Infinity 

螺良 羅辣羅

文字の大きさ
137 / 216
第三部 Waiting All Night

48話

しおりを挟む
 怖いほどの静寂だ。自分の耳が聴こえなくなってしまったかと、思うほどに。
「……どうした?」
 その声に、耳が聴こえなくなったわけではないことを確認した。
 朔は自分が息を止めて身じろぎもせず、じっとしていたのだと知った。隣に横になっていた方に声をかけるまで、その方……春日王子も無言で吐息もつかなかった。
「いいえ、何でもありませんわ……もう、お暇しませんと」
 朔は起き上がって、肩からずり落ちた襟を引き上げて単をきちんと着た。
 静かな時間が、自分の罪を責めているようで、恐怖を感じたのだ。いや、違う。それは罪悪感というよりかは、いつまでこんなことを続けているのかという、自分の心の苛立ちだ。 
「そんなふうに、急がなくてもいいではないか。まだ、陽は高い」
「ええ、ですが、最近の王子はとてもお忙しでしょう。いつ、来客があるかわかりませんわ」
「ふうん」
 春日王子は裸の体で腹ばいになり、両手で頬杖をついて、朔の言葉を反芻している。
「確かに、月の宴の準備で忙しいことは忙しいが、まだ先のことではある……、お前を放っておくほどにもないのだがな」
 朔は、春日王子の話しを聞きながら、無造作に脱ぎ散らかした袍を広げて皺を直している。
「お前は、今日だって体を許してくれるのに、終わってしまうとなんとそっけない態度なの。もう、私に冷めてしまったか」
 腹ばいだった春日王子は、両手を突いて起き上がり、朔の背後によると、朔の肩に顎を置いて背中から抱いた。
「何をおっしゃいますの?王子様を袖にするようなことがあるわけありませんわ。ひどい疑いをおかけになるのね」
「お前の今日の態度から、私への興味のなさを感じたのさ。お前は美しいから、新しい男でもできたのかと、疑いたくなった。私はお前を離したくないと、何度も、懇願しているのに」
 朔は春日王子の言葉に、怒りを感じた。他に愛人を作ったように言うが、そんな尻の軽い女のつもりはない。一人の男を一途に思い思われして添い遂げるのが幼い頃から夢見たことである。
 朔は、春日王子から離れるように身を縮めて、体を前に倒した。朔の心を敏感に感じた 春日王子は離れていく朔の肩から顔を上げて、自分の顔に向いている方とは逆の頬に回していた手を添えて逃げないようにして、朔の頬に口づけた。
「悪かった。貞淑な椎葉家の妻を無理やり我がものにしたのは私だ。私がお前を穢しだのだ。しかし、許しておくれ、今はもうお前から離れられない私なのだ。一時の気の迷いではないと分かってくれるだろう」
朔は少し身をすくめただけでじっとしている。
 春日王子は、朔の体を自分の方へ向かせて、最後には褥の上に押し倒した。
「こんなに愛しい……」
 その薄い唇の隙間から狂おしそうに言葉を絞り出すと、春日王子は朔に降り注ぐような接吻をした。
 しかし、今日の朔は春日王子の激情に流されることなく、冷静である。
 春日王子は他の女人に夢中になると、後宮を訪ねた朔に、自分の部屋に寄るように遣いをよこすが、あっさりとした態度で、頃合いを見計らって帰るように仕向ける。王子は夢中な女人一人にどっぷりつかることはなく、愛人を体よく繋いでおく。
 最初の頃の朔は、もう春日王子の密かな寵愛は消えたのだと思い、別れの覚悟を決めるのに、次に会ったときは、息もつかせぬほどの勢いで愛され、お前を離さないと攻め立てる。意中の女人に冷めたのか別れたのか、どのような経緯をたどったのかわからないが、王子の心は再び朔に戻ってきたのだ。
 自分勝手な人と、心の中で詰っても、その熱い態度にやはり行きつくところまで行こうかと、自分もずるずると王子の愛にすがってしまう。
 だけど、朔はもう一つの愛も手放せなかった。いや、今の自分は真剣にこの愛に帰りたいと思っている。
それは、夫荒益の愛である。
 夫は、何かしらの事情で自分の不貞を知ったのだ。相手が春日王子であるとまでわかっているかは不明だが。その事実を知りながら、先日の邸の庭での激しく優しい態度である。荒益の元に戻るなら今しかないのだ。自分はまだ夫を愛しているし、夫も自分に愛想をつかしたわけではないのだ。夫の元へ戻って、詫びる気持ちで尽くすのだ。
 春日王子は褥に押し倒した朔に添って自分も横たわり、その首元に額を押し付けて朔を抱きその体に甘える。
「王子……」
 朔は身を任せていると、隣の部屋から舎人の控えめな声が聞こえた。
「……春日様、来客でございます。……哀羅王子がお見えです」
 春日王子はしばらく黙っていたが、ゆっくりと返事した。
「……わかった。……行くのは行くが、少し時間がかかる故、酒でも出してもてなしてやってくれ」
「はっ」
 短く答えて、舎人は部屋から出て行った。
「……やはり、王子はお忙しいではありませんか」
 朔はそう言って、体を起こそうとした。名残惜しそうに、朔から離れて春日王子は起き上がった。
 自由になった朔も起き上がると今度こそ衣装を身に着けて帰り支度をした。
 すっかりと衣装を着こんだ朔は立ち上がった。春日王子は褥の上に起き上がっているが、裸のままでぐずぐずと朔の帰り支度に小言を言っている。
「お客さまをお待たせしていらっしゃるわ。……王子、どうなさったの?今日はまるで子供のよう」
 朔は座っている春日王子の前に膝をついて話しかけた。何も言わない春日王子に、朔は寂しく微笑んで再び立ち上がった。
「……朔」
 春日王子は几帳の後ろに消えていこうとする朔の名を呼んだ。脱ぎ捨てた衣を拾ってはおり、朔を追いかけた。
「こんなにあっさりと去ってしまうなんて、寂しいじゃないか」
 朔を後ろから抱きしめて、春日王子は言った。
「……また、後宮でお会いできますわ」
 朔は答えた。
 春日王子は朔を自分の方へ向かせて、再び抱いた。
「ああ、そうだな」
 ようやくその手を放し、朔の顔を見つめた。
朔は微笑んで、そのまま部屋を出て行った。春日王子はその後ろ姿をじっと睨んでいた。
 朔の足音が聴こえなくなると、部屋の中に侍女が入ってきた。春日王子の衣一枚をひっかけただけの姿を見かねて、着付けの手伝いをしようとした。
「まだいい。少し、横にならせてくれ」
 そう言うと寝所に入って寝転び、目を閉じた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

ビキニに恋した男

廣瀬純七
SF
ビキニを着たい男がビキニが似合う女性の体になる話

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...