Infinity 

螺良 羅辣羅

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第二部 wildflower

第十話

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「礼!」
「碧様」
 礼は深々と頭を下げた。
「こちらへ。私の後ろへ来ておくれ」
 碧は笑顔で後ろを向いて、礼を自分の斜め後ろへと導いた。そこには席が用意してあった。
「退屈な儀式が終わって、これからは音楽や舞が始まるわ。楽しみね」
 碧妃は無邪気に、しかし声を潜めて言って、前を向いた。
 そこには正殿前の中庭が広がっていた。
 中庭の正面はもちろん大王と大后、その御子たちの席である。そして、庭を囲むようにして左右を建物がめぐっている。左、右と大王の兄弟や他の妃たちの間があり、その後に臣下の間が続く。
 中庭には、舞台が設えられており、そこでこれから少女や青年の舞楽や、宮廷楽人による音楽が披露される。舞台袖に楽人のための席が設けられており、各々担当する楽器と共に定位置に座っている。舞台は演じる人を待っていた。
「礼、あそこにお兄様がいるのよ。先ほど、交代があって、お兄様が大王を守る位置についたわ」
 碧が指さす方に礼も向いて、実言を探す。
 正殿の正面の階は大王のお召しがあれば、それを登ることを許される。誰もが好きに上がり下りできるものではない。大王をお守りするために、階のまわりや要所に近衛府の武官が配置されており、今日はその中に実言もいるのだった。
「ほら、あそこよ。一際美しい姿で立っている」
 もう一度碧妃に言われて、礼はやっと実言の姿を捉えた。
 階の下の左右に武官が一人ずつ立っているが、礼たちのいる西側に実言は、清々しくも威武を放つ装いで引き締まった表情が前を見据えて立っている。頭の上には帽子を着けて、肩当て、袍、狩袴、靴は黒に見えるほどの濃い紺だが、その地は緋色で、体の動きで隠れた鮮やかな緋がちらりと見える美しい衣装で、袖や裾に黄、山吹の糸で刺繍がされているものだ。その上から鎧をつけ、腰には細太刀、背中には平胡ぐいに入った矢を背負い、左手には弓を持った勇猛な立ち姿である。実言は上背もあり、見栄えの良いその姿に、礼は密かに誇らしい気持ちを持つのだった。
 思えば、礼には部屋に入るなり楽な格好がいいと、いつも下着姿に近いのんべんだらりとした姿を見せている実言が、この時ばかりは、輝くばかりの武官の出で立ちで立っている姿に、礼も惚れ惚れと見とれた。
 宴の始まる合図の太鼓が打ち鳴らされた。最初に、十三、四の少女五人による舞が披露された。礼は目を輝かせて、善美を尽くした舞台に魅入った。舞が終わると、宮廷楽団による音楽が始まった。少し休憩、といった時間で、碧が礼を振り返った。
「もっとこっちへ」
 礼は自分のために設けられた席から身を乗り出した。
 碧妃の出で立ちは、礼の比ではない。碧の姿は、今日手折られたばかりの新鮮な花が活けられたといわんばかりの美しさだ。袍は文様と襲の美しい一級品で、色は、濃い紅や、紅に白を混ぜたような薄い色、衿には萌黄色がのぞいて、紅を引き立てる。その上に羽織る背子の背中は一面美しい花とそれをついばむ鳥の刺繍が施されており、複雑な色の配色で物語を作っていた。裳も一見墨のように暗い色のものだが、実際はその下に付けている本来の裳の朱が薄く透けて見える。頭も高く大きく結った髪が、飾りの付いた櫛で留められている。耳飾り、首飾り、腕輪、指輪と一揃いに作られたものとわかる、統一された金細工の模様に、存在感のある瑪瑙や、翡翠などの色とりどりの石たちがはめ込まれたものを身に着けている。装身具と衣装の重さは、礼の倍はあると思えるほどの重厚さである。それを、碧妃は苦ともしておらず笑顔で振舞っている。こういった場での振る舞いを理解し美しくこなされていると、礼は密かに感服するのだった。
「礼……最近は館に来てくれなかったから、寂しかった」
 碧妃は、素直な気持ちを言葉にし、礼の手を取った。礼は自然と碧のそばに這いよった。
「舞や、音楽は好き?私は観るのは大好きなのよ。今日がとても楽しみだった」
「私も楽しみにしておりました。こういった舞楽など、教養がないので勉強させていただくためにもしっかりと見とうございます」
「そんなかた苦しいことを言わないで、楽しみましょう」
 陽が落ちきり、代わりに月が輝いた。時折、薄い雲が出るが出て、その影は翔丘殿に設えられた舞台を暗くするが、すぐに風に運ばれて明るさを取り戻す。それはこの場に自然の演出を加えて趣を与え、皆が感嘆した。
 少女の舞の後は、青年二人による舞である。位階を受ける前の若い貴族の子息が二人選ばれて舞を披露する。その舞の中で礼は楽団の中に麻奈見の姿を見つけた。揃いの衣装を着た楽団の一番端に座って、横笛を吹いている。
 二人の青年の舞が終わると、また、小休止の形で楽団の人が入れ替わり、音楽を奏でている。
 その時に正面の階の警護の入れ替わりも行われて、実言が退出する。
「礼は、舞を見ていたのか、兄様を見ていたのかわからないわね」
