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螺良 羅辣羅

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第七章

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先ほどまで目の前にいた男たちの会話を思い返すと、反吐が出そうだった。
気の知れた仲だと言いたいのか、にこにこと笑い合ったり、かしこまって頭を下げたり、そんなことはやめろよと言い合ったり。
そんなことは自分には何も関係ない。
ただ舞えと言われれば舞う。それだけだ。
あの男よりも良い舞をしろと言うなら、それをやるだけだ。
昨年の月の宴で負けてしまったことは悔しかった。だからと言って、今年同じように対決したいとは思っていなかった。麻奈見と淡路から持ち掛けられるまでは。
勝負できるのなら勝負したいという消極的な回答をしたが、気がつけばこの勝負は決まった。思えばこの勝負は麻奈見と淡路が願ったことではなく、桂がやりたかったことではないか。
あのお姫さまのやりたいことに皆が付き合っているというのか。
朱鷺世はきらきらと眩い年上の女人の姿を思い出していた。
助けて欲しいなんて思ってもいなかったが、あの人には恩があると朱鷺世は思っていた。
昨年の月の宴前はいやらしいいじめに遭っていたが、月の宴以降はそのいじめは止まった。
負けたとはいえ、誰もが優劣をつけるのは難しいと思うほどの良い勝負だった。雅楽寮に所属する舞人の一番は淡路から朱鷺世に交代したと言ってよかった。
雅楽寮に所属する者たちは突然降って湧いたように現れた朱鷺世を認めたくない気持ちがあったが、月の宴の勝負を経て、認めざるを得ないと思った。そこには、好意的に淡路から次の世代への交代と思う者と、どこの馬の骨だかわからない男が名声を集めることを快く思わない者がいた。
後者の心は燻っていて、時に朱鷺世とすれ違う時に肘を当てる、肩をぶつけるといった小さな嫌がらせをした。朱鷺世は感情的になるのは良くないと流していた。
ある日、朱鷺世が稽古場に来た時、扉の前で突然足元に棒を出されて、足を引っかけてしまい派手に転んで、膝を強打した。履いていた袴の膝は破れて、その裂け目から見える膝は擦り傷ができて血が滲んでいた。それでも立ち上がり、痛みに少し足を引きずりながら稽古場に入って行った。
そこへ、運が良いのか悪いのか、桂が稽古場に練習を見に来た。稽古場の隅で痛そうに蹲っている朱鷺世を見つけて桂は近寄って行った。
「朱鷺世、どうした?今日はお前の舞を観に来たというのに、そんな隅で何をしている」
朱鷺世は血の滲む膝を隠そうとしたが、目敏い桂はその動きを見逃さなかった。
「どうしたのだ、その膝は?」
桂の言葉に、後ろにいた麻奈見と淡路は朱鷺世をのぞき込んだ。
「……いいえ」
朱鷺世は顔を下に向けて黙った。
「血が出ている。手当をしなくてはいけない。医官に見せに行っておいで」
「……いいえ。……大丈夫です」
朱鷺世は下を向いたまま返事をした。
「いや、だめだ。お前は宴で舞わなくてはならないのだ。そのためには小さな怪我でも放っておいてはいけない。お前は考えを改めなくてはいけないよ。何を置いても舞のために万全を期さないといけないのだ」
桂は言うと、後ろを振り向いて。
「淡路、宮廷の医者を呼んでくれ」
桂は言って、朱鷺世の前に蹲った。
「……袴がこんなに破れて、ひどく転んだものだな。……朱鷺世……歩く時は前を向いて行く道に物やら石やらがないかをよく見なくてはいけない。先ほども言ったが、お前は舞のために万全を期さないといけないのだから」
桂は朱鷺世に微笑んで、立ち上がり後ろを振り返った。
桂という貴人が稽古場に現れたので、その周りには何層かに重なって人垣がを作り、桂と朱鷺世のやり取りを固唾を飲んで見守っていた。
桂は自分の後ろに立って見ている者たちの顔を見回した。
「皆も……朱鷺世が怪我をしないように、歩く先に物や石があったら、注意してやってくれ。頼むよ。よもや、わざと物を置いて朱鷺世を転ばせようなんてことはしていないと思うが、もしそんなことをする者がいたら理解しておいてほしい。朱鷺世を傷つけることは私の大切なものを傷つけることと同じであることを。朱鷺世はもう、宮廷の儀式、宴にはなくてはならない人物なのだ。それを傷つけるとあれば雅楽寮の中だけで収まる話ではなくなるからな」
桂がそこまで言い終わると、淡路が呼びに行かせた雅楽寮の従者が腕の中に擦り傷に効く塗り薬の入った壺を持った医官を連れて戻って来た。
