、デビッドが壁に垂れている紐を引っ張るのを、セリカはびっくりして見た。テレビの時代劇に出てきそうな仕草だ。
「ここは普段僕が住んでないから従業員が足りてなくてね。この紐も前世紀の遺物なんだがまだ健在なんだ。こんなとこもカビが生えそうな田舎だろ。もしここに住むのならどこから手を付けるべきか悩むよ。」
デビッドはそうぼやいていたが、この紐はちゃんと厨房に「呼び出し」の意を届けたようで、中年の女の人がカートに昼食を乗せてやって来た。
「ようこそいらっしゃいました。厨房責任者のローラと申します。お食事をお持ちしました。」
「ありがとうローラ。食事の後、セーラにこの家の案内を頼むよ。僕はデイビーの守りをしながらドッジスの話を聞くから。」
「はい、承りました。」
ローラは静かに礼をして部屋を出ていった。
いるのかいないのかわからないような人だ。あの元気なミセスコナーとは全然違うタイプの料理人さんね。
ビギンガム邸の女中頭の朗らかなベネット夫人とさっき玄関で会ったねっとりとした喋り方の芯の強そうなマギー、これもまた対照的な性格に思える。
貴族のお屋敷で働いているという共通点はあっても、家によって全く違う性質が求められるのかもしれない。
このクレイボーン邸の以前の主人はどんな人だったんだろう。
デビッドは次男だと言っていたから、たぶん親戚の方からこの家を譲られたのだろう。
彼のことをよく知っているわけではないが、この家はデビッドに似ていない。そんな気がするセーラだった。
「ミズ・セーラ、こちらがリネン室になっております。」
「…そうなんですか。」
料理人のローラが一通り家の中を案内してくれたが、これは相当なてこ入れが必要そうだ。
女中頭のマギーが歳のせいか、女主人がいないせいか、家中の統制がとれていない。
どの部屋にもどこかタガが外れたみたいな雑然とした印象を受ける。
このリネン室もセーラが下働きをしていたホテルだったら、管理人の怒声が響きそうな具合だ。
ああ、あの棚の乱雑に重ねられたシーツをたたみ直したい。下には箱があちこちに積み重なって置かれていて足の踏み場もない。人が作業しやすいように片付けたいがそれも出来ない。
微妙な客の立場のセーラとしては、どうコメントしていいかわからない家巡りツアーになっていた。
「ローラはこちらの屋敷に長く勤めているんですか?」
「はい、私はここから少し離れた村の出身なんですが、15歳の時からこちらに住み込みで働いています。」
「そう。それなら以前ここに住んでいらした伯爵ご夫妻をよく知っているのね。」
セーラが何気なく尋ねると、ローラは顔色を変えて目を伏せた。
「いえ、私は厨房におりましたから詳しいことは何も知りません。そういうご質問は女中頭のマギーにお尋ねください。」
「…そう。」
いったいどんな秘密があるのだろう?
セーラは孤児院でシスターが読み聞かせてくれた「秘密のある庭」の物語を思い出していた。
愛していた奥様が亡くなられた気難しい年寄りが住んでいたのかしら…?
しかし午後のお茶の時にセーラがそんな話をすると、デビッドに大笑いされた。
「セーラ、ここはうちのおじい様の大叔母さんの家だったんだ。プライドが高くて意地が悪くてね、人に文句をつけるのが大好きだった。親戚の中の鼻つま…うるさ方だよ。ドナシェラ大叔母さんは殺しても死なないと思ってたけど、あっけなく死んでしまったな。みんな大叔母さんにはうんざりしてたのに、いなくなると寂しいような気がするんだから不思議なものさ。」
「まぁ…でもそれでローラやマギーの性質があんな風になったのもわかったわ。」
ずっと文句を言い続ける女主人。
よほど粘り強い性質の人でないと続かないだろう。そしてローラのように余計なことを言わずに、静かにやり過ごすようになるのも無理はない。
「この家、女手が必要だってわかってくれた?」
デビッドが茶目っ気のある笑顔でセーラを試すように見てくる。
「もうっ…そういうつもりでローラに案内させたのね。フウッ、あなたも大叔母さんに似ている所があるんじゃない? 策士で意地が悪いわ。」
「ハハッ、でも一緒に暮らすのなら、いいとこも悪いとこもみんな見て判断してもらわないとね。セーラには貴族の華やかな所だけじゃなくて、裏側の苦労も知って欲しかった。今までここに連れてきて、一緒に苦労して欲しいと思える女性に出会わなかったんだ。」
デビッドの肩に重しのように乗っている、この古い屋敷やここで働く人たち。
結婚するということはそれを一緒に背負うということだ。
そのパートナーとして私は選ばれた?
