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第四章 本能寺編「悪魔の祈り」
第三話① 比叡山 前編
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第三話「比叡山」
一五七〇年 九月 岐阜城。
帰蝶の膝枕に頭をあずけ、信長は月明かりに照らされた中庭を見るともなしに眺めていた。虫の声が、秋の冷たい風にのって流れてくる。
「上洛戦のときに、南近江の六角承禎と京の三好三人衆を負かして追い出した。姉川では、浅井長政、朝倉義景を敗走させた。美濃を攻略した時は、斎藤竜興をこの城から追放した。
俺はそれで、勝ったと思い込んでいた。
けど奴らは、息を吹き返して徒党を組んで俺をつぶそうとしている」
このころ、これまで敵対した反信長勢力が一丸となって信長に戦闘を仕掛けにきていた。さらにその敵対勢力に、大阪本願寺や比叡山延暦寺といった宗教勢力まで加わって信長を包囲し、信長は四面楚歌の窮地に立たされていた。
久しぶりに帰蝶のもとを訪れた信長はいつになく気弱だった。みなぎる自信や闘争心のぎらつきが、今の信長にはない。
帰蝶は何も言えなかった。
敵を逃がした責任は帰蝶にもある。美濃攻略の際に斎藤竜興の助命を求めたのは帰蝶だった。竜興の命が助かった時には、どれほど安堵したかわからない。しかしこの期に及んで竜興が、まさか三好三人衆と組んで信長に敵対してくるとは思ってもみなかった。
とはいえ、そんなことは少し考えてみればわかることだった。敗北の屈辱を味わった武者たちが、好機を狙って再起を図るのは当然のことだ。
───ならば首を取るまで戦わなければならないのか
中庭をじっと眺めている信長の目尻に、悲しげな影を見た。信長もいま、帰蝶と同じことを考えているのだとわかる。帰蝶は信長の横顔に触れ、その頬を撫でた。
信長が口を開いた。
「朝倉義景と浅井長政は、比叡山延暦寺に逃げ込んだ。比叡山は二人をかくまうつもりらしい。光秀や他の武将に、比叡山を包囲させた。動きを監視し、事が起こればすぐに戦に臨めるように準備することにした」
帰蝶はそれを聞き、光秀の心中を想った。
───光秀は、かつて世話になった比叡山と敵対関係になってしまった
かつて光秀は、延暦寺の仏門で学んでいた時期があった。知っている人たちも少なからずいるだろう。思い出もあるはずだ。その比叡山に矢を向け、交戦を覚悟している光秀を想うと、胸が痛んだ。
でもそれは、信長とて同じこと。愛する妹を嫁がせるほどに信頼した浅井長政に、今は刃を向けている。こんなはずではなかったと思っているはずだ。
秋の冷たい風が、体のぬくもりをさらって吹き抜ける。
大切な誰かへの信頼の念や、誰かとともに過ごした思い出・・・そんな、胸の奥にいつもある温かな感情までもが、風にさらされて温度を失う心地がした。
「武をもって天下に静謐をもたらす・・・いつになったらその目的は実現するのか」
信長は呟いた。
「いまいちど、延暦寺と講和できないかしら」
帰蝶は信長の肩に手を置いて静かに言った。
「そうだな。俺はできることなら寺とは戦いたくない」
そういうと信長は心を決めたように起き上がった。
「俺が接収した荘園を、また比叡山に返す。そうすれば向こうの肚の虫もおさまるだろう。悔しいが、それを条件に敵対関係を解くしかない」
それからすぐに信長は、延暦寺との関係回復のために動いた。
延暦寺に対して、
「織田方につくならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」
と通告したのだ。
むろん信長は比叡山を攻撃するつもりなどなかった。荘園を返却すると言えば延暦寺は承諾すると思っていたのだ。
