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第7話

10・1番休憩(その3)

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なのに、状況はまるで変わらなかった。この2週間、坂沼とシフトが被った日の1番休憩は、もれなく外に追いやられた。
この日は、最悪なことに雨だった。傘を差してもあちこち濡れるくらいの大雨で、ホットブレンドを飲んでいても身体が冷えて仕方がない。
しかも「右手に傘・左手にマグカップ」だったので、時間をつぶすためのスマホが使えない。
おかげで、苦痛の度合いが増した。
坂沼への恨みも募った。
同時に、坂沼以外に対する苛立ちも募った。
たとえば、坂沼の嘘を信じている一部のバイト仲間とか、いまいち頼りにならない店長とか。
けれど、その苛立ちが川野ちゃんに向かいそうになったところで、さすがに頭を切り替えた。
しっかりしろ、川野ちゃんは何も悪くない。彼女は被害者で、俺は自分の意思で彼女の相談にのった。本社にチクると決めたのも、川野ちゃんじゃなくて俺だ。なにより彼女が笑顔を取り戻しつつあることは、本来喜ばしいことのはずじゃないか。
店長だって、まったく何もしてくれていないわけじゃない。極力、俺と坂沼のシフトが被らないよう、手を尽くしてくれているみたいだし。
敵は、あくまで坂沼だ。
他の人たちを、そのカテゴリに突っ込むな。
そう言い聞かせたあたりで1番休憩が終わり、俺は再び店に戻った。

「うわ……お前、外に行ってたの?」

驚いたような声をあげたのは、俺より後から休憩に入ったバイト仲間だ。15分間休める3番休憩を取っていたらしく、手には空っぽのマグカップがある。

「なんでこんな日に外?」
「バックヤードに入れなかったから」
「え、俺ふつーに入れたけど」

なに言ってんの、みたいに笑われたことで、俺のなかに再びどす黒い気持ちが湧いてくる。
うるせぇな。
こっちは、誰かさんに嫌がらせを受けてんだよ。
お前は鈍そうだから、気づいていないっぽいけどよ。
そんなやさぐれた気持ちがまたもや顔を出しかけて、俺は慌てて「落ち着け」と自分に言い聞かせた。
ダメだ、いちいち腹を立てるな。
こいつも何も悪くないんだ。
この程度のことは、てきとうに聞き流せ。
洗浄担当と交替して、返却台の小窓を開ける。
台の上は、使用済みのグラスやカップでほぼ埋まっていた。それらを手際よく下げ、ざっと水洗いしてから食洗機につっこんでいく。

「ああ、くそ」

グラスに、使用済みの紙ナプキンやティッシュをつっこんだ客がいる。
なんでこんなことをするんだろう。ゴミをまとめているつもりか? だったらトレイの上に置くだけにしてほしい。グラスを洗うのに手間がかかるし、そもそもグラスはゴミ箱じゃない。
こうした苛立ちに翻弄されながら、なんとかこの日も21時までのバイトを終えた。
あれだけカッカしていたくせに、店を出たとたん一気に気持ちが落ちこんだ。
なんとなく駅のベンチに座ったが最後、気づいたら1時間が経過していた。
地元の駅についたのは23時過ぎ。
いつもの駅前のスーパーに寄ってみたものの、どの食材を見てもピンとこなくて、結局何も買わずに出てきてしまった。
まあ、いいけど。
食材なら、まだ冷蔵庫に残っていたはずだし。

「……寒」

街灯に照らされた細い道を、背中を丸めてひとり歩く。
あれだけ降っていた雨はすっかりやんでいた。そのことが、ますます気持ちを重たくした。
しんどい。
なにもかもうまくいかない。
数十メートル先の飲み屋の引き戸が開き、肩を担がれた男が出てきた。

「おい、しっかりしろよ」
「ん──」
「タクシー呼ぶか? ひとりで帰れるか?」

よくありがちな、大して珍しくもない光景。
なのに、胸がうずいた。いつかの、電車でエネルギー切れを起こした大賀を抱えて歩いた日のことを思い出した。

(あいつ、どうしてんのかな)

ちゃんと朝飯食ってんのかな。
修行は、まあ、やっているよな。
もっとも、あいつにそんなものは必要ない気がするけど。人間だったときから「人生何週目?」みたいなやつだったし。
ぼんやり考えているうちに、我が家が見えてきた。

「え……」

玄関前に、誰かがいる。
そう認識したとたん、ぶわっと身体中が熱くなった気がした。
真っ先に脳裏に浮かんだのは、モフモフしたあの野郎の尻尾だ。
言葉や表情よりもはるかにわかりやすい、素直すぎるあの尻尾。
気づいたら、俺は駆けだしていた。
身体が勝手に動いていた。
理由はわからない。
ただ、おかしなテンションだったのは間違いない。

「大──」
「おかえり、叶斗くん」

壁から身体を起こしたのは、俺が想像していたモフモフ野郎ではなかった。

「もー帰ってくるの、遅いよ。早く家のなかにいれて」
「……神森」
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