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第六章
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裏道の警護をしていた男たちの一人は立っていられない程に動揺している牧の肩を抱いて、もう一人は先に立って浅い川となった坂道を登っていった。
「見習いの蓮という女人が誤って水の中に落ちて流された!」
という話は、見習い仲間たちの中に瞬く間に広がった。
「蓮さん!無事でいて」
一報を聞いた井は悲鳴を上げて、鮎が井を胸に抱いて落ち着かせるのに苦労した。
そのことはすぐに去にも伝えられた。
去は束蕗原の住人たちを大切にしているが、まずは自分の傍で自分の活動を手伝ってくれる助手や見習いを一番に思っていた。だから、蓮が溢れかえった水の流れの中に落ちて行方知らずになったとの報告を聞いた時、驚き悲しむのは当たり前だが、行方知らずになったのが蓮だと聞いた時の動揺は一つ違った。
「蓮が……蓮がいなくなったというのかい?」
震える声でもう一度事実を確かめようとした。
「はい。見習い女人の点呼を取りましたが、いないのは蓮だけでした」
それを聞くと、去は気を失った。
「去様!」
後ろに倒れる去を周りの者たちは駆け寄り寸でのところで体を支えた。奥の部屋の寝所に横たわらせて皆で見守った。
しばらくすると去は目覚めた。
「大丈夫ですか?」
側近たちが去の顔を覗き込んだ。
「……私は……気を失ったのか……すまないね……私は大丈夫だ。……雨が止んだら蓮を探しておくれ。あの子は、特別な子なんだ。必ず見つけておくれ。……すまない、許しておくれ」
去は大粒の涙をこぼして懇願した。
皆、去の頼みに頷くしかなかった。
しかし、雨が降り続く中、まずは本道を登って来る村人の救助に集中せざるを得なかった。ずぶ濡れになった住人達に温かい食事、着替え、横たわる場所を提供することに全力を注いだ。
強い雨は降り続けている。
朝が来てだいぶ明るくなった時に、避難した住人達は表道を下りて行った。自分の家がどうなったのか。避難してきた住人の中に知り合いの顔が見えないと、知り合いはどうなったのかが気になったのだ。
しかし、そこで見た光景は想像もしていないものだった。
裏道と同じように、表道も道は途中で水によって寸断されていた。そして、目の前は見たこともない大きな川になっていた。全てが水に浸かっていた。ところどころ樹の先が水の上に出ているだけだ。
「これは……どういうことだ……」
「ここに逃げていない者はどこに逃げたのだろうか」
皆、不安を口にした。
本来ならこの先に道が続き、その左右には青々とした草木が茂っていた。もっと下れば、村人たちが建てた小さな家が点在していた。
今はその屋根すら見えない。
雨が止まなければ、この水は引かない。
村人たちは、雨よ止め、と心の中で念じた。
去や村人たちの願いが通じたのか、未刻(午後二時頃)には雨脚が弱まってきた。
水が引けば水の中に入って行って、自宅があったところまで駆けつけたいと思っているのだが、あちこちから沁み出した雨水がこの豪雨で作り出された川に流れ込んでいる。皆、呆然と水が引くのを待つしかなかった、
泥水の中でその流れに抗おうとしたが、蓮の力ではどうすることもできなかった。
息をするために、顔を水の上に上げようとするが、口が息を吸ったと思ったら、力の強い男の人に後ろから頭を押さえつけられているような感じがして、顔は水の中に浸かった。次は、足を引っ張られている気がする。この黒い川がどれくらい深いのかわからないが、引きずり込まれる感覚に蓮は両手をかいてもがく。着ているものが水を含んでうまく動かすことができてない。
蓮はそれでも、この水の中から脱出することを考えた。
ここから脱出しなければ、それは死を意味すると思った。