しかし、延暦寺からの返事はなかった。
信長はじれた。
帰蝶はこの一件を聞いてすぐ、熱田神宮に出向いた。
以前ここを訪れたのは、信長が尾張の国を統一したばかりの頃。
駿河の国の大大名・今川義元から攻撃を仕掛けられて窮地に立たされていた時だ。
信長はここを起点に出陣し、強大な勢力であった今川義元との戦いに打って出た。桁違いの軍勢を誇る今川軍を相手に、信長軍は大将の首級を挙げて勝利したのだった。
───あのときは今川の領地が一度に信長の手に渡った。やはり、大将の首を取らなければ、本当の決着はつかないということなのだろうか
天下布武のために、敵対する大将の首をことごとく討つ。
争いのない天下静謐の国を作りたいのに、殺戮の伴う戦を繰り返さなければならない。
この矛盾を、熱田の大神様の前でどう説明できよう。
以前のような、大きな風は起きなかった。頭上を覆う大きな楠の枝も、木陰の模様を動かすことなくじっとしていた。帰蝶の願いは熱田の大神様に届かない。そもそも、帰蝶は何をどう願うべきなのかもわからず、半ば途方に暮れている。
次々現れる敵対勢力に刃を向ける信長が、大神様から見放されたような気がして、怖くなった。
「風を待っているのか」
急に声をかけられて振り向いた。
「光秀」
京の比叡山に監視の目を光らせているはずの光秀に、尾張の熱田で会えるとは思ってもみなかった。
信長の近くに仕えるようになってからは、光秀は帰蝶にとって大きな心の支えだった。
もちろん昔から光秀のことは心から頼りにしていたが、今や武力と知略をもって信長の命を守る強力な懐刀として、周囲も認めるほどの存在となった光秀に、全幅の信頼を寄せるようになっていた。
「姫、ちょうどいまあなたに会いたいと思っていたところだ」
光秀は微笑んだ。
「調子のいいことを。岐阜で私の行き先を聞いたんでしょう。」
帰蝶も笑った。光秀はあいまいに首を振ったが、帰蝶には分かる。
光秀のことだ。忙しいにもかかわらず帰蝶のことを気にかけて無理に暇を作ってここまで出向いたに違いなかった。
「信長のことを心配しているとき、姫はここに来る。比叡山のことだろう」
帰蝶にとってこの熱田神社は、心が安らぎ、雑念が取り去られ、本当の自分の思いに気づける場所なのだ。そのことを光秀も、よく知っている。
帰蝶は拝殿にたどり着くと、その前で手を合わせ、しばらくのあいだ目を閉じた。
不安や惑いがすっきりと消え去るわけではなかった。けれども、心の迷いに打ち勝つための力が、体の奥でじわじわとわいてくるような感覚があった。
ようやく目を開いて見上げると、隣で帰蝶を見守っていた光秀は微笑んだ。
「光秀は比叡山を包囲しているんでしょう。あの場所にはお世話になった方たちもいるだろうに」
帰蝶が問うと、光秀はうなずいた。
「実はひとりひとりに話して回っている。山で学んでいた時に知った秘密の抜け道を通って山中に入り、しばらくのあいだ山から出て欲しい、と伝えているんだ。比叡山に住む人々にも、近隣の八王子山に居を移すよう頼み、ふもとの坂本一帯の土豪には、信長殿に付くよう説得している。
万が一比叡山が僧兵との戦場になってしまった時に備えて、命を落とす人を一人でも少なくしたい」
光秀は言うと、固い決意を誓うまっすぐな眼差しを拝殿に向け、手を合わせた。
一五七〇年 十月二日
比叡山の包囲は一か月に及んだ。長引く不利を悟った信長は、朝倉義景に決戦を促すため、光秀を使者に立てた。
光秀は将軍に仕えて信長と上洛する前は、浪人として越前朝倉義景の庇護の下で暮らしていた頃があった。そのため、互いをよく知る仲だった。
「お目通りいただきありがとうございます」
比叡山の山中。
