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第三章 天下布武編「愛しき光 妖しき影」
第三話② 桶狭間 後編
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「光秀?」
泥だらけの顔に、落ちくぼんだ目で光秀が微笑んだ。馬を降り、帰蝶と向かい合う。
「大軍が尾張に攻め入ると噂を聞いて、近江経由でここに来た。
近江六角氏と織田家の間には、窮地において援軍を出す約定がある。そう道三殿から聞いていたので、承禎殿に尾張が危機だと知らせに行った」
「でも承禎様はかなりご高齢・・・」
「信長殿の戦いぶりに興味があるそうだ」
帰蝶の目尻がひきつった。
「高みの見物に呼んだの?光秀、意地悪が過ぎる」
光秀は帰蝶の肩に手をのせてなだめた。
「違う。承禎殿はきっと信長殿の助けになる。俺を信じて」
光秀が微笑んだ。
その微笑をまともに見たら、帰蝶は急にこらえきれなくなり涙をこぼした。体がわなわなと震え、息ができない。
「光秀、怖い」
光秀は咄嗟に帰蝶を抱きしめた。
「信長が死んでしまう。どうしよう、どうしよう」
取り乱す帰蝶の体をぎゅっと締め付け、光秀は囁いた。
「姫、大丈夫。信長殿はあなたを残して死んだりしない」
「いい加減なことを言わないで」
「いい加減などではない。俺が絶対に、信長殿を死なせない!」
光秀は珍しく厳しい口調で言った。
「光秀・・・?」
涙にぬれた目を見張り、帰蝶は光秀を振り仰いだ。
「だって、姫にとって信長殿は、かけがえのない大切な人生の伴侶なんだろう」
刹那、光秀の微笑に、悲しげな影が差した。
が、すぐに精悍な顔に気概をみなぎらせ、光秀は逞しく笑った。
「清州城で待っていてくれ。きっと信長殿は還ってくるから」
光秀は言うと馬にまたがり、走り去って行った。
信長の軍は徐々に軍勢を増やしながら進み、最前線基地善照寺砦に集まった時には、その兵力は三千人余りになっていた。
砦に陣を構えた信長のもとに、早馬が駆け込んできた。
「今川軍により、織田方の砦をふたつ攻め落とされました」
「そうか・・・」
大学の舞う姿が、まぶたの裏によみがえる。昨日の晩のことだった。
───・・・大学、よくここまで耐えてくれた
「今川は丸根砦、鷲津砦を焼き払い、大高城へ通じる進路を確保している模様」
早馬の兵は付け足した。
信長はうつむいた顔を上げ、まっすぐ前を向いた。
「今川軍は総兵力二万五千。
そのうち砦の攻撃に一万、後方の守りに一万をさいたな。
つまり義元本隊は、五千にまで減った・・・そして俺たちは今、ざっと三千」
信長は思案した。
───まだ二千の差がある。これではまだ正面切って攻撃しても太刀打ちできない
そのとき、遅れて来た佐々隼人正が、突如大声で名乗りを上げた。
「殿! わずかな兵力で義元を討ち取るためには、さらに義元本体の兵力を減らす必要があるでしょう。どうか、この隼人正におとりをさせてください。大高城に進軍する先鋒の兵たちを、二千、隼人正が討ってみせます」
隼人正の大きな体に、熱くみなぎるものがにじみ出ていた。
信長はうなずいた。
「よし。頼んだ。では隼人正の部隊に鉄砲を二百預けよう」
「二百も。かたじけない」
隼人正は顔をゆがめた。ぎゅっと閉じた目に涙が滲んでいたが、すでに顔中が汗に濡れてぐちゃぐちゃだった。
隼人正は鉄砲隊を率い、陥落した砦跡へ向かった。すでにそこを侵入経路として、今川軍が進軍している。
「撃て!」
進路の脇に身を隠していた隼人正軍。
隊列の脇腹をついて一斉に撃ち込んだ。
鉛玉を受けて倒れ込む今川軍の背後から、別の兵が弓を引き、矢を放ってきた。