私はまだ死ぬわけにはいかないわ。去様の元で学び始めたばかりだもの。これからもっとたくさんのことを学んで、去様やお母さまのお手伝いをしたいのに。
脱出するためにはこのまま流されていてはだめだ。樹があれば、うまい具合に枝や幹につかまり、そこで水が引きくまで待っていれば、どうにか助かるかもしれない。
去の館の裏道から水に落ちて流されているが、もう今はどこを流されているのかわからない。去の館がある丘の裏は束蕗原を流れる阿(あ)万(ま)川(かわ)が流れている。それが、蓮たちが夕方になると水浴びする小さな川と表道を下りて行った先で合流している。
川が溢れたと言っていたけど、それは阿万川もだろうし、水浴びする小さな川も同じだろう。溢れた水はどこに向かっているのだろう。行く当てのない水の集まりが蓮の体をどこへともなく連れていく。
泥水は冷たくて、ともすると体は沈みそうになる。
蓮は必死に見えてくる樹に手を伸ばした。
束蕗原は道や川の傍に大きな樹がそびえ立っている。その樹たちだろうと思われる大木が次々に現れる。
阿万川に沿って通っている道の上を流されているのではないかと思った。
あの道には大きな樹が左右に立っていたはずだわ。そうならば、まだ遠くには行っていないはず。
蓮は手を伸ばして幹を触った。その肌に掴まろうと指に力を込めた。爪がかかったが、それは何の支えにもならず、蓮の手は幹から離れて流されて行った。
そして、水は流れが速くなりその中に体が落ちて行く。そのたびに蓮は手と足を動かし、顔を水から出そうとした。
しかし、体は冷えて手足を動かす力ももう無くなっている。
どうなるのかしら……
私は、このまま水の中に呑まれてしまうのかしら……。
これまでの私は……結婚は破綻し、お父さまやお母さまにわがままを言って、束蕗原に来た。私なりにこの先のことを考えていたけども、私の生もここで終わりかしら。
そうなっても仕方ないわね……
こんな時に水の中に落ちてしまうなんて、私って本当についていないわ。
私の生もこれで終わりなら、それは誇らしく迎えよう。
お父さまとお母さま、二人の子供に成れてよかった。文字を書くこと、医術を学ぶなんてことはできなかったはずよ。実津瀬と兄妹でよかった。双子であるのが本当によかった。お母さまのお腹の中にいた時から私たちは一緒だったもの。何を思っているか気持ちはすぐにわかるわ。実津瀬がいなくなったら、私がどんな気持ちになるか考えたくもないけど、同じように実津瀬は私がいなくなったら悲しむはずね。
お互い結婚したといっても、実津瀬は親になったといっても、まだまだ私たちは二人でひとりのようなところがあったもの。遠く離れるには早いわよね。私も寂しいわ。
そして、私の妹、弟たち。榧、宗清、そして珊。みんな、かわいくて仕方ない。都と束蕗原とで離れてしまったけど、また会うはずだったのに……。こんなことになってしまって。三人ともにお世話をいっぱいしてあげたかったわ。
榧はそろそろ結婚するはずだから、王子とのことたくさん話をしたかった。榧も私を頼りにしてくれていたから、聞きたいこともあっただろうし。婚礼の儀の時は一度都に帰って榧を祝福したかった。
宗清も珊もまだまだ幼いけど、それがかわいい。成長して年頃になった二人の恋物語を近くで見守るのも悪くない。苦くて甘い恋の話を聞くのは好きだから。
蓮は再び誰かに後ろから頭を押さえられているような感覚を覚えた。上げていたいのに、顔は下を向き、水の中に入って行く。
苦しい!息ができない!
蓮は抗って、一生懸命に鼻と口を水の上に出して息をした。
いや!
誇らしく死ぬなんてことできないわ。
お父さま、お母さま、実津瀬……妹、弟たちと別れることなんてできない。
それに……会いたい人はまだいる。
伊緒理!
厩前での突然の再会。
初恋の人にまた会えるなんて。
叶うなら、きちんと会って、これまでの伊緒理の努力と苦労、そして成し遂げた喜びの話をききたい。
まだまだやりたいことがたくさんある!