義景が滞在する宿所に招かれた光秀は、改まって頭をさげた。
「これは光秀、元気でいたか」
言葉とは裏腹に険のある声音で義景が言った。
「義景さま、このまま比叡山に籠られたままでは、なんの決着も付きません。一戦交え、どちらが天下に名を置くものか、決するときが来ていると思います」
光秀が単刀直入に申し出ると、ふん、と義景は鼻で笑った。
「成り上がりの信長が、天下を取ったなどとは勘違いもはなはだしい。だいたい、将軍義昭さまを長年お守りしたのはこの義景なのだ。上洛を成功させたくらいのことで京にのさばってもらっては困るのだ。
はやくその信長が居座っている席をこの義景に空けよ。撤退するのは信長だ。光秀、お前も元々は私の家臣だろう。信長に言って聞かせて尾張に帰らせるのだ。小国の大名として、分をわきまえろと言い添えるのだ」
義景は手にした扇子を振りかざしながら、光秀にまくしたてた。
光秀は聞き終えても、しばらくの間じっと黙っていた。
義景が光秀の含みのあるその態度に怪訝な顔を見せた直後、今度は光秀が堰を切ったようにまくしたてた。
「私は越前にいたころ、あなたにいいように使われてはいたが、家臣になどなった覚えはない。だいたい義昭さまを長きにわたってそば近くに置いて、他国の大名との格の違いを見せつけていたつもりだったんだろうが、傍から見ればただの愚鈍。上洛せずに義昭さまをくすぶらせ、のらりくらりと何年過ごされた? それを見かねて、信長殿は義昭さまをお助けし、上洛したのだ。それを今更、上洛ぐらいは私にだってできたはず、とおっしゃりたいのか? この期に及んでそう言うのは簡単だ。が、できなかったのはあなただ。信長への言いがかりもいい加減にしていただきたい」
光秀は激した。越前にいた頃はいつでも柔和な顔で義景の言いつけを守っていた光秀が、初めて義景に牙をむいたのだった。義景は言葉を失い、振りかざした扇子を両手でひねるようにいじり始めた。
光秀はわざと、義景を煽ったのだ。相手が応じて刀を抜こうものならそれが交戦の合図となる。光秀は義景をおびき出して討つ手はずでいた。が、義景は立ち上がらなかった。
「ふん。何とでも言うがいい。私はお前などの言うことに従うつもりはない。動かん」
義景は怒りの矛先を光秀に向けることなく、背を向けてその場を立ち去ってしまった。光秀ただ一人を相手に、義景は怯んでしまったのだった。
その数日後。
一向一揆が三好や六角と手を組んで、四方から織田勢に攻撃を仕掛けてきた。
光秀は歯噛みした。
───義景は一向一揆が立ち上がるのを知っていたのだ。だから自分は出陣せず、高みの見物と決めていたのだ。
「義景め」
光秀は怒った。あいつをまともに相手してはいけない。
十一月。
光秀は、雪の季節が迫っているのを機に、朝倉が打って出られないことを睨んで和睦を提案した。その肚には、あんな男と戦うだけ労力の無駄だという思いがある。黙って越前に引っ込んでいてくれと言いたかった。
信長もこの膠着状態にしびれを切らしていたので、すぐに和睦に同意した。
どんな事態でも即断で物事を運ぶ信長にとって、義景の長期間の籠城は理解に苦しむものがあったのだ。
「義景はとかく権威というものがお好きな方だ。和睦の仲介に帝と将軍が入ってくだされば、格好がつく。同意するに違いない」
光秀の提案に信長も首肯した。
十二月十三日。
朝倉義景、浅井長政、比叡山延暦寺の天台座主・覚恕は、正親町天皇と将軍・義昭のもとにあつまり、信長と和睦を結んだ。
天皇と将軍から直々に和睦の仲介を受けた延暦寺の主である覚恕は、天皇に対し居丈高な態度で和睦を承諾した。
信長はその態度に、異様な雰囲気を感じた。
年末。信長は義昭に挨拶に訪ねた際に、覚恕について訊いてみた。