 大王のいらっしゃる正殿前の階を背に正面を見据えて立っていた実言が、警護の入れ替えで退出するのに、礼たちのいる西側へと引き上げていく。礼の方に向かって歩き出す姿に、礼は御簾の中から身を乗り出して見たのを、揶揄するように碧は言った。
 礼は乗り出した身を引いて、座り直した。
「二人はとても仲が良くて羨ましい」
 碧は微笑みながら、呟いた。
 礼は、恥ずかしくて碧に返答できず、照れた顔を舞台の方へ向けた。
 今、舞台を整える者が邪魔にならないように小さく身をかがめて舞台上を右往左往しながら整えている。だから、礼はこちらと対になっている、東側の庇側をまっすぐに眺めることができた。
 正殿の御簾が舎人によって巻き上げられて、その中から一人の貴人が現れ、東側の庇の間を歩く。礼は、その貴人を見て、はっとした。
「碧様。あの方はどなたでございましょうか?」
 とっさに碧に尋ねた。礼の呼びかけに、碧も礼の視線の先を追った。
「どこ?」
「今、対の庇を歩いておられる方です」
「ああ」
 碧はやっと礼の指している人物を見つけた。
「詠様の庇の中へと入られたわ。きっと大王から何か詠様に言伝をお願いされたのでしょう」
 碧は独り言のように言った。
「あの方は、大王の弟君である春日王子様よ。正殿から出ていらっしゃったのは、大王のお側で一緒にご覧になっていたのね」
 大したことではないことのように碧は言った。
 この前、詠妃の館に行ったとき、入れ違いになった男性は春日王子だった。すれ違ったときに詠妃の実家のどなたかと考えたが、大王の弟君であったとは。
 礼は詠妃の御簾の中に入っていった春日王子の後ろ姿を眺めた。公然の場で御簾の中で一緒に座って会話されるのであれば、大王の依頼によったものだろうし、詠妃と春日王子は大王の命によって何か共有されているのかもしれなかった。
 詠妃の館から帰る春日王子の姿に、何か見てはいけないものを見たと勝手に勘違いしたが、これは後宮の公にされた付き合いのようだ。
 そして、それまでの音楽が止み、一人の舞人が舞台の上に現れて、新たな演目が始まった。
 宴の終りは、男子二人による舞である。大王はこの舞を鑑賞されることをとても楽しみにされていたとのことで、宴もたけなわなこの最後の時に披露されることになった。二人の男が、池の中に設えられた舞台へと、橋の上を縦に並んで渡ってきた。
 礼は目を凝らして二人を見ると、先ほどまで楽人の一人として、演奏集団の中にいた麻奈見が、美しい舞装束を着けて前の舞人に続いて舞台へと入っていった。
「碧様。先頭を歩いていらっしゃる方は、どちらのお方でございますか?」
 礼が尋ねる。
「右大臣の御子息のはずよ。後ろの方は、宮廷の楽団を率いる音原家の子息ね」
 麻奈見がこのような舞を舞うとは知らなかった。束蕗原では、麻奈見は琵琶を引いて笛を吹いていたから、礼には思いもよらないことだった。音楽が始まり、それを合図に二人は舞を始めた。
 麻奈見の舞は五体の隅々、先端へと力を漲らせている。上方へ伸ばした指先や振り上げた足の運びに張り詰めた緊張と、しかし優雅さをたずさえた動きがその場の誰の目をも釘付けにした。相対して舞う、右大臣家の子息は麻奈見に対してこの舞の上での挑戦者として挑む姿に見えた。確かに、麻奈見の方が、舞手としては上手であるが、麻奈見も右大臣の息子を好敵手として真っ向から相手をしている。二人が同じ振りの舞を一糸乱れず合わせて踊る部分と、各々が違う舞を見せつけるようにして踊る部分とに分かれるこの演目に、見る者たちは二人の若者が互いに自分が磨いた技術と表現する感情を高めた舞を相手に見せつけていく戦いのような姿に心奪われて、熱狂した。後で聞けば、この演目を是非見たいとおっしゃったのは大王であり、麻奈見の舞が見たいとおっしゃったのも大王であった。
 互いが相手の舞を凌駕して、我こそが一番の舞を見せると誓って競い踊っているような迫真の舞に礼は言葉もなく、身じろぎすることもなくただただ魅入っていた。
 曲の最後には、互いのそれぞれの舞を見せた後に、心を合わせて同じ振りによる舞が徐々に速い曲調の中で乱れることなく一致して舞いきられた。
 人々の感嘆のため息と共に、その演目は終わった。舞切った二人は、舞台の上で大王に向かって深々と一礼すると、大王のいらっしゃる本殿から一人の男が飛び出してきた。そして、大王の言葉を男は舞台下にいる者に伝え、舞台下の警護する武官は息も絶え絶えの二人に取次いだ。二人は顔を見合わせて、取次の武官に導かれて大王のいらっしゃる本殿前に導かれた。
 二人の熱のこもった見事な舞が久しぶりに開催した月の宴の最後に熱狂をもって締めくくってくれたことに対する大王からのお言葉を、直に頂いたのだった。
 そして、大王は翔丘殿からご退席された。続いて、大后の継様が大王の後ろをついて行かれる。
 碧は、第五妃のため、退出するまでにもう少し時間がかかる。しかし、思いの外順調に退出の列は流れているようで、碧のお付きの女官が座を立ち上がるように促した。礼たち周りの者たちは立ち上がって、碧の行く通路を開ける。
「礼。楽しかったでしょう?またの機会もぜひにね」
 碧は微笑して、女官、侍女たちを引き連れて部屋を出て行った。
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