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第三十 解放
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座敷では呪術師たちと屍鬼の女の闘争が続いていた。
角のある者、巨体を誇る者、鋭利な牙を持つ者、それら幾つもの妖の姿をした墨絵が、骸の兵を薙ぎ払いながら座敷を支配する沙夜を襲う。
沙夜は人間を遥かに上回る力で、墨絵を殴り、蹴り散らして行くが、四本しかない手と足で
は対処が追いつかない。妖たちは彼女の背に、首に、腿に次々に噛み付いていく。
噛み付かれた五体が血飛沫をあげる。それにも関わらず、沙夜は笑い声をあげた。
「アハハハッッ! 無駄よ! 無駄! 言ったでしょう。私はこの異界と同化してるって! 秋水も、私も、この異界ごと潰さなければ死なないのよ!」
沙夜の髪が蛇のように動いたかと思うと、彼女を捉える墨絵たちを次々に切断していく。
だが沙夜が自由を得る直前、和泉が走る。和泉の右手には、彼女が体内で精製した毒がたっぷりと塗り籠められている。その毒手を、沙夜の左胸に突き立てる。毒は屍鬼の強靭な肌を容易く溶かし、その手を心臓にまで届かせた。だが、沙夜の態度は何一つ揺らがない。
「いらっしゃい。残念ね。毒も効かないのよ。このまま食べてあげるわ」
沙夜の髪が、和泉の体を拘束する。さらに毒手が突き刺した左胸から、筋繊維が糸のように和泉の腕に絡んでいく。言葉通り、本当に和泉を取り込もうとしているのだ。和泉は沙夜の左胸から腕を引き抜こうとするが、泥に沈むように右腕から沙夜の体へと呑みこまれていく。
和泉が必死に抵抗するなか、綾人の操る墨絵が沙夜の髪を切り裂き、彼女を拘束から解放した。和泉は毒を強めて、腕に絡む筋繊維を溶かすと沙夜から距離を離した。
沙夜の傷は、和泉が離れた数秒後にはすべて癒えてしまっていた。
日常からかけ離れた戦い。戦う力のない蓮司は、座敷の端で、綾人の造る結界と墨絵に守られながらその光景を見届けることしか出来ない。それがこの上なく悔しい。
あの女は家族の仇なのに、自分では傷一つつけることが出来ないのだ。
沙夜から距離を取り、綾人のもとまで引くと、和泉は彼に礼を言った。
「ありがと。助かったわ。けどどうする? あの女、ホントに死なないわよ」
「だいじょうぶ。和泉ちゃんが気を引いてくれてたお陰で準備も出来たから。ちょっと術式が複雑だけど、過去から手順を見れば何とか出来る自信もある。あとは……」
綾人が蓮司の方を振り返り、叫んだ。
「蓮司君、あいつを倒すために手を貸してくれるかなぁっ!」
驚愕する。この超人たちの戦いのなかで、ただの人間に何が出来るというのか。
「君の眼で、あいつの過去を視て欲しい。彼女が死んだ時、屍鬼になった時から、現在までを遡るんだ。そこに札を置いただろう。それに触れて、もう一度ぼくに君が視ているものを視せてくれ。ぼくが教えた眼の使い方は、憶えてるだろ」
綾人の言う通り、墨で引いた境界のなかには、いつの間にかイモリの墨絵と共に一枚の霊符が置かれていた。上野で一度見た札だ。戦闘の最中、イモリに運ばせたのだろう。
戸惑いながらも、蓮司はその札に触れた。これは綾人がくれたチャンスだった。
沙夜の過去を視ることが、何の役に立つのかはわからない。だがそれが少しでも、彩の、啓の、緑の仇を討つ機会に繋がるのなら、蓮司は幾らでも両の眼を酷使するつもりだった。
蓮司は心のなかで綾人に礼を言ったあと、沙夜へと視線を向けた。
沙夜が戸惑った表情をする。何かに気づいたのか、それが焦りに変わった。
「止めなさい!」沙夜が蓮司の方へと走り出す。
「おっと邪魔はさせないわよ」和泉が沙夜の前に立ちはだかった。
