ロマンティックの欠片もない

水野七緒

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エピローグ

2・ロマンティックの欠片もない

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 チェックアウトを済ませたふたりを待ち受けていたのは、ガチガチに固まった雪道だった。

「やばいな、これ」
「そうだね、気を抜くとすぐに転んで……」

 言ってるそばから、ブーツの底がずるりと滑る。
 そのままひっくり返りそうになった菜穂の身体を、緒形の右腕がとっさに受けとめた。

「あっ……ぶな……」
「ごめん、慎重に歩いてるつもりだったんだけど」
「いいって。この雪道じゃ、仕方ないだろ」

 緒形にすがりつくような格好で、なんとか体勢を元に戻す。
 ふう、と息をついたところで、緒形が「どうぞ」と手を差し伸べてきた。

「転ばぬ先のなんとやら──ってことで」
「……」
「ん? お姫さま抱っこのほうがいい?」

 からかうように目を細める緒形に、菜穂は「そうじゃなくて」と慌てて首を横に振る。

「手をつないじゃったら、どちらかが転んだとき、一蓮托生にならない?」
「あーそうかも」

 でもさ、と緒形は笑みを深くした。

「それならそれでいいだろ。運命共同体ってことで」
「そうかなぁ」
「そうだって。だから……ほら」

 改めて差し伸べられた右手に、菜穂は恐る恐る左手をのせた。
 緒形とこんなふうに手をつなぐこと自体は、決して初めてのことではない。それなのに、ぎゅっと握りしめられたとたん、菜穂の鼓動はひときわ早くなる。

(懐かしいな、この感じ)

 緒形と付き合っていた高校時代、幾度となくこうしたくすぐったい気持ちを味わった。

(それが、まさかこの年になって……)

 しかも、その相手は当時と同じ人物だ。
 そう考えると、緒形雪野というひとは、つくづく自分と何か強固な縁があるに違いない。

「あのさ」

 その緒形が、不自然なほどまっすぐ前を向いたまま口を開いた。

「これからどうする?」
「どうするって……」

 今日の予定のことだろうか。それとも──?
 うかがうように返答を濁すと、緒形は「今後のこと」とすぐに補足した。

「これでおしまい? それともよりを戻す?」
「……」
「俺の答えは決まってるけど。よかったら、三辺の答えも──」

 そこまで言いかけたところで、緒形の身体ががくんと沈んだ。
 転んだら一蓮托生──そう口にした菜穂だったが、実際のところ、そうはならなかった。とっさの判断で、緒形が菜穂の手を離してくれたおかげだ。

「痛っ……てぇ」

 呻くように雪上を転がる緒形に、菜穂は恐る恐る声をかけた。

「あの……大丈夫?」
「大丈夫じゃない……ほんとヤバい……」
「えっ、もしかして怪我とか?」

 慌ててしゃがみこもうとする菜穂に、緒形は「いや」と首を横に振った。

「怪我はしてない……けど」
「けど?」
「……悪い、とりあえず手を貸して」

 のろのろと差し出された右手を、菜穂は「もちろん」と捕まえようとした。
 けれど、その声はすぐさま悲鳴へと変わった。緒形の手を掴んだ瞬間、逆にぐいっと引っ張られたからだ。
 当然、菜穂の身体は、緒形に向かって大きく倒れ込んだ。

(えっ、どうして……)

 うろたえる菜穂を抱え込んで、緒形は軽やかな笑い声をあげた。

「言ったじゃん、転ぶときは一蓮托生って」

 言った──たしかに言ったけれど。
 さすがに、この状況は想定していない。
 抗議するべく、菜穂は身体を起こそうとした。
 けれど、それは叶わなかった。背中にまわされていた両手が、再び菜穂の身体を囲い込んでしまったせいで。

「ごめん、許して」
「だったら、まずはこの手を……」
「それはダメ。もうちょっとこのままでいさせてよ」

 初めて耳にする緒形の甘えたような声に、菜穂はぐっと言葉を詰まらせた。
 高校時代の彼は、交際中でもこんな姿を見せてはくれなかった。菜穂の記憶にあるのは、どこか斜に構えた「かっこつけ」の緒形雪野だ。

(じゃあ、どうして?)

 菜穂が知らない十年の間に、誰かが彼に甘えることを教えたのだろうか。それとも──

(夜を、一緒に過ごしたから?)

 だから、これまで知らなかった彼の一面を、こうして見せてもらえているのだろうか。

(だったら、後者がいいな)

 前者だと、見知らぬ誰かに嫉妬してしまう。菜穂は、半ば無意識のうちに緒形の胸元をきゅっと掴んだ。

「……三辺?」

 緒形の声が、うかがうようなものに変わった。

「ええと……やっぱり怒ってる?」
「怒ってない」
「その言い方が、すでにちょっと尖ってるんだけど」

 菜穂は、今度こそ上体を起こした。
 それにつられたように、緒形も恐る恐る身体を起こす。

「ちょっと、嫉妬しただけ」
「……えっ」
「私が知らない10年間で、緒形くんはどんな人と付き合ってたのかなって……そんなことを考えたら、ちょっと『やだなぁ』って思っただけ」

 ぽろりとこぼれた菜穂の本音に、緒形はメガネの奥の目を軽く瞬かせた。そこから伝わってくるのは戸惑い、あるいは困惑といったところだろうか。

「ええと……なんでこの状況で三辺がそんなことを考えたのか、いまいち理解できないんだけど」

 でもさ、と彼の指先が、菜穂の乱れた髪の毛を耳にかけてくれた。

「それって、つまり俺のことが好きってこと? その……嫉妬してくれる程度には」
「そうだよ」
「……マジか」

 緒形の口元が、はっきりと緩む。
 次の瞬間、菜穂の身体はたび緒形の腕のなかにおさめられていた。

「じゃあ、今のが、さっきの答えでいい?」
「『さっきの』って?」
「いや、だから……『これからどうするか』の答えっていうか」

 急に自信なさげな様子を見せる彼に、菜穂は思わず破顔してしまった。

 そうだよ、そのとおりだよ。
 これから末永くよろしくお願いします。

 言葉にするなら、こんなところだろうか。
 けれど、菜穂はそれらを敢えて言葉ではない手段で伝えてみることにした。
 唇から唇へ──歩道の上、雪にまみれたロマンティックの欠片もないシチュエイションかもしれないけれど。

(それでいい)

 緒形とのこれからは、どんなものでも「とびきり」になるはずだから。
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