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第一章 《転移》

一章1話 『途絶』

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「すいませーん!誰かい、ませんかー…」


 何度目の呼び掛けか分からなくなってきた。
 あれから2時間ほど歩いている。

「喉、乾いた…」

 川すら見つからず人などもちろん見当たらない。喉の渇きに襲われながら途方に暮れていた。

「こんな事なら自販機で飲み物を買えるだけの金は、常に持っとくべきだったなぁ」

 自らの用意の悪さを恨みながら独り事を言う。

 こんな事になるなら奮発して最新のゲーム機と有名タイトルのソフトを買うなどしなかったのに。

 後悔先に立たずってやつか

 と自分の浪費を悔やむ。

 そんな時────

 がさり

 と草が揺れる音が後ろからした。
 驚き振り返る、が音の主は見当たらない。
 木々が乱立し視界が悪い。

「誰かいるのか?」

 問いかけても返事はない。しかし違和感がある。

 何かに見られているような、まとわりつく様な視線を感じながら辺りを確認するが一向に姿は見えない。

 だが僅かに森には獣の様な独特な匂いが立ち込めているのに気が付いた。

 まさか猪でもいるのか?と嫌な想像をしてしまう。
 野生の動物に襲われて重傷を負ってしまうなどという事件を思い出し冷や汗をかく。

(こんな森の奥で襲われたらどうしようもねぇぞ)

 再び後ろからパキッと木の枝を踏み割る音が鳴る。
 先程とは違いかなり近くから聞こえた。

(真後ろに、何かがいる)

 唾を飲み込み、ゆっくりと振り返る。

 森の木々が視界に入り左から右に流れてゆく。
 だが突然2つの血のような赤が視界を覆った。

(血?違うこれは…)

 低い唸り声が眼前の赤がゆらゆらと揺らぐのと同時に森に響き渡る。
 その正体に気付き思わず後ろに飛び退く。

「目────ッ?!」

 そう言いかけた時。
 左腕に鈍い痛みが走り宙に浮く感覚に襲われる。

 瞬間、衝撃が背中に伝わり激痛が走る。

 そのあまりの勢いに肺が押し潰されたのか、俺は強引に咳き込まされた。

 どうやら木にぶつかったようだ。

 というのを薄く理解しながら、その反動で前のめりに地面に落ちた。

「ガハッ…」

 肺の中の空気が衝撃で押し出され呼吸が出来ない。その場で蹲り酸素を求め必死に呼吸をしようとする

(息が……)

 徐々に口の中に鉄の味が広がる。頭も打ったのか、ぐらぐらと視界が安定しない。

 再び低い唸り声が聞こえる。
 頭が痛くなるほどの全身の痛みの中、なんとか息を整えながら顔を上げそれを見た。

 巨大な狼のような生物。

 狼男が実際にいたらこのような見た目なのだろうと感じた。

 二本の足で立ち、黒い毛に覆われ両手には鋭い爪が備わり左手には血が滴っている。

 周囲の木と比べても全長三メートルはあるように見える。

 そして薄暗い森の中でも存在を主張する赤く輝くルビーのような目。

 俺が見た2つの血の様な赤はその狼の両目玉だった。

(俺は…どうなったんだ…あいつに吹き飛ばされたのか?)

 ふらつきながらなんとか状況を整理しようとするがすぐに痛みに上書きされて考えが纏まらない。

(いや、今はそんな事はいい…早く逃げなきゃ…)

