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第七章
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実津瀬の苦悩は、朱鷺世の苦悩でもあった。
実津瀬にも朱鷺世にも麻奈見と淡路が付いて、一人舞の構想を一緒に考えた。そこで、朱鷺世は教えられるまま一人舞を舞っていたが、細部については。
「朱鷺世が考えるんだ」
と麻奈見に突き放されてしまった。
「二人とも同じ型を舞うのだから工夫は自分で考えないといけない。それに、朱鷺世はそれができるはずだから」
と期待されているような言葉をかけてもらった。
いや、とは言えず、朱鷺世は通常の練習の後、一人残って舞の細部を考えた。頭の中で流れる音楽に合わせて何度も同じ型を繰り返す。そこから自分の体が何か新しいものを表現し始めないかと思った。
しかし、何も出て来ない自分に苛立ちと焦りでもがく日々だった。
「どうしたの?朱鷺世」
腕の中で自分の胸に顔を埋めていた露が顔をあげて訊ねた。
「ん」
舞の工夫が上手くできない苛立ちが朱鷺世を無口にさせていた。と、言っても朱鷺世はいつも無口であるが。
久しぶりに露のところに来た。露から腹に手を回してきたのを抱き返したらその小さく柔らかく温かな体に欲情してすぐに押し倒して、抱いてしまった。行為の後に露は再び朱鷺世の体に抱きついていたのだ。
「舞のこと考えていたの?」
その通りであったが、朱鷺世は何も言わなかった。
「あとひと月かしら、宴まで。今年は宴にはお手伝いで呼ばれるといいな。朱鷺世の舞を見られるかもしれない」
「ん……」
露の言葉に朱鷺世も小さく反応した。
練習している姿は見せているが、本番は見せられていない。朱鷺世も露に見てほしいと思っていた。
「よばれるといいな」
「そうね……上の人にこっそりお願いしてみようかしら」
「そんなことできるのか?」
「わからないけど、じっと黙っていたら何もならないでしょう」
露は言った。
朱鷺世の上着の襟を掴んだ左手に巻いた白布が解けそうになっているのが見えた。
朱鷺世はその手を取って布を外した。
「傷は……は塞がったか」
転んで切ったと言っていた傷を朱鷺世は確認した。
「ええ、もう塞がったわ。でも、まだ痛みがあるから白布は巻いているの。……今日、伊佐楽(いさらく)にきつく結んでもらったのに……解けちゃったのね」
手の平の傷は薄く塞がっているようだが、無理をするとその薄い膜から血が滲み出てきそうだったが、それよりも朱鷺世は露から男の名前が出てきたのに驚いた。
「伊佐楽って」
つい、口に出てしまった。思った以上に鋭い声音の問いかけになった。
「…それは、今私が仕えているお部屋で一緒になる下働きをしている男の人よ。最近よく顔を合わせているの」
「……ふうん」
朱鷺世はため息のような声を出して黙った。
「白布が解けて片手で結ぼうとしていたのを助けてくれただけよ」
「ん」
朱鷺世は、ん、と言った後は露から顔を背けている。
「……朱鷺世……それだけよ。私が困っているのを見るに見かねて助けてくれただけ」
「名前を教え合う仲なんだろう」
「ここ最近は毎日のように顔を合わせていて、仕事の手伝いをお願いすることもあったから、一緒に仕事をしているお姉さんが名前を聞いたのよ。それで知っているだけ」
「それで名前を呼び合う仲なのだろう!」
朱鷺世は吐き捨てるように大きな声で言った。露は悲しそうに唇を噛んで押し黙っていたが、やがて言った。
「………朱鷺世………妬いてくれているの」
露の言葉に、朱鷺世は思わず露を振り返った。するとすぐに。
「私は朱鷺世のものよ」
そう言って怪我した手は朱鷺世の手からすり抜けて、両手を背中にまわして抱きついた。
露の言葉に朱鷺世は呆然とした。
口笛で呼び出していつものように庭の奥に連れ出し、その体を欲して抱いた時に激しく露を揺さぶったから、露の左手にきつく巻かれた布は解けたのかもしれない。自分の行いの結果に腹を立てているようで朱鷺世は閉口し、露の言葉に意表を突かれた。
露が言うように妬いているのか……。
露が親しげに男の名を呼ぶことが思いの外、不快なことに気づいた。
「朱鷺世が好きなのよ」
両手を上げて朱鷺世の両頬を包んだ露の手。左の手の平は傷の盛り上がりを頬で感じた。
露はじっと朱鷺世を見つめて言うのだった。
