Infinity 

螺良 羅辣羅

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第二部 wildflower

第四十話

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 季節は春を過ぎて初夏へと移り変わっている。強い日差しに刺されながら、一言も文句言わず礼は馬を進めている。旅を始めてひと月が経った。男装束にも慣れて堂に入ったものだ。
 予想通り、山犬を避けるために泊めてもらった集落を発って三日目の昼間に若田城に着いた。夷との闘いを支える最前線の地は、都からの役人たちの町があり、その周りに農民たちの暮らしがあった。
 耳丸と礼は馬を下りて、引きながら小さな町の往来の中を歩いた。
 北の戦場はとても寂しいところと想像していたが、後方支援の若田城は国府の置かれた伊神となんら変わりない賑わいがあった。
 小さな市が立っていて、店先には青菜や魚が軒先に並べられている。中には反物などを並べている店もあった。耳丸は、山から採ってきた山菜や木の実を並べている店へと入り、なにやら交渉している。礼は耳丸が何の意図を持ってやっているのかわからず、後ろに控えて待っていた。不意に。
「瀬矢様」
 と呼ばれて、礼は驚いた。顔を上げると、耳丸が近づいてきた。
「こちらでお休みください。私は城の周りで知り合いを探してきます」
 礼はいきなりの事で、きょとんとしている。
「ここからは、ボロが出ないように演技する」
 耳丸が礼の耳に口を寄せて、そういった。
 これからは、礼は瀬矢という男医者なのだ。それも、口がきけいない。声を出してしまったら女と分かってしまうので、初夏の暑苦しさが増す最中ではあるが、首には布を巻き、喉に傷を負ったため、言葉が喋れないという設定である。
 礼は頷いて、耳丸を見上げた。
「この店の者にこの場所を借りることを頼みました。しばらく、この店先でお休みください」
 打って変わって丁寧な言葉で話し、主従の関係を表す。
「瀬矢様、こちらへ」
 耳丸に促されて、礼は店の中へと入り、耳丸は馬を軒先へとつないだ。この店は連なる店の一番端で、馬も繋ぎやすかった。
「では行ってまいります」
 耳丸は青菜売りの主人の手の中に押し込んで出て行った。
 礼は耳丸がそばから離れてしまって、急に不安になった。岩城の知った者を探し新田のだが、少しの間離れるだけで、今まで守ってもらっていたことをしみじみと感じた。
 礼は地べたに座って、板壁に寄りかかりじっと耳丸を待った。
 耳丸は、礼と別れて若田城の官衙の立ち並ぶ方へと向かった。誰か見知った者のあてがあるわけではないが、まずはそこへ行って岩城の者を見つけられれば、なんとかなるだろうと思ったのだ。官衙は周りを築地塀で囲まれており、南側に門がある。ぶらぶらと築地塀に沿って歩いた。塀に沿った道では何人かすれ違う人や、追い抜く人があるが、見知った者はいなかった。随分とゆっくりゆっくり、時には道草を食うように道端に立ち止まって、遠くを眺めたり、地べたの虫を見たりしながら塀を一周した。南に面する門の前まで来た。門の前には衛兵が二人立っており、身元のわからぬ者は簡単に入れないようで、農民風情の者が中に入ろうとすると声をかけられている。どうしたものかと、耳丸は思案した。こういう時は正攻法で、正面から向かっていくしかないか、と心の踏ん切りをつけたところ。
 南門の前で中に入ろうとする男二人がなにやら言い合いを始めた。男二人は、訛りがあるので土地の者のようだ。その二人が、官衙の中に入ろうと道の左右からそれぞれ歩いてきて門の前まで来たところで鉢合わせになり、なにやら言い合いになった。不仲なのか、敵対関係なのか、取っ組み合わんばかりの勢いである。二人とも、自分だけでなく後ろに大きな荷を担がせた供を二人ほど連れている。官衙に荷を納めている商人たちなのかもしれない。供の者たちも肩をそびやかし互いに睨み合っている。そして、主人である先頭にいる二人の声が一段と大きくなったと思ったら、供の者を含めて取っ組み合いが始まった。