蓮は目の前に見えて来た樹に近づくため、手をかき、足を動かした。流れに乗って、樹に近づいたが逆に勢いがついて樹の真正面に体が向かっていく。ぶつかってしまうが、流されていくよりはよい、と思った。手を広げて幹を抱きに行った。
怖い!
痛い!
同時に感じた感情。ざらつく幹の表面を頬で感じた。次に、大量の水が背中に当たり、胸が押しつぶされそうに感じだ。
そして、背中をコツコツと叩かれた。何事かと蓮は首をひねって自分の背後を窺った。大量の枝や板を自分の背中が堰き止めていた。川でよく見る光景だ。石や生えている水草に上流から流れて来た草が引っかかって、溜まっている状態。それと同じようなことが、蓮の背中で起こっていた。
折れた枝や壊れた家の一部だった板などが自分の背中で堰き止めていたら、そのうち自分の身が持たなくなる。
せっかく樹に掴まったというのに、背中に溜まる木や草などの重みで体はもたない。
幹の反対側に移動するしかないかしら。そうしたら腕の力で幹に掴まっていないといけないから、それはそれで大変だけど、このまま体を押しつぶされるのも辛いわ。
蓮は幹に回す腕に力を込めた。少しずつ、少しずつ体を幹に這わせて、流れの裏側へと移動する。開いた太腿で幹を挟んで左の足先を前に出す。すると、足場を感じた。何?と思ったが、それはすぐにこの樹の枝があるのだと思い至った。
そこに足を置いて、幹を抱いて慎重に体を移動させ、水の流れの裏側に行くことができた。それで、背中で堰き止めていた枝や板は流れていった。蓮は幹にぴったりと頬をつけて、流れていく様子を見つめた。
私はあんな風に流れて行ってはだめ。
緊張をほぐすために大きく息を吐いて、君を抱く腕に力を込めた。移動するまで蓮がいた場所に折れた枝や草など水の上に浮いているものが引っかかっていく。幹に回している手は冷たいのと、流れてくる物の衝撃で気を抜けば離れてしまいそうになった。だから手を水から出して、高い位置に回した。運よく、足元の枝は太くて足を置くことができた。
雨も弱くなったように思うわ。このまま、ここで堪えられたら水も引いてくるはず。
蓮は少しの光明を見た気がしたが、それは一瞬のことだった。ドンッという音と共に掴まっている樹が揺れた。驚いて顔を上げると、折れた木の枝が流れて来た。折れた樹の幹側が垂直に掴まっている幹にぶつかったのだ。もし、今もあちら側で樹に掴まっていたら、あの太い枝が背中にぶつかっていたかもしれない。蓮は安堵と恐怖を感じた。
身に着けていた傘も蓑もどこかに行ってしまった。
横目に折れた大きな幹や葉をいっぱいつけた枝が蓮の傍を流れて行くのを見て、泥水のしぶきをかぶった。
そのうち、この樹もどうにかなってしまうかもしれない。堪えてちょうだい、お願いよ。
蓮は祈った。
そして、手が急に空を掴む感覚がして、反射的に手を幹の上に置いた。
何が起こったのかすぐにはわからなかったが、自分は眠っていたようだ。
意識が遠くなって、回していた手が樹から離れてしまったのだ。
危ない……。しっかりしないと。
蓮は自分を戒めたが、もう体は冷え切ってしまって、樹に掴まっている体力もないに等しい。
生きることを諦めてはだめよ、私。ここで堪えていれば、誰かが見つけてくれるわ。誰かが助けに来てくれる。
だから、絶対にここで待っているのよ。
きっと牧さんは私が水の中に落ちたことを仲間に話してくれているはずよ。去様にも伝わっているわ。そうなれば、雨が止み、水が引けばみんなが探しに来てくれるわ。
蓮は幹にべったりと抱きついた。気がつけば、心地よい夢の中に入って行った。
みんな、私を見つけて……。お願いよ。
でも……もし叶うなら……伊緒理に見つけて欲しい。
