帰蝶の恋~Butterfly effect~

平梨歩

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第四章 本能寺編「悪魔の祈り」

第三話② 比叡山 後編

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一五七一年。

───帝と将軍様の政にたてつく宗教勢力を、力づくで排除する

信長のその言葉は、伊勢の長島一向一揆の焼き払いで現実のものとなった。
焼き払いを知った延暦寺は、黄金の判金三百を贈って攻撃中止を嘆願した。

光秀は、延暦寺の申し出を受けて敵対関係を解消できないか、と信長と義昭に持ち掛けた。もちろん将軍義昭はこれに賛同した。

「比叡山の汚れ切った内情はまた別の話ととらえ、戦闘は避けよう」

義昭は信長を説得した。

しかし信長は結局、延暦寺の申し出を、断固として拒んだのだった。



数日前 岐阜城。
信長が延暦寺との敵対を解かないと決めた一つのきっかけとなる出来事が、そこで起きていた。

岐阜城を訪ねてきた男の名は、ルイス・フロイスと、フランシスコ・カブラル。

信長に饗応の間に呼ばれた帰蝶は、酒肴で二人をもてなした。
フロイスは繊細そうな顔立ちをした物静かな男だった。思慮深い目で周囲を用心深く観察している。
カブラルは日本では見慣れないメガネというものをかけた男で、快活で、流ちょうに日本語を操った。
機知に富んだカブラルの話にひきつけられた信長は、彼との会話を楽しんだ。

「この前の野田福島の戦いでは、カブラルの提供してくれた大筒が威力を発揮した。驚くべき破壊力に、俺の軍勢の者たちも驚嘆していた」

「あなたの力になれてうれしいです。私は、あなたこそがこの日本を統治すべき人物だと思っているのです」

カブラルはにっこりと笑うと、続けた。

「このたび延暦寺が攻撃中止と引き換えに黄金を差し出すと言ったそうですね。しかしまさかあなたが、それを受け取るとは私は思えません」

カブラルの言葉に信長は黙ってうなずいた。肯定を意味する首肯か、話の続きを促す仕草なのかは帰蝶には判然としなかった。

「あなたが金を受け取ったら、あなたも延暦寺の利を得たことになり、同類として取り込まれてしまいます。それはあってはならないことです。延暦寺に対しては、高利貸しで儲けた金と所領を返すよう促し、これまでの悪僧の所業を改めさせる。それが、あなたのとるべき道だと、私は思うのです。あなたはどう思いますか」

「カブラルの考えはもっともだ。俺は延暦寺の悪の手に染まるつもりはない」

信長は微笑んで、そう答えたのだった。

二人が辞した後、帰蝶は信長に詰め寄った。

「あの二人にのせられて延暦寺と戦うつもりなの」

「そういうことではない」

「じゃあどういうこと?」

「ならば聞く。延暦寺の魔の手に飲み込まれないために、戦う以外に手立てはあるのか」

帰蝶は黙った。

はじめ、信長が申し出た無条件の講和を延暦寺は拒んだ。
一度は天皇と将軍の仲介で和議を結んだものの、今度は延暦寺のたくわえた財を信長に押し付け、延暦寺の勢力下に取り込もうと画策しているのだ。
信長の言う通り、今や敵対する以外に道はなかった。



───信長が講和を拒んだ

その知らせを聞いた光秀は、比叡山周辺を奔走していた。

光秀はまず、比叡山ふもとの坂本にいる住民たちを八王子山に逃がした。
さらに、比叡山の支配下にある地域の土豪たちのもとに繰り返し出向き、信長方に付くように説得を重ねた。煮え切らない態度の土豪には、「信長に従わないものはなで斬りにすると言っている」と脅迫めいたことさえちらつかせ、信長に着いて翻らないようにくぎを刺した。

そのころ延暦寺では、信長との戦闘にそなえ、坂本周辺に住む僧侶、僧兵達が比叡山山頂にある根本中堂に集合していった。



比叡山が戦闘態勢に入ったのを知った帰蝶は、自分にできることを考えた。

もはや信長の戦意を押さえつけることは不可能だ。ならば他の誰かの行動を阻止することで、戦を止めることはできないか。
光秀はすでに、比叡山との交戦を阻止しようと奔走しているはずだ。では他に、この戦を止められるのは誰か。
帰蝶は信長の闘争心を煽ったあのカブラルの顔を思い出した。屈託のない態度とは正反対の、眼鏡の奥の怪しげな瞳。あのほの昏い目を、帰蝶はどうしても忘れることができずにいた。あの男は信用ならない。
かといって自分が対峙してどうにかできるような男ではないことも分かる。
帰蝶は思案の末、つと顔を上げた。