露の優しい眼差しに自分のできることで報いたい。それは舞しかないのだから、よい舞をして勝負に勝ち、それを報告できたらどんなに良いか。その舞台を見せられたらどんなにいいことだろうか、と思うのだった。
五日ごとの典薬寮への出仕をしている蓮は、今日は従者の鋳流巳を伴って典薬寮の玄関に現れた。
いつものように賀田彦が迎えてくれて、待合の一室に入った。
今日は有馬王子の妃である藍と面会する予定になっている。
これは二日前に藍から早く会いたいと連絡が来て、今日に決まった。
典薬寮に出仕してから二度目になる。もっと頻繁に会えるかと思っていたが、宮廷にいるからといってもそう易々と会えるものではないのだと知った。
時間になるまで部屋で本を写し、体調不良を訴える者の症状に合わせて薬湯を処方した。
「礼様。時間になりました」
賀田彦が現れて、礼は立ち上がった。前回と同じように許可の札を確認して藍が住む館の中に入って行った。
「いらっしゃい、礼」
藍は笑顔で礼を迎えた。
「前回お会いした時から随分と経ってしまいました」
蓮は応えた。前回会った時からふた月が経っていたのだった。
「そうね。私も忙しくしていたから会う時間が取れなかったわ」
蓮は藍の前に座って、体調の変化がないかを聞いた。
よく眠れる。食事もよく食べている。
藍の回答に蓮は笑顔で頷いた。
「体調はすこぶる良いようですね。安心しました」
「そうね、ありがたいことに、毎日つつがなく過ごせているわ。これも有馬王子のおかげだわ」
藍の言葉に礼も周りにいる侍女たちもほほほっと笑い声を上げた。
「皆、少し蓮と話がしたいから席を外しておくれ」
藍の言葉に侍女たちは静々と部屋から出ていった。全員部屋を離れたことを確認した藍の腹心の侍女である朱が最後に部屋に出て行ったのを見て藍が言った。
「蓮、近くに寄ってちょうだい」
蓮はにじり寄った。
「もっと近くに来て」
そう言われて蓮は更に藍に近寄った。
「会いたかったわ」
藍から手を伸ばして蓮の手を取った。
「私もよ、藍」
と蓮は昔ながらの親しみを込めて呼んだ。
そこで藍は笑顔を一瞬で崩して、泣き顔になった。
「……藍」
「……ごめんなさい……」
「どうしたの?」
「……落ち込んでしまって……私……有馬王子と結婚して一年以上経つのに、まだ懐妊の兆しがなくて……王子は何気なくお話しされているとわかっているのだけど、でも子供はまだかと言われると私は心穏やかではいられなくなって」
と言って藍は涙声になった。
藍が有馬王子と結婚した時、蓮は夫の邸を出て、実家に戻った時だった。だから、藍の婚礼に関することは妹の榧が手伝っていた。その後すぐに束蕗原に行ってしまったので、藍のことを気にする時間は少なかった。だから、藍が輿入れしてから一年以上経っていることに気づかなかった。
「藍……そうなの?有馬王子がおっしゃったの?子供はまだかと」
「そんな直截な言葉ではないのよ。……私との間にできた子はどれほどかわいい子が生まれるだろうか、早く見てみたいとおっしゃって」
「そう……」
蓮は藍の手を握り返した。
「私も早く王子との子を見たいと思っているわ。王子も夜はお后さまよりも私の元を訪れてくださるのだけど、いっこうに私は懐妊する兆しがない。……王子は数ヶ月前に新しいお妃を迎えられた。迎えた当初はその方ばかりだったけど、今は通う回数は私の方が多い。だけど、私よりも少ないのに懐妊したらしいの………だから、王子がそうおっしゃるのも最もだと思うわ………」
そう言って言葉を詰まらせる藍に蓮は体を抱き寄せた。
有馬王子は正妻を王族から娶った後、岩城家の後押しで第二妃として藍を迎えた。それから一年が過ぎて、今年に入って臣下の中から美しい娘がいると聞いて三番目の妃を娶ったのだった。その妃が早々に懐妊したと聞いたら、藍の心中は穏やかでないだろう。
「………蓮、この気持ちをわかってくるのはあなただけかしらね」
我慢していた涙が目尻からこぼれ落ちた。
「そうね。でも、藍……心配することはないわ。必ず玉のように美しい御子があなたの元におとずれるはずだから、もうしばらく待つことよ」
当てのない言葉を言っているとわかっているが、蓮は藍に対してそう言って励ましてやりたかった。
自分もどれだけそれを信じて待ったことだろうか。自分はそれが叶う前に諦めてしまったが、藍は諦めることはできないのだ。その痩せた体は岩城一族の期待を一身に背負っているのだから。今、蓮にできることは藍に寄り添って支えてやることだ。