その隙に、蓮司は沙夜を通して、彼女が経験した過去を見通した。
少し遡り過ぎたらしい。脳裏には、狭いアパートで泣く少女の姿が映った。沙夜の幼少期の姿らしい。彼女の父親は横暴で、いつも自分の不幸を世の中のせいにし、その不満を妻と娘である沙夜へとぶつけていた。そんな社会の不幸を煮詰めたような家のなかでも、彼女は成長し、その不幸から脱するための力を身につけようとしていたが、心底嫌っていた家を出るよりも前に、彼女は怪異事件に巻き込まれ人生を終えた。だがそこで彼女は終わらなかった。意志持つ死相持ちとして蘇り、秋水と出会い、彼女は新しく生まれ変わるためのチャンスを得た。
そこから先は蓮司も知る通り、沙夜は秋水の手伝いをしながら、人生をやり直すための自分好みの家庭を捜した。そして選ばれたのが、秋水の監視対象でもあった蓮司の家だった。
あぁ良かった、と蓮司は思った。幼少期の沙夜には、少しばかり同情したが、彼女の所行を改めて確認して、そんな迷いはすぐに消えた。
綾人が両手を床に着く。墨絵が伸び、座敷の中が夥しいまでの文字で埋め尽くされる。
「なに、これは? お前、いったい何をした!」
「駄目だぜ。自分が有利だからって細部に気を配らないのは」
綾人の腕だけではない。文字は襖や板の隙間、座敷のあらゆる場所からわき出してくる。
「戦闘中、曼荼羅に干渉するための式を屋敷中に張り巡らせた。さすがに五法曼荼羅そのものに干渉出来ないけど、君と曼荼羅を繋ぐ術式は、一般的な式神と術者を繋ぐものに酷似してる。ちょっと術式が複雑だから苦労したけど、蓮司君の眼を通して、秋水さんが術をかけた時の工程を見て、理解した。あとはそれを解くだけってわけだ」
無秩序に蠢いていた文字たちが、まるでプログラムを記述するように規則的に動き出す。
それに危機感を抱いたのか、沙夜は和泉を蹴り飛ばし、骸の兵で強引に足止めをすると、真っ直ぐに綾人の方へ向かった。だが手足を墨絵の妖に噛まれ動きが止まる。
「君の不死性、剥がさせてもらう」
部屋を埋め尽くす文字列の動きが止まる。その瞬間、蓮司には視えなかったが、確かに沙夜を構成するうちの何かが消失したのがわかった。現に、傷つけられた瞬間には始まる再生力も消えている。彼女の四肢は、墨絵に噛まれたまま血を流し続けていた。
拘束された沙夜へと和泉が走る。彼女の右腕からは、再び毒の液が滴っていた。
「くそっ! くそっ! くそっ! 邪魔よ、どきなさいッ!」
沙夜が再び、髪を折り重ね妖たちを切断する。その場で天井へと跳躍し、和泉の毒手をすり抜ける。天井を足場に、沙夜は部屋の外を目指し、足に力を込めた。だが彼女の体に横合いから小さな猫型の墨絵が噛み付いた。沙夜の体はよろけ、天井を蹴るより先に落下する。
無防備な沙夜へ向けて、一体の巨大な狼型の墨絵が大口を開けて跳躍する。
絶対に回避出来ない瞬間。だが如何なる執念から、沙夜は髪を壁へと伸ばし、自身の体を浮かせて丸呑みにされるのを防いだ。体の半ばから食いちぎられ、胴体からは内蔵が漏れ出している。にも関わらず、沙夜の顔には執念じみた憎悪と怒りが滲んでいた。
その沙夜と蓮司は眼を合わせてしまった。
途端に、彼女の標的が綾人たちから蓮司へと変わる。沙夜は上半身だけになったにも関わらず、髪を蜘蛛の足のように動かして驚異的な速度で蓮司のもとへとやって来た。沙夜の腕が、蓮司へと伸びる。彼女は綾人が敷いた結界に弾かれながらも、強引に蓮司へと近づいていく。
「お前なんてもういらないっ! 私の幸福を邪魔するお前は許さないっ! 贄になれっ! お前を喰って私は生き延びてやる!」
遂に綾人の結界を破り、沙夜の手が蓮司を掴んだ。とてつもない力だ。掴まれた腕が痛む。みしみしと骨が砕かれるのを恐れて悲鳴を挙げているようだった。