厩前の邂逅の時と同じように、都から来た伊緒理が捜索に加わって、偶然私を見つけるの。
そうなれば、こんな苦しみもすぐに忘れられそうよ。
「見習いの蓮という女人が誤って水の中に落ちて流された!」
という話は、見習い仲間たちの中に瞬く間に広がった。
「蓮さん!無事でいて」
一報を聞いた井は悲鳴を上げて、鮎が井を胸に抱いて落ち着かせるのに苦労した。
そのことはすぐに去にも伝えられた。
去は束蕗原の住人たちを大切にしているが、まずは自分の傍で自分の活動を手伝ってくれる助手や見習いを一番に思っていた。だから、蓮が溢れかえった水の流れの中に落ちて行方知らずになったとの報告を聞いた時、驚き悲しむのは当たり前だが、行方知らずになったのが蓮だと聞いた時の動揺は一つ違った。
「蓮が……蓮がいなくなったというのかい?」
震える声でもう一度事実を確かめようとした。
「はい。見習い女人の点呼を取りましたが、いないのは蓮だけでした」
それを聞くと、去は気を失った。
「去様!」
後ろに倒れる去を周りの者たちは駆け寄り寸でのところで体を支えた。奥の部屋の寝所に横たわらせて皆で見守った。
しばらくすると去は目覚めた。
「大丈夫ですか?」
側近たちが去の顔を覗き込んだ。
「……私は……気を失ったのか……すまないね……私は大丈夫だ。……雨が止んだら蓮を探しておくれ。あの子は、特別な子なんだ。必ず見つけておくれ。……すまない、許しておくれ」
去は大粒の涙をこぼして懇願した。
皆、去の頼みに頷くしかなかった。
しかし、雨が降り続く中、まずは本道を登って来る村人の救助に集中せざるを得なかった。ずぶ濡れになった住人達に温かい食事、着替え、横たわる場所を提供することに全力を注いだ。
強い雨は降り続けている。
朝が来てだいぶ明るくなった時に、避難した住人達は表道を下りて行った。自分の家がどうなったのか。避難してきた住人の中に知り合いの顔が見えないと、知り合いはどうなったのかが気になったのだ。
しかし、そこで見た光景は想像もしていないものだった。
裏道と同じように、表道も道は途中で水によって寸断されていた。そして、目の前は見たこともない大きな川になっていた。全てが水に浸かっていた。ところどころ樹の先が水の上に出ているだけだ。
「これは……どういうことだ……」
「ここに逃げていない者はどこに逃げたのだろうか」
皆、不安を口にした。
本来ならこの先に道が続き、その左右には青々とした草木が茂っていた。もっと下れば、村人たちが建てた小さな家が点在していた。
今はその屋根すら見えない。
雨が止まなければ、この水は引かない。
村人たちは、雨よ止め、と心の中で念じた。
去や村人たちの願いが通じたのか、未刻(午後二時頃)には雨脚が弱まってきた。
水が引けば水の中に入って行って、自宅があったところまで駆けつけたいと思っているのだが、あちこちから沁み出した雨水がこの豪雨で作り出された川に流れ込んでいる。皆、呆然と水が引くのを待つしかなかった、
泥水の中でその流れに抗おうとしたが、蓮の力ではどうすることもできなかった。
息をするために、顔を水の上に上げようとするが、口が息を吸ったと思ったら、力の強い男の人に後ろから頭を押さえつけられているような感じがして、顔は水の中に浸かった。次は、足を引っ張られている気がする。この黒い川がどれくらい深いのかわからないが、引きずり込まれる感覚に蓮は両手をかいてもがく。着ているものが水を含んでうまく動かすことができてない。
蓮はそれでも、この水の中から脱出することを考えた。
ここから脱出しなければ、それは死を意味すると思った。