セーラは貴族の格式ばかり考えていた自分に、活を入れられた感じがした。
男性と女性というよりもおじいちゃんとおばあちゃんと言ったほうがいいかもしれない。二人とも雪で滑らないように扉を掴みながらゆっくりと歩いて、やっと所定の位置につくと曲がりかけている腰を精一杯伸ばして威厳を保った。
「ようこそいらっしゃいました。クレイボーン伯爵閣下、並びにミズ・セーラ・クルー様。ミズ・クルー、私、執事のウィルキンズと申します。ゲホッ…ゴホッゴホッ。」
ウィルキンズと自己紹介したおじいさんは、隣のおばあさんに背中をさすられてひどく咳き込みだした。
「大丈夫かい、ウィルキンズ? まだ風邪が治ってないんだろう。無理しないで休んでてよ。」
デビッドがおばあさんと協力して、嫌がるウィルキンズを玄関の中へ連れて行く。
「いや、でも。ゴホッ、奥様になる方にご挨拶を…ゴホッゴホッ。」
「もう、かえってマイナスイメージですよっ! いくら言っても聞かないんだから。」
一緒にいたおばあさんが呆れてウィルキンズを詰っている。
「あのー、体調の悪い中、挨拶してくださってありがとうございます。よろしくお願いします。どうか休んでください。」
セーラが見かねて声をかけると、ウィルキンズは涙目になりながらよろよろと奥の方に引っ込んで行った。
「ミズ・クルー、失礼いたしました。私、女中頭のマギー・ウィルキンズと申します。マギーとお呼びください。」
「ウィルキンズ…もしかして。」
「はい、さっきのが馬鹿亭主です。申し訳ありません。こんな大事な時に風邪をひいてしまいまして。それでなくてもデビッド様のお役に立てていないのに…辞めさせられても何も言えませんわ。」
二人ともこの先の職の不安を抱えているようだ。
セーラは側にいたデビッドを見上げた。デビッドは何も言わずに目をそらした。
「マギー、前にも言ったがそのことは後でまた話そう。悪いようにはしないから。」
「はい、わかりました。詳しいことはローラに説明するように申し付けております。閣下、ミズ・クルー、クレイボーン邸での滞在をどうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。」
マギーはそう言うと、ゆっくりと膝を曲げてお辞儀をして、ウィルキンズの後を追うように奥へ引き取って行った。
デビッドはローラの方を向いて、曖昧な微笑みを浮かべた。
「最初からこんな所を見せるつもりじゃなかったんだけど、この家にもいろいろ問題が山積みでね。出来たらセーラに助けて欲しいんだ。」
そんなことを言われても、こんな大きなお屋敷の問題に対して私に何ができるのだろう?
車の中で泣き出したデイビーを抱きかかえて降ろしながら、セーラは不安にとらわれていた。
家族用の居間と説明された重厚な部屋に座って、セーラがデイビーにお乳を飲ませていると、たくさんの荷物を抱えたデビッドが部屋に入って来た。
「本当にこれ全部が必要なのか?!」
「ええ、私の着替えはあの小さいバッグだけなの。これは全部デイビーのものよ。」
「生まれたての一人の赤ん坊に、ここまで荷物がいるとはね。デイビー専用の荷物持ちが必要だな。」
オシメなどの消耗品以外は、エミリーが用意してくれたトラムのおさがりだ。
デビッドと知り合って、こういう状況にならなかったら、これらの赤ちゃん用品を全部買わなければならなかったのだと気づいた時には、セーラは自分の手持ちのお金のことを思ってゾッとした。
生活が破綻するギリギリのところだったのだ。セーラを捨てた母親も同じ立場だったのだろう。こうなって初めて母親のことを理解できる気がする。
実際に世話をしてみるまで、赤ちゃんがこんなに着替えが必要な生き物だとは思ってもみなかった。お乳を戻したり、おしっこを飛ばしたりして、一日に何度着替えさせなければならないことか…。
デビッドも甥や姪が多いとは言っても、こういう裏方の事情は知らなかったようだ。
デイビーがお腹に満足して寝てくれたので、そうっとベビーカーに寝かせると、それを押して食事室に行った。
暗くて重々しい屋敷の廊下には、現代風のベビーカーが不似合いに感じる。
デビッドが気にしていないので大丈夫なのだろうが、どこかから難しい顔をしたおばあさんが飛び出してきて「この廊下をそんなものを押して歩くなんてっ!」と怒鳴られそうな気がした。
食事室に座り、デビッドが壁に垂れている紐を引っ張るのを、セリカはびっくりして見た。テレビの時代劇に出てきそうな仕草だ。
