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第四章 本能寺編「悪魔の祈り」
第四話② 悪魔の祈り(2)
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一五八〇年末
森蘭丸は、師走の寒さに白んだ空を背に佇む岐阜城の天主を見上げた。
御殿の外廊下を進みながら蘭丸は、冷たい風にさらされているにもかかわらず、形のいい額に流れ落ちたひとすじの汗をぬぐった。
帰蝶は天主で蘭丸を出迎えた。
今や天下取りまであと一歩といわれる日ノ本最強の男・信長の妻でありながら、その装いは、思いのほか地味であった。年齢も四十を過ぎているから年相応と言えばそれまでだが、落ち着きのある鶯の打掛は、きらびやかに飾り立てた衣装を好む信長とは対照的に見える。
───なのに
蘭丸は帰蝶の全身から光がにじみ出ているように感じた。眩しさに目を伏せるように、蘭丸は深く頭を下げた。
「ひさしぶりね蘭丸。元気だった?」
「はい。今日はお館様からの贈り物をお届けに上がりました」
蘭丸はさらに頭を低くした。襲い来る緊張で、帰蝶の顔をまともに見ることができない。
「信長は、そばにつかえるあなたに横暴なことをしていないかしら。嫌な思いなどしていない?」
帰蝶は心配そうな声で優しく蘭丸に尋ねた。
「いえ。私は嫌な思いなどしてはいません。叱られるときがあっても、それは私の至らなさゆえ」
「辛抱強いのね。蘭丸はきっと将来立派な武将になるわ」
帰蝶は十五を過ぎたばかりの少年をいたわるように微笑んだ。
蘭丸は、携えた贈り物を帰蝶に差し出した。美しい唐の蓋つきの焼き物だ。
「こちらは殿からの贈り物で、コンフェイトという南蛮の菓子だそうです」
「まあ」
帰蝶はそっと蓋を取り、器の中にひしめく色とりどりの小さな星屑に似た菓子に、目を輝かせた。
「なんてきれいな。空から零れ落ちた星をあつめたかのようね」
帰蝶は少女のように微笑んだ。美しい微笑みだった。
「蘭丸も一緒にいただきましょうよ」
帰蝶は言うと、器を蘭丸の方に滑らせた。
蘭丸は笑って見せると、ひときわ大きな薄緑色の粒を摘まみ上げ、そっと口に運んだ。
舌の上で崩れた星屑から、甘露が滲んで広がったが、緊張のせいかその味は異様に薄く、遠いものに感じた。
帰蝶は蘭丸の表情をじっと見つめている。美味しいか?と聞きたいのか、それとも何か不審な点でも感じたのか、首をわずかにかしげた。
その視線に、蘭丸は怯みそうになった。
そののち帰蝶は微笑んで見せた。蘭丸の緊張ぶりが、単に信長の正室に二人きりで対面しているこの状況からくるものだと判断したのだろう。
桃色の粒を指先で拾い、そっと口に入れた。
「なんて甘い・・・」
そこまで言うと言葉を失い、喉をかきむしり始めた。
蘭丸をじっと見つめる帰蝶の喉奥から、ひゅうひゅうとか細い息が漏れる。
蘭丸は固唾をのんで、苦しさに耐えきれず床に倒れ込んだ帰蝶を見つめた。
帰蝶は全身を痙攣させた直後、目を見開いたままぐったりとした。
「帰蝶さまと光秀さまは、陰でただならぬ深い関係を続けておられる。ですからこれは、天罰なのです」
蘭丸は帰蝶を叱責しながら、この制裁には義がある、と自分自身に言い聞かせる。
帰蝶は黒い瞳に苦悶と憎悪を込めて蘭丸をじっと睨んでくる。
蘭丸はその眼差しから逃れるように、力を失った帰蝶の脇に腕を入れ、見晴らし台まで引きずった。
