十年監禁

小林マコト

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 朝になったら嫌でも目が覚める。光も目覚ましの音もないけれど、習慣になっているようで、いつも七時に起きてしまう。
 少し寝不足な感じがした。ふらふらしながら、顔を洗う。鏡の中の私はひどい顔をしていて、情けなくなった。もう二十六になったのに。
 十年前までは、大人になったらもっとキラキラした生活が待っていると思っていた。二十を過ぎて三十手前になった自分は働いていて、もしかしたら恋人もいて、もしかしたら、結婚なんかしちゃってるかもなんて、友人たちと話したこともある。実際、彼女たちの中では、そんな私にとっては夢みたいな現実を生きている人もいるだろう。
 うらやましいな、と思った。この十年、この部屋にいて不自由なことはなかったけど、あと十年ここにいろと言われたら、耐えられる自信はない。すぐに潰れてしまいそうだ。これまで耐えられたのが、今は信じられない。

 とにかくここを出たいと思った。ここにいることは、よくないことだと思った。私がここにいて、いいことは一つもない。私にとっても、彼にとっても。
 窓がないから、玄関から出るしかない。ほとんど近づいたこともない玄関のドアに、ゆっくり向かう。どこからわいたかわからない不安に足が震えた。
 ごく普通のドアノブに、鍵。音を立てないように鍵を開け、回した。
 あとは、そのまま押すだけ。それだけなのに――押せなかった。

 今夜も彼はやってくる。鍵の開けられる音が耳から脳に届き、私の頭はゆっくりと覚醒していく。ただいまと、穏やかな声と足音。このときが、他のどんな瞬間よりも幸せだと思った。
 いつもと変わらない笑みで、ベッドに寝転がる私の顔を覗き込み、もう一度ただいまを。私も、おかえりと返す。
 彼の帰るべきところはここではないはずだけど、こうして、ただいまにおかえりを返す行為は、私が生きているために必要なことなのだろう。これがなければ、私は本当に、生きている意味のない人間だ。きっと。
 それは、私にとって重要なことだった。日中、誰にも会わず、ただ一人、音のない部屋で過ごしていると、だんだん自分が存在しているのかどうかすらあやふやになっていく。今は昼なのか、夜なのか、それすらわからなくなって、家具の一つにでもなったような気がしてしまう。何かを考えていよう、それで生きている実感を得ようと試みるにも、私が思いつく議題はこの部屋に来て三年で考えつくしてしまった。同じことを考えるにも限界があって、結局、何度も読み返してぼろぼろになった本を手に取る。細かな展開も覚えてしまって、面白味はなくなってしまったけど、新しいものを持ってきてもらえるまで、そうするしかないのだ。

 彼が来るときだけが、心の支えだった。
 鍵の開けられる音に、胸が期待で一杯になる。
 彼の軽やかな足音に、体が安心感に包まれる。
 ただいまという声に、おかえりを返す度に、ああ、私は生きている、と実感する。

 昼間、あんなことをしていたというのに、私は何事もなかったかのように彼を受け入れていた。昨夜のことを忘れてしまったわけではないけれど、彼がここにいてくれることがうれしくてたまらなかった。
 断られるだろうと思いながら、手伝いを申し出る。予想通りに断られて、またベッドの上に戻った。

 誰かが同じ部屋にいるということ。自分以外に、音を立てる人がいるということ。
 それだけで生きている実感を貪ることができた。彼が出す音のすべてが愛しく感じた。その声が私に向けて発せられること。それ以上に幸せなことはない。
 幽霊になってしまった私は、彼がいないと存在することすら許されない。私という人間は、彼という人間がいる限り永遠で、彼と共にないのならすぐに消えてしまう。
 恥ずかしいことを考えていると自覚しながら、いつも、同じことを思う。今の私は、彼がいなければ生きていられないのだ。

 相変わらずおいしいご飯を食べたあと、歯を磨こうと洗面台の前に立って、思わずひいっと小さく悲鳴を上げてしまった。
 首に、覚えのないあざがあった。縄で絞められたような、あざ。
 薄いのと、伸ばしっぱなしの髪に隠れているのとで、朝は気づかなかった。今、気づいたのは、本当に偶然だったのだろう。置いてあった髪ゴムで適当に結い上げて、よく見えるようにした。
 気のせいでなく、そのあざはそこにあった。縄で絞められたようなそれ。私が、母につけたものと同じものが、私の首にあった。