玉を装填する間、隼人正軍も弓矢隊が応戦、さらにその背後に控えていた兵が飛び出し槍を突き出して突進した。
鉄砲と弓矢、槍でつぎつぎと敵方を討ち、鉛玉が尽きると刀を抜いて隊列に総力戦で突進した。
「だめだ。討っても討っても、敵がうじゃうじゃと湧いて出てくる」
倒せどもつぎつぎと現れる今川軍に、全員が怯みかけた。
それでも隼人正は号令を止めなかった。
隼人正に付く武者たちはそれぞれに、複数の敵を相手に奮闘した。
槍でめった刺しにされる者も、体中に矢を受ける者もいた。
それでも雄叫びを上げながら果敢に敵方の集団に身を投じ、つぎつぎと血にぬかるんだ地面に倒れ込んでいく。
精魂尽き果てるまで、隼人正は叫んだ。
次第に隼人正の兵は少なくなり、やがて、すべての武者が地面に折り重なって絶命した。
隼人正が率いた男たちの亡骸の上を、部将めがけて今川軍が蹂躙しながら突進してくる。
隼人正は槍を構え、猛然と叫び、最後の力を振り絞った。
隼人正を囲んだ今川軍が一斉にその巨体にとびかかった。
───信長殿、殿の家臣として最期を迎えられて、私は誇らしい。どのくらいの兵数を削れたかな。これで、信長殿は攻撃に打って出られるだろうか。
隼人正の胸に、無数の矢が突き立った。
息が止まる。
熱いものが喉元から逆流して吹き出し、とどめの槍を受けてあおむけに倒れた。
空が見えた。分厚い雲が流れてきて青空を遮り、闇を作った。
「殿、私はあなたの信じる心に、応えることができただろうか」
そう呟いて隼人正は、目を見開いたまま絶命した。
信長の命を受け義元本陣の動きを見張っていた梁田政綱が、農夫の姿で善照寺砦に駆けこんできた。
「今川義元の本陣を見つけました、ただいま、桶狭間山の山頂で昼食休憩中。塗輿が目印です」
山頂の義元を確認したと言うことは、桶狭間山に布陣する敵兵たちの目をかいくぐって捜索し、来た道をまた戻ってきたということだった。敵兵の目を欺いて信長軍本陣までたどり着くとは、想像を絶する偉業だ。
「政綱、よくやった」
「鷹狩の訓練にくらべれば、このくらいのことは・・・」
政綱はその特徴のない地味な顔に満ち足りた笑みを浮かべ、次の瞬間白目をむいて膝から崩れ落ちた。緊張が途切れたとたんに疲労感に支配された政綱は、気を失って信長の腕に倒れ込んだ。
善照寺砦から桶狭間山は距離があった。
まずは桶狭間山近くの中島砦まで移動しなければ、一気呵成に攻撃に出ることはできない。
しかし、桶狭間山はなだらかな丘で、周囲を遠くまで見下ろすことができてしまう。
中島砦は中洲にあり、その位置は桶狭間山よりはるかに低い。義元の本陣から、容易に見下ろされてしまう。
「近くの中島砦に移ろうとすれば丸見えだ。どう敵の目を欺くか・・・」
信長は地図を睨み、攻撃の筋書きを模索した。
そこに、突如一群の騎馬隊が砦へと押し寄せてくる気配がした。
「今川め、ここまできたのか?」
信長は身構えて一団の様子を遠方から睨んだ。
正午。
桶狭間山山頂に本陣を敷いた今川義元は、先鋒の佐々隼人正軍をせん滅した知らせを受け、上機嫌だった。
「隼人正、本当に馬鹿な奴だ。せっかくこちらが手を差し伸べてやったと言うのに、信長に犬死させられるとは」
義元は遠方の山の頂の善照寺砦に目を向けた。無数の織田軍の旗印が立ち並び、なすすべもないのか、一向に動きを見せない。
「隼人正の軍勢が全滅したと知って、尻込みしているようだな。誰一人あの砦から動く気配がない」
そう言うと義元はひっ、ひっ、と笑った。
本陣に組んだやぐらの下で、義元はくつろいで昼食を取り始めた。
「もはや、義元の矛先には天馬鬼神も堪まるべからず」
