3 / 131
第1話
2・願いはかなえられず
しおりを挟む
けれども、菜穂のささやかな願いは叶えられなかった。
月が変わった最初の日、大阪から異動してきた営業マンは、マネージャーにつれられて制作部署に顔を出した。
「今日から営業1部でお世話になります緒形です。関西には3年いましたが、面白いことはまったく言えないのでお手柔らかにお願いします」
人当たりの良さそうな笑みを浮かべた上での、くだけた挨拶。
周囲から、ささやかな笑い声があがった。「イケメンじゃん」と呟いたのは、すぐ隣にいた派遣仲間の千鶴だ。
菜穂は、今すぐ逃げ出したい衝動と必死に戦っていた。
異動してきたのは、やはりあの「緒形くん」だ。もうメガネはかけていなかったけれど、あの顔は記憶の「彼」と間違いなく一致する。
(大丈夫……気づかれるはずがない)
制作部署には、菜穂たち派遣社員の他に、正社員・契約社員・フリーランス契約の人たちがいて、その人数はざっと50人前後だ。
しかも、営業1部は、菜穂が所属している制作チームの担当ではない。
(だから大丈夫、大丈夫……)
その後、彼は担当チームと挨拶をかわして営業フロアに戻っていった。当然、フロアの隅にいた菜穂のことなど、目に止めるはずもない。
よかった、と胸をなで下ろす菜穂の隣で、千鶴が「やばい、当たりじゃん!」とはしゃいだ声をあげた。
「いいなぁ、私も営業1部担当したーい」
「そう? でも1部ってクレームも多いよ。担当している大木さん、納期前になるたびにぐったりしているし」
「そうなんだよねぇ、大手クライアントはそこがねぇ」
他愛のない会話をかわしながら、クライアントから戻ってきた原稿の修正指示を確認する。まだ納期まで余裕があるなかで、こうして早めにチェックバックをもらえるのは、進行管理担当としては非常にありがたい。
「ねえ、この表記大丈夫だっけ?」
「あーそれ、ダメかも。ガイドラインに書いてなかったっけ?」
「三辺さーん、あすゆき社の佐藤さんから電話。2番ね」
「ありがとうございます」
あれだけ胸をざわつかせた緒形のことも、いざ業務に集中しはじめると、思い返すことはほとんどない。「幸いにも」というべきか、10年以上も前の思い出にいつまでも浸っていられるほど、時間に余裕のある職場ではないのだ。
結局、菜穂がひと息ついたのは午後3時をまわってからだ。
マイボトルの紅茶が、いつのまにか空になっている。新しくいれなおそうと、菜穂は引き出しからティーパックを取り出した。
制作フロアと営業フロアの境目にはウォーターサーバーが設置されている。レバーを押すだけでお湯も出てくるので、菜穂はいつもこのウォーターサーバーを利用していた。
(今日は定時であがれるかな。来週から忙しくなるし、早く帰れるうちに帰っておかないと……)
そんなことを考えていたせいだろうか。背後から人が近づいてきていることに、菜穂はまったく気づいていなかった。
「三辺……だよな?」
ウォーターサーバーの赤いレバーを押そうとしたところで、聞き覚えのある声が耳元で弾けた。
半ば反射的に振り返って、すぐさま後悔した。
背後に立っていた元カレは、数時間前のソツのない笑顔ではなく、記憶どおりの癖のある笑みを浮かべていたから。
「やっぱりそうだ。久しぶり、三辺」
月が変わった最初の日、大阪から異動してきた営業マンは、マネージャーにつれられて制作部署に顔を出した。
「今日から営業1部でお世話になります緒形です。関西には3年いましたが、面白いことはまったく言えないのでお手柔らかにお願いします」
人当たりの良さそうな笑みを浮かべた上での、くだけた挨拶。
周囲から、ささやかな笑い声があがった。「イケメンじゃん」と呟いたのは、すぐ隣にいた派遣仲間の千鶴だ。
菜穂は、今すぐ逃げ出したい衝動と必死に戦っていた。
異動してきたのは、やはりあの「緒形くん」だ。もうメガネはかけていなかったけれど、あの顔は記憶の「彼」と間違いなく一致する。
(大丈夫……気づかれるはずがない)
制作部署には、菜穂たち派遣社員の他に、正社員・契約社員・フリーランス契約の人たちがいて、その人数はざっと50人前後だ。
しかも、営業1部は、菜穂が所属している制作チームの担当ではない。
(だから大丈夫、大丈夫……)
その後、彼は担当チームと挨拶をかわして営業フロアに戻っていった。当然、フロアの隅にいた菜穂のことなど、目に止めるはずもない。
よかった、と胸をなで下ろす菜穂の隣で、千鶴が「やばい、当たりじゃん!」とはしゃいだ声をあげた。
「いいなぁ、私も営業1部担当したーい」
「そう? でも1部ってクレームも多いよ。担当している大木さん、納期前になるたびにぐったりしているし」
「そうなんだよねぇ、大手クライアントはそこがねぇ」
他愛のない会話をかわしながら、クライアントから戻ってきた原稿の修正指示を確認する。まだ納期まで余裕があるなかで、こうして早めにチェックバックをもらえるのは、進行管理担当としては非常にありがたい。
「ねえ、この表記大丈夫だっけ?」
「あーそれ、ダメかも。ガイドラインに書いてなかったっけ?」
「三辺さーん、あすゆき社の佐藤さんから電話。2番ね」
「ありがとうございます」
あれだけ胸をざわつかせた緒形のことも、いざ業務に集中しはじめると、思い返すことはほとんどない。「幸いにも」というべきか、10年以上も前の思い出にいつまでも浸っていられるほど、時間に余裕のある職場ではないのだ。
結局、菜穂がひと息ついたのは午後3時をまわってからだ。
マイボトルの紅茶が、いつのまにか空になっている。新しくいれなおそうと、菜穂は引き出しからティーパックを取り出した。
