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第五章
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梅雨から初夏にかけて、実津瀬の一人舞はほぼ完成した。
毎日、仕事も忙しく、遅い時間に稽古場に行って、朱鷺世と一度二人舞を舞うとすぐに五条に帰って、一人舞を練習した。
その間、芹は実津瀬の努力を見守っていた。実津瀬の舞を一人で覚えて舞うほど舞の好きな芹だが、良いことも悪いことも何一つ言うことはなかった。父の真似をしたがる息子と一緒に実津瀬の舞の真似事をして笑っていた。
そして、あっという間に前日になった。
母の礼が考えてくれた献立が並んだ膳を前に、実津瀬はゆっくりと夕餉を食べた。
隣で芹がいろいろと世話を焼いてくれるが、酒の用意はなかった。
明日の勝負の結果で、飲める酒の味が変わる。どんな味になるか、もちろん、美酒に酔いたいと思っているから、実津瀬も今日はあえて飲まないと決めていた。
明日の宴は、賑やかなことが好きな桂が、臣下の家族も呼んでいいと決めたため一族が観に行くことになっている。幼い淳奈も一緒に連れて行くことに決めた。
実津瀬は自分が舞うのは最後と考えると、息子の記憶に残るかわからないが、淳奈に見せたいと思ったのだった。
実津瀬の緊張が日に日に高まっていく中、女人たちはどんな衣装を着ていくかで盛り上がっていた。五条から実津瀬の舞を観に行く者は、実言、礼はもちろんのこと、芹と淳奈、妹弟の榧、宗清、珊である。女人が四人もいると、箱の底に納めた美しい衣装を出してきて、どの組み合わせがいいか、色や模様を比べ、帯や頭に腕に着ける装身具を飽きることなく意見し合い、吟味する。すぐに答えが出ないので、それぞれの侍女を連れて来ては相談する。それを何日もやっていた。
「みんな、明日は何を着て行くか決まったのかい?」
「ええ、何とか決まりました。榧の姿を見てあげて欲しいわ。でも、あなたは早く別宮に行ってしまうわね……どうか、舞を舞う前に私たちのところに来てください。早目に別宮に行きますから」
母の礼と芹は、榧をどのように着飾らせるかを考えたようだ。
榧は今年、十六になった。結婚する相手はもう決まっている。
父実言が後ろ盾になっている王族の実由羅王子だ。実由羅王子は榧の一つ年下の十五。普段は都と自分の領地を行き来していて、榧と頻繁に会うことはない。今年は、新年の行事に参列して、その終わりに久しぶりに五条の邸に立ち寄った時に会ってから二回目の逢瀬になる。
将来の夫に会う時に、美しい姿で会わせたいという周りの女たちの思いの結晶が明日の榧の装いになったのだろう。
ここに、妹の蓮がいたら、どんなことになっていただろうか。愛する妹を着飾らせるために、心血を注いでいたことだろう。蓮がいないことが寂しく感じる。手紙を送ったが、束蕗原から都に来る者がいないのだろう。返事の手紙は来ていない。しかし、手紙を受け取った蓮が応援してくれていると信じていた。
「そう。それは見たいものだな。準備の間に必ず観覧の部屋に寄るよ」
芹は家族のことをいろいろと話して聞かせ、実津瀬は宗清や珊たちの話に笑顔を見せた。
食事とちょっとした雑談で穏やかに過ごした実津瀬は、芹に言われて寝所に早目に入った。
芹はいつものように淳奈の寝顔を見てから寝所に来るつもりなのだ。先に横になっていて欲しいと芹は思っているだろうが、実津瀬は胡坐をかいて待っていた。
かたりと床が鳴って、几帳の向こうに芹の姿が見えた。
「実津瀬、今日も忙しかったのだから早く休んでくださいな」