義元の機嫌はすこぶる良い。
空が突然、雨雲に覆われ始めた。
「おっ、雨か。これでは戦も中止だな。まあよい。大高城には無事兵糧部隊を送り込めたことだ。出直すとしよう。救われたな、信長」
分厚い雲が太陽を覆い、瞬く間に夜さながらに辺りが闇に閉ざされた。
山の下の方から、ざわめきが耳に届いた。
「一体なんの騒ぎだ?」
義元が親衛隊のひとりに尋ねると
「いさかいが起きている様子です。確かめてまいります」
と言って駆けて行った。
信長は、善照寺砦から中島砦に移った。
その後さらに進路を進めて、今は桶狭間にいる。
雲の流れるさまを、じっと見つめていた。
「雨が降るぞ・・・」
空一面を雲が覆い、あたりが暗くなったその時。
信長が立ち上がった。
「進め!登れええええっ」
雨雲に閉ざされてできた闇の中を、千騎の信長軍が本陣めがけて突撃する。
大雨が大地に降り注ぐ。目の前の景色が水煙に消えた。
「小平太、新介、行けーっ!」
真っ先に桶狭間山を駆け上るのは、織田勢きっての韋駄天・服部小平太と、太刀を横に構えて切り捨てながら力づくで突進する、猪の異名をもつ毛利新介だ。
「みな、小平太と新介を、敵方深くまで送り込め!」
先頭集団は敵兵の隙間をかいくぐって疾走し、わき目も振らず山を一気に駆け上っていった。
信長は軍勢を追い立てるべく、喉が引きちぎれんばかりの叫びをあげた。
「義元以外の敵の首には構うな!狙いはただ一つ、義元の首だ!」
山の斜面を、雪崩のように今川軍が降りてくる。
桶狭間の窪地で待ち構える信長本陣の軍勢は、勇ましく大群を迎撃した。
信長は怒涛の進撃で攻め入る今川軍を切り倒しながら祈った。
───小平太、新介、どうか本陣にたどり着いてくれ
桶狭間山山頂。
来るはずのない織田軍の突然の出現に、今川軍は大混乱に陥った。
統制も取れぬまま、切り込んできた織田軍に勢いで応戦し、手傷を負って次々に倒れていく。
「信長め。善照寺砦でしり込みしていたのではないのか」
義元は馬周り衆に怒鳴りつけながら、突然の雷雨にずぶぬれのまま、親衛隊に守られて塗輿に乗り込み、退却の体制を取った。
そのころ桶狭間の窪地では、信長軍と今川軍が激突していた。
山の上から駆け下りて来た今川軍の青い旗印が、桶狭間の雨を染める。
「引けーっ、引けーっ!」
信長が号令をかけると、山から下りてくる大軍に背を向けて織田軍は後退した。
今川軍が攻め寄せたところで、ふたたび信長は声を上げた。
「今だ!押せ、討てええっ、前へ!」
また振り返った部隊が、今川軍に切り込んでいく。勢い、押して今川軍とまじりあう。
かと思うとまた、引けの号令に後退した。
軍勢が押しつ戻りつしながら移動するうち、今川軍がずぶずぶと、深田に足をうずめていく。頭上からは視界を閉ざす雨。足元は重たい泥に絡めとられて身動きが取れない。
深田の存在を知らずに山から下りてくる軍勢が、つぎつぎと沼地と化した田んぼにはまって緩慢な動きになる。
敵は長旅で疲れているところに、足元の悪い深田をいったりきたりするうちに、戦う気力を失いつつあった。
もともと二万を超える軍勢だ。自分が動かずとも勝敗は決している。そういう気持ちが仇となった。今川の青い旗印が、泥だらけに汚れて動かなくなった。
雨が止み、一瞬の静寂が辺りを包んだ。
その時、山の上から叫び声がこだました。
「今川義元の首、討ちとったり」
織田軍はその声を聞き、雨雲が切り裂かれて覗いた空を仰いだ。
陽ざしの梯子が、天から信長の軍勢に向かって下ろされた。
「勝った」
突如晴れ渡った空に、織田軍の雄叫びが響き渡った。
ほどなくして、総大将を失った今川軍は総崩れとなり、なすすべもなく散り散りになって駿河へと撤退した。