将軍義昭は、和睦のあとの天皇との対話で知り得た覚恕の事情を、信長に語った。
「覚恕殿は、正親町天皇の弟としてうまれ、皇位を継がぬものとして仏門に入れられた。宮廷を追い出されたと感じている覚恕殿は、兄である帝を目の敵にしている。そして今は朝廷が財政困難に陥るほどに、京の土地と民と富を我が物にしてしまっているのだ。
覚恕殿の帝に対するあの高慢な態度は、勝利宣言とでも言ったところなのであろう。
比叡山は、悪僧ばかりが高利貸しをして土地を搾取し、私腹を肥やしているのではない。すべて覚恕殿の指図で行われていることだ。悪僧の所業は、比叡山の秩序の乱立などではない。悪僧と覚恕殿との結託によって、悪事を働くための秩序がまかり通ってしまっているのだ」
悪僧でなく、覚恕本人が悪行の根源、と義昭は言うのだ。
「比叡山は汚れ切ってしまっているのだ。どうにかすることはできないものかの、信長」
義昭は愁いをはらんだ目で、信長を見たのだった。
その夜。信長は胸に秘めた静かな怒りを、帰蝶との寝所で漏らした。
「将軍様は憂いている。天台座主のいる山頂からすそ野まで、あの山は腐りきっている。このままにはできない」
「そうはいっても、御仏を祭る尊い山を、成敗などできないわ」
帰蝶は信長の肩を撫で、なだめるように言ったが、信長は首を横に振った。
「帝や将軍様ではできないからこそ、俺がやるしかないんだ。比叡山の悪行を俺が正す。穢れのない聖なる地に戻すべく一掃するんだ。帝と将軍様の政にたてつく宗教勢力を、力づくで排除する」
信長の正義感に満ちた目に、帰蝶は危うさを感じた。
裏と表で成り立つこの戦乱の世に、ここまでまっすぐな信念がまかり通るはずがない。どんな大義があろうとも、仏教の総本山を攻撃しようものならば、悪逆非道の汚名を着せられるのは目に見えている。
一五七〇年 九月 岐阜城。
帰蝶の膝枕に頭をあずけ、信長は月明かりに照らされた中庭を見るともなしに眺めていた。虫の声が、秋の冷たい風にのって流れてくる。
「上洛戦のときに、南近江の六角承禎と京の三好三人衆を負かして追い出した。姉川では、浅井長政、朝倉義景を敗走させた。美濃を攻略した時は、斎藤竜興をこの城から追放した。
俺はそれで、勝ったと思い込んでいた。
けど奴らは、息を吹き返して徒党を組んで俺をつぶそうとしている」
このころ、これまで敵対した反信長勢力が一丸となって信長に戦闘を仕掛けにきていた。さらにその敵対勢力に、大阪本願寺や比叡山延暦寺といった宗教勢力まで加わって信長を包囲し、信長は四面楚歌の窮地に立たされていた。
久しぶりに帰蝶のもとを訪れた信長はいつになく気弱だった。みなぎる自信や闘争心のぎらつきが、今の信長にはない。
帰蝶は何も言えなかった。
敵を逃がした責任は帰蝶にもある。美濃攻略の際に斎藤竜興の助命を求めたのは帰蝶だった。竜興の命が助かった時には、どれほど安堵したかわからない。しかしこの期に及んで竜興が、まさか三好三人衆と組んで信長に敵対してくるとは思ってもみなかった。
とはいえ、そんなことは少し考えてみればわかることだった。敗北の屈辱を味わった武者たちが、好機を狙って再起を図るのは当然のことだ。
───ならば首を取るまで戦わなければならないのか
中庭をじっと眺めている信長の目尻に、悲しげな影を見た。信長もいま、帰蝶と同じことを考えているのだとわかる。帰蝶は信長の横顔に触れ、その頬を撫でた。
信長が口を開いた。
「朝倉義景と浅井長政は、比叡山延暦寺に逃げ込んだ。比叡山は二人をかくまうつもりらしい。光秀や他の武将に、比叡山を包囲させた。動きを監視し、事が起こればすぐに戦に臨めるように準備することにした」
帰蝶はそれを聞き、光秀の心中を想った。
