夢を買う人

水野七緒

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第3話

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 電車から下りると、日々の流れ作業のように哲平は駅の南改札を出る。
 ここから大学までは徒歩10分。
 だが、午前中の、しかもすでに講義がはじまっている時間帯のせいか、学生たちの姿はぽつぽつとまばらにしか見かけなかった。

(面倒くせぇな)

 近くの自動販売機で缶コーヒーを買う。
 これがなければ、退屈な講義などすぐに「おやすみタイム」へと変わってしまう。

(どうせ遅刻だしな)

 取出口から缶を取りだす。
 再び歩きだそうとしたそのとき、後ろから声をかけられた。

「どうだった? 『彼』の夢のなかは」
「お前……っ」

 昨日の少年だ。
 相変わらずどこぞの民族衣裳のような出で立ちで、両腕には黒猫を抱えている。

「会えたでしょ、彼に」
「あ、ああ……」
「そりゃそうだよね。アレ、彼の夢のなかだもの」

 栗色の瞳が、意味ありげに笑う。
 哲平は、今朝からひそかに気になっていたことを思いきって訊ねてみた。

「あれってさ、本当に『あいつ』の夢のなかなのか?」
「そうだよ」
「偶然オレがあいつの夢をみたワケじゃなくて?」
「違うよ」

 少年は、拗ねたように唇を尖らせた。

「あれはちゃーんと彼の夢のなか。クゥが案内してくれたでしょ?」
「クゥ?」
「このコだよ」

 少年が示したのは、彼の腕のなかで眠るほっそりとした黒猫だ。
 たしかに、昨夜哲平を葉月のもとまで連れていってくれたのは一匹の黒猫ではあったが。

「じゃあ、本当にオレ、昨日のあいつの夢のなかに……」
「登場しているよ」

 当然でしょ。
 そう言って、少年は軽く眉をあげた。

「『他人の夢のなかに入る』ってそういうコトだよ。だから、もしかしたら彼も、お兄さんのコト、覚えてるかもしれないね」
「ホントか?」
「まぁ、夢の内容をちゃんと覚えている人なんて、そうそういないから。あまり期待はできないけど」 

 黒猫の頭を撫でながら、しれっとした顔つきで少年は答える。
 だが、皮肉げな一言など今の哲平の耳には届いていない。
 心のなかは、恋する青少年特有の浮かれた想いでいっぱいだ。

(もしかしたらあいつも、オレのことを少しは意識してくれているかもしれない)

 単純といえば単純。
 健気といえば健気。
 だからこそ、少年が「どうする?」と訊ねてきたとき、バカ正直に「なにが?」と聞き返してしまった。

「なにがじゃないよ。夢だよ。今晩の夢」

 あきれたような視線をよこす少年の腕のなかで、にゃおん、と黒猫が小さく鳴いた。
 どうやら目がさめたようだ。

「あ……そっか……」

 そうだ、この少年に頼めば、今晩も「彼」の夢のなかに忍び込める。
 もう一度「葉月」に会うことができるのだ。
 そんな哲平の気持ちを煽るように、少年は「今日もサービスするよ?」と持ちかけてきた。

「本当か?」
「もちろん。特別サービスで、たったの1万円!」

 冷静に考えれば、ちっとも「たったの」ではない金額。
 それなのに、こんなふうに持ちかけられると安価に思えてしまうのはなぜだろう。

「その特別サービスって、いつまで?」
「今日までだよ。明日からは、通常どおりの2万円」

 栗色の瞳が、うっすらと笑みを滲ませて覗き込んでくる。 

「だから今のうちだよ。もう一度、彼の夢におじゃましたいならね」

 哲平は、軽く下唇を噛んだ。
 1万円は、決して安くない。
 だが「1万円」と「2万円」の差はかなり大きい。

「さぁ、どうする? お兄さん?」

 軽やかな声にうながされて、今日も哲平はカバンに手を突っ込んだ。
 もちろん、財布を取り出すために。
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