「私が傍にいるわ。大丈夫」
そう言って、蓮は指で藍の頬に伝う涙を拭った。
実津瀬にも朱鷺世にも麻奈見と淡路が付いて、一人舞の構想を一緒に考えた。そこで、朱鷺世は教えられるまま一人舞を舞っていたが、細部については。
「朱鷺世が考えるんだ」
と麻奈見に突き放されてしまった。
「二人とも同じ型を舞うのだから工夫は自分で考えないといけない。それに、朱鷺世はそれができるはずだから」
と期待されているような言葉をかけてもらった。
いや、とは言えず、朱鷺世は通常の練習の後、一人残って舞の細部を考えた。頭の中で流れる音楽に合わせて何度も同じ型を繰り返す。そこから自分の体が何か新しいものを表現し始めないかと思った。
しかし、何も出て来ない自分に苛立ちと焦りでもがく日々だった。
「どうしたの?朱鷺世」
腕の中で自分の胸に顔を埋めていた露が顔をあげて訊ねた。
「ん」
舞の工夫が上手くできない苛立ちが朱鷺世を無口にさせていた。と、言っても朱鷺世はいつも無口であるが。
久しぶりに露のところに来た。露から腹に手を回してきたのを抱き返したらその小さく柔らかく温かな体に欲情してすぐに押し倒して、抱いてしまった。行為の後に露は再び朱鷺世の体に抱きついていたのだ。
「舞のこと考えていたの?」
その通りであったが、朱鷺世は何も言わなかった。
「あとひと月かしら、宴まで。今年は宴にはお手伝いで呼ばれるといいな。朱鷺世の舞を見られるかもしれない」
「ん……」
露の言葉に朱鷺世も小さく反応した。
練習している姿は見せているが、本番は見せられていない。朱鷺世も露に見てほしいと思っていた。
「よばれるといいな」
「そうね……上の人にこっそりお願いしてみようかしら」
「そんなことできるのか?」
「わからないけど、じっと黙っていたら何もならないでしょう」
露は言った。
朱鷺世の上着の襟を掴んだ左手に巻いた白布が解けそうになっているのが見えた。
朱鷺世はその手を取って布を外した。
「傷は……は塞がったか」
転んで切ったと言っていた傷を朱鷺世は確認した。
「ええ、もう塞がったわ。でも、まだ痛みがあるから白布は巻いているの。……今日、伊佐楽(いさらく)にきつく結んでもらったのに……解けちゃったのね」
手の平の傷は薄く塞がっているようだが、無理をするとその薄い膜から血が滲み出てきそうだったが、それよりも朱鷺世は露から男の名前が出てきたのに驚いた。
「伊佐楽って」
つい、口に出てしまった。思った以上に鋭い声音の問いかけになった。
「…それは、今私が仕えているお部屋で一緒になる下働きをしている男の人よ。最近よく顔を合わせているの」
「……ふうん」
朱鷺世はため息のような声を出して黙った。
「白布が解けて片手で結ぼうとしていたのを助けてくれただけよ」
「ん」
朱鷺世は、ん、と言った後は露から顔を背けている。
「……朱鷺世……それだけよ。私が困っているのを見るに見かねて助けてくれただけ」
「名前を教え合う仲なんだろう」
「ここ最近は毎日のように顔を合わせていて、仕事の手伝いをお願いすることもあったから、一緒に仕事をしているお姉さんが名前を聞いたのよ。それで知っているだけ」
「それで名前を呼び合う仲なのだろう!」
朱鷺世は吐き捨てるように大きな声で言った。露は悲しそうに唇を噛んで押し黙っていたが、やがて言った。
「………朱鷺世………妬いてくれているの」
露の言葉に、朱鷺世は思わず露を振り返った。するとすぐに。
「私は朱鷺世のものよ」
そう言って怪我した手は朱鷺世の手からすり抜けて、両手を背中にまわして抱きついた。
露の言葉に朱鷺世は呆然とした。
口笛で呼び出していつものように庭の奥に連れ出し、その体を欲して抱いた時に激しく露を揺さぶったから、露の左手にきつく巻かれた布は解けたのかもしれない。自分の行いの結果に腹を立てているようで朱鷺世は閉口し、露の言葉に意表を突かれた。
露が言うように妬いているのか……。
露が親しげに男の名を呼ぶことが思いの外、不快なことに気づいた。
「朱鷺世が好きなのよ」
両手を上げて朱鷺世の両頬を包んだ露の手。左の手の平は傷の盛り上がりを頬で感じた。
露はじっと朱鷺世を見つめて言うのだった。
露の優しい眼差しに自分のできることで報いたい。それは舞しかないのだから、よい舞をして勝負に勝ち、それを報告できたらどんなに良いか。その舞台を見せられたらどんなにいいことだろうか、と思うのだった。