───光秀は、かつて世話になった比叡山と敵対関係になってしまった
かつて光秀は、延暦寺の仏門で学んでいた時期があった。知っている人たちも少なからずいるだろう。思い出もあるはずだ。その比叡山に矢を向け、交戦を覚悟している光秀を想うと、胸が痛んだ。
でもそれは、信長とて同じこと。愛する妹を嫁がせるほどに信頼した浅井長政に、今は刃を向けている。こんなはずではなかったと思っているはずだ。
秋の冷たい風が、体のぬくもりをさらって吹き抜ける。
大切な誰かへの信頼の念や、誰かとともに過ごした思い出・・・そんな、胸の奥にいつもある温かな感情までもが、風にさらされて温度を失う心地がした。
「武をもって天下に静謐をもたらす・・・いつになったらその目的は実現するのか」
信長は呟いた。
「いまいちど、延暦寺と講和できないかしら」
帰蝶は信長の肩に手を置いて静かに言った。
「そうだな。俺はできることなら寺とは戦いたくない」
そういうと信長は心を決めたように起き上がった。
「俺が接収した荘園を、また比叡山に返す。そうすれば向こうの肚の虫もおさまるだろう。悔しいが、それを条件に敵対関係を解くしかない」
それからすぐに信長は、延暦寺との関係回復のために動いた。
延暦寺に対して、
「織田方につくならば織田領の荘園を回復するが、それができないなら中立を保ってほしい。もし浅井・朝倉方につくならば焼き討ちにする」
と通告したのだ。
むろん信長は比叡山を攻撃するつもりなどなかった。荘園を返却すると言えば延暦寺は承諾すると思っていたのだ。
しかし、延暦寺からの返事はなかった。
信長はじれた。
帰蝶はこの一件を聞いてすぐ、熱田神宮に出向いた。
以前ここを訪れたのは、信長が尾張の国を統一したばかりの頃。
駿河の国の大大名・今川義元から攻撃を仕掛けられて窮地に立たされていた時だ。
信長はここを起点に出陣し、強大な勢力であった今川義元との戦いに打って出た。桁違いの軍勢を誇る今川軍を相手に、信長軍は大将の首級を挙げて勝利したのだった。
───あのときは今川の領地が一度に信長の手に渡った。やはり、大将の首を取らなければ、本当の決着はつかないということなのだろうか
天下布武のために、敵対する大将の首をことごとく討つ。
争いのない天下静謐の国を作りたいのに、殺戮の伴う戦を繰り返さなければならない。
この矛盾を、熱田の大神様の前でどう説明できよう。
以前のような、大きな風は起きなかった。頭上を覆う大きな楠の枝も、木陰の模様を動かすことなくじっとしていた。帰蝶の願いは熱田の大神様に届かない。そもそも、帰蝶は何をどう願うべきなのかもわからず、半ば途方に暮れている。
次々現れる敵対勢力に刃を向ける信長が、大神様から見放されたような気がして、怖くなった。
「風を待っているのか」
急に声をかけられて振り向いた。
「光秀」
京の比叡山に監視の目を光らせているはずの光秀に、尾張の熱田で会えるとは思ってもみなかった。
信長の近くに仕えるようになってからは、光秀は帰蝶にとって大きな心の支えだった。
もちろん昔から光秀のことは心から頼りにしていたが、今や武力と知略をもって信長の命を守る強力な懐刀として、周囲も認めるほどの存在となった光秀に、全幅の信頼を寄せるようになっていた。
「姫、ちょうどいまあなたに会いたいと思っていたところだ」
光秀は微笑んだ。
「調子のいいことを。岐阜で私の行き先を聞いたんでしょう。」
帰蝶も笑った。光秀はあいまいに首を振ったが、帰蝶には分かる。
光秀のことだ。忙しいにもかかわらず帰蝶のことを気にかけて無理に暇を作ってここまで出向いたに違いなかった。
「信長のことを心配しているとき、姫はここに来る。比叡山のことだろう」