沙夜は口を開いて、蓮司の首に噛み付こうとする。効率良く噛み千切れるよう変化していく牙を見て、蓮司は死の恐怖を明確に感じた。だが背後に引こうとして、家族と緑を腹に入れた獣の墨絵とぶつかり、その気持ちは一転した。
いま、彼らを守れるのは自分だけなのだ。その思いのままに沙夜の頭を鷲掴みにする。
「あんたの境遇には同情するよ。けどな、それでなんで彩も、啓も、先輩も死ななきゃならなかった! 自分より幸せそうにしてたから? 自分より裕福だから? ふざけんなっ!」
しがみつく沙夜の顔を、蓮司は全力で殴りつけた。腕から引き剥がされ、沙夜は叩き落とされる。だがすぐに髪の毛を使い、体勢を立て直そうとした。
蓮司は右手に描かれた墨絵を、木刀の形に具現化する。
「そんなもんで、俺の大切なもの奪ってんじゃねえぇぇッ!」
ありったけの力で踏み込み、木刀を突き出した。
木刀の先端は、狙い違わず沙夜の首を貫いた。
沙夜の体が、数メートル先へと突き飛ばされる。床に倒れた彼女は、この場から逃げようと腕を伸ばす。だが彼女の背中から、今度こそ和泉が心臓を貫き、トドメを差した。
家に取り憑いた怪物は、その人生の幕を降ろした。
蓮司は家族と緑を守る獣の腹へと視線を向け、心のなかで仇を討ったことを報告した。
「蓮司君だいじょうぶっ!」
心配した綾人が駆けてきた。目の前にまで来たかと思うと、ぺたぺたと体に触れてくる。
「ちょっ大丈夫だから止めろって。なんなんだよ」
「いや、なんか変な呪いでも受けたかなって思って。うん、でも大丈夫そうだ。良かった。君に何かあったら、今度こそ顔向け出来ないし」
緑が殺された時のことを後悔しているのだろう。今思えば、彼は全力で自分たちを守ろうとしてくれた。確かに呪術師として酷い隠し事をしていたが、それは綾人の立場がそうさせたものだ。蓮司は謝るべきだと思い、口を開こうとした。
「……許さない」
だが沙夜の声に、その言葉は遮られた。蓮司は慌てて、彼女の方を振り向いた。
「許さないっ許さないっ許さないっ! なんで私がこんな目にっ! 幸せになりたかっただけなのにっ! 幸福に生きたかっただけなのにっ! 呪ってやる! お前たち全員を呪ってやる! 絶対に生かして返すものかっ!」
すべてを憎むような呪詛。その呪いの言葉に、すぐに異界は応えた。周囲に数え切れないほどの骸の兵が現れる。座敷自体もその形を変え、外に通じる筈の扉が全て消えていく。
沙夜は狂ったように笑い声を上げ、呪詛を叫び続けながら息絶えた。
「綾人くん、あいつと曼荼羅の縁は切ったんじゃなかったの!」
「切ったよ! けど、足りなかった。まだ曼荼羅と繋がる縁があったみたいだ」
「あぁもうっ! けど愚痴ってる場合じゃないか。綾人くん、薬。これ呑んで限界まで耐え切るわよ」和泉は紙に包まれた粉薬を差し出すと、すぐに自分でも同じ薬を呑んだ。
綾人は自分たちの周りに墨絵で陣を描き、さらに和泉がその内側に水で円形の陣を造る。
二重の結界は、骸の兵たちの攻撃に少しも揺るがない。だがそれだけでは駄目なのは明白だ。
「おい、ずっとここでじっとしてる気かよ! いつか破られるぞっ!」
「わかってる。だから頼みがある。誘ちゃんを見つけるのを手伝ってくれないか」
ここに来るまでに誘が囚われたのは聞いた。だが彼女がこの状況をどう解決するのか。
「こいつらを止めるには、この異界を維持している呪術師を倒すしかない。けど、その人と戦って一条さんは返り討ちにされた。だからもう、誘ちゃんしかいないんだ」
「返り討ちって、大丈夫なのかよ祭塚さん」
「危うい所で引いたからね。いまは秋水さんから逃げながら誘ちゃんを捜してる。秋水さんが真っ先に誘ちゃんを捕まえたのは、彼女を恐れてるからだ。あの人にとって、誘ちゃんは天敵とも言える存在だからね」
「誘を見つければ、この状況をどうにか出来るのか?」