あの時、朱鷺世は桂への返答の中にわざと転ばされたことを匂わせたつもりはなかったのだが、勘の良い桂は仲間に転ばされたと悟り、朱鷺世を傷つけさせないために釘を刺したのだ。あれ以降、肩をぶつけるといった軽い嫌がらせもなくなった。朱鷺世の努力と才能を認めた者は朱鷺世を仲間として気負うことなく接し、また幼い者たちは憧れた。朱鷺世を気に入らない者たちは苦虫を噛みつぶしたような顔をして遠巻きに見ている。朱鷺世にとってはそれでよかった。あれから、周りは落ち着いて、舞うことに集中できている。
あの時の桂の言葉が全てだった。
今の朱鷺世は桂の大切なものなのだ。
誰のどんな思惑があろうとも、自分は最高の舞を舞えばいいだけ。
自分の舞を気にいってくれている桂のために、そして自分のために。
そして、今年の勝負は何がんでもこの俺が勝つんだ。
朱鷺世は今からそう心に誓うのだった。
目当ての宮廷の女官たちが住む居住棟の前に来ると口笛を吹いた。
西の空だけが明るく、あたりは夕闇の中、近くの妻戸が開いて女人が出て来た。
「朱鷺世」
勢いよく露が走って来た。朱鷺世はぶつかると思って、寸でのところで両手を広げて露の体を受け止めた。
「久しぶりね」
朱鷺世の胸に頬をつけて露が言った。
「……」
朱鷺世は言葉を返すことなく、露の背中を抱いた。
露と会うのは十日……いや十二日ぶりかな……。
露は顔を上げて言った。
「お腹は空いている?」
と言って、胸の中に手を入れて搗き米の握ったものを一つ取り出した。
「あら、潰れちゃった」
多少平べったくなった搗き米を見て露は言った。
「食べてしまったらそんなことどうでもいいことだ」
朱鷺世はそう返事をして、二人はいつも行く目の前の広大な森と呼べるほどの庭の中に入って行った。
奥のいつもの大きな樹の元に腰を下ろし、露が用意した搗き米をまずは朱鷺世がほおばった。
「舞の練習が忙しかったの?」
朱鷺世の隣の露は膝を抱えて前を向いたまま訊ねた。
「……うん」
十二日前に朱鷺世から露に十日くらいは会いに来られない、と言っていたのだ。
「次はどんな舞をするの?」
「花見だ。一人で舞ったり、二人で舞ったりといろいろある」
「そうなんだ。宮廷の中で催されたらいいな。そうしたら、私……見られるかもしれない」
露は呟いた後、冷たい風が吹いて身を竦めた。
朱鷺世は露が首元の襟巻をぴたっと首に沿わせて風が入らないようにしたのを見て、露の立てた膝をとんとんと指でつついた。
「ん?なに?」
露は朱鷺世を見上げると、朱鷺世は立てた足を開いて、顎でその間を指した。
「うん」
露は頷いて立ち上がり、朱鷺世に対して横に座ってその間にすっぽりと収まった。
朱鷺世の体が風よけになって、とても暖かかった。
「ほら」
露は朱鷺世から半分ほど無くなった搗き米の握りを受け取り、それを小さく口をあけて齧った。
まだまだ寒いというのに、二人は相変わらず外で会っている。
この宮廷の庭である森の奥以外にどこに行けばいいかわからない。
子供の頃からこの中で働いてきたが、二人ともどの建物が安全で身を隠せる場所なのか知らない。宮廷内で気持ちが通じた男女がどのようにしてしのび会っているのか知ることもなく、二人は寒い冬でも森の中に入って行った。
あまりの寒さに朱鷺世は露を懐に抱いて、お互いを温め合って別れるだけの時もあったし、朱鷺世が欲望を押さえられず露を自分の腰の上に跨らせて交わった時もあった。冬の露はいつも鼻を赤くしていて、朱鷺世はその鼻にそっと唇で触れ、その後、お互いの唇を重ねて吸い合った。そうしたら、体の内側が熱くなって冬の寒さも気にならなくなった。
「……花見の宴は……翔丘殿であるはずだ」
朱鷺世は呟くように言った。
「そうなの?そうだったら、台所のお手伝いに選ばれたらいいな……」
露は言って、搗き米を一口食べて、残った搗き米を朱鷺世の口元に持って行った。
丁度一口で食べられる大きさの搗き米の塊を朱鷺世は露の指もろとも口の中に入れた。優しく歯をあててから舌を絡めてしゃぶった。露はゆっくりと指を引いて、朱鷺世の唇から離れる瞬間を見つめた。
朱鷺世も露を見つめて思った。
最高の舞をすれば、自分は大事にされる。それは腹いっぱい食べられるし、欲しいものが手に入ることになる。そうすれば露に新しい下着を与えてやることも、櫛を贈ることもできる。
朱鷺世は露の体を引き寄せて、その背中に顔を伏せた。
「朱鷺世……とっても温かいわ」
露も体にまわった朱鷺世の腕に頭を載せて言った。
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