「いつもより遅いけど、どうかしたの。……ねえ、その首の跡はなに」

 様子を見に来た彼も、私の首を見て眉をひそめた。わからない、と答えようとしたけど、うまく声にできなくて戸惑う。
 さっき、あんなに彼の存在がありがたく感じていたのに、また恐ろしくなってしまった。体が震える。体温が、下がっていく。

「答えて。それはどうしたの」
「あ……えと……」
「答えられないようなことをしたの?」
「ち、ちがう、ちがくて、わたし、しらない……」
「知らないはずないよね。だって君の首だよ。こんな、絞められたような跡。苦しくてたまらなかったはずだよね」
「しらない、ほんとに知らない」

 信じて、と続ける前に、彼の手が私の首に触れた。

「誰かが、なんてことはないよね。だって誰もここを知らないし、誰もここに来られないんだ。だったら、君が自分でつけたとしか考えられない。どうして? そんなにここから出たかった? 首を絞めれば出られるとでも思ったの?」

 どこか艶っぽく、彼の手は私の首を撫でる。動きから、あざをなぞっているのだと知らされる。
 感情の一切ない顔と声で、彼はただ撫でていた。そして、私の首を絞めるように、両手を置いた。

「そんなことで僕がここから出すと思った? 君は本当に馬鹿だね」

 力を入れられたら、確実に私は死ぬ。
 抵抗はできなかった。体は震えるだけで、動こうとしない。金縛りにあったように、私は彼の目を見つめるしかなかった。

 本当に、私だって何もわからないのに。ただ寝て起きて、今になってようやくこのあざに気が付いたのに。
 もしかしたら、昨夜の夢は現実だったのかもしれない、と思った。本当に私は、自分で首を吊って死のうとしたのかもしれないと。
 でも、それなら少しくらい記憶があったっていいはずだ。ここに鉄格子はない。彼だって帰ったあとのはずだ。現実である証拠はない。だから、私は自分で死のうとしたわけじゃない。

 嫌な記憶が一斉に呼び起こされる。
 十年前、家にいるのが息苦しかったこと。窮屈に思っていたこと。孤独だったこと。寂しくて死んでしまいそうだったこと。誰も私を認めてくれなかったこと。空気のような存在だったこと。信じてもらえなかったこと。拒絶されたこと。支配されたこと。
 私を信じてほしい。私は何も知らない、本当に何も知らなくて、これがあったことにびっくりしたくらい。だから信じてほしい。本当に、これに関しては、何も知らない。私がしたわけじゃない。
 声にはならなかった。どうしたらいいのかわからなくて、次から次へと涙があふれる。言葉は出ないのに、絞られたような泣き声だけは滑り出た。みっともない。情けない。こんな大人になりたかったわけじゃ、ないのに。
 ちゃんと、立派な大人になりたかった。自分のことを自分の言葉で発信できて、相手に伝えることができる、そういう大人になりたかった。私は私という人間であることを認めて、自分のやりたいことをして、信じることをして、他人なんて気にせずにいたかった。それなのに。

 ずっと他人の顔色をうかがっていたあの頃の願いは、一つも叶っていない。彼に対して何も言えなかった。ただ泣いているだけの、思いを伝えられない、情けなくて恥ずかしくて、みっともなくて、どうしようもない子どものままだ。

「死なせないよ、絶対に。出しもしない」

 君のためなんだ。いつかのように耳元で囁かれて、少し油断した。
 すると彼は急に、両手に力を入れて私を絞めた。苦しい。今、死なせないって言ったばかりなのに。嘘つき。死にたくない。
 死にかけの金魚みたいに、みっともなく口を開いて空気を求めても、彼の手は私を逃さない。文字通り彼は私の生き死にを握っているのだと思い知る。私が女で、彼が男で、私が被害者で、彼が加害者であるということに気づかされた。

 その後の記憶はない。
 ふつ、と糸が切れたように、意識を失った。死んだかと思った。




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