彼女のぐったりした体を背後から抱いて立ち、二人して美濃の冬空に体を向けると、血の気を失い始めた帰蝶の片手を握って体を高欄にもたせ掛けた。
ひと息に、高欄の外がわに帰蝶の体を滑り落とす。帰蝶の体は上空で宙ぶらりんになった。はるか下には金華山の岩むき出しの山肌が待ち受けている。
蘭丸の華奢な手ひとつが、命をつなぎとめている。
帰蝶は気を失ったのか、山のふもとを見下ろすように首を垂らした。
「だれか、だれか!」
蘭丸は狂ったように叫んだ。全身に汗をかき、自らが導いたこの恐ろしい状況に蘭丸自身ものみ込まれ、本気であがいた。
「帰蝶さまが身を投げられた」
蘭丸を、激しい後悔の念が襲う。
部屋の外に待機していた侍女たちが駆けこんで来て、悲鳴を上げながら蘭丸の腕を一緒に掴んだ。蘭丸の手が汗に濡れて、どれだけ力を込めても少しずつ帰蝶の手が滑り落ちていく。
「帰蝶さま、手を放してはなりません。もっと強く握ってください」
手の骨が砕けるほどに力を込めたが、帰蝶の手がついに蘭丸のそれからつるりとぬけおちた。
「ああ!」
鶯の打掛をなびかせて、帰蝶の体が、固い岩がひしめくはるか下の地表に吸い込まれていく。
冬の風が蘭丸の手のひらの温度を一気に奪ってゆく。
侍女たちの叫び声が、岐阜城の上空に響き渡った。
本能寺の変が起こる、約一年半前の出来事だった。
一五八一年正月
年が明け、三が日のただなかだというのに、光秀は京の御所で政務にいそしんでいた。
帰蝶がこの世から去った悲しみから逃れるように、光秀はあえてせわしなく日々を過ごしていた。ふと立ち止まろうものなら、悲しみのためにそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
そこに突如、信長が訪れた。
ここ最近あらゆる家臣たちとの接触を絶っていた信長が、久しぶりに現れたのだった。
信長に対面するのは、密やかに行われた帰蝶の葬儀の席以来だ。
「信長殿、このたびは」
信長の前にかしずき、姿勢を正して首を下げる。
「だまれ」
信長は被せるように怒鳴り、光秀の言葉を遮った。
「帝のご命令で、二月のみそかに、馬ぞろえ(※馬ぞろえ・・・今でいう軍事パレード)を行うことになった。ついては、都にいるものたちすべてに俺の力を見せつけ、頂点に立つための足掛かりとする。各地をおさめる織田軍を一挙に集結し、その強さを、華々しい馬ぞろえでお披露目するのだ」
「はい・・・」
光秀は突然のことで、信長の真意がつかめずに次の言葉を待った。
「おまえが取り仕切れ」
「私が?」
光秀は顔を跳ね上げた。信長が鋭い目つきで光秀を見下ろしている。
「用意できるだろう。威厳たっぷりで、華やかで、圧倒的な馬ぞろえを」
「もう二月しか期間がありません」
「やれ。失敗は許さない」
野獣のうなりにも似た声で光秀に言うと、信長は立ち去ってしまった。
それから光秀は各方面を奔走した。
公家や諸将に馬ぞろえを行う旨を知らせてまわり、京都御所の東に全軍が一堂に会するための広大な馬場を構築すべく、大急ぎで土木作業を開始した。
威厳に満ちて華やかで、目にも楽しい馬飾りを用意し、部将たちの兜や甲冑の新調にまで心を砕いた。馬ぞろえの通り道と整え、警護の計画を立て、天皇が観覧する桟敷席を手配した。
演出、警備、道路の整備・・・あらゆる仕事が光秀の肩にのしかかった。
光秀は寝る間もなく準備に明け暮れ、当日を迎えた。
天気は信長軍を味方した。
青空の下に、色とりどりの飾りを付けた馬たちの姿は、勇壮で美しい。