 未だに身体を起こせない、視線を狼の化物から外すこと無くなんとかこの場から逃げようとする。

 しかし眼前にそびえる人狼は同じように、俺から視線を外すこと無く、ゆっくりと左右に移動しながら慎重に迫ってくる。

 こちらの様子を伺っている。

 マズい、なんとか距離を取らなくては。

 立ち上がる為に、左手を支えに起き上がろうとする。

 しかし────

 視界は地面に吸い込まれるように落下する。

 ゴツン、と音がした。

 どうやら俺はうつ伏せに崩れ落ち、顎を強く打ったようだ。
 衝撃が頭を駆ける。

「うぐっ…」

 何が起きたのか分からなかった。
 うつ伏せに倒れたまま顔を動かし左手に目をやる。

「嘘…だろ…」

 肘の関節は逆に曲がっていて、白い骨が顔を覗かせていた。

 肘より下は感覚を感じない、なんとか皮膚だけでくっ付いているだけみたいだ。

 しかも最悪な事に今の衝撃でさらに傷口が広がったようだった。

 ふと、視線が胴体に向けられた。

 ─────腹部は切り裂かれて血が溢れていた。

 視界に入れてしまったからなのか。

 あるいは急激に分泌された脳内麻薬の効果が切れたからなのかは分からないが、尋常ではない痛みが襲う。

 まるで焼け付く鉄を押し付けられているように熱い。

 思わず叫び声を上げそうになる。

 しかし狼を刺激してはダメだ、と理性でブレーキがかけて声を殺す。

 自分の意志とは関係なく呼吸が激しくなるのが分かる。

 寒い、流れる血が身体から熱を奪っていく。

 頭から水が垂れてくる感覚、右目に何かが流れ込む。

 ─────血だ。

 右目の景色は赤く染まり、左目との色彩の差で視界がボヤける。

 恐らく木にぶつかった時に皮膚が切れたのだろう。

「ちくしょう…なん、なんだよマジで…」

 遅れてきた痛みに全身を焼かれ、涙を流しながら呟く。

 なんとか無事な右手を使い地面を這うように狼から少しでも離れようとする。

 ザリッと草が擦れる音がすぐ側で聞こえた。

 俺は、恐る恐る地面から目を上げる。

 黒い針金の様な毛に覆われた足が見える。

 気が付けば人狼は目の前に佇んでいた。

 息を呑む。
 恐怖か多量の出血からか、身体は震え、急な吐き気に襲われた。

 奴は目の前の獲物の身体を足から頭まで一通り見回し

 《グルルルル》

 と、まるで地の底から響いてくるような唸り声をあげる。

 動けない俺に奴の血が滴っている左手が、ゆっくりと伸びてくる。

「ひっ」

 思わず悲鳴を上げた。

 狼は俺の首を掴み、自分の目線まで持ち上げると顔を覗きこんで来た。

 荒い鼻息を感じる。

 目の前の狼の口からは涎が大量に垂れ、隙間から覗くぬらぬらと濡れる牙は、幾つもの命を奪ってきたのか様に血で赤みがかっている。

 人狼は獲物を品定めするかの様に舌舐めずりしている。
 その端まで裂けた口は笑っているように見えた。

 どこかで見たような笑いだった。

「なにを…」

 怒りが湧いてきた。

 訳もわからず知らない場所に飛ばされて、こんな化物に遊ばれるように殺されて終わりなんて。

「笑ってんだ…」

「?」

 口から零れる怒りの言葉。

 その言葉の持つ意味が分からない化物は、獲物の不明瞭な鳴き声に首を傾げる。

 俺は、口の中に溢れる血を自分を見つめる忌々しい目玉に吐きかけた。

 《ギャァァア!!》

 つんざくような悲声を上げながら、人狼は俺を投げ飛ばし、目を抑え、よろめきながら後退する。

「ぐっ!」

 投げられた勢いで最初にぶつかった木に再びぶつかる。

 ズルズルと背中が木に擦れ、まるで座り込むように地に落ちる。

 背中の骨にヒビでも入ったのか?

 と思う程に激痛が襲い俺は顔を歪めた。

 一方、人狼はそんな俺の苦しむ姿を見ることなく、目を抑えながら未だに後退している。

 獲物からの反撃を恐れているのか、周囲の空中を手で切るように振り回している。

 俺は、そんな醜態を晒す捕食者に声をかけた。

「美味しく食べる…はずだったのになぁ……ッ!とんだ災難だな……?」

 気を失いそうな痛みを我慢しながら、言葉を紡ぐ。
 口から溢れる血で言葉が所々詰まる。

 頭から流れる血も相まって、俺は真っ赤に染まりつつある顔でヘラヘラと笑みを浮かべながらそう言った。

 狼はガシガシと黒い毛で覆われた腕で目を擦り、目に入り込んだ異物を取り除いた。

 狼は恐らく、俺の発言は理解できなかっただろう。

 しかし、その笑みのもつ悪意と侮辱の意志は十分に理解したようで─────

 《ガァルルァァァァァァ!!!》

 獣は咆哮した。

 食料だと思っていた相手からの小さな反撃。捕食者としての尊厳を傷付けられたのだろうか。

 怒り狂う狼は近くの木を二、三度殴る。

 すると木は衝撃で内側から外側に弾ける様に容易くへし折れた。

「ま、まじかよ…」

 (よく一撃で死ななかったな)