「うん。それと出来れば、さっきみたいに誘ちゃんが捕まってから今に至るまでを視て欲しい。彼女を視るための眼は、僕が用意するから」
蓮司は頷き、渡された霊符を握りしめた。眼を閉じ、意識を眼に集中させる。
次に眼を開いた時、蓮司の眼はこことは別の場所を映していた。
角のある者、巨体を誇る者、鋭利な牙を持つ者、それら幾つもの妖の姿をした墨絵が、骸の兵を薙ぎ払いながら座敷を支配する沙夜を襲う。
沙夜は人間を遥かに上回る力で、墨絵を殴り、蹴り散らして行くが、四本しかない手と足で
は対処が追いつかない。妖たちは彼女の背に、首に、腿に次々に噛み付いていく。
噛み付かれた五体が血飛沫をあげる。それにも関わらず、沙夜は笑い声をあげた。
「アハハハッッ! 無駄よ! 無駄! 言ったでしょう。私はこの異界と同化してるって! 秋水も、私も、この異界ごと潰さなければ死なないのよ!」
沙夜の髪が蛇のように動いたかと思うと、彼女を捉える墨絵たちを次々に切断していく。
だが沙夜が自由を得る直前、和泉が走る。和泉の右手には、彼女が体内で精製した毒がたっぷりと塗り籠められている。その毒手を、沙夜の左胸に突き立てる。毒は屍鬼の強靭な肌を容易く溶かし、その手を心臓にまで届かせた。だが、沙夜の態度は何一つ揺らがない。
「いらっしゃい。残念ね。毒も効かないのよ。このまま食べてあげるわ」
沙夜の髪が、和泉の体を拘束する。さらに毒手が突き刺した左胸から、筋繊維が糸のように和泉の腕に絡んでいく。言葉通り、本当に和泉を取り込もうとしているのだ。和泉は沙夜の左胸から腕を引き抜こうとするが、泥に沈むように右腕から沙夜の体へと呑みこまれていく。
和泉が必死に抵抗するなか、綾人の操る墨絵が沙夜の髪を切り裂き、彼女を拘束から解放した。和泉は毒を強めて、腕に絡む筋繊維を溶かすと沙夜から距離を離した。
沙夜の傷は、和泉が離れた数秒後にはすべて癒えてしまっていた。
日常からかけ離れた戦い。戦う力のない蓮司は、座敷の端で、綾人の造る結界と墨絵に守られながらその光景を見届けることしか出来ない。それがこの上なく悔しい。
あの女は家族の仇なのに、自分では傷一つつけることが出来ないのだ。
沙夜から距離を取り、綾人のもとまで引くと、和泉は彼に礼を言った。
「ありがと。助かったわ。けどどうする? あの女、ホントに死なないわよ」
「だいじょうぶ。和泉ちゃんが気を引いてくれてたお陰で準備も出来たから。ちょっと術式が複雑だけど、過去から手順を見れば何とか出来る自信もある。あとは……」
綾人が蓮司の方を振り返り、叫んだ。
「蓮司君、あいつを倒すために手を貸してくれるかなぁっ!」
驚愕する。この超人たちの戦いのなかで、ただの人間に何が出来るというのか。
「君の眼で、あいつの過去を視て欲しい。彼女が死んだ時、屍鬼になった時から、現在までを遡るんだ。そこに札を置いただろう。それに触れて、もう一度ぼくに君が視ているものを視せてくれ。ぼくが教えた眼の使い方は、憶えてるだろ」
綾人の言う通り、墨で引いた境界のなかには、いつの間にかイモリの墨絵と共に一枚の霊符が置かれていた。上野で一度見た札だ。戦闘の最中、イモリに運ばせたのだろう。
戸惑いながらも、蓮司はその札に触れた。これは綾人がくれたチャンスだった。
沙夜の過去を視ることが、何の役に立つのかはわからない。だがそれが少しでも、彩の、啓の、緑の仇を討つ機会に繋がるのなら、蓮司は幾らでも両の眼を酷使するつもりだった。
蓮司は心のなかで綾人に礼を言ったあと、沙夜へと視線を向けた。
沙夜が戸惑った表情をする。何かに気づいたのか、それが焦りに変わった。
「止めなさい!」沙夜が蓮司の方へと走り出す。
「おっと邪魔はさせないわよ」和泉が沙夜の前に立ちはだかった。
その隙に、蓮司は沙夜を通して、彼女が経験した過去を見通した。