武将たちはこれまでの自分の武勇を見せつけんとばかりに、思い思いの鎧兜をまとって集まった。よくよく思えば戦で奮闘する武者の勇ましい姿を、人々が目の当たりにする機会などないのだ。ここ一番と着飾った男たちの姿も、華やかで威厳に満ちている。
馬の足音が京の町に響く。
一番は丹羽長秀。長年にわたって信長に付き従った重臣。どんな逆境にも屈せず着実な仕事をする男。米のように、地味ではあるがなくてはならない存在と、信長からつけられた呼び名は米五郎佐。摂津衆、若狭衆を率いて先陣を行く。
二番は蜂屋頼孝、河内衆、和泉衆。三番は明智光秀、大和衆、山城衆。
四番は村井貞勝。京の政務を取り仕切る織田勢きっての知性派。政務の間に坐して書状を読むだけで、その向こうにある各地の情勢をつぶさに見通す深謀遠慮の才人。常に冷静沈着で、いざ戦になればその判断力で最小の力をもって最大の効果を発揮する男。引き連れるは策略と奇襲に長けた頭脳集団、根来衆、上山城衆。
五番は織田信忠。信長の嫡男という選ばれし星のもとに生まれた男。新星のごとく内側から輝きを放つ強大な熱量と、揺るがぬ忠疑心が武将たちの心をひきつけてやまない。次世代の織田軍を支えるべく生れた高貴なる男。五連枝の御衆の先頭を行く。
六番は近衛前久。朝廷がいかなる苦境に陥ろうとも、したたかにしなやかに、強きものを見抜いて味方に付けながら帝を守り抜いてきた、武力なくして勝ち抜くその姿は、京最強の「盾」。公家衆を引き連れ、優雅に道を行く。
七番は細川昭元、旧幕臣衆。八番は馬廻衆・小姓衆。
九番は柴田勝家。信長軍最強の孤高の武将。軍勢を鼓舞、激励し、どんな苦戦にも前のめりで押し込んでいく勇猛な戦ぶりは、戦場で華々しく散る覚悟を決めた武者たちの道しるべとなって輝く。ひきつれるのは、屈強な精神力で知られる、越前衆。
十番、最後を飾るのは織田信長。
始まりは、一つの小さな城の城主からだった。四方から攻め入る敵将たちに抗い、立ち向かい、打たれ悶えて青年期を過ごした。やがてその苦境での経験はこの男の血となり肉となった。
勝てば、さらに強大な敵が目の前に立ちはだかる。戦闘を繰り返すうちに男は屈強な体と狂暴な牙を手に入れた。その人間離れした器に今、神をも畏れぬ精神が宿る。
信長は今、天下を手に入れた。
人々が皆、信長に熱い視線を注いでいる。
敬意、畏怖、羨望。あらゆる熱を一身に浴びた信長は、その熱を糧にさらに新しい姿に生まれ変わりつつある。だが生まれ変わった末の姿を、いまは誰一人想像することはできない。
信長は馬上から空を見上げた。
青い空に、小さな黒い影がある。両翼をひらき、ゆったりと空を行く一羽の鷹だ。
「峰花」
信長は思わず帰蝶の愛鷹の名を呼んだ。
若いころ、尾張一国を鷹場にして二人でした鷹狩。桶狭間の偵察に、狩り装束で峰花をつれ、悠然と出かけていく帰蝶を思い起こす。
───あの女はいつの間にか、俺の支えとなっていた
頬を叩かれたのも一度や二度ではない。あの華奢な手のひらから繰り出される信じられないほどの力強い平手打ちに、何度目を覚まされたことか。
───俺を叱ってくれるものは、もうだれもいない
信長は堂々と馬上に揺れ、人々を見下ろしながら、固い鎧に覆われた胸の、柔らかな場所を激しく震わせた。
心が、泣いている。
再び空を見上げると、そこに鷹の姿はもうなかった。
───帰蝶、お前に会いたい
馬を引く従者が、馬上の光秀にさりげなく声をかけた。
列の後ろからなにやら伝言のようなものが届けられたらしかった。