 その狼の怪力を見て、俺は自分の耐久性の評価をC-からCくらいに改めつつ、なんとか身を捩りその場から逃げようとするが全く身体は動かない。

 狼は木を薙ぎ倒した後向き直り、俺を正面に見据えると両手を地面に着ける。

 四肢を地面に置く姿は、まさに俺が知る狼であった。

 血が入った事により、先程よりさらに赤みがかった目玉には獲物─────

 俺しか映っていない。

 それを見て次は本当に殺される事を悟る。

 激痛に何度も意識を飛ばされそうになる。
 しかし狼の余裕な顔を一瞬でも崩せた事に不思議な満足感を得ながら呟く。

「結局新作ゲーム、箱も空けてないな」

 こんな時に考えるのはくだらない事だった。

 しかし、どんな心残りを口にしたとしても時はすでに遅い。
 痛みは酷くなる一方でショック死しないのが不思議な程だった。
 腹部の血は止まらず、立ち上がろうと腹筋に力をいれて身体を支えようとしても激痛が走り微塵も動けない。

 そんな自分の有様に少し笑いながら最悪だ、嘲るように笑う。

「次に生まれ変われるなら…」

 まるで遺言の様に言いかける。

 《ガァァァァアア!》

 皆までいう前に再び咆哮が響く、狼の足は一瞬膨れ上がると地面を踏み砕く。先程とは違い形振り構わずとてつもない勢いで人狼は飛びかかってきた。

 俺は、惨たらしく訪れるであろう死を覚悟した。


 しかし────


我が炎は光りて爆ぜるファイアクラッカー

 謎の声が響いたと同時に爆発が飛びかかる狼を覆った。

 《ガァッ?!ギャアァァァ、ァ……》

 狼は炎に包まれながら悲鳴をあげ、そして動かなくなった。
 俺は呆然とそれを見ていたが、肉が焼ける匂いが鼻をつき我に返る。

「助かった…のか?」

 身体に新たな痛みは無い。

 否、重傷で尋常ではない痛みはするのだが、俺は頭を丸かじりされるくらいの覚悟をしていたのだ。

 突然の異常事態に困惑する。

 そして────

「君、大丈夫か?!」

 その声が自分に向けて声を掛けられたものだと気付くのに一秒ほど要した。

 気が付けば目の前には黒いローブを身に纏い、右手には木の枝を持った……声から察するに女性が立っていた。

 フードを深く被っているために顔を見ることはできなかったが、美しい赤い髪の毛が覗いていた。

 その女性の後ろにはあの黒い化物が煙を出しながら倒れいた。あの炎は、彼女がやったのだろうか。

「っ!ひどい出血だ、すぐに処置しなければ……」

「え?あ…」

 突然の事にどう返事をしようか迷っている内に女性は俺の服をカバンから取り出したナイフで

「失礼する」

 と前置きしてから切り裂くと、傷口を確認する。

「内臓には届いていない。幸運だな」

「いや……」

 幸運の比率がおかしくないか、などと言おうとするが全く声が出ない。

 自らの傷を見る。刃物に切り裂かれたような腹部の傷。血がとめどなく溢れているのを見ると、まさに血の気が引いてしまう。

「治療はここでは無理だな……。私の魔法じゃ間に合わない。ハイルマンに依頼されてた物だが……、仕方ない、これを飲め」

 そういうと彼女はポーチから赤い水が入ったビンを取り出した。

 蓋を開けると、グイグイと俺に飲ませようとする。
 卵が腐った様な、硫黄に近い匂いが鼻を突いた。

 そのあまりにも酷い匂いに声が出る。

「魔…?って臭っさ!何ですかコレ!」

「黙って飲め、死にたいのか」

 フードの中から金色に光る目が覗く、その迫力に思わず息を呑む。

「ハイ!飲みます、飲ませて頂きます!」

 その女性の勢いに圧された俺は、無事な右手でビンを取ると一気に飲み干した。

「ヴェェ…」

 まずい、尋常ではなく。