帰蝶にとってこの熱田神社は、心が安らぎ、雑念が取り去られ、本当の自分の思いに気づける場所なのだ。そのことを光秀も、よく知っている。
帰蝶は拝殿にたどり着くと、その前で手を合わせ、しばらくのあいだ目を閉じた。
不安や惑いがすっきりと消え去るわけではなかった。けれども、心の迷いに打ち勝つための力が、体の奥でじわじわとわいてくるような感覚があった。
ようやく目を開いて見上げると、隣で帰蝶を見守っていた光秀は微笑んだ。
「光秀は比叡山を包囲しているんでしょう。あの場所にはお世話になった方たちもいるだろうに」
帰蝶が問うと、光秀はうなずいた。
「実はひとりひとりに話して回っている。山で学んでいた時に知った秘密の抜け道を通って山中に入り、しばらくのあいだ山から出て欲しい、と伝えているんだ。比叡山に住む人々にも、近隣の八王子山に居を移すよう頼み、ふもとの坂本一帯の土豪には、信長殿に付くよう説得している。
万が一比叡山が僧兵との戦場になってしまった時に備えて、命を落とす人を一人でも少なくしたい」
光秀は言うと、固い決意を誓うまっすぐな眼差しを拝殿に向け、手を合わせた。
一五七〇年 十月二日
比叡山の包囲は一か月に及んだ。長引く不利を悟った信長は、朝倉義景に決戦を促すため、光秀を使者に立てた。
光秀は将軍に仕えて信長と上洛する前は、浪人として越前朝倉義景の庇護の下で暮らしていた頃があった。そのため、互いをよく知る仲だった。
「お目通りいただきありがとうございます」
比叡山の山中。
義景が滞在する宿所に招かれた光秀は、改まって頭をさげた。
「これは光秀、元気でいたか」
言葉とは裏腹に険のある声音で義景が言った。
「義景さま、このまま比叡山に籠られたままでは、なんの決着も付きません。一戦交え、どちらが天下に名を置くものか、決するときが来ていると思います」
光秀が単刀直入に申し出ると、ふん、と義景は鼻で笑った。
「成り上がりの信長が、天下を取ったなどとは勘違いもはなはだしい。だいたい、将軍義昭さまを長年お守りしたのはこの義景なのだ。上洛を成功させたくらいのことで京にのさばってもらっては困るのだ。
はやくその信長が居座っている席をこの義景に空けよ。撤退するのは信長だ。光秀、お前も元々は私の家臣だろう。信長に言って聞かせて尾張に帰らせるのだ。小国の大名として、分をわきまえろと言い添えるのだ」
義景は手にした扇子を振りかざしながら、光秀にまくしたてた。
光秀は聞き終えても、しばらくの間じっと黙っていた。
義景が光秀の含みのあるその態度に怪訝な顔を見せた直後、今度は光秀が堰を切ったようにまくしたてた。
「私は越前にいたころ、あなたにいいように使われてはいたが、家臣になどなった覚えはない。だいたい義昭さまを長きにわたってそば近くに置いて、他国の大名との格の違いを見せつけていたつもりだったんだろうが、傍から見ればただの愚鈍。上洛せずに義昭さまをくすぶらせ、のらりくらりと何年過ごされた? それを見かねて、信長殿は義昭さまをお助けし、上洛したのだ。それを今更、上洛ぐらいは私にだってできたはず、とおっしゃりたいのか? この期に及んでそう言うのは簡単だ。が、できなかったのはあなただ。信長への言いがかりもいい加減にしていただきたい」
光秀は激した。越前にいた頃はいつでも柔和な顔で義景の言いつけを守っていた光秀が、初めて義景に牙をむいたのだった。義景は言葉を失い、振りかざした扇子を両手でひねるようにいじり始めた。
光秀はわざと、義景を煽ったのだ。相手が応じて刀を抜こうものならそれが交戦の合図となる。光秀は義景をおびき出して討つ手はずでいた。が、義景は立ち上がらなかった。
「ふん。何とでも言うがいい。私はお前などの言うことに従うつもりはない。動かん」