さりげなく振り返れば、後列に続く男たちが涙をこらえている。歯を食いしばってむせび泣きそうなのを耐えるものもいた。
従者に耳をそばめると、彼は感極まった様子で言った。
「信長殿が、泣いておられるそうです」
森蘭丸は、師走の寒さに白んだ空を背に佇む岐阜城の天主を見上げた。
御殿の外廊下を進みながら蘭丸は、冷たい風にさらされているにもかかわらず、形のいい額に流れ落ちたひとすじの汗をぬぐった。
帰蝶は天主で蘭丸を出迎えた。
今や天下取りまであと一歩といわれる日ノ本最強の男・信長の妻でありながら、その装いは、思いのほか地味であった。年齢も四十を過ぎているから年相応と言えばそれまでだが、落ち着きのある鶯の打掛は、きらびやかに飾り立てた衣装を好む信長とは対照的に見える。
───なのに
蘭丸は帰蝶の全身から光がにじみ出ているように感じた。眩しさに目を伏せるように、蘭丸は深く頭を下げた。
「ひさしぶりね蘭丸。元気だった?」
「はい。今日はお館様からの贈り物をお届けに上がりました」
蘭丸はさらに頭を低くした。襲い来る緊張で、帰蝶の顔をまともに見ることができない。
「信長は、そばにつかえるあなたに横暴なことをしていないかしら。嫌な思いなどしていない?」
帰蝶は心配そうな声で優しく蘭丸に尋ねた。
「いえ。私は嫌な思いなどしてはいません。叱られるときがあっても、それは私の至らなさゆえ」
「辛抱強いのね。蘭丸はきっと将来立派な武将になるわ」
帰蝶は十五を過ぎたばかりの少年をいたわるように微笑んだ。
蘭丸は、携えた贈り物を帰蝶に差し出した。美しい唐の蓋つきの焼き物だ。
「こちらは殿からの贈り物で、コンフェイトという南蛮の菓子だそうです」
「まあ」
帰蝶はそっと蓋を取り、器の中にひしめく色とりどりの小さな星屑に似た菓子に、目を輝かせた。
「なんてきれいな。空から零れ落ちた星をあつめたかのようね」
帰蝶は少女のように微笑んだ。美しい微笑みだった。
「蘭丸も一緒にいただきましょうよ」
帰蝶は言うと、器を蘭丸の方に滑らせた。
蘭丸は笑って見せると、ひときわ大きな薄緑色の粒を摘まみ上げ、そっと口に運んだ。
舌の上で崩れた星屑から、甘露が滲んで広がったが、緊張のせいかその味は異様に薄く、遠いものに感じた。
帰蝶は蘭丸の表情をじっと見つめている。美味しいか?と聞きたいのか、それとも何か不審な点でも感じたのか、首をわずかにかしげた。
その視線に、蘭丸は怯みそうになった。
そののち帰蝶は微笑んで見せた。蘭丸の緊張ぶりが、単に信長の正室に二人きりで対面しているこの状況からくるものだと判断したのだろう。
桃色の粒を指先で拾い、そっと口に入れた。
「なんて甘い・・・」
そこまで言うと言葉を失い、喉をかきむしり始めた。
蘭丸をじっと見つめる帰蝶の喉奥から、ひゅうひゅうとか細い息が漏れる。
蘭丸は固唾をのんで、苦しさに耐えきれず床に倒れ込んだ帰蝶を見つめた。
帰蝶は全身を痙攣させた直後、目を見開いたままぐったりとした。
「帰蝶さまと光秀さまは、陰でただならぬ深い関係を続けておられる。ですからこれは、天罰なのです」
蘭丸は帰蝶を叱責しながら、この制裁には義がある、と自分自身に言い聞かせる。
帰蝶は黒い瞳に苦悶と憎悪を込めて蘭丸をじっと睨んでくる。
蘭丸はその眼差しから逃れるように、力を失った帰蝶の脇に腕を入れ、見晴らし台まで引きずった。
彼女のぐったりした体を背後から抱いて立ち、二人して美濃の冬空に体を向けると、血の気を失い始めた帰蝶の片手を握って体を高欄にもたせ掛けた。