少し遡り過ぎたらしい。脳裏には、狭いアパートで泣く少女の姿が映った。沙夜の幼少期の姿らしい。彼女の父親は横暴で、いつも自分の不幸を世の中のせいにし、その不満を妻と娘である沙夜へとぶつけていた。そんな社会の不幸を煮詰めたような家のなかでも、彼女は成長し、その不幸から脱するための力を身につけようとしていたが、心底嫌っていた家を出るよりも前に、彼女は怪異事件に巻き込まれ人生を終えた。だがそこで彼女は終わらなかった。意志持つ死相持ちとして蘇り、秋水と出会い、彼女は新しく生まれ変わるためのチャンスを得た。
そこから先は蓮司も知る通り、沙夜は秋水の手伝いをしながら、人生をやり直すための自分好みの家庭を捜した。そして選ばれたのが、秋水の監視対象でもあった蓮司の家だった。
あぁ良かった、と蓮司は思った。幼少期の沙夜には、少しばかり同情したが、彼女の所行を改めて確認して、そんな迷いはすぐに消えた。
綾人が両手を床に着く。墨絵が伸び、座敷の中が夥しいまでの文字で埋め尽くされる。
「なに、これは? お前、いったい何をした!」
「駄目だぜ。自分が有利だからって細部に気を配らないのは」
綾人の腕だけではない。文字は襖や板の隙間、座敷のあらゆる場所からわき出してくる。
「戦闘中、曼荼羅に干渉するための式を屋敷中に張り巡らせた。さすがに五法曼荼羅そのものに干渉出来ないけど、君と曼荼羅を繋ぐ術式は、一般的な式神と術者を繋ぐものに酷似してる。ちょっと術式が複雑だから苦労したけど、蓮司君の眼を通して、秋水さんが術をかけた時の工程を見て、理解した。あとはそれを解くだけってわけだ」
無秩序に蠢いていた文字たちが、まるでプログラムを記述するように規則的に動き出す。
それに危機感を抱いたのか、沙夜は和泉を蹴り飛ばし、骸の兵で強引に足止めをすると、真っ直ぐに綾人の方へ向かった。だが手足を墨絵の妖に噛まれ動きが止まる。
「君の不死性、剥がさせてもらう」
部屋を埋め尽くす文字列の動きが止まる。その瞬間、蓮司には視えなかったが、確かに沙夜を構成するうちの何かが消失したのがわかった。現に、傷つけられた瞬間には始まる再生力も消えている。彼女の四肢は、墨絵に噛まれたまま血を流し続けていた。
拘束された沙夜へと和泉が走る。彼女の右腕からは、再び毒の液が滴っていた。
「くそっ! くそっ! くそっ! 邪魔よ、どきなさいッ!」
沙夜が再び、髪を折り重ね妖たちを切断する。その場で天井へと跳躍し、和泉の毒手をすり抜ける。天井を足場に、沙夜は部屋の外を目指し、足に力を込めた。だが彼女の体に横合いから小さな猫型の墨絵が噛み付いた。沙夜の体はよろけ、天井を蹴るより先に落下する。
無防備な沙夜へ向けて、一体の巨大な狼型の墨絵が大口を開けて跳躍する。
絶対に回避出来ない瞬間。だが如何なる執念から、沙夜は髪を壁へと伸ばし、自身の体を浮かせて丸呑みにされるのを防いだ。体の半ばから食いちぎられ、胴体からは内蔵が漏れ出している。にも関わらず、沙夜の顔には執念じみた憎悪と怒りが滲んでいた。
その沙夜と蓮司は眼を合わせてしまった。
途端に、彼女の標的が綾人たちから蓮司へと変わる。沙夜は上半身だけになったにも関わらず、髪を蜘蛛の足のように動かして驚異的な速度で蓮司のもとへとやって来た。沙夜の腕が、蓮司へと伸びる。彼女は綾人が敷いた結界に弾かれながらも、強引に蓮司へと近づいていく。
「お前なんてもういらないっ! 私の幸福を邪魔するお前は許さないっ! 贄になれっ! お前を喰って私は生き延びてやる!」
遂に綾人の結界を破り、沙夜の手が蓮司を掴んだ。とてつもない力だ。掴まれた腕が痛む。みしみしと骨が砕かれるのを恐れて悲鳴を挙げているようだった。