義景は怒りの矛先を光秀に向けることなく、背を向けてその場を立ち去ってしまった。光秀ただ一人を相手に、義景は怯んでしまったのだった。
その数日後。
一向一揆が三好や六角と手を組んで、四方から織田勢に攻撃を仕掛けてきた。
光秀は歯噛みした。
───義景は一向一揆が立ち上がるのを知っていたのだ。だから自分は出陣せず、高みの見物と決めていたのだ。
「義景め」
光秀は怒った。あいつをまともに相手してはいけない。
十一月。
光秀は、雪の季節が迫っているのを機に、朝倉が打って出られないことを睨んで和睦を提案した。その肚には、あんな男と戦うだけ労力の無駄だという思いがある。黙って越前に引っ込んでいてくれと言いたかった。
信長もこの膠着状態にしびれを切らしていたので、すぐに和睦に同意した。
どんな事態でも即断で物事を運ぶ信長にとって、義景の長期間の籠城は理解に苦しむものがあったのだ。
「義景はとかく権威というものがお好きな方だ。和睦の仲介に帝と将軍が入ってくだされば、格好がつく。同意するに違いない」
光秀の提案に信長も首肯した。
十二月十三日。
朝倉義景、浅井長政、比叡山延暦寺の天台座主・覚恕は、正親町天皇と将軍・義昭のもとにあつまり、信長と和睦を結んだ。
天皇と将軍から直々に和睦の仲介を受けた延暦寺の主である覚恕は、天皇に対し居丈高な態度で和睦を承諾した。
信長はその態度に、異様な雰囲気を感じた。
年末。信長は義昭に挨拶に訪ねた際に、覚恕について訊いてみた。
将軍義昭は、和睦のあとの天皇との対話で知り得た覚恕の事情を、信長に語った。
「覚恕殿は、正親町天皇の弟としてうまれ、皇位を継がぬものとして仏門に入れられた。宮廷を追い出されたと感じている覚恕殿は、兄である帝を目の敵にしている。そして今は朝廷が財政困難に陥るほどに、京の土地と民と富を我が物にしてしまっているのだ。
覚恕殿の帝に対するあの高慢な態度は、勝利宣言とでも言ったところなのであろう。
比叡山は、悪僧ばかりが高利貸しをして土地を搾取し、私腹を肥やしているのではない。すべて覚恕殿の指図で行われていることだ。悪僧の所業は、比叡山の秩序の乱立などではない。悪僧と覚恕殿との結託によって、悪事を働くための秩序がまかり通ってしまっているのだ」
悪僧でなく、覚恕本人が悪行の根源、と義昭は言うのだ。
「比叡山は汚れ切ってしまっているのだ。どうにかすることはできないものかの、信長」
義昭は愁いをはらんだ目で、信長を見たのだった。
その夜。信長は胸に秘めた静かな怒りを、帰蝶との寝所で漏らした。
「将軍様は憂いている。天台座主のいる山頂からすそ野まで、あの山は腐りきっている。このままにはできない」
「そうはいっても、御仏を祭る尊い山を、成敗などできないわ」
帰蝶は信長の肩を撫で、なだめるように言ったが、信長は首を横に振った。
「帝や将軍様ではできないからこそ、俺がやるしかないんだ。比叡山の悪行を俺が正す。穢れのない聖なる地に戻すべく一掃するんだ。帝と将軍様の政にたてつく宗教勢力を、力づくで排除する」
信長の正義感に満ちた目に、帰蝶は危うさを感じた。
裏と表で成り立つこの戦乱の世に、ここまでまっすぐな信念がまかり通るはずがない。どんな大義があろうとも、仏教の総本山を攻撃しようものならば、悪逆非道の汚名を着せられるのは目に見えている。
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— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
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