ひと息に、高欄の外がわに帰蝶の体を滑り落とす。帰蝶の体は上空で宙ぶらりんになった。はるか下には金華山の岩むき出しの山肌が待ち受けている。
蘭丸の華奢な手ひとつが、命をつなぎとめている。
帰蝶は気を失ったのか、山のふもとを見下ろすように首を垂らした。
「だれか、だれか!」
蘭丸は狂ったように叫んだ。全身に汗をかき、自らが導いたこの恐ろしい状況に蘭丸自身ものみ込まれ、本気であがいた。
「帰蝶さまが身を投げられた」
蘭丸を、激しい後悔の念が襲う。
部屋の外に待機していた侍女たちが駆けこんで来て、悲鳴を上げながら蘭丸の腕を一緒に掴んだ。蘭丸の手が汗に濡れて、どれだけ力を込めても少しずつ帰蝶の手が滑り落ちていく。
「帰蝶さま、手を放してはなりません。もっと強く握ってください」
手の骨が砕けるほどに力を込めたが、帰蝶の手がついに蘭丸のそれからつるりとぬけおちた。
「ああ!」
鶯の打掛をなびかせて、帰蝶の体が、固い岩がひしめくはるか下の地表に吸い込まれていく。
冬の風が蘭丸の手のひらの温度を一気に奪ってゆく。
侍女たちの叫び声が、岐阜城の上空に響き渡った。
本能寺の変が起こる、約一年半前の出来事だった。
一五八一年正月
年が明け、三が日のただなかだというのに、光秀は京の御所で政務にいそしんでいた。
帰蝶がこの世から去った悲しみから逃れるように、光秀はあえてせわしなく日々を過ごしていた。ふと立ち止まろうものなら、悲しみのためにそのまま崩れ落ちてしまいそうだった。
そこに突如、信長が訪れた。
ここ最近あらゆる家臣たちとの接触を絶っていた信長が、久しぶりに現れたのだった。
信長に対面するのは、密やかに行われた帰蝶の葬儀の席以来だ。
「信長殿、このたびは」
信長の前にかしずき、姿勢を正して首を下げる。
「だまれ」
信長は被せるように怒鳴り、光秀の言葉を遮った。
「帝のご命令で、二月のみそかに、馬ぞろえ(※馬ぞろえ・・・今でいう軍事パレード)を行うことになった。ついては、都にいるものたちすべてに俺の力を見せつけ、頂点に立つための足掛かりとする。各地をおさめる織田軍を一挙に集結し、その強さを、華々しい馬ぞろえでお披露目するのだ」
「はい・・・」
光秀は突然のことで、信長の真意がつかめずに次の言葉を待った。
「おまえが取り仕切れ」
「私が?」
光秀は顔を跳ね上げた。信長が鋭い目つきで光秀を見下ろしている。
「用意できるだろう。威厳たっぷりで、華やかで、圧倒的な馬ぞろえを」
「もう二月しか期間がありません」
「やれ。失敗は許さない」
野獣のうなりにも似た声で光秀に言うと、信長は立ち去ってしまった。
それから光秀は各方面を奔走した。
公家や諸将に馬ぞろえを行う旨を知らせてまわり、京都御所の東に全軍が一堂に会するための広大な馬場を構築すべく、大急ぎで土木作業を開始した。
威厳に満ちて華やかで、目にも楽しい馬飾りを用意し、部将たちの兜や甲冑の新調にまで心を砕いた。馬ぞろえの通り道と整え、警護の計画を立て、天皇が観覧する桟敷席を手配した。
演出、警備、道路の整備・・・あらゆる仕事が光秀の肩にのしかかった。
光秀は寝る間もなく準備に明け暮れ、当日を迎えた。
天気は信長軍を味方した。
青空の下に、色とりどりの飾りを付けた馬たちの姿は、勇壮で美しい。