───戦闘を阻止するために、武器の提供を止めるのだ。

帰蝶は堺に向けて馬を走らせた。
今井宗久に、外国から届く軍事物資を買い占め、京で戦の準備をする者たちに法外な値段を吹っ掛けるよう頼むのだ。
すこしくらいは時間稼ぎができるかもしれない。それが無理でも、被る痛手が甚大になるのを防ぐことができるはずだ。

堺に着くと、以前懇意となった今井の遣い番・納屋助左衛門に協力を求めた。

「姫様の話に、乗ろう」
助左衛門は、帰蝶の要求を今井宗久が飲んだことを帰蝶に伝えた。

「ありがとう助左衛門。恩に着るわ」

帰蝶が言うと、助左衛門は神妙な顔を帰蝶に向けた。

「実は俺は、この町に寝泊まりしているあの四つ目のカブラルが、どうにも気に食わないんだ」
四つ目というのは、眼鏡をかけているせいで目が四つに見えることで、カブラルに付けられた呼び名だ。

「なにかあったの」

「それが、実は俺は・・・」

助左衛門は帰蝶に、ある出来事を語った。

帰蝶のなかで、疑いが確信に変わる。
早く信長に知らせなくてはならない。帰蝶はすぐさま馬を京に向かって走らせた。



一五七一年九月一二日 夕刻。

信長は全軍に比叡山の総攻撃を命じた。まずは坂本周辺を放火し、それを合図に攻撃を開始すると言う。

坂本周辺を襲撃する軍勢を率いて先陣を切ったのは、光秀だった。
光秀は軍勢を指揮する部将の立場でありながら、先頭にたって坂本の町に切り込んだ。

「皆の者、覚悟!これから比叡山を焼き討ちにかかる。すぐにここから引け。さもなくば女も子供もなで斬りにいたす。引け!引け!」

恐ろしい剣幕で叫び、逃げ惑う領民たちを八王子山の方へと追い立てた。手勢の軍は松明を掲げているものの、威嚇するだけで火を放つことはない。

比叡山に入山した後も、光秀軍の武者たちはひたすら恐ろしい怒声を人々に浴びせて敗走を促した。

がらんどうになるのを待って、堂宇に火を放つ。

それでも、決死の覚悟で比叡山から離れぬものも数多くいた。
槍や刀を振りかざしてとびかかってくる僧兵や信徒は、切らざるを得ない。光秀は彼らを切りつけながら、心が鬼と化してゆくのを感じた。

自らが作り出した殺戮の地獄絵図が、目の前に広がっていく。

音の渦となって鳴り響く念仏と、打ち鳴らされる鐘の音。
この場所でまともな思考のままでいたら、狂人になってしまう気がした。痛みに張り裂けそうな心を麻痺させるべく大声で叫びながら刀を振るい、光秀は信長に向けて祈った。

「信長殿!頼む、これ以上は無理だ。耐えられない。もう引かせてくれ!」

気が付けば光秀は、あろうことか信長に向かって祈っていた。その事実に愕然とし、光秀は振り上げた刀で天を指したまま動きを止めた。

「明智殿、どうされた、気をたしかに」

光秀の手勢の軍が叫びながら、決死の覚悟で襲い掛かってくる僧兵や領民を致し方なく切りつける。彼らが落とした松明が、地面の炎の海を広げていく。

───神はどこにいる。仏はどこにいる。

光秀は燃え盛る炎の海の中で死にゆく人々のうめき声を聞きながら、呆然と立ち尽くした。



帰蝶は、異様に静まり返った日没後の都に到着した。

辻々に鎧兜の武者が立ち、人々を監視している。道行く人は足早に去り、それぞれの住まいや店に駆け込んでいく。
これから戦闘が始まる。物々しく、はりつめた空気が都を包んでいた。

帰蝶は比叡山の方角に馬を走らせた。闇夜を呑み込むように大きな山が、眼前にある。
人々の悲鳴と怒声が風に乗って届く。直後、目が覚めるような銃声が連続して響いた。

「遅かった」

帰蝶は山に向かって馬を蹴った。涙の粒が黒髪とともに風になびいて飛んだ。

「信長ぁぁぁっ、もうやめて!」

帰蝶が叫ぶ。

眼前の真っ黒な山のあちこちが、赤く光った。点在する堂宇が燃やされているのだ。

黒い夜空に、炎に照らされた赤黒い煙が立ち上る。大地に横たわる大きな怪物が、悪魔にむしばまれて血を吹き出しているようにも見えた。

帰蝶は襲い来る恐怖に耐えながら、鮮血を流すように真っ赤な炎にまみれてゆく比叡山を見つめた。


翌日の深夜。
寝ずに岐阜城まで駆け戻った信長は、煤と返り血にまみれた陣羽織を床に脱ぎ捨て、迎えに出た帰蝶を荒々しく抱きしめた。焼けこげた匂いと、誰のものともわからぬ体液の生臭い匂いを纏った殺戮の鬼を、帰蝶は恐怖をおし隠して抱き返した。