私はまだ死ぬわけにはいかないわ。去様の元で学び始めたばかりだもの。これからもっとたくさんのことを学んで、去様やお母さまのお手伝いをしたいのに。
脱出するためにはこのまま流されていてはだめだ。樹があれば、うまい具合に枝や幹につかまり、そこで水が引きくまで待っていれば、どうにか助かるかもしれない。
去の館の裏道から水に落ちて流されているが、もう今はどこを流されているのかわからない。去の館がある丘の裏は束蕗原を流れる阿(あ)万(ま)川(かわ)が流れている。それが、蓮たちが夕方になると水浴びする小さな川と表道を下りて行った先で合流している。
川が溢れたと言っていたけど、それは阿万川もだろうし、水浴びする小さな川も同じだろう。溢れた水はどこに向かっているのだろう。行く当てのない水の集まりが蓮の体をどこへともなく連れていく。
泥水は冷たくて、ともすると体は沈みそうになる。
蓮は必死に見えてくる樹に手を伸ばした。
束蕗原は道や川の傍に大きな樹がそびえ立っている。その樹たちだろうと思われる大木が次々に現れる。
阿万川に沿って通っている道の上を流されているのではないかと思った。
あの道には大きな樹が左右に立っていたはずだわ。そうならば、まだ遠くには行っていないはず。
蓮は手を伸ばして幹を触った。その肌に掴まろうと指に力を込めた。爪がかかったが、それは何の支えにもならず、蓮の手は幹から離れて流されて行った。
そして、水は流れが速くなりその中に体が落ちて行く。そのたびに蓮は手と足を動かし、顔を水から出そうとした。
しかし、体は冷えて手足を動かす力ももう無くなっている。
どうなるのかしら……
私は、このまま水の中に呑まれてしまうのかしら……。
これまでの私は……結婚は破綻し、お父さまやお母さまにわがままを言って、束蕗原に来た。私なりにこの先のことを考えていたけども、私の生もここで終わりかしら。
そうなっても仕方ないわね……
こんな時に水の中に落ちてしまうなんて、私って本当についていないわ。
私の生もこれで終わりなら、それは誇らしく迎えよう。
お父さまとお母さま、二人の子供に成れてよかった。文字を書くこと、医術を学ぶなんてことはできなかったはずよ。実津瀬と兄妹でよかった。双子であるのが本当によかった。お母さまのお腹の中にいた時から私たちは一緒だったもの。何を思っているか気持ちはすぐにわかるわ。実津瀬がいなくなったら、私がどんな気持ちになるか考えたくもないけど、同じように実津瀬は私がいなくなったら悲しむはずね。
お互い結婚したといっても、実津瀬は親になったといっても、まだまだ私たちは二人でひとりのようなところがあったもの。遠く離れるには早いわよね。私も寂しいわ。
そして、私の妹、弟たち。榧、宗清、そして珊。みんな、かわいくて仕方ない。都と束蕗原とで離れてしまったけど、また会うはずだったのに……。こんなことになってしまって。三人ともにお世話をいっぱいしてあげたかったわ。
榧はそろそろ結婚するはずだから、王子とのことたくさん話をしたかった。榧も私を頼りにしてくれていたから、聞きたいこともあっただろうし。婚礼の儀の時は一度都に帰って榧を祝福したかった。
宗清も珊もまだまだ幼いけど、それがかわいい。成長して年頃になった二人の恋物語を近くで見守るのも悪くない。苦くて甘い恋の話を聞くのは好きだから。
蓮は再び誰かに後ろから頭を押さえられているような感覚を覚えた。上げていたいのに、顔は下を向き、水の中に入って行く。
苦しい!息ができない!
蓮は抗って、一生懸命に鼻と口を水の上に出して息をした。
いや!
誇らしく死ぬなんてことできないわ。
お父さま、お母さま、実津瀬……妹、弟たちと別れることなんてできない。
それに……会いたい人はまだいる。
伊緒理!