武将たちはこれまでの自分の武勇を見せつけんとばかりに、思い思いの鎧兜をまとって集まった。よくよく思えば戦で奮闘する武者の勇ましい姿を、人々が目の当たりにする機会などないのだ。ここ一番と着飾った男たちの姿も、華やかで威厳に満ちている。
馬の足音が京の町に響く。
一番は丹羽長秀。長年にわたって信長に付き従った重臣。どんな逆境にも屈せず着実な仕事をする男。米のように、地味ではあるがなくてはならない存在と、信長からつけられた呼び名は米五郎佐。摂津衆、若狭衆を率いて先陣を行く。
二番は蜂屋頼孝、河内衆、和泉衆。三番は明智光秀、大和衆、山城衆。
四番は村井貞勝。京の政務を取り仕切る織田勢きっての知性派。政務の間に坐して書状を読むだけで、その向こうにある各地の情勢をつぶさに見通す深謀遠慮の才人。常に冷静沈着で、いざ戦になればその判断力で最小の力をもって最大の効果を発揮する男。引き連れるは策略と奇襲に長けた頭脳集団、根来衆、上山城衆。
五番は織田信忠。信長の嫡男という選ばれし星のもとに生まれた男。新星のごとく内側から輝きを放つ強大な熱量と、揺るがぬ忠疑心が武将たちの心をひきつけてやまない。次世代の織田軍を支えるべく生れた高貴なる男。五連枝の御衆の先頭を行く。
六番は近衛前久。朝廷がいかなる苦境に陥ろうとも、したたかにしなやかに、強きものを見抜いて味方に付けながら帝を守り抜いてきた、武力なくして勝ち抜くその姿は、京最強の「盾」。公家衆を引き連れ、優雅に道を行く。
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十番、最後を飾るのは織田信長。
始まりは、一つの小さな城の城主からだった。四方から攻め入る敵将たちに抗い、立ち向かい、打たれ悶えて青年期を過ごした。やがてその苦境での経験はこの男の血となり肉となった。
勝てば、さらに強大な敵が目の前に立ちはだかる。戦闘を繰り返すうちに男は屈強な体と狂暴な牙を手に入れた。その人間離れした器に今、神をも畏れぬ精神が宿る。
信長は今、天下を手に入れた。
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敬意、畏怖、羨望。あらゆる熱を一身に浴びた信長は、その熱を糧にさらに新しい姿に生まれ変わりつつある。だが生まれ変わった末の姿を、いまは誰一人想像することはできない。
信長は馬上から空を見上げた。
青い空に、小さな黒い影がある。両翼をひらき、ゆったりと空を行く一羽の鷹だ。
「峰花」
信長は思わず帰蝶の愛鷹の名を呼んだ。
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───あの女はいつの間にか、俺の支えとなっていた
頬を叩かれたのも一度や二度ではない。あの華奢な手のひらから繰り出される信じられないほどの力強い平手打ちに、何度目を覚まされたことか。
───俺を叱ってくれるものは、もうだれもいない
信長は堂々と馬上に揺れ、人々を見下ろしながら、固い鎧に覆われた胸の、柔らかな場所を激しく震わせた。
心が、泣いている。
再び空を見上げると、そこに鷹の姿はもうなかった。
───帰蝶、お前に会いたい
馬を引く従者が、馬上の光秀にさりげなく声をかけた。
列の後ろからなにやら伝言のようなものが届けられたらしかった。
さりげなく振り返れば、後列に続く男たちが涙をこらえている。歯を食いしばってむせび泣きそうなのを耐えるものもいた。
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