Infinity 

螺良 羅辣羅

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第三部 Waiting All Night

66話

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「王子、行って参ります」
 小柄な老爺の日良居は哀羅王子の部屋で言った。
「ああ。苦労をかける」
 哀羅王子は言った。昨日の実言の使者との打ち合わせで、哀羅王子と実言の五条の邸の間にある、大田輪王の邸に行き、そこに待機する実言の従者に警護されながら、実言の邸まで行くことになっていた。
「岩城実言の邸へ行ったら、ほと掘りが冷めるまでそこにじっとしていろ。話はしてあるから」
 哀羅王子に言われて、日良居は頷いたが部屋の隅に控えている妻が心配で、本心は役目が終わればすぐに帰ってきたいのだった。妻は最近気分が優れず体を立てにするのも辛いのだが、今日は夫の大事な日と思い、哀羅王子の前に来ていたのだ。
「はい。ありがたいことでございます」
 少し前のこと。日良居は袴の下に腰から革の帯を巻いた。その中には、春日王子が取り戻したがっている例の連判状を挟み込んでいた。しかし、哀羅王子は別に日良居に紐を掛けた細長い箱を渡した。
「これは?」
 日良居は問いかけた。
「おとりだ。お前に運んでもらう物を狙っている者がいる。もし襲撃を受けたら、素直にこの箱を渡せ。しかし、腰のものは絶対に渡してはいけない。箱を渡したら逃げろ。必ず逃げるのだ」
 哀羅王子は、日良居の肩に手を置いて言った。その手は痛いほど日良居の体に食い込んだ。王子の迫力に圧されて、日良居は自分が担う任務は重要であることを悟った。
「では、お前、行ってくるよ」
 妻戸近くの几帳の前に座っている妻に挨拶すると、妻は微笑んで頭を下げた。青白い顔が優しい笑みで送り出してくれた。
 