 後味も最悪で、尚且つ匂いが鼻に残り続けている。

 あまりの不快感に悶えていると─────

 腹部が熱い感覚に襲われた瞬間。
 ジュワジュワと音を立て、傷口から溢れる血が止まった。

「ま、まじかよ…」

万能薬エリクサーの効果は確かなようだな」

 万能薬エリクサー、どこかで聞いたような単語だ。痛み止めか何かだと思っていたのだが、

(流石に即効性がありすぎだろ。さっき魔法とか言ってたけどまさか……な)

「まだ動くなよ。傷は塞がった様に見えるが血を止めただけだからな。それにまだ左手も処置しなきゃいけない」

 そういいながら彼女は片膝をつき、切り裂かれた腹部と折れ曲がった左手を交互に見やる。

 その傷の具合に焦りながら、応急処置を施そうと自らのローブを千切ると俺の腹部に巻き付け始めた。

 しばらくその様子を見ながら思案する。

 先程の巨大な人狼、そしてそれを倒した炎、魔法のような薬。

 そして、扉。

(これは……)

 ある結論に至り、女性に質問する。

「なあ、この場所って日本のどこだ?」

 すると女性は金色の目をこちらに向け、きょとんとした顔で答える。

「ニホン?なんだそれは?そんな物聞いたことは無いが…ここはシバの大森林で…」

 何かが動いた。
 女性が話をしている途中である事に気が付く。言葉が耳に入ってこなくなる。



 彼女の後ろで倒れていた狼が、立ち上がっていた。

 顔の半分は焼けただれ、赤い目の片方は完全に潰れている。口からは火傷のせいか血が流れていた。

 身体のあちこちを酷い火傷で覆われた狼は、足音も無くゆっくりと近づいてくる。

 彼女は迫る狼に気が付いている様子は無く、俺に話を続けている。

「おい、聞いてるのか?」

 彼女は上の空の俺に声を掛ける。

 (早く伝えないと─────)

 ふらつきながらも、確実に狼がゆっくりと近づいてくる。

「う…しろ…」

 そう声を絞り出すが背後に迫った狼の手はすでに大きく振り上げられていて─────、

 俺の脳裏に容易く破壊された木と、女性の姿が重なる。



「ッ!!」



 まだ動く右手で女性の身体を右に押しのける。女性は小さく悲鳴を上げ地面に倒れこんだ。

「わっ…何を……ッ!!」

 彼女は何事かと困惑していたようだったが迫る狼に気が付いたようで、表情が凍る。

「ぐっ…うぅ!」

 腹部の傷が開いたのか、尋常ではない痛みを感じる。

 だがそんな事よりも─────

 俺は横目で彼女を見る。

 (良かった……)

 彼女は狙われていないようだ。
 眼前に迫る狼は、依然として自分を狙っている。

 彼女が何かを言おうとしているのが見える。
 だがその声が発される前に、俺の頭に人狼の手が容赦なく振り下ろされ─────、



 それを俺は薄れゆく意識の中で、なんとなく、その凶刃を右手で軽く押しのけた。



 《ガァッ?!》

 驚愕した鳴き声が響く。

 頭上に迫った手は俺の右手に触れた瞬間、凄まじい勢いで跳ね返った。
 狼はその手に伝わる衝撃に引っ張られ、勢いそのままに横に点在する木に何度も激突しながら吹き飛んでいった。

薄れつつある意識の中、自分の右手を見つめる。


「は、はは……なんだ、今の……俺が?まった……く……チー…トかよ……」

 もし神様が能力を授けてくれたんだとしたら、文句を言いたい所だ。

 出来ることなら、爆炎とか、雷とか、もっと派手なのにして欲しかった。

 自らが起こしたと思われる事象を嘲る様に笑いながら、俺はその場にゆっくりと倒れ、


 ────そこで俺の意識はプツリと途絶えた。
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