遠く善照寺砦の上空にも、晴れ間が戻った。
六角承禎の軍勢は、掲げていたおびただしい本数の織田軍の幟を下ろした。
「今川軍は織田軍の奇襲に驚いたことだろう。この幟を見れば、まさか織田軍が目と鼻の先まで移動して来ているとは思わなかったはずだ。光秀殿の知略が、功を奏したな」
承禎は楽しげに笑った。
六角承禎の軍と、善照寺砦に残ったわずかな信長軍の兵たちは、三千本の幟をかかげ、あたかも三千の兵がいまだ砦に残っているかのように見せかけていたのだ。
こうして動きを悟られないようにし、信長軍二千の兵が、中島砦への移動を成功させていた。
光秀は、今川の尾張侵攻の噂を聞き、すぐさま越前・朝倉義景のもとに出向いて今川の脅威を説き、六角承禎には信長の面白さを語りに走った。
そして両者に、信長の幟を作らせ、戦地に運び込むよう要請したのだった。
「兵力の差を、いかにして縮めるか」
人を増やせないなら、幟の数で相手を攪乱するしかない。
光秀が考えた策だった。
「明智殿が美濃を出た浪人の身でありながら、尾張に肩入れするわけは・・・帰蝶殿であるな」
承禎は光秀を見やって、薄く笑った。
光秀は何も言わず、嘘のように太陽が輝いて、雨に濡れた平原をキラキラと照らし始めたのを眺めていた。
確かに光秀は、帰蝶を守るために、尾張国を守ろうとしている。
それは帰蝶を愛しているからに違いなかった。
しかし今朝方、帰蝶は光秀の腕にすがり付きながらも、信長の行く末を案じて泣きじゃくった。
───俺はいつまで、この報われない戦を続けるつもりなのだろう。
越前から近江、そして尾張。寝ずに奔走し続けていた光秀は、思い出したように激しい疲労感に襲われた。
───熱田様に礼を言い、松乃屋で休もう
承禎に別れを告げて、光秀はひとり、砦を出て行った。
泥だらけの顔に、落ちくぼんだ目で光秀が微笑んだ。馬を降り、帰蝶と向かい合う。
「大軍が尾張に攻め入ると噂を聞いて、近江経由でここに来た。
近江六角氏と織田家の間には、窮地において援軍を出す約定がある。そう道三殿から聞いていたので、承禎殿に尾張が危機だと知らせに行った」
「でも承禎様はかなりご高齢・・・」
「信長殿の戦いぶりに興味があるそうだ」
帰蝶の目尻がひきつった。
「高みの見物に呼んだの?光秀、意地悪が過ぎる」
光秀は帰蝶の肩に手をのせてなだめた。
「違う。承禎殿はきっと信長殿の助けになる。俺を信じて」
光秀が微笑んだ。
その微笑をまともに見たら、帰蝶は急にこらえきれなくなり涙をこぼした。体がわなわなと震え、息ができない。
「光秀、怖い」
光秀は咄嗟に帰蝶を抱きしめた。
「信長が死んでしまう。どうしよう、どうしよう」
取り乱す帰蝶の体をぎゅっと締め付け、光秀は囁いた。
「姫、大丈夫。信長殿はあなたを残して死んだりしない」
「いい加減なことを言わないで」
「いい加減などではない。俺が絶対に、信長殿を死なせない!」
光秀は珍しく厳しい口調で言った。
「光秀・・・?」
涙にぬれた目を見張り、帰蝶は光秀を振り仰いだ。
「だって、姫にとって信長殿は、かけがえのない大切な人生の伴侶なんだろう」
刹那、光秀の微笑に、悲しげな影が差した。
が、すぐに精悍な顔に気概をみなぎらせ、光秀は逞しく笑った。
「清州城で待っていてくれ。きっと信長殿は還ってくるから」
光秀は言うと馬にまたがり、走り去って行った。
信長の軍は徐々に軍勢を増やしながら進み、最前線基地善照寺砦に集まった時には、その兵力は三千人余りになっていた。
砦に陣を構えた信長のもとに、早馬が駆け込んできた。
「今川軍により、織田方の砦をふたつ攻め落とされました」
「そうか・・・」
