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第2話
5・知りたくなかったこと(その2)
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そこからの記憶は、かなり曖昧だ。
たまたまやってきた別の校正者に声をかけられ、我に返った菜穂は、浜島宛ての原稿をその人に託した。
それから部署に戻り、クライアントから戻ってきた他の原稿の確認をしようとしたものの、どうしても頭が働かずに、いったんトイレに向かった。
そして、そのまま個室に閉じこもった、というわけである。
(情けない)
仕事中にも関わらず、仕事とは関係のないことで振りまわされていることが。
(情けない)
浜島がデートに応じてくれた真意に、ずっと気づかなかった自分が。
(情けない)
こんなところで泣くばかりで、それ以上のことは何もできない自分が。
菜穂は、短くしゃくりあげると、トイレットペーパーを巻き取って鼻をかんだ。
今となっては、緒形にデートを邪魔されて良かったのかもしれない。
とはいえ、彼に感謝する気持ちはみじんも起こらない。だって、これは結果論だ。緒形が自分をからかおうとしたことが、たまたま良い方向に転がっただけなのだ。
(悔しい……)
どうして自分がこんなめにあうのか。
簡単だ、処女だからだ。27歳にもなって、誰とも深い関係になったことがないから、きっとこんなひどい扱いを受けるのだ。
(もう嫌だ)
こんなのいらない。どうせ、鼻をかんだあとのトイレットペーパー並みの価値しかない。
いつか好きな人と――なんて贅沢も望まない。
そもそも、身の程をわきまえるべきだったのだ。
(10年前、拒絶されたあのときから……)
なのに、つい高望みしてしまった。「初めてはやっぱり好きな人と」などと、10代の少女のようにこだわってしまった。
(でも、もういい。誰でもいい)
菜穂は、ようやく個室を出ると、彼女にしては乱暴に手を洗った。
洗面台の鏡には、案の定ひどい顔をした女が映っていた。崩れ気味のアイメイク、赤く染まった目、鼻のあたりのファンデーションもこすりすぎて浮いているようだ。
(みっともない……)
でも、ある意味、今の自分らしいのかもしれない。
みじめで情けなくて恥ずかしい、アラサーの女。
(しかも、処女)
唇に浮かんだ、自嘲っぽい笑み。
とはいえ、この顔のまま自席には戻れない。すぐさま千鶴あたりに「どうしたの!?」と質問攻めにあうだろう。
せめて、赤くなった目だけでも何とかしなければ。
ハンカチで手を拭いながら、どこで時間をつぶそうかと考える。いちばん無難なのは、近くのカフェに行くことだ。もともと勤怠に厳しくない社風のせいか、業務中の外出は、常識の範囲内ならば咎められることはない。テイクアウトでさっと買い物を済ませ、部署に戻るころには目の赤さも落ちついているだろう。
「……よし」
ポケットに交通系ICカードがあるのを確認して、菜穂はトイレを出た。
今日は、いつものカフェラテにホイップクリームをつけよう。それからハチミツも。こんなときだからこそ、元気が出る甘いものを口にしたい。
なのに、エレベーターホールに着く前に、菜穂の心はぺしゃんとつぶれた。
「……三辺?」
今、二番目に聞きたくない声が、菜穂の背中にぶつかったせいで。
たまたまやってきた別の校正者に声をかけられ、我に返った菜穂は、浜島宛ての原稿をその人に託した。
それから部署に戻り、クライアントから戻ってきた他の原稿の確認をしようとしたものの、どうしても頭が働かずに、いったんトイレに向かった。
そして、そのまま個室に閉じこもった、というわけである。
(情けない)
仕事中にも関わらず、仕事とは関係のないことで振りまわされていることが。
(情けない)
浜島がデートに応じてくれた真意に、ずっと気づかなかった自分が。
(情けない)
こんなところで泣くばかりで、それ以上のことは何もできない自分が。
菜穂は、短くしゃくりあげると、トイレットペーパーを巻き取って鼻をかんだ。
今となっては、緒形にデートを邪魔されて良かったのかもしれない。
とはいえ、彼に感謝する気持ちはみじんも起こらない。だって、これは結果論だ。緒形が自分をからかおうとしたことが、たまたま良い方向に転がっただけなのだ。
(悔しい……)
どうして自分がこんなめにあうのか。
簡単だ、処女だからだ。27歳にもなって、誰とも深い関係になったことがないから、きっとこんなひどい扱いを受けるのだ。
(もう嫌だ)
こんなのいらない。どうせ、鼻をかんだあとのトイレットペーパー並みの価値しかない。
いつか好きな人と――なんて贅沢も望まない。
そもそも、身の程をわきまえるべきだったのだ。
(10年前、拒絶されたあのときから……)
なのに、つい高望みしてしまった。「初めてはやっぱり好きな人と」などと、10代の少女のようにこだわってしまった。
(でも、もういい。誰でもいい)
菜穂は、ようやく個室を出ると、彼女にしては乱暴に手を洗った。
洗面台の鏡には、案の定ひどい顔をした女が映っていた。崩れ気味のアイメイク、赤く染まった目、鼻のあたりのファンデーションもこすりすぎて浮いているようだ。
(みっともない……)
でも、ある意味、今の自分らしいのかもしれない。
みじめで情けなくて恥ずかしい、アラサーの女。
(しかも、処女)
唇に浮かんだ、自嘲っぽい笑み。
とはいえ、この顔のまま自席には戻れない。すぐさま千鶴あたりに「どうしたの!?」と質問攻めにあうだろう。
せめて、赤くなった目だけでも何とかしなければ。
ハンカチで手を拭いながら、どこで時間をつぶそうかと考える。いちばん無難なのは、近くのカフェに行くことだ。もともと勤怠に厳しくない社風のせいか、業務中の外出は、常識の範囲内ならば咎められることはない。テイクアウトでさっと買い物を済ませ、部署に戻るころには目の赤さも落ちついているだろう。
「……よし」
ポケットに交通系ICカードがあるのを確認して、菜穂はトイレを出た。
今日は、いつものカフェラテにホイップクリームをつけよう。それからハチミツも。こんなときだからこそ、元気が出る甘いものを口にしたい。
なのに、エレベーターホールに着く前に、菜穂の心はぺしゃんとつぶれた。
「……三辺?」
今、二番目に聞きたくない声が、菜穂の背中にぶつかったせいで。
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