Infinity 

螺良 羅辣羅

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第二部 wildflower

第五十七話

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 翌日、伊良鷲が粥を持って現れた。
 礼は守られた場所で休めることに安心して、随分と寝込んでしまった。伊良鷲が、小屋の戸を外した時に、慌てて起きだした。横にいる耳丸は気を失ったように眠っている。
 すぐに立ち上がって、入り口に向かった。陽は高く、伊良鷲たちは田や畑で一仕事終えた後のようだ。
「どうだ?あんたの連れは?」
「……眠っています。あなた方がゆっくりと運んでくれたから、傷口は広がらなかった。体が治るまでここに置いてもらえないだろうか。私はなんでもします。畑や田の仕事でもできることを手伝いたい」
 粥を載せた盆を挟んで前のめりに訴える礼の言葉に伊良鷲は軽く頷いた。
「ま、ぼちぼちとやってくれよ。まずは、妹を見てくれ。あれの夫が、昨年に亡くなった。子供が次は母親かと心配しているから、どうか元気にしてやってくれ」
「……もちろんです。できる限りのことをするわ」
 伊良鷲は粥の載った盆を礼に押し付けた。礼が受け取ると、伊良鷲は踵を返して母屋に戻っていった。
 礼は村のそばを流れる川へと向かい、水筒と盥に水を汲んで小屋に戻ると、耳丸が目を覚ましていた。
「……どこに行っていた?」
 耳丸は心配していて、すぐにそう聞いた。
「水を汲みに行っていたのよ」
 礼は、耳丸の体を少しばかり起こして水を飲ませた。人心地ついたら、粥を食べさせる。まだ椀に入った粥の半分も食べられない。礼は、山から取ってきた生り物を取り出して手で小さく千切って耳丸に食べさせた。
 耳丸も、小屋という安全な中にいるので安心しているのか、明るい表情をしているので、少々の痛みを我慢してもらうことにして、着ている物を脱がせた。袴は血や排泄物、草の汁や泥にまみれているし、上衣は血と汗で黒く染まっている。全身から耐え難い悪臭が放たれていたのだ。上衣は左肩の傷のために、手で引き裂いて耳丸の体に負担をかけないように引き取った。濡らした手ぬぐいで体を拭いてやって、その上から単をふんわりとかけてやる。その方が、傷口をすぐに診ることできて都合が良かった。
 礼は最後に、傷口に薬を塗るとそこを覆う葉を置いて、体に掛けた上着を肩まで引き上げた。
 耳丸は痛みに耐えながら、じっと宙を見ている。まだ動けば、肩の痛みが身体中をつんざいて我慢するのに一苦労であるし、何一つ自分の自由には動けず、礼の手を借りっぱなしなのを情けなく思っている様子だ。
 耳丸は体をきれいに拭いてもらって、さっぱりしたのと、体を左右に動かしたりしたのが疲れとなってウトウトし始めた。
 礼は、耳丸がすっかりと寝入ってしまったのを見届けると、空になった粥の椀をのせた盆を持って伊良鷲の住む母屋に行った。
 入り口に立つと、昨日の少女と伊良鷲の母親と思われる老女がかまどの前に座っていた。
 少女が立ち上がると、礼に近寄り言った。
「あなたは、頭や体を洗った方がいいわ。滝に連れて行ってあげる」
 そこで初めて自分も耳丸に負けず劣らずのひどい姿に悪臭を放っているのだとわかった。
 少女の名は、貞という。彼女が自分で名乗った。
「私は礼よ」
 礼も名を言うと、礼……と少女は呟いて先を歩いた。
 黙って少女について行くと、どんどんと山の中に入って行って、小さな滝のある場所にたどり着いた。
 礼は、着ているものを手早く脱いで、浅瀬から深みへと水の中に入っていった。久しぶりの水浴びに、心も体も清らかな水に洗い流される思いだ。この数日の絶望的な思いと、それに立ち向かうために奮い立たせてきた気持ちに一息つけた。
 持っていた手ぬぐいで顔や首を洗って、滝壺近くの深みまで来ると、膝を折って、頭の先まで水の中に入れて髪を洗った。野盗に殴られた左頬にそっと手で触れると前ほどの痛みは感じなかった。
 礼が水から上がって、衣服を身につけていると、貞は森の中から現れた。礼が水浴びをしている間、山の中の生り物を探していたようだ。腰に巻きつけた前掛けの前端を持ち上げて、器のようにして採ってきたものを入れている。
 礼に一つ差し出して。
「きれいな黒髪ね」
 と言った。
 礼と貞は倒木の上に腰掛けて、取れた枇杷の実を食べた。無言であるが、礼は少女の優しさが伝わってきた。食べ終わると二人は立ち上がり村に戻る道を歩き始めた。礼は途中で、紅花が生えているのを見つけたので、花を摘み取っていると、貞も一緒に摘み始めた。次に自生しているよもぎを二人で摘み取って小屋に帰った。
「どうするの」
「筵はあるかしら?干したいのよ」
「持ってくる」
 礼は自分と耳丸のいる小屋の前に貞が持ってきた筵を敷いて、紅花とよもぎを広げて干した。
 それが終わると礼は貞の背中に手を置いて言った。
「お母様のところに行きましょう」
 貞は頷いて、二人は母屋に行った。伊良鷲の老母は普段通りに生活していて、礼に驚くことはない。
「ねー」
 貞を見た年の頃は五つくらいに見える男児が歩み寄ってきた。
「ねー、どこに行っていたの」
 ねーとは、姉をそう呼んでいるらしい。どうやら貞の弟のようだ。
「滝に行っていたのよ」
 貞が抱き上げると、寂しかったと言わんばかりに貞の首にかじりついて、体を寄せる。貞が弟をあやしている間に、礼は奥の病人が寝ている部屋に向かった。
 病人は、目を覚ましているが、体を横にして仰向けに目をつむっていた。礼が入って行くと、人の気配に気づいて病人は目を開けた。
「気分はいかが?」
 礼が傍に座ると、病人は体を起こそうとする。
「いいのです。無理はいけません」
 体を起こそうとしても、めまいがして起き上がれなかった。
 礼は手を添えて、病人の体を留めた。
 礼が指示して老母が煮た薬湯を貞が椀に入れて持ってきた。
 盆の上で湯気を立てている椀に向かって、貞は息を吹きかけて冷まそうとした。礼は病人の後ろについて、一緒に体を起こすのを手伝い、その背中に寄り添って支えた。娘の手からゆっくりと薬湯を飲む母親は弱々しくも、このまま寝付いてはいけない、元気になろうという意思が見られた。苦いものであるのに、一気に飲み干す勢いである。
「無理をしなくてもいいのです。飲める分だけで。また時間をおいて飲めばいいのです」
 母親は器から顔を上げた。礼はしばらくそのままの体勢を保って、ゆっくりと体を横たえさせた。すると、疲れたのか母親は目を閉じた。
「また、時間を空けて様子を見に来ます」
 礼が立ち上がって、部屋の入り口に向かうと、貞の弟がその戸口にすがって立っている。幼き子が母親に甘えたいのに病人であるからと部屋の中に入ることを止められているのだろう。入り口に境界線のように横たわっている基礎の丸太を踏み越えられないでいる。
 礼は幼い子を目の前にして、束蕗原に残してきた我が子を思い出した。二人はもう二つになっている。別れるときはまた這うことの方が多かったが、今では立ち上がってよく歩いているだろうし、より明瞭に言葉を発して、自分の意思を伝えられるようになっただろう。どれほど可愛らしく成長しただろうか。その時期を見守ることを礼は自ら手放した。後悔はしないと決めたけれども、思いをはせると、そのやるせない感情に支配される。
 礼は貞の幼い弟と目線を合わせるようにしゃがむと、その胴に手をやり支えた。
「お母様は元気になるわ」
 そう話しかけたが、男児は幼くて何を言われたのかわからないふうに、首をかしげた。
 礼は立ち上がると、母屋を出て、小屋に戻った。
 耳丸はまだ寝ている。とても穏やかな顔をしているので、礼も安心して、洗濯をしに川に向かった。
 それから数日は、耳丸の看病と、貞の母親を診るのと、薬になる草を摘み取る毎日だった。
「礼様」
 貞が呼んだ。礼は、川で洗濯をしている時だった。裳をたくし上げて浅い川にくるぶしまで浸かっているといるところを振り向いた。
「お手伝いします」
 貞の母親の新(にい)は、ひどく体調を崩すこともないが、いまだに横になって過ごしている。そのため伊良鷲は、礼が医者であることを疑っている節がある。
「貞、あなたには家の仕事があるでしょう」
「いいえ。大切なお医者様をお手伝いしたい。早く、母さんを診てもらいたいから」
 と貞は言った。
「母さんは少しずつ元気になっています。お粥も沢山たべられるようになったし、随分と明るい顔になった。家におじがいない時は、起き上がって弟を抱っこして遊んでやっているの。きっと、もっと元気になると思います」
 礼は嬉しかった。手早く洗濯を終えると、洗ったものを小屋の前に干して、新を診に母屋に行った。前ほど気だるさを見せることなく、ゆっくりと自分で起き上がった。母親に甘えることを止められていた貞の弟も、部屋の中に入っていて小さな手で母親の背中を押して支え、最後にはその背中に頬を寄せて甘えた。
 ゆっくりとではあるが、新の体は内側から元の健康を取り戻しているように見えた。
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