五日ごとの典薬寮への出仕をしている蓮は、今日は従者の鋳流巳を伴って典薬寮の玄関に現れた。
いつものように賀田彦が迎えてくれて、待合の一室に入った。
今日は有馬王子の妃である藍と面会する予定になっている。
これは二日前に藍から早く会いたいと連絡が来て、今日に決まった。
典薬寮に出仕してから二度目になる。もっと頻繁に会えるかと思っていたが、宮廷にいるからといってもそう易々と会えるものではないのだと知った。
時間になるまで部屋で本を写し、体調不良を訴える者の症状に合わせて薬湯を処方した。
「礼様。時間になりました」
賀田彦が現れて、礼は立ち上がった。前回と同じように許可の札を確認して藍が住む館の中に入って行った。
「いらっしゃい、礼」
藍は笑顔で礼を迎えた。
「前回お会いした時から随分と経ってしまいました」
蓮は応えた。前回会った時からふた月が経っていたのだった。
「そうね。私も忙しくしていたから会う時間が取れなかったわ」
蓮は藍の前に座って、体調の変化がないかを聞いた。
よく眠れる。食事もよく食べている。
藍の回答に蓮は笑顔で頷いた。
「体調はすこぶる良いようですね。安心しました」
「そうね、ありがたいことに、毎日つつがなく過ごせているわ。これも有馬王子のおかげだわ」
藍の言葉に礼も周りにいる侍女たちもほほほっと笑い声を上げた。
「皆、少し蓮と話がしたいから席を外しておくれ」
藍の言葉に侍女たちは静々と部屋から出ていった。全員部屋を離れたことを確認した藍の腹心の侍女である朱が最後に部屋に出て行ったのを見て藍が言った。
「蓮、近くに寄ってちょうだい」
蓮はにじり寄った。
「もっと近くに来て」
そう言われて蓮は更に藍に近寄った。
「会いたかったわ」
藍から手を伸ばして蓮の手を取った。
「私もよ、藍」
と蓮は昔ながらの親しみを込めて呼んだ。
そこで藍は笑顔を一瞬で崩して、泣き顔になった。
「……藍」
「……ごめんなさい……」
「どうしたの?」
「……落ち込んでしまって……私……有馬王子と結婚して一年以上経つのに、まだ懐妊の兆しがなくて……王子は何気なくお話しされているとわかっているのだけど、でも子供はまだかと言われると私は心穏やかではいられなくなって」
と言って藍は涙声になった。
藍が有馬王子と結婚した時、蓮は夫の邸を出て、実家に戻った時だった。だから、藍の婚礼に関することは妹の榧が手伝っていた。その後すぐに束蕗原に行ってしまったので、藍のことを気にする時間は少なかった。だから、藍が輿入れしてから一年以上経っていることに気づかなかった。
「藍……そうなの?有馬王子がおっしゃったの?子供はまだかと」
「そんな直截な言葉ではないのよ。……私との間にできた子はどれほどかわいい子が生まれるだろうか、早く見てみたいとおっしゃって」
「そう……」
蓮は藍の手を握り返した。
「私も早く王子との子を見たいと思っているわ。王子も夜はお后さまよりも私の元を訪れてくださるのだけど、いっこうに私は懐妊する兆しがない。……王子は数ヶ月前に新しいお妃を迎えられた。迎えた当初はその方ばかりだったけど、今は通う回数は私の方が多い。だけど、私よりも少ないのに懐妊したらしいの………だから、王子がそうおっしゃるのも最もだと思うわ………」
そう言って言葉を詰まらせる藍に蓮は体を抱き寄せた。
有馬王子は正妻を王族から娶った後、岩城家の後押しで第二妃として藍を迎えた。それから一年が過ぎて、今年に入って臣下の中から美しい娘がいると聞いて三番目の妃を娶ったのだった。その妃が早々に懐妊したと聞いたら、藍の心中は穏やかでないだろう。
「………蓮、この気持ちをわかってくるのはあなただけかしらね」
我慢していた涙が目尻からこぼれ落ちた。
「そうね。でも、藍……心配することはないわ。必ず玉のように美しい御子があなたの元におとずれるはずだから、もうしばらく待つことよ」
当てのない言葉を言っているとわかっているが、蓮は藍に対してそう言って励ましてやりたかった。
自分もどれだけそれを信じて待ったことだろうか。自分はそれが叶う前に諦めてしまったが、藍は諦めることはできないのだ。その痩せた体は岩城一族の期待を一身に背負っているのだから。今、蓮にできることは藍に寄り添って支えてやることだ。
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