大学の舞う姿が、まぶたの裏によみがえる。昨日の晩のことだった。
───・・・大学、よくここまで耐えてくれた
「今川は丸根砦、鷲津砦を焼き払い、大高城へ通じる進路を確保している模様」
早馬の兵は付け足した。
信長はうつむいた顔を上げ、まっすぐ前を向いた。
「今川軍は総兵力二万五千。
そのうち砦の攻撃に一万、後方の守りに一万をさいたな。
つまり義元本隊は、五千にまで減った・・・そして俺たちは今、ざっと三千」
信長は思案した。
───まだ二千の差がある。これではまだ正面切って攻撃しても太刀打ちできない
そのとき、遅れて来た佐々隼人正が、突如大声で名乗りを上げた。
「殿! わずかな兵力で義元を討ち取るためには、さらに義元本体の兵力を減らす必要があるでしょう。どうか、この隼人正におとりをさせてください。大高城に進軍する先鋒の兵たちを、二千、隼人正が討ってみせます」
隼人正の大きな体に、熱くみなぎるものがにじみ出ていた。
信長はうなずいた。
「よし。頼んだ。では隼人正の部隊に鉄砲を二百預けよう」
「二百も。かたじけない」
隼人正は顔をゆがめた。ぎゅっと閉じた目に涙が滲んでいたが、すでに顔中が汗に濡れてぐちゃぐちゃだった。
隼人正は鉄砲隊を率い、陥落した砦跡へ向かった。すでにそこを侵入経路として、今川軍が進軍している。
「撃て!」
進路の脇に身を隠していた隼人正軍。
隊列の脇腹をついて一斉に撃ち込んだ。
鉛玉を受けて倒れ込む今川軍の背後から、別の兵が弓を引き、矢を放ってきた。
玉を装填する間、隼人正軍も弓矢隊が応戦、さらにその背後に控えていた兵が飛び出し槍を突き出して突進した。
鉄砲と弓矢、槍でつぎつぎと敵方を討ち、鉛玉が尽きると刀を抜いて隊列に総力戦で突進した。
「だめだ。討っても討っても、敵がうじゃうじゃと湧いて出てくる」
倒せどもつぎつぎと現れる今川軍に、全員が怯みかけた。
それでも隼人正は号令を止めなかった。
隼人正に付く武者たちはそれぞれに、複数の敵を相手に奮闘した。
槍でめった刺しにされる者も、体中に矢を受ける者もいた。
それでも雄叫びを上げながら果敢に敵方の集団に身を投じ、つぎつぎと血にぬかるんだ地面に倒れ込んでいく。
精魂尽き果てるまで、隼人正は叫んだ。
次第に隼人正の兵は少なくなり、やがて、すべての武者が地面に折り重なって絶命した。
隼人正が率いた男たちの亡骸の上を、部将めがけて今川軍が蹂躙しながら突進してくる。
隼人正は槍を構え、猛然と叫び、最後の力を振り絞った。
隼人正を囲んだ今川軍が一斉にその巨体にとびかかった。
───信長殿、殿の家臣として最期を迎えられて、私は誇らしい。どのくらいの兵数を削れたかな。これで、信長殿は攻撃に打って出られるだろうか。
隼人正の胸に、無数の矢が突き立った。
息が止まる。
熱いものが喉元から逆流して吹き出し、とどめの槍を受けてあおむけに倒れた。
空が見えた。分厚い雲が流れてきて青空を遮り、闇を作った。
「殿、私はあなたの信じる心に、応えることができただろうか」
そう呟いて隼人正は、目を見開いたまま絶命した。
信長の命を受け義元本陣の動きを見張っていた梁田政綱が、農夫の姿で善照寺砦に駆けこんできた。
「今川義元の本陣を見つけました、ただいま、桶狭間山の山頂で昼食休憩中。塗輿が目印です」
山頂の義元を確認したと言うことは、桶狭間山に布陣する敵兵たちの目をかいくぐって捜索し、来た道をまた戻ってきたということだった。敵兵の目を欺いて信長軍本陣までたどり着くとは、想像を絶する偉業だ。
「政綱、よくやった」
「鷹狩の訓練にくらべれば、このくらいのことは・・・」