信長の体はわなわな震えていて、帰蝶がいくらきつく抱いても収まらない。
何かが信長に憑りついて、今まさにこの時、彼を発狂させようとしているのを感じた。
尊い教えを蹂躙し、罪のない女子供までを虐殺した強大な罪悪感が、彼を狂気に引きずり込もうとしている。
帰蝶は信長を正気に戻すため、思い切り頬を叩いた。

体を清めた信長を、帰蝶は寝所に招き入れた。張り詰めた精神をゆるめるように、その肌を優しく愛撫し続けた。けれども信長の体の緊張はほぐれることがなく、むしろ徐々に興奮の色を見せた。激しい欲情に付き上げられた信長は、燃えるように熱くなった体で帰蝶を抱いた。

激しく体を重ねてもなお、眠れずにいる信長のために、帰蝶は酒を用意し、信長が手にした盃に注いだ。
そこで帰蝶は、堺で聞いた助左衛門の話を信長に語った。

「カブラルの日記を、偶然助左衛門が読んでしまったそうなの。そこに、日本の異教徒を廃絶するために、信長の力を利用すると書いてあったそうよ。そして最終的にはあなたをキリシタンにして、あなたが鍛えた軍事力で中国大陸を侵攻しようと画策していることも書かれていたというの」

あの陽気で快活でおしゃべりなカブラルが、裏でそんなことを目論んでいるなんて・・・そう信長は驚き落胆するだろうと帰蝶は思っていた。
が、そうではなかった。

「初めからわかっていた。カブラルは、本願寺と比叡山をせん滅させたくて俺を煽ったのさ。けど俺だって、天下布武の目的のためには、四方から俺を攻撃してくる敵対勢力と戦わなければならない。そのために武器が必要だったから、カブラルを逆に利用した。浅井長政の裏切りで、俺も学んだのさ。人を容易に信用してはならないと」

信長は言って、不敵な笑みを浮かべた。
帰蝶は慄然とした。信長はいつの間にか、まっすぐな正義感とはべつの裏側の顔を、同時に持ち合わせて巧みに使いこなしていたのだ。

「カブラルこそが身をもって俺に教えてくれたのさ。宗教などとは今ここに生きる人間を救うためのものではなく、もっとも殺し合いを好む集団だとな。だから俺は、神仏にかしずく者たちを信じないと決めたんだ。俺は俺を信じて、正しいものを守り、間違ったものは排除する。天下静謐を目指す俺のやり方を阻害する者たちは、たとえ宗教勢力であろうと断固戦う」

言葉を重ねるごとに、信長の瞳が輝きを増していく。
迷いから解き放たれ、雲を掃った空のように、澄んだ瞳で帰蝶を見ている。そこにある異様な煌めきには、誰にも負けないという強い信念が宿っていた。

「こんな俺を、悪魔とでも言いたいなら言えばいい」

いつの間にか朝日が差し込んでいた。

残虐な戦を終え、一睡もせずに一晩を過ごした信長の、尋常ではない明るい瞳が、帰蝶には恐ろしかった。



光秀は比叡山のふもとに立っていた。
かつて最澄が孤独に修行に励み、美しい信念をもって天台宗を開いた、崇高で壮大な山。その比叡山が、信長軍が放った炎に焼き尽くされ、瓦礫と灰と死体の山と化した。

坂本周辺に住んでいた僧侶や住民は日吉大社の奥宮の八王子山に立て篭もったが、信長の成敗の手はそこにまで及んだ。八王子山までもを、信長は焼きつくしたのだ。
光秀は荒れ果てた山肌を見つめ、煤に汚れた顔に涙のすじをいくつも作って両手放しに泣いた。


光秀はその後の評議で、坂本の地を自らの所領にと望んだ。

信長はその要望を受け、坂本に城を築くようにと光秀に命じた。

「坂本は門前町であり、琵琶湖に面した港町。米や海産物など日本海から運ばれる物資が琵琶湖を通じて運ばれ、京の都にもたらされる。その中継地点にある坂本は物資輸送のかなめだ。これまでこの地を比叡山延暦寺が独占して富を得てきた。光秀がこの地に城を築いて掌握すれば、比叡山の財力を削ぐことができる」

光秀はすぐに、築城の準備を始めた。焼け野原になった比叡山周辺の領民たちが、再び豊かに暮らせるように、光秀は力を尽くそうと心に決めたのだった。



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