「ここは普段僕が住んでないから従業員が足りてなくてね。この紐も前世紀の遺物なんだがまだ健在なんだ。こんなとこもカビが生えそうな田舎だろ。もしここに住むのならどこから手を付けるべきか悩むよ。」
デビッドはそうぼやいていたが、この紐はちゃんと厨房に「呼び出し」の意を届けたようで、中年の女の人がカートに昼食を乗せてやって来た。
「ようこそいらっしゃいました。厨房責任者のローラと申します。お食事をお持ちしました。」
「ありがとうローラ。食事の後、セーラにこの家の案内を頼むよ。僕はデイビーの守りをしながらドッジスの話を聞くから。」
「はい、承りました。」
ローラは静かに礼をして部屋を出ていった。
いるのかいないのかわからないような人だ。あの元気なミセスコナーとは全然違うタイプの料理人さんね。
ビギンガム邸の女中頭の朗らかなベネット夫人とさっき玄関で会ったねっとりとした喋り方の芯の強そうなマギー、これもまた対照的な性格に思える。
貴族のお屋敷で働いているという共通点はあっても、家によって全く違う性質が求められるのかもしれない。
このクレイボーン邸の以前の主人はどんな人だったんだろう。
デビッドは次男だと言っていたから、たぶん親戚の方からこの家を譲られたのだろう。
彼のことをよく知っているわけではないが、この家はデビッドに似ていない。そんな気がするセーラだった。
「ミズ・セーラ、こちらがリネン室になっております。」
「…そうなんですか。」
料理人のローラが一通り家の中を案内してくれたが、これは相当なてこ入れが必要そうだ。
女中頭のマギーが歳のせいか、女主人がいないせいか、家中の統制がとれていない。
どの部屋にもどこかタガが外れたみたいな雑然とした印象を受ける。
このリネン室もセーラが下働きをしていたホテルだったら、管理人の怒声が響きそうな具合だ。
ああ、あの棚の乱雑に重ねられたシーツをたたみ直したい。下には箱があちこちに積み重なって置かれていて足の踏み場もない。人が作業しやすいように片付けたいがそれも出来ない。
微妙な客の立場のセーラとしては、どうコメントしていいかわからない家巡りツアーになっていた。
「ローラはこちらの屋敷に長く勤めているんですか?」
「はい、私はここから少し離れた村の出身なんですが、15歳の時からこちらに住み込みで働いています。」
「そう。それなら以前ここに住んでいらした伯爵ご夫妻をよく知っているのね。」
セーラが何気なく尋ねると、ローラは顔色を変えて目を伏せた。
「いえ、私は厨房におりましたから詳しいことは何も知りません。そういうご質問は女中頭のマギーにお尋ねください。」
「…そう。」
いったいどんな秘密があるのだろう?
セーラは孤児院でシスターが読み聞かせてくれた「秘密のある庭」の物語を思い出していた。
愛していた奥様が亡くなられた気難しい年寄りが住んでいたのかしら…?
しかし午後のお茶の時にセーラがそんな話をすると、デビッドに大笑いされた。
「セーラ、ここはうちのおじい様の大叔母さんの家だったんだ。プライドが高くて意地が悪くてね、人に文句をつけるのが大好きだった。親戚の中の鼻つま…うるさ方だよ。ドナシェラ大叔母さんは殺しても死なないと思ってたけど、あっけなく死んでしまったな。みんな大叔母さんにはうんざりしてたのに、いなくなると寂しいような気がするんだから不思議なものさ。」
「まぁ…でもそれでローラやマギーの性質があんな風になったのもわかったわ。」
ずっと文句を言い続ける女主人。
よほど粘り強い性質の人でないと続かないだろう。そしてローラのように余計なことを言わずに、静かにやり過ごすようになるのも無理はない。
「この家、女手が必要だってわかってくれた?」
デビッドが茶目っ気のある笑顔でセーラを試すように見てくる。
「もうっ…そういうつもりでローラに案内させたのね。フウッ、あなたも大叔母さんに似ている所があるんじゃない? 策士で意地が悪いわ。」
「ハハッ、でも一緒に暮らすのなら、いいとこも悪いとこもみんな見て判断してもらわないとね。セーラには貴族の華やかな所だけじゃなくて、裏側の苦労も知って欲しかった。今までここに連れてきて、一緒に苦労して欲しいと思える女性に出会わなかったんだ。」
デビッドの肩に重しのように乗っている、この古い屋敷やここで働く人たち。
結婚するということはそれを一緒に背負うということだ。
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