紅の忍法帖 ~伊賀幕府・ラスト・アナログ~

TAKAHARA HIROKI

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第5章:歌舞伎町蜘蛛の糸(ウェブ)

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同時刻。新人の繭(マユ)は、店の裏口(バックドア)から夜の街へと飛び出した。
 表向きは「得意客のためのフルーツの買い出し」だが、彼女が帯に挟んでいるのは買い物リストではない。特殊暗号表だ。
 真の任務は**「広域情報収集(フィールド・ワーク)」**。
 裏口の鉄扉を開けた瞬間、生暖かい風が頬を打った。
 歌舞伎町の路地裏は、腐った生ゴミ、吐瀉物、安酒、そして安っぽい香水の入り混じった、独特の悪臭が充満している。
 ネズミが走り、酔っ払いが電柱に向かって嘔吐している。
 繭は着物の裾を汚さないよう、つま先立ちで汚泥を避けながら進む。その歩法は、音を立てない**「忍歩・浮き足」**だ。
 高級果物店の前を通りかかると、店先でタバコを吸っていたキャッチ(客引き)の男が、繭の姿を認めてすれ違いざまに咳払いをした。
「ゴホン、ゴホン……今日は西の風が強いな」
 繭は立ち止まらず、歩きながら小声で返す。
「カラスは?」
「二羽、さっき『一番街』の方へ飛んだ。巣を作る気らしい」
 これは気象の話ではない。
 「西の風」は**「警察の組織犯罪対策課によるガサ入れ」。「カラス」は「敵対する甲賀企業の産業スパイ」を指す隠語(コード)だ。
 この街で働くキャッチ、コンビニ店員、清掃員、路上ミュージシャン、そしてホームレス……彼らの多くは、クラブ「胡蝶」の息がかかった下忍(末端の情報屋)たちである。
 繭は日頃から、店の売れ残りだが高級な弁当や、客が残した高級酒を彼らに差し入れることで、強固な恩義と忠誠のネットワークを築いていた。
 これを「忍法・餌付けの術」**という。
 彼らは「胡蝶」の目となり耳となり、街の毛細血管のように張り巡らされているのだ。
 さらに繭は、街角のコンビニに入った。
 レジには、東南アジア系の外国人店員が立っている。
「イラッシャイマセー」
 繭はメロンを一玉注文しながら、レジ横にある防犯カメラのモニターを、さりげなく一瞥した。
 分割画面の隅に、不審な黒塗りのセダンが映っている。
 繭の動体視力が、ナンバープレートを一瞬で読み取る。
(練馬330……あれは公安の覆面パトカーね。ターゲットを見張っているんだわ)
 店員が釣銭を渡す際、その掌の下に、小さく折り畳まれたレシートの裏紙が隠されていた。
 繭は表情一つ変えず、釣銭と一緒にそれを受け取り、一瞬の手さばきで帯の中に滑り込ませる。
 紙には、明日株価が暴落する予定の企業のリストと、ある大物議員の隠し子が住んでいるマンションの住所が書かれていた。
「アリガトゴザイマシター」
 笑顔の裏で行われる、情報の密輸。
 店を出た繭は、ふとビルの屋上を見上げた。
 巨大な消費者金融のネオン看板が、赤、青、黄色と点滅している。
 一見、ただの故障か、ランダムな点滅に見えるその光。だが、繭の目には明確な意味を持って映っていた。
 赤・長点灯。青・短点灯。黄・二回点滅。
 ――トン、ツー、トン、トン。
『ターゲット、A3地区へ移動中。警戒せよ』
 伊賀のハッカー部隊が、歌舞伎町のネオンサインの制御システム(インバータ)にハッキングを仕掛け、街中の看板を巨大な信号機に変えているのだ。
 これを**「忍法・不知火(しらぬい)の通信」**と呼ぶ。
 スマホや無線は傍受される。だが、風景に溶け込んだ「光」の暗号を解読できるのは、訓練を受けた者だけだ。
 歌舞伎町という街全体が、巨大な蜘蛛の巣(ウェブ)だった。
 そして繭は、その糸を伝ってあらゆる振動を感知する一匹の蜘蛛となる。
「……了解。網を張るわ」
 繭は果物籠を抱え直し、闇夜を疾走した。
 ハイヒールで走っているとは思えない速度。水たまりを踏む音すら立てず、彼女は雑踏の人混みの中に溶けていった。
 彼女が運んでいるのは、甘いフルーツではない。この国の運命を左右する、致死性の「情報」という果実だった。
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