「……大丈夫だよ。それよりも……ここに座ってよ」
実津瀬は芹に自分の前に座るように促した。
改まった雰囲気に芹はくすぐったさを感じて、もじもじとして実津瀬の前にすとんっと膝を折って座った。
実津瀬は膝の上に置いている芹の左手を取って、残った親指を自分の指の腹でさすった。
芹は自分の右手を実津瀬の手に重ねて言った。
「楽しみね……明日」
「……うん。芹……芹には言いたいことがたくさんあるが、それは、全てが終わってから言うことにする」
実津瀬は芹の顔を見た。
「私も少し緊張している。負けても失うものはないとわかっているが、欲があるのだ。都一の舞を舞う男になりたいと。そう思うと、胸の中は平静ではいられないんだ」
「あなたは都一の舞手よ」
芹は実津瀬の腕の中で、自分の左手を出して、実津瀬の頬を撫ぜた。
「うん……そう言って欲しかった。舞の女神にそう言って欲しいと思っていたんだ」
実津瀬の言葉に芹は胸に顔を埋めた。
芹は実津瀬が自分を舞の女神と形容することをおこがましいと思っている。舞について何も知らない者が音楽に合わせて好き勝手に体を動かしているだけなのだから。
しかし、実津瀬は芹のことをその言葉通りの女人だと思っていた。
今回の一人舞を、全体を指揮している麻奈見には何度か見せた。その時に麻奈見は見る側として気になる点を教えてくれて実津瀬はそれを修正した。麻奈見からは自分一人でよくここまで作り、まとめたものだと言われたが、本当は一人ではない。この舞は芹がいてこそできたものだ。淳奈と二人で遊びで踊っていた姿。実津瀬の舞を覚えてこっそりと舞っていた姿。それが、実津瀬にひらめきを与え、舞の中へ加わっていった。
明日、どのような評価を得られるかわからないが、実津瀬は今の時点で考え抜いて作り上げたという気持ちがある。あとはどれだけの精度で舞えるかが勝負だ。
「寝ましょう……。明日のために」
芹の言葉に実津瀬は芹を台いて横になった。目を瞑ると、深い眠りへと入って行った。
毎日、仕事も忙しく、遅い時間に稽古場に行って、朱鷺世と一度二人舞を舞うとすぐに五条に帰って、一人舞を練習した。
その間、芹は実津瀬の努力を見守っていた。実津瀬の舞を一人で覚えて舞うほど舞の好きな芹だが、良いことも悪いことも何一つ言うことはなかった。父の真似をしたがる息子と一緒に実津瀬の舞の真似事をして笑っていた。
そして、あっという間に前日になった。
母の礼が考えてくれた献立が並んだ膳を前に、実津瀬はゆっくりと夕餉を食べた。
隣で芹がいろいろと世話を焼いてくれるが、酒の用意はなかった。
明日の勝負の結果で、飲める酒の味が変わる。どんな味になるか、もちろん、美酒に酔いたいと思っているから、実津瀬も今日はあえて飲まないと決めていた。
明日の宴は、賑やかなことが好きな桂が、臣下の家族も呼んでいいと決めたため一族が観に行くことになっている。幼い淳奈も一緒に連れて行くことに決めた。
実津瀬は自分が舞うのは最後と考えると、息子の記憶に残るかわからないが、淳奈に見せたいと思ったのだった。
実津瀬の緊張が日に日に高まっていく中、女人たちはどんな衣装を着ていくかで盛り上がっていた。五条から実津瀬の舞を観に行く者は、実言、礼はもちろんのこと、芹と淳奈、妹弟の榧、宗清、珊である。女人が四人もいると、箱の底に納めた美しい衣装を出してきて、どの組み合わせがいいか、色や模様を比べ、帯や頭に腕に着ける装身具を飽きることなく意見し合い、吟味する。すぐに答えが出ないので、それぞれの侍女を連れて来ては相談する。それを何日もやっていた。
「みんな、明日は何を着て行くか決まったのかい?」