沙夜は口を開いて、蓮司の首に噛み付こうとする。効率良く噛み千切れるよう変化していく牙を見て、蓮司は死の恐怖を明確に感じた。だが背後に引こうとして、家族と緑を腹に入れた獣の墨絵とぶつかり、その気持ちは一転した。
いま、彼らを守れるのは自分だけなのだ。その思いのままに沙夜の頭を鷲掴みにする。
「あんたの境遇には同情するよ。けどな、それでなんで彩も、啓も、先輩も死ななきゃならなかった! 自分より幸せそうにしてたから? 自分より裕福だから? ふざけんなっ!」
しがみつく沙夜の顔を、蓮司は全力で殴りつけた。腕から引き剥がされ、沙夜は叩き落とされる。だがすぐに髪の毛を使い、体勢を立て直そうとした。
蓮司は右手に描かれた墨絵を、木刀の形に具現化する。
「そんなもんで、俺の大切なもの奪ってんじゃねえぇぇッ!」
ありったけの力で踏み込み、木刀を突き出した。
木刀の先端は、狙い違わず沙夜の首を貫いた。
沙夜の体が、数メートル先へと突き飛ばされる。床に倒れた彼女は、この場から逃げようと腕を伸ばす。だが彼女の背中から、今度こそ和泉が心臓を貫き、トドメを差した。
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蓮司は家族と緑を守る獣の腹へと視線を向け、心のなかで仇を討ったことを報告した。
「蓮司君だいじょうぶっ!」
心配した綾人が駆けてきた。目の前にまで来たかと思うと、ぺたぺたと体に触れてくる。
「ちょっ大丈夫だから止めろって。なんなんだよ」
「いや、なんか変な呪いでも受けたかなって思って。うん、でも大丈夫そうだ。良かった。君に何かあったら、今度こそ顔向け出来ないし」
緑が殺された時のことを後悔しているのだろう。今思えば、彼は全力で自分たちを守ろうとしてくれた。確かに呪術師として酷い隠し事をしていたが、それは綾人の立場がそうさせたものだ。蓮司は謝るべきだと思い、口を開こうとした。
「……許さない」
だが沙夜の声に、その言葉は遮られた。蓮司は慌てて、彼女の方を振り向いた。
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二重の結界は、骸の兵たちの攻撃に少しも揺るがない。だがそれだけでは駄目なのは明白だ。
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「うん。それと出来れば、さっきみたいに誘ちゃんが捕まってから今に至るまでを視て欲しい。彼女を視るための眼は、僕が用意するから」
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魔物を倒して魔石をポイントに換えなければ、
水一滴すら買えない。
ダンジョン最奥スタートの、ハード・・・どころか鬼モードだった。
そんな中、盾だけが違った。
傷はあっても、バンドの残った盾はいくつも使えた。
両手に円盾、背中に大盾、そして両肩に装着したL字型とスパイク付きのそれは、俺をリアルザクに仕立てた。
盾で殴り
盾で守り
腹が減れば・・・盾で焼く。
フライパン代わりにし、竈の一部にし、用途は盛大に間違っているが、生きるためには、それが正解だった。
ボス部屋手前のセーフエリアを拠点に、俺はひとりダンジョンを生き延びていく。
――そんなある日。
聞こえるはずのない女性の悲鳴が、ボス部屋から響いた。
盾のまちがった使い方から始まる異世界サバイバル、ここに開幕。
【AIの使用について】
本作は執筆補助ツールとして生成AIを使用しています。
主な用途は「誤字脱字のチェック」「表現の推敲」「壁打ち(アイデア出しの補助)」です。
ストーリー構成および本文の執筆は作者自身が行っております。
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