政綱はその特徴のない地味な顔に満ち足りた笑みを浮かべ、次の瞬間白目をむいて膝から崩れ落ちた。緊張が途切れたとたんに疲労感に支配された政綱は、気を失って信長の腕に倒れ込んだ。
善照寺砦から桶狭間山は距離があった。
まずは桶狭間山近くの中島砦まで移動しなければ、一気呵成に攻撃に出ることはできない。
しかし、桶狭間山はなだらかな丘で、周囲を遠くまで見下ろすことができてしまう。
中島砦は中洲にあり、その位置は桶狭間山よりはるかに低い。義元の本陣から、容易に見下ろされてしまう。
「近くの中島砦に移ろうとすれば丸見えだ。どう敵の目を欺くか・・・」
信長は地図を睨み、攻撃の筋書きを模索した。
そこに、突如一群の騎馬隊が砦へと押し寄せてくる気配がした。
「今川め、ここまできたのか?」
信長は身構えて一団の様子を遠方から睨んだ。
正午。
桶狭間山山頂に本陣を敷いた今川義元は、先鋒の佐々隼人正軍をせん滅した知らせを受け、上機嫌だった。
「隼人正、本当に馬鹿な奴だ。せっかくこちらが手を差し伸べてやったと言うのに、信長に犬死させられるとは」
義元は遠方の山の頂の善照寺砦に目を向けた。無数の織田軍の旗印が立ち並び、なすすべもないのか、一向に動きを見せない。
「隼人正の軍勢が全滅したと知って、尻込みしているようだな。誰一人あの砦から動く気配がない」
そう言うと義元はひっ、ひっ、と笑った。
本陣に組んだやぐらの下で、義元はくつろいで昼食を取り始めた。
「もはや、義元の矛先には天馬鬼神も堪まるべからず」
義元の機嫌はすこぶる良い。
空が突然、雨雲に覆われ始めた。
「おっ、雨か。これでは戦も中止だな。まあよい。大高城には無事兵糧部隊を送り込めたことだ。出直すとしよう。救われたな、信長」
分厚い雲が太陽を覆い、瞬く間に夜さながらに辺りが闇に閉ざされた。
山の下の方から、ざわめきが耳に届いた。
「一体なんの騒ぎだ?」
義元が親衛隊のひとりに尋ねると
「いさかいが起きている様子です。確かめてまいります」
と言って駆けて行った。
信長は、善照寺砦から中島砦に移った。
その後さらに進路を進めて、今は桶狭間にいる。
雲の流れるさまを、じっと見つめていた。
「雨が降るぞ・・・」
空一面を雲が覆い、あたりが暗くなったその時。
信長が立ち上がった。
「進め!登れええええっ」
雨雲に閉ざされてできた闇の中を、千騎の信長軍が本陣めがけて突撃する。
大雨が大地に降り注ぐ。目の前の景色が水煙に消えた。
「小平太、新介、行けーっ!」
真っ先に桶狭間山を駆け上るのは、織田勢きっての韋駄天・服部小平太と、太刀を横に構えて切り捨てながら力づくで突進する、猪の異名をもつ毛利新介だ。
「みな、小平太と新介を、敵方深くまで送り込め!」
先頭集団は敵兵の隙間をかいくぐって疾走し、わき目も振らず山を一気に駆け上っていった。
信長は軍勢を追い立てるべく、喉が引きちぎれんばかりの叫びをあげた。
「義元以外の敵の首には構うな!狙いはただ一つ、義元の首だ!」
山の斜面を、雪崩のように今川軍が降りてくる。
桶狭間の窪地で待ち構える信長本陣の軍勢は、勇ましく大群を迎撃した。
信長は怒涛の進撃で攻め入る今川軍を切り倒しながら祈った。
───小平太、新介、どうか本陣にたどり着いてくれ
桶狭間山山頂。
来るはずのない織田軍の突然の出現に、今川軍は大混乱に陥った。
統制も取れぬまま、切り込んできた織田軍に勢いで応戦し、手傷を負って次々に倒れていく。
「信長め。善照寺砦でしり込みしていたのではないのか」
義元は馬周り衆に怒鳴りつけながら、突然の雷雨にずぶぬれのまま、親衛隊に守られて塗輿に乗り込み、退却の体制を取った。
そのころ桶狭間の窪地では、信長軍と今川軍が激突していた。