「ええ、何とか決まりました。榧の姿を見てあげて欲しいわ。でも、あなたは早く別宮に行ってしまうわね……どうか、舞を舞う前に私たちのところに来てください。早目に別宮に行きますから」
母の礼と芹は、榧をどのように着飾らせるかを考えたようだ。
榧は今年、十六になった。結婚する相手はもう決まっている。
父実言が後ろ盾になっている王族の実由羅王子だ。実由羅王子は榧の一つ年下の十五。普段は都と自分の領地を行き来していて、榧と頻繁に会うことはない。今年は、新年の行事に参列して、その終わりに久しぶりに五条の邸に立ち寄った時に会ってから二回目の逢瀬になる。
将来の夫に会う時に、美しい姿で会わせたいという周りの女たちの思いの結晶が明日の榧の装いになったのだろう。
ここに、妹の蓮がいたら、どんなことになっていただろうか。愛する妹を着飾らせるために、心血を注いでいたことだろう。蓮がいないことが寂しく感じる。手紙を送ったが、束蕗原から都に来る者がいないのだろう。返事の手紙は来ていない。しかし、手紙を受け取った蓮が応援してくれていると信じていた。
「そう。それは見たいものだな。準備の間に必ず観覧の部屋に寄るよ」
芹は家族のことをいろいろと話して聞かせ、実津瀬は宗清や珊たちの話に笑顔を見せた。
食事とちょっとした雑談で穏やかに過ごした実津瀬は、芹に言われて寝所に早目に入った。
芹はいつものように淳奈の寝顔を見てから寝所に来るつもりなのだ。先に横になっていて欲しいと芹は思っているだろうが、実津瀬は胡坐をかいて待っていた。
かたりと床が鳴って、几帳の向こうに芹の姿が見えた。
「実津瀬、今日も忙しかったのだから早く休んでくださいな」
「……大丈夫だよ。それよりも……ここに座ってよ」
実津瀬は芹に自分の前に座るように促した。
改まった雰囲気に芹はくすぐったさを感じて、もじもじとして実津瀬の前にすとんっと膝を折って座った。
実津瀬は膝の上に置いている芹の左手を取って、残った親指を自分の指の腹でさすった。
芹は自分の右手を実津瀬の手に重ねて言った。
「楽しみね……明日」
「……うん。芹……芹には言いたいことがたくさんあるが、それは、全てが終わってから言うことにする」
実津瀬は芹の顔を見た。
「私も少し緊張している。負けても失うものはないとわかっているが、欲があるのだ。都一の舞を舞う男になりたいと。そう思うと、胸の中は平静ではいられないんだ」
「あなたは都一の舞手よ」
芹は実津瀬の腕の中で、自分の左手を出して、実津瀬の頬を撫ぜた。
「うん……そう言って欲しかった。舞の女神にそう言って欲しいと思っていたんだ」
実津瀬の言葉に芹は胸に顔を埋めた。
芹は実津瀬が自分を舞の女神と形容することをおこがましいと思っている。舞について何も知らない者が音楽に合わせて好き勝手に体を動かしているだけなのだから。
しかし、実津瀬は芹のことをその言葉通りの女人だと思っていた。
今回の一人舞を、全体を指揮している麻奈見には何度か見せた。その時に麻奈見は見る側として気になる点を教えてくれて実津瀬はそれを修正した。麻奈見からは自分一人でよくここまで作り、まとめたものだと言われたが、本当は一人ではない。この舞は芹がいてこそできたものだ。淳奈と二人で遊びで踊っていた姿。実津瀬の舞を覚えてこっそりと舞っていた姿。それが、実津瀬にひらめきを与え、舞の中へ加わっていった。
明日、どのような評価を得られるかわからないが、実津瀬は今の時点で考え抜いて作り上げたという気持ちがある。あとはどれだけの精度で舞えるかが勝負だ。
「寝ましょう……。明日のために」
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