 日良居は邸の門を出て、都を南に向かって歩き始めた。懐の中に収めた箱が重く、固く胸に当たる。自分の歩みを誰かが見ているのかと思うと、右手と右足が一緒に出てしまいそうになる。歳を取った自分が無理をしたところで、体力が持たなくて、休み休み行くことになってもいけない。日良居は自然体を心がけてゆっくりと歩いた。
 牛に荷を引かせている一行の荷台を推している若い男とすれ違う時に目が合った。後ろから足早に日良居を追い抜かしていく宮廷の下級官僚の衣服を着た中年の男の肩が日良居の肩に薄くぶつかって、詫びるような視線を送られた。
日良居はそれが岩城家の使いであるように思った。
 今朝、哀羅王子と二人きりで話した時に、日良居は必ず岩城実言の邸までたどり着かなければならないため、その道中には人知れず警護をつけると言われた。だから、目の合う人は皆が岩城の従者で遠くから、また時には近づいて自分を守ってくれているのではないかと思った。なんとも心強い気持ちでずんずんと、中継地の大田輪王の邸にたどり着いた。
 門の中に入ると、すぐに人が近づいてきて部屋に案内された。使用人たちの使っている部屋の一つである。
「お役目、ご苦労様です」
 日良居が部屋に入ると、その中には若い男が一人座っていて、労いの言葉を言った。
「座って寛いでください」
 日良居は足を投げ出して座った。自分が思っている以上に、緊張して疲れていることが分かった。門から部屋まで案内してくれた男が椀を手に持って入ってきた。日良居の横に置いて、若い男のすぐ後ろに座った。日良居は喉が渇いていたので、すぐに置かれた椀に手を伸ばした。
 男二人は小さな声で何やら話をしているところに、日良居は喉を鳴らして椀の中の水を飲み干した。勢いよく飲んだもので、手の甲で口元をぬぐっていると若い男が話し始めた。
「やはり、あなたを付けている者がいるようです。ここから私もご一緒します。あなたがどこに向かっているか相手もわかればどのような手段に出るかわからない。十分に気を付ける必要があります。我々は必ずあなたを我が主人の邸に送り届けなくてはいけない」
 日良居は自分が預かっている物は命を賭けるほどの大切なものであることを自覚した。そして、ここからこの若い男が一緒にいてくれることに安心した。
「あなたが人心地着いたら、すぐに出発しましょう」
 日良居はもう一杯水が欲しいと訴えた。間もなく椀に並々と注がれた水を飲み干すと、男たちは立ち上がり部屋を出たのだった。
 階を下りるところで、一人の老いた男が近づいてきた。
「気を付けて。幸運を祈ります」
 その物腰、身なりからこの邸の主人であることがうかがえた。岩城の若い男が平伏し、日良居も習って頭を垂れた。
 岩城の従者は、日良居と同じように下男のようなみすぼらしい格好で、門の内側に立った。言葉はないが、後ろを振り向いて頷いた。日良居もその様子を見て頷き返す。
 日良居は男の後ろに着いて門を出た。通りで、目の合った男は岩城の使いと思い込んで安心を得ていたが、実は自分を見張っている相手方の間者の可能性もあると思うと、下を向いて一刻でも早く岩城実言の邸にたどり着きたいと思った。
 大田輪王の邸から岩城実言邸に行く道中は、哀羅王子の邸から大田輪王邸の来るよりも遠い。早く早くと気持ちが急いて少しばかり速足になる。岩城の従者は父親を庇うように日良居を背中で守って、大勢とすれ違う時は塀側に寄せて身構えた。日良居は前を歩く従者の背中にぶつかりそうになる。
 ほとんど無言で何とか五条の岩城実言の邸近くに来た。この角を曲がれば、岩城実言の邸の門が見える。
「ここを曲がれば、門まで走るのです」
 斜め後方にいる日良居に顔を向けて、低い声で岩城の従者は言った。この角を曲がれば、二人がどこに行こうとしているか、つけている間者は確信するのだろう。機先を外すためにも、この角を曲がると走るのだ。
「私はまっすぐ行きますが、あなたは角を曲がって走るのです」
 にっこりと笑いながら岩城の従者は言って歩きはじめた。日良居もその後をついて行くような素振りを見せて、通りの真ん中に来たら、横の通りに飛び込むように向きを変え走り出した。日良居の動きに、自分を追う影がいたように思ったが、本当に追いかけているのか確認することはできなかった。日良居の前を歩いていた従者は真っすぐに歩くように見せかけて、すぐに振り返って日良居を追ってきた。すぐに追いついて、日良居を抱えるようにして、二人で門へと走った。どんどんと近づいてくる門。そして、目指す門の前に立つ衛兵もこちらに気づいて走ってくる。
「頼む!」
 日良居の耳元で若い従者は衛兵に向かって言った。体が押されたと思ったら、衛兵の手に引っ張られて、日良居は思ったよりも体が前を走っていた。視線を前に向けると門の前には数人の男たちが出てきて、その人たちもこちらに向かって走ってくる。
 自分の腰に巻いている物はこんなにも大切なものなのかと再び思い知らされる。男たちに周りを囲まれて団子になって門の中へと転がり込んだ。それと同時にすぐに門は閉められた。皆は肩で息をしながら、一息ついた。しばらくすると再び門が開き、一人の男が飛び込んできた。日良居とともに来た若い男が左肩を押さえている。赤い色が見えて、日良居はそれが血であると本能で分かった。
「どうした!」
「大丈夫か!」
 口々に言葉が発せられる中で、「医者だ!」という声が飛んだ。