厩前での突然の再会。
初恋の人にまた会えるなんて。
叶うなら、きちんと会って、これまでの伊緒理の努力と苦労、そして成し遂げた喜びの話をききたい。
まだまだやりたいことがたくさんある!
蓮は目の前に見えて来た樹に近づくため、手をかき、足を動かした。流れに乗って、樹に近づいたが逆に勢いがついて樹の真正面に体が向かっていく。ぶつかってしまうが、流されていくよりはよい、と思った。手を広げて幹を抱きに行った。
怖い!
痛い!
同時に感じた感情。ざらつく幹の表面を頬で感じた。次に、大量の水が背中に当たり、胸が押しつぶされそうに感じだ。
そして、背中をコツコツと叩かれた。何事かと蓮は首をひねって自分の背後を窺った。大量の枝や板を自分の背中が堰き止めていた。川でよく見る光景だ。石や生えている水草に上流から流れて来た草が引っかかって、溜まっている状態。それと同じようなことが、蓮の背中で起こっていた。
折れた枝や壊れた家の一部だった板などが自分の背中で堰き止めていたら、そのうち自分の身が持たなくなる。
せっかく樹に掴まったというのに、背中に溜まる木や草などの重みで体はもたない。
幹の反対側に移動するしかないかしら。そうしたら腕の力で幹に掴まっていないといけないから、それはそれで大変だけど、このまま体を押しつぶされるのも辛いわ。
蓮は幹に回す腕に力を込めた。少しずつ、少しずつ体を幹に這わせて、流れの裏側へと移動する。開いた太腿で幹を挟んで左の足先を前に出す。すると、足場を感じた。何?と思ったが、それはすぐにこの樹の枝があるのだと思い至った。
そこに足を置いて、幹を抱いて慎重に体を移動させ、水の流れの裏側に行くことができた。それで、背中で堰き止めていた枝や板は流れていった。蓮は幹にぴったりと頬をつけて、流れていく様子を見つめた。
私はあんな風に流れて行ってはだめ。
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雨も弱くなったように思うわ。このまま、ここで堪えられたら水も引いてくるはず。
蓮は少しの光明を見た気がしたが、それは一瞬のことだった。ドンッという音と共に掴まっている樹が揺れた。驚いて顔を上げると、折れた木の枝が流れて来た。折れた樹の幹側が垂直に掴まっている幹にぶつかったのだ。もし、今もあちら側で樹に掴まっていたら、あの太い枝が背中にぶつかっていたかもしれない。蓮は安堵と恐怖を感じた。
身に着けていた傘も蓑もどこかに行ってしまった。
横目に折れた大きな幹や葉をいっぱいつけた枝が蓮の傍を流れて行くのを見て、泥水のしぶきをかぶった。
そのうち、この樹もどうにかなってしまうかもしれない。堪えてちょうだい、お願いよ。
蓮は祈った。
そして、手が急に空を掴む感覚がして、反射的に手を幹の上に置いた。
何が起こったのかすぐにはわからなかったが、自分は眠っていたようだ。
意識が遠くなって、回していた手が樹から離れてしまったのだ。
危ない……。しっかりしないと。
蓮は自分を戒めたが、もう体は冷え切ってしまって、樹に掴まっている体力もないに等しい。
生きることを諦めてはだめよ、私。ここで堪えていれば、誰かが見つけてくれるわ。誰かが助けに来てくれる。
だから、絶対にここで待っているのよ。
きっと牧さんは私が水の中に落ちたことを仲間に話してくれているはずよ。去様にも伝わっているわ。そうなれば、雨が止み、水が引けばみんなが探しに来てくれるわ。
蓮は幹にべったりと抱きついた。気がつけば、心地よい夢の中に入って行った。
みんな、私を見つけて……。お願いよ。
でも……もし叶うなら……伊緒理に見つけて欲しい。
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