 門の前で始まったので、衛兵たちも見ぬふりできずに仲裁に入ったものか、と近づいた。通りを歩く通行人も突如始まった喧嘩にわっと寄ってきて人垣を作る有様だ。衛兵が「待て待て」と割って入ろうとするのに、男たちは構うことなく日頃の鬱憤を晴らすかのように取っ組み合っている。通りは怒声と囃し立てる声とが入り混じって、衛兵の制止を求める声もかき消された。耳丸は、ここが好機とばかりに、野次馬としてその輪の中に近づくふりをして、門の中へ入る隙を窺った。輪の一番後ろで、その中を覗くようなそぶりを見せながら、左右を見回して誰もが喧嘩に注目して、耳丸のことなど気にしていないことを確認した。
 そして、耳丸は後ずさりしながら、門の前まで来ると、その中へと飛び込んだ。
 門の中に入ると、すぐに目に飛び込んだのは広い広場だ。自分の身を迷い込ませようと思っていたのに、隠すものがなにもない。耳丸は振り返って、築地塀に沿ってある回廊の太い柱に向かった。とりあえず、ここに身を隠して考えようと丸太柱の内側へとその大きな背中を預けた。一息大きく吐き切る寸前に、声をかけられた。
「おい!」
 それは、鋭い誰何の声だった。
 耳丸は息を止め、応える声が出なかった。逃げるわけにもいかず、その声の方を向くしかなかった。
 門をすぐ入ったところの、一段高くなった敷石をまたいだところに立ってこちらを見ている男と目があった。耳丸が門前の騒ぎに乗じて門の中に入った後に、男は騒ぎにも目もくれず外出から帰ってきて、門をくぐったとところに怪しい男を見つめたという様子だ。
 耳丸は返す言葉もなく、怯まずに見返すしかなかった。男も、鋭い目つきで耳丸を見ている。怪しい侵入者を射止めて離さないつもりだ。
 二人の男はしばらく睨み合ったが、先に表情を緩めたのは、相手の男の方だった。
 睨み合う男の表情がふっと険悪さを取り去り、不思議そうな顔つきになるのに、おやっと耳丸の方も表情が崩れる。
「あんたは……」
 男が口を開く。
 耳丸も記憶を手繰り寄せる。この男とは、都で会っているのだ。都、そんな広い範囲ではない。岩城の屋敷で会っているのだ。
「岩城の者です」
 考えるよりも先に耳丸は言っていた。
「……そう。お屋敷で見たことがある」
「私も同じでして。私は、実言様の下で働いております」
「そうだな。実言様の離れでお見かけした」
 耳丸は再びのこの好機を逃してなるものかと、たたみかけるように言葉を発した。
「私は実言様に呼ばれて、この地に参っております。実言様は?」
 口から出まかせではあるが、どうにか男がこちらに歩み寄ってきてくれれば良いと思った。
「実言様は戦場だ。何の用でここへ。実言様がお呼びなるとはどういうことかな」
「実言様から、遅れて秘かにこの地へ参れと仰せつかっておりました。やっとのことでただいま到着したところでございます。しかし、途中にこのことを書き記した実言様の書状を失くしてしまい、途方にくれながら、どうにか岩城ゆかりの方を見つけたいと思い、こうして忍び入ったところでした」
「そうか」
「私は耳丸と申します。実言様とは乳兄弟の間柄でございます。私もあなたさまのお顔を覚えております。確かに、岩城のお邸でお見かけしております」
「うむ、そうだな。しかし、実言様はどうして、そなたを遅れてお呼びになったのだろうか」
「それは」
 と、耳丸は言った。
「医者を連れてこいとの命令でございます」
 礼を医者として実言のそばまで連れて行くのだから、今、変に礼を隠すようなことをすれば、移動が難しくなっていく。
 耳丸はできるだけ嘘はつかないでいようと気を付けた。
「医者?はて?」
「はい」
 耳丸はどんな理由をいったものかと、考え、目が泳ぐ。
「都に遣いを出したのと同時に実言様も秘かに、使者を出されたということかな」
 と男がつぶやくように言った。
「実は、都から帯同した医者が死んでしまって。この地にも医者はいるが、言葉の問題もあるし、困っていたのだ。急遽、都へ遣いを出して医者を連れてきたところだった。それとは別に岩城の家からお呼びになったということか」