 若い従者は往来で剣をあびせられたのだとわかった。
 肩から流血している男を皆が取り囲み抱えて邸の奥に連れて行ったところに、日良居の前に一人の壮年の男が立った。
「哀羅王子様のお使いの方ですね。私は岩城実言様から全てを任されております渡道というものです。よくここへおいで下さいました。さ、こちらへ」
 日良居は岩城実言の邸の中へと迎え入れられた。
 連れていかれた先は使用人たちの住居棟ではなく、母屋の方だった。日良居はまだ新しい邸の美しい御簾が下がっている簀子縁を歩いた。古びた哀羅王子の邸とは全く違っている。
「こちらへ」
 部屋の中に進むと、趣向を凝らした調度がそろった室内に入った。
「主人は宴のために宮廷に行った後です。今は私がすべてを取り仕切るように言われております。お疲れでしょう。お寛ぎください」
 部屋の真ん中に円座が置いてあり、そこへ座るように勧められた。このような豪華な部屋は慣れなくて座った尻がこそばゆい感じがして落ち着かない。
 一旦、渡道という男は部屋から出て行った。それと入れ替わりに、男が椀を持って入ってきた。目の前に置いて、そのまま出て行った。喉の渇きは目の前の椀を見て思い出したように自覚した。一口ごくりと喉を鳴らして飲んだ。
 飲み終わっても先ほど渡道と名乗った男は戻って来ない。いつまで一人で座っていたらいいのだろうか。手持無沙汰に日良居は部屋から見える庭に目をやった。水が張られた池があり、その周りには瑞々しい青い草木が生えている。いちいち我が哀羅王子の邸の庭と比べて、そのみすぼらしい荒れ果てた庭や池を思いやった。自分のこの役目が哀羅王子の再興になることを祈るばかりだった。
 それは不意であった。足音、気配なく傍の几帳の陰から男は現れた。
「よくいらっしゃいました」
「はい」
「お持ちいただいたものをお渡しください」
 優しい声音であるが、急に現れた若い男に違和感を覚えた。このような若い男が急に現れて渡していいものだろうか?自然と日良居は胸に手をやって箱を触った。これを渡せということだろう。
「あなた様は?」
「私は渡道様の使いで、あなた様がお持ちになった物を預かるように言われています」
 若い男は優しい笑顔を向けて日良居を見ている。先ほど部屋に案内してくれた男は貫禄もあって、信用できるように思ったが、その人がこの若い男にこれを渡せと言ったのか。
「あ…はい……」
 日良居は懐に手を入れて、紐を掛けた箱を取り出した。
 若い男は無言で手を差し出す。日良居はその手の上に箱を置くと、男はすぐさま取り上げるように受け取ってそれを自分の懐へと収めた。その粗暴な振る舞いに日良居は恐怖を覚えて身をすくめた。次に男はギラリと目を光らせ、素早く動いて背中から短剣を振り上げた。光る切っ先が見えて、日良居は悲鳴のような声を上げて、両手を顔の前に上げた。
「間羽芭!」
 刺される!と思ったところで、声が飛んだ。閉じた目を開けると、案内してくれた渡道という男とその後ろに数人の剣を抜いた男が簀子縁に現れた。
「お前!」
 間羽芭と呼ばれた男は顔を上げて簀子縁の男たちに目を見張ったが、手に持った短剣を日良居に振り下ろした。日良居はとっさに後ろに跳び退った。すんでのところで、振り下ろされた剣をかわした。
部屋の中に三人の男が雪崩れ込んできた。間羽芭は日良居を仕留めるのをあきらめて、日良居から奪った箱を入れた懐を押さえて逃げた。
「待て!」
 鋭く静止を呼びかける声が飛ぶが、間羽芭の逃げ足は速かった。追う男たちに揉まれるように日良居は後ろにひっくり返った。
「捕らえろ!殺してもかまわぬ」
 自分の目の前に立った渡道という男の口から非情な命令が発せられた。
 あっけに取られて見上げていた日良居を背中から支える男が落ち着いた声で話しかけてきた。日良居が声に振り向くと、大きな男が座っていた。
「大丈夫か?」
「……あなたは」
 市での連絡役をしてくれていた大きな男だとわかった。
「耳丸、別の部屋へご案内しろ」
 渡道が、大きな男、耳丸にそう命じて、日良居は肩を抱かれるようにして奥の部屋へと連れていかれた。
「お怪我はありませんか?」
 部屋の中に落ち着くと渡道が訊ねた。日良居は胸が激しく鼓動して苦しいが、それ以外には痛みなどなかった。首を振って怪我はないと答えた。
「よかった。それで、あなたはここへ届ける物があったはずですが、あの男に渡されたのですか」
 低く、ゆっくりと話す渡道の様子は、ことが悪いほうに向かったのではないかという恐れを隠した話しぶりだった。
「ええ、怖くて懐に持っていたものを渡してしまいました」
 その答えを聞くと、渡道は誰にも見て取れるように落胆した表情をした。
「……そうか」
 日良居を責めることはないが、渡道はその落胆を隠さなかった。
「……しかし、私の主人から懐のものはおとりであって、本物はこれだと聞かされています。どうか、これを見てください」
 日良居は袴の腰ひもを解き、鹿の革の中の紙を取り出した。
 すぐさま受け取った渡道は目を通すと、落胆の表情から一転、目を輝かせて日良居を見た。
「これがあなたが我が邸に届ける本当の物です。しかと受け取りました」
 渡道の安堵の表情に、日良居もほっとして崩れ落ちそうになった。
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