山の上から駆け下りて来た今川軍の青い旗印が、桶狭間の雨を染める。
「引けーっ、引けーっ!」
信長が号令をかけると、山から下りてくる大軍に背を向けて織田軍は後退した。
今川軍が攻め寄せたところで、ふたたび信長は声を上げた。
「今だ!押せ、討てええっ、前へ!」
また振り返った部隊が、今川軍に切り込んでいく。勢い、押して今川軍とまじりあう。
かと思うとまた、引けの号令に後退した。
軍勢が押しつ戻りつしながら移動するうち、今川軍がずぶずぶと、深田に足をうずめていく。頭上からは視界を閉ざす雨。足元は重たい泥に絡めとられて身動きが取れない。
深田の存在を知らずに山から下りてくる軍勢が、つぎつぎと沼地と化した田んぼにはまって緩慢な動きになる。
敵は長旅で疲れているところに、足元の悪い深田をいったりきたりするうちに、戦う気力を失いつつあった。
もともと二万を超える軍勢だ。自分が動かずとも勝敗は決している。そういう気持ちが仇となった。今川の青い旗印が、泥だらけに汚れて動かなくなった。
雨が止み、一瞬の静寂が辺りを包んだ。
その時、山の上から叫び声がこだました。
「今川義元の首、討ちとったり」
織田軍はその声を聞き、雨雲が切り裂かれて覗いた空を仰いだ。
陽ざしの梯子が、天から信長の軍勢に向かって下ろされた。
「勝った」
突如晴れ渡った空に、織田軍の雄叫びが響き渡った。
ほどなくして、総大将を失った今川軍は総崩れとなり、なすすべもなく散り散りになって駿河へと撤退した。
遠く善照寺砦の上空にも、晴れ間が戻った。
六角承禎の軍勢は、掲げていたおびただしい本数の織田軍の幟を下ろした。
「今川軍は織田軍の奇襲に驚いたことだろう。この幟を見れば、まさか織田軍が目と鼻の先まで移動して来ているとは思わなかったはずだ。光秀殿の知略が、功を奏したな」
承禎は楽しげに笑った。
六角承禎の軍と、善照寺砦に残ったわずかな信長軍の兵たちは、三千本の幟をかかげ、あたかも三千の兵がいまだ砦に残っているかのように見せかけていたのだ。
こうして動きを悟られないようにし、信長軍二千の兵が、中島砦への移動を成功させていた。
光秀は、今川の尾張侵攻の噂を聞き、すぐさま越前・朝倉義景のもとに出向いて今川の脅威を説き、六角承禎には信長の面白さを語りに走った。
そして両者に、信長の幟を作らせ、戦地に運び込むよう要請したのだった。
「兵力の差を、いかにして縮めるか」
人を増やせないなら、幟の数で相手を攪乱するしかない。
光秀が考えた策だった。
「明智殿が美濃を出た浪人の身でありながら、尾張に肩入れするわけは・・・帰蝶殿であるな」
承禎は光秀を見やって、薄く笑った。
光秀は何も言わず、嘘のように太陽が輝いて、雨に濡れた平原をキラキラと照らし始めたのを眺めていた。
確かに光秀は、帰蝶を守るために、尾張国を守ろうとしている。
それは帰蝶を愛しているからに違いなかった。
しかし今朝方、帰蝶は光秀の腕にすがり付きながらも、信長の行く末を案じて泣きじゃくった。
───俺はいつまで、この報われない戦を続けるつもりなのだろう。
越前から近江、そして尾張。寝ずに奔走し続けていた光秀は、思い出したように激しい疲労感に襲われた。
───熱田様に礼を言い、松乃屋で休もう
承禎に別れを告げて、光秀はひとり、砦を出て行った。
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歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
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