 耳丸は曖昧に頷いた。こちらの都合のいいように男が解釈してくれていることがありがたかった。
「こちらへ。少し話をしよう」
 男は門の前を離れて、広場の真ん中へと歩き始めた。丸柱に張り付いたままの耳丸についてこいというように、一度振り返った。耳丸は男を追って歩き出した。男の一歩後ろをついて歩くと、男は話し始めた。
「実言様は、交戦中に敵の急襲にあい、退く時に退路をなくして孤立された。それから消息不明だったのだが、供の者が今、この若田城に帰ってきたところだ。それで、実言様はどうにか逃げおおせられていることがわかった」
 耳丸はその話の一言も逃さないようにと、一歩下がって歩いていたところが、ほとんど並んで歩いていた。
「それで、実言様は?」
「ご無事のようだが、怪我をされていて動ける状態ではないそうだ。逃れた先は小さな村落で、一応は我が大王の支配下の者たちである。しかし、夷との支配が入り混じった土地ゆえ、簡単に行き来できない。戻った者も、地理に不案内で、迷いながらどうにかたどり着いたということだから、どこに行けば実言様の元に行けるのかはわからないということだ。将軍の谷原様は、実言様を諦めるしかないとおっしゃるし、我々はどうしたものかと悩んでいるところだ」
「私が行きましょう」
 間髪入れずに、耳丸は答えていた。
「私と連れてきた医者は誰の支配も受けていない。自由に動ける身です。私が実言様を探しましょう。そして、医者に手当てさせて、実言様を助け出してみせます」
 広場を歩き切って、庁舎の中へと入った。二人は庁舎の中の廊下を歩いて、来客のための小さな小部屋の中へと入った。
「この討伐への実言様の参加は、岩城の権勢を殺ぐために王族方が作為的に仕組んだことだ。将軍は夷には打ち勝たねばなるまいが、王族のどなたかからは実言様を見捨てても構わないと言われているのだろう」
 部屋の中で、二人は対峙して、やっと落ち着いて話せるようになった。しかし、男は誰が聞いているかわからないため、ずっと声を落としたまま話す。
「帰ってきた者も岩城に仕える者で、我々実言様にこの城で待機するように言われていた者が取り囲んで、実言様の状況を聞き出していたところに将軍の使いが現れて、その者を連れて行ったきり戻してはくれぬ。実言様の情報を我々に教えないようにしているのだ。帰ってきた直後に聞き取ったこと以外はわからないのだ」
 春日王子はこの地で実言を犬死にさせるつもりであることは、岩城の家の者であれば誰もが秘かに感じ取っていた。しかし、当の実言がそんなことを気にしていない態度であるため、皆は悲愴に浸らずいた。しかし、ここに来て将軍はとうとうその密命に従って実言を殺す気なのだ。実言は戦の中で斃れさせられるのだ。
「どうか、私に行かせてください。力を貸していただければ、必ず実言様を救い出してまいります」
 耳丸は哀願した。礼に付き従って無理やり始まった旅であったが、ここまで来て、今の話を聞いたら、それは礼の気持ちを代弁するというよりも、耳丸自身の思いだった。我が主人である実言を助けたい。本来なら、耳丸は実言に随身してこの地に来るつもりだったのだ。
「それはありがたい。我々は将軍の指揮下にあり、表立ったことができない。秘かに園栄の大臣に今のような話を手紙で知らせるのが精一杯だ」
 耳丸は強く頷いた。
「どうか、我々に力を貸してください。やり遂げてみせます」
 男は顎に手をやり、しばし考える姿で静止した。やがて、顎から手を離し、顔を上げた。
「我々ができることは限られているが、何もしないよりはましだろう。こちらでわかっていることをお教えしよう。どうか、実言様を救出していただきたい」
 そう言うと、男は立ち上がり耳丸についてくるよう促す。耳丸は、市に置いてきた礼のことが気になったが、今はここで出会った岩城の家来であるこの男についていくしかなかった。
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