日常のひとコマ

繰奈 -Crina-

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高いオレンジジュース (女性/恋愛/復縁)

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高いオレンジジュースを買ってみた。
別に、意味はない。
ただ、5年間付き合った彼氏との静かな別れが、ゆるやかにわたしの心を傷つけていくから。

揉めるわけでも、涙を流すでもなく、冷静に別れ話をした。
どちらから言い出したわけではなく、先が見えない付き合いにお互い疲れていたんだと思う。
わたしは安月給の事務OLで、彼はアパレル会社の営業マンだった。
最近のファストファッションの流行に押されて、彼の会社の業績はゆるやかに下降していった……みたい。
正直、よくは知らない。同業種じゃないから。
彼の話を聞いているだけだったけど、デニムが1,000円未満で売られるようになってからはどうにも営業がうまくいかないみたいだった。
取引先にも価格を叩かれるしで、売上が下がって結果的に給料も下がった。
まぁよくわかんないけど、彼が自分の将来に不安を感じるにつれてわたし達の仲もうまくいかなくなってきた。
そろそろ結婚をって雰囲気だっただけに、将来への不安がそのまま別れにつながったんだと思う。
彼がわたしに申し訳ないって思っている雰囲気は感じていたし、わたしはそれが息苦しかった。

揉めるわけでも涙を流すでもない冷静な別れ話は、爪の間に刺さったトゲのように、小さいけれど確実な痛みになった。
大きく傷付いたわけじゃない。
泣いて眠れない日もなかったし、食欲も変わらない。
だけど、ひとりでご飯を食べる時や眠りに落ちる瞬間、ふとした意識のすきまで痛みを主張する。
彼の不在は大きなダメージではなかったけど、わたしにとって確実な痛みだったみたい。
同じことで笑うことやくだらないケンカができないっていう現実に、簡単に慣れることはできないみたい。
5年間は、長かった。


高いオレンジジュースを買ったのは、意味のない思い付き。
そう思っていたけど、多分、彼を思い出して買ったんだと思う。
オレンジジュースは500mlで1,500円だったんだけど、彼が泣いていた1,000円以下のデニムより高いわけだ。
正確に言うと、デニム2本分。
まぁ、比べるものではないけど。
服が安く買えるのは、いち消費者としてはありがたい限り。安月給の事務OLだし。
でも、彼が売っていたラインや色、デザインにこだわった1万円のデニムも好きだった。
そういうデニムが売れなくなったのは不況のせいで、誰が悪いわけでもなくて……。
と、もっともらしいことを考えれば考えるほどによくわかんなくなってきた。
多分、わたしは怒っていたんだ。
将来の不安に負けた彼に、彼を支えられなかった自分に、別れを選んだふたりに。
だから、普段は100円ちょっとで買うオレンジジュースに1,500円も出してみようと思ったんだと思う。
意味はないけど。


------------------


携帯電話の画面に見慣れたけれど懐かしい番号を表示させたまま、わたしはもう15分くらい固まっていた。
高いオレンジジュースは、思ったより美味しかった。
美味しさを期待して買ったわけじゃないのに、「思ったより」も何もないもんだけど。
でも美味しかった。
100円ちょっとで買ってるオレンジジュースとは違う。
なんというか、意味が違う。
同じ土俵に上がれないっていうか、必要とされる場所が違うんだと思う。
自分にご褒美系かも。特別な時に飲みたくなる感じ。

で、それを彼に伝えようと思った。
オレンジジュースと一緒にしていいものかはわかんないけど。
1,000円のデニムと1万円のデニムは意味が違うんだ、と。
必要とする場面が違うんじゃないかと思うってことを。
今は売れなくても、きっと大丈夫だってことを伝えたかった。
もちろんアパレルの営業としては素人だから、ものすごく適当な意見だけど。
ただ、高いオレンジジュースに心を打たれたってことを伝えたい。
それをどう言うのか悩んだまま、かれこれ15……いや、もう20分か。


結論として、だけど。
多分わたしは、賞与とか給与とかそんなことは、わたしが彼を必要とする上では関係なかったんだってことを伝えたい。
将来の不安とかも関係なくて、今、側にいて欲しかったんだってことを。
彼が好きでこれからも一緒にいたいっていうのが第一条件で、結婚とかお金の問題はその後のこと。
あった方がいいかもしれないけど、なくてもいい。

オレンジジュースが飲みたい時は、その時の状況で価格と美味しさのバランスを取ればいい。
デニムが欲しい時は、着ていく場所や頻度によって価格とデザインのバランスを取ればいい。
でも、欲しくない時はどっちもいらないの。安くても。どれだけ価値があっても。
で、わたしには彼が必要なの。


まぁ、オレンジジュースの話でよりが戻るとは思ってないけどさ。
でも、冷静な別れ話なんてツマンナイでしょ。
毎日の小さな痛みにおびえるよりも、当たって砕ける方がいいかなーって。



さらに10分後、わたしは、数ヵ月ぶりに懐かしい彼に通じる呼び出し音を聞いている。


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