星を仰ぐふたりのシナリオ

TAKAHARA HIROKI

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第1章:色褪せた台本と錆びた弦

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第1部:乖離(かいり)する夢

地下のライブハウス特有の、埃とたばこの煙が染みついた匂いが、優音(ゆおん)の肺を満たしていた。
「ありがとうございました」
マイクに向かって呟いた言葉は、誰の耳にも届いていないようだった。客席にはまばらに数人。彼らはスマートフォンの画面を眺めているか、グラスの氷をカランと鳴らしているだけだ。
優音はアコースティックギターを抱え直すと、逃げるようにステージを降りた。
楽屋とは名ばかりの狭い物置スペースで、ギターをケースに収める。指先が震えていた。緊張ではない。悔しさとも少し違う。ただ、底のない徒労感が指先から全身に回っていくような感覚だった。
(今日も、誰にも届かなかった)
高校を卒業して二年。上京してからの日々は、まるで色褪せたフィルムのように単調で、それでいて残酷なほど鮮明に「お前は不要だ」と突きつけてくる。
重いギターケースを背負い、非常階段を上がって地上の夜に出た。東京の夜空は明るすぎて、星なんて一つも見えない。
「……お疲れ」
ガードレールの影から、聞き慣れた低い声がした。
蓮(れん)だった。コンビニのビニール袋を提げ、安っぽいウィンドブレーカーのポケットに片手を突っ込んでいる。彼もまた、劇団の稽古というよりは、大道具の運搬と先輩の雑用を終えた帰りなのだろう。美しい顔立ちには疲労の色が濃く、目元には隈が浮かんでいた。
「来てたの?」
「最後の一曲だけな。外への音漏れで聴いてた」
蓮は缶コーヒーを一つ、優音に放ってよこした。
まだ温かいそのスチール缶を握りしめると、優音はようやく息ができた気がした。
二人は並んで歩き出した。行き先はどちらかのアパートではなく、いつもの公園だ。
「どうだった、今日の客入り」
「最悪。バーテンダーさんが一番熱心に聴いてくれたかも」
優音が自嘲気味に笑うと、蓮も少しだけ口角を上げた。
「俺なんて、今日は『通行人B』の役すら降ろされたよ。『顔が良すぎて主役より目立つ』んだとさ」
「何それ。贅沢な悩み」
「皮肉だよ。演技を見てもらう以前の問題だ」
蓮はポケットから、ボロボロになった台本を取り出した。手垢で黒ずみ、ページの角は何度も折られている。だが、そこに書かれている彼のセリフは、マーカーで引かれたほんの数行だけだ。
彼は悔しそうに台本を丸め、夜空に向けた。
「俺たちはいつまで、この『下積み』ってやつを続ければいいんだろうな」
蓮の声が夜気に溶ける。
優音はギターケースのベルトを強く握りしめた。
才能がないわけじゃないと信じたい。けれど、世間という分厚い壁は、爪を立てても傷ひとつ付かない。
「……ねえ、蓮」
「ん?」
「私、蓮の演技好きだよ。誰よりも繊細で、誰よりも嘘がない」
優音の言葉に、蓮はふと足を止め、彼女を見た。街灯に照らされたその瞳には、揺るぎない信頼があった。
「俺もだ。優音の歌は……あんな地下室で腐らせていいもんじゃない」
蓮の手が、優音の頭をくしゃりと撫でた。その掌の温かさと粗雑な優しさが、優音の胸の奥を締め付けた。
互いに傷を舐め合うだけの関係かもしれない。共依存だと言われればそれまでだ。けれど、この冷たい東京の片隅で、互いの才能を信じ合えるのは、世界でたった二人だけだった。
「売れよう、絶対」
「うん。見返してやろうね、全員」
二人は公園のベンチで、見えない星を探すように空を見上げた。
錆びつきかけた弦と、色褪せた台本。
今はまだ何も持っていない二人の、長く険しいシナリオが、静かに動き出そうとしていた。
その数ヶ月後。
蓮がある深夜ドラマのオーディションに合格したという知らせが、二人の運命を大きく引き裂くことになるとは、この時の優音はまだ知る由もなかった。
(第1章 完)
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