制作フロアと営業フロアの境目にはウォーターサーバーが設置されている。レバーを押すだけでお湯も出てくるので、菜穂はいつもこのウォーターサーバーを利用していた。
(今日は定時であがれるかな。来週から忙しくなるし、早く帰れるうちに帰っておかないと……)
そんなことを考えていたせいだろうか。背後から人が近づいてきていることに、菜穂はまったく気づいていなかった。
「三辺……だよな?」
ウォーターサーバーの赤いレバーを押そうとしたところで、聞き覚えのある声が耳元で弾けた。
半ば反射的に振り返って、すぐさま後悔した。
背後に立っていた元カレは、数時間前のソツのない笑顔ではなく、記憶どおりの癖のある笑みを浮かべていたから。
「やっぱりそうだ。久しぶり、三辺」
2
あなたにおすすめの小説
ソツのない彼氏とスキのない彼女
吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。
どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。
だけど…何故か気になってしまう。
気がつくと、彼女の姿を目で追っている。
***
社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。
爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。
そして、華やかな噂。
あまり得意なタイプではない。
どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。
一億円の花嫁
藤谷 郁
恋愛
奈々子は家族の中の落ちこぼれ。
父親がすすめる縁談を断り切れず、望まぬ結婚をすることになった。
もうすぐ自由が無くなる。せめて最後に、思いきり贅沢な時間を過ごそう。
「きっと、素晴らしい旅になる」
ずっと憧れていた高級ホテルに到着し、わくわくする奈々子だが……
幸か不幸か!?
思いもよらぬ、運命の出会いが待っていた。
※エブリスタさまにも掲載
Re.start ~学校一イケメンの元彼が死に物狂いで復縁を迫ってきます~
伊咲 汐恩
恋愛
高校三年生の菊池梓は教師の高梨と交際中。ある日、元彼 蓮に密会現場を目撃されてしまい、復縁宣言される。蓮は心の距離を縮めようと接近を試みるが言葉の履き違えから不治の病と勘違いされる。慎重に恋愛を進める高梨とは対照的に蓮は度重なる嫌がらせと戦う梓を支えていく。後夜祭の時に密会している梓達の前に現れた蓮は梓の手を取って高梨に堂々とライバル宣言をする。そして、後夜祭のステージ上で付き合って欲しいと言い…。
※ この物語はフィクションです。20歳未満の飲酒は法律で禁止されています。
この作品は「魔法のiらんど、野いちご、ベリーズカフェ、エブリスタ、小説家になろう」にも掲載してます。
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
課長のケーキは甘い包囲網
花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。
えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。
×
沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。
実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。
大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。
面接官だった彼が上司となった。
しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。
彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。
心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡
結婚する事に決めたから
KONAN
恋愛
私は既婚者です。
新たな職場で出会った彼女と結婚する為に、私がその時どう考え、どう行動したのかを書き記していきます。
まずは、離婚してから行動を起こします。
主な登場人物
東條なお
似ている芸能人
○原隼人さん
32歳既婚。
中学、高校はテニス部
電気工事の資格と実務経験あり。
車、バイク、船の免許を持っている。
現在、新聞販売店所長代理。
趣味はイカ釣り。
竹田みさき
似ている芸能人
○野芽衣さん
32歳未婚、シングルマザー
医療事務
息子1人
親分(大島)
似ている芸能人
○田新太さん
70代
施設の送迎運転手
板金屋(大倉)
似ている芸能人
○藤大樹さん
23歳
介護助手
理学療法士になる為、勉強中
よっしー課長(吉本)
似ている芸能人
○倉涼子さん
施設医療事務課長
登山が趣味
o谷事務長
○重豊さん
施設医療事務事務長
腰痛持ち
池さん
似ている芸能人
○田あき子さん
居宅部門管理者
看護師
下山さん(ともさん)
似ている芸能人
○地真央さん
医療事務
息子と娘はテニス選手
t助
似ている芸能人
○ツオくん(アニメ)
施設医療事務事務長
o谷事務長異動後の事務長
雄一郎 ゆういちろう
似ている芸能人
○鹿央士さん
弟の同級生
中学テニス部
高校陸上部
大学帰宅部
髪の赤い看護師(川木えみ)
似ている芸能人
○田來未さん
准看護師
ヤンキー
怖い
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる