帰蝶の恋~Butterfly effect~

平梨歩

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第四章 本能寺編「悪魔の祈り」

第四話④ 悪魔の祈り(4)

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秀吉は備中に陣を張っている。
本陣の上座に座り、届いた書状を読みながら激しい貧乏ゆすりをしていた。

───信長殿にあれほど援軍を頼んだのに、まさか光秀の兄者を差し向け、そのあと、殿は追いかけて出陣してくるだと?

家康の饗応役を解いたとたんに備中への援軍に行けとは。そんな無茶な指令を出す大将がどこにいる?

信長殿が備中に来れば光秀の兄者は謀反を起こさずに済むと思って、俺は必死に信長殿が直々に来るようにとお願いしたのに。

殿は出陣前に本能寺で茶会だと?呑気もいいところだ。

京都の外れの警備の手薄なあの寺に、数百人程度の軍勢だけで寝泊まりするとは、暗殺してくれと言っているようなものではないか。
しかもあの場所は光秀が管理する所領のど真ん中。光秀自身が敵として翻れば、信長殿は蜘蛛の巣にかかった獲物も同然。

そして、あろうことか光秀は殿の命令に反して備中に来ていない。兵糧と武器、そして大将をうしなった足軽隊だけが備中にのこのこやってきたのだ。
おそらく兄者は俺が近くにいないのも好機として今立ち上がったかもしれない。いまごろ本能寺に押し入っている。

もう、兄者の謀反を防ぐことはできない。
こうしてはいられない。すぐに京に戻らなくては。

俺は兄者に言われているのだ。お前が次の天下を取れ、と。

京に戻って、~光秀の謀反、討伐せよ。~そう言って兄者を討てばいいんだろ。
こんなことやらせるなよ、兄者。

けど兄者がそこまでの覚悟なら、俺は天下を取る。
兄者の意思は俺が継ぐ。

今後、人の心に巣食う悪魔を、俺は許さない。断固戦う。




本能寺の変は、総数一万三千の兵が反旗を翻すクーデターとなった。
光秀は少数での暗殺を企てたにもかかわらず、織田家に反感を抱く者たちが乗じて立ち上がったのだった。
この変によって、織田信忠などが討ち死。
光秀の妻も、夫が花と散るのを見届けて後を追うように自害に及んだ。
光秀の意図に反し、彼に付き従うもたちが多く犠牲となったのだ。

光秀と近しい関係にあった武将たちの中には、細川藤孝、筒井順慶のようにあえて光秀に与さず、光秀の真意をくんで平らかな世を目指すべく生き残りを選んだ者たちもいた。





本能寺の変から十日後。

驚くべき速さで秀吉は備中から舞い戻った。そして素早く謀反討伐の陣を指揮し、光秀の首を狙って四万の兵を動かした。

四方から追い立てられた光秀は、手勢の軍と散り散りに分かれ、ついにひとりとなり、小栗栖の竹やぶで倒れていた。

「俺をさっさと討てばいいんだよ秀吉。あいつは本当に人を殺めるのが下手だ。逃がしたって俺はもう、どっちにしたって長くないんだ」

秀吉は陣頭指揮を執って光秀討伐を叫びながらも、器用に光秀を追い立ててはわざと取り逃がすのだ。

光秀は目を閉じた。

饗応役を解かれたあの時。
光秀は自らの命の限界を悟っていた。

そんな帰路、納屋助左衛門に会った。あのとき助左衛門は、光秀に驚くべき事実を告げたのだった。

「あの時の姫様だが・・・」

「帰蝶さまは、亡くなったんだ」

「いや。明智殿、あの姫様は生きて、今堺にいる」

すぐさま分かった。あの時死んだのは、菫だったのだ。

そのまま助左衛門の手引きで帰蝶が潜伏する堺の宿にたどり着いた。
帰蝶は鉄砲を手に入れ、射撃の訓練をした後、本能寺に向かって出立しようとしているところだった。


帰蝶は自分の身代わりに菫が命を絶った日のことを光秀に語った。

菫は体調のすぐれない帰蝶に変わって蘭丸と面会した。そして蘭丸に毒を盛られ、投身したように偽装されたのだという。

「信長が、邪魔になった私を排除するために蘭丸を刺客として送り込んだのよ。でもね、私には信長を止める使命があるとその時悟った。これまで天下布武を言い訳にどれだけの人間を殺め、苦しめたか。あの悪逆非道な暴君を育ててしまったのは、この私。そんな罪悪感がずっと私を苛んできた。私がそばにいなければ、きっと信長はあんな野獣にはならなかった。
だから私が、信長をこの手で殺す。そして戦の絶えない乱世に区切りを付けなければならない。そう思ったの。
この世から存在が消えた私は、城の隠れ場所から出て金華山の崖を降りて、桶狭間の亀次のもとに潜伏し、ずっと信長を殺す計画を立てていた。そして、信長が本能寺に滞在すると知り、絶好の機会だと思って堺まで出てきた」

帰蝶はそう語ったのだった。

光秀は帰蝶に言った。

「信長殿が姫を殺すなどありえない。じっさい、姫がいなくなってから信長殿は一層自分を見失っている。俺たち家臣は、姫がいなくなった直後、信長殿が泣いているその場に居合わせたんだ。おそらく姫の暗殺は、蘭丸が単独で計画したものだ」

「そうだったの?」

帰蝶はうつむいて、涙をこぼした。

菫が命を落とした時、自分が前に進み出て、死んだのは影武者だと言えば、帰蝶として生き続けることはできた。しかし殺害したのが夫の家臣だと知ってしまった以上、帰蝶としてのうのうと生きてはいられないと悟った。再び夫から刺客を送り込まれるかもしれないと戦々恐々の日々を過ごすよりも、夫の命を奪うために生きるという選択肢を選んだのだ。

光秀は、一年以上の間、孤独に夫の殺害を企てていた帰蝶の苦しみを思い、涙を流して震える華奢な体を抱きしめた。


そのあと光秀は、自身がずっと胸に抱いていた計画を帰蝶に打ち明けた。

───信長を殺害すると見せかけて、見知らぬ外国に逃亡させる。愛する帰蝶とともに束縛のない世界に身を投じ、自らの心を悪魔に変えるほどの苦しみから解放し、新しい人生をいま一度やり直す。

帰蝶が死んでしまっては実現不可能だったこの計画が、帰蝶が生きていたことで実行できると思った。

「光秀が逆賊になるつもりなの」

「俺はもう先がないんだ。俺は医学も学んでいたことがあるからわかる。時々心臓が止まって気を失うんだ。だから今、あの薬をんでいる」

「血の流れが速くなり、血気盛んな様子となり、間もなく心の臓が破られる、秘境の地のわずかな者だけが調合を知る妙薬・・・あの猛毒を」

光秀はうなずいた。かつての帰蝶の夫、土岐頼充の暗殺のときに光秀が用意した薬だ。

「あの薬で今、無理やり心臓を動かしている。今は本当なら生きられない命を生きている。だから俺は天下は取れないんだ。逆賊で終わるしかない」

「光秀死なないで」


帰蝶の涙が一層激しくあふれ出た。

「わがままを言うな・・・帰蝶、愛してるよ」

「光秀、初めて言ってくれたわね」





───やっと言えた。
これまで生きる原動力となって俺を支えたその想いを、あの時、やっと言葉にできたのだ。


光秀は、涙でぐちゃぐちゃになった帰蝶の顔を思い出し、ふと微笑んだ。

竹やぶの隙間から覗いた空に、二羽の鷹が、悠々と飛ぶのが見えた。

「姫。信長殿」

光秀は呟いた。
心臓が数回、胸を突き上げるほどに大きく脈動した。
息ができなくなり、次の瞬間、心臓の音が止まった。







信長は目を空けた。視界一面に、青い空が広がっている。
起き上がると、信長は大きな船の甲板にある長椅子に寝かされていた。

「ここはどこだ」

南蛮の服に身を包み、かじ取りの指示を出していた納屋助左衛門が信長のもとに歩いてきた。

「俺はこの船の船長の助左衛門だ」

そう言って助左衛門は信長の手を握った。
信長は状況がつかめずに目を白黒させた。腕に体重をかけると激痛が走った。刀傷や刺し傷が疼くが、べったりと薬が塗られていて、血は止まっていた。

「俺はこれまで見たことのない海の向こうへ行くんだ。ルソン、という島さ。その島に住む者たちは、誰一人として信長殿のことを知らない。そんな場所だ」



「織田信長という男は、心に巣食った悪魔とともに消え去ったのよ」

信長は声の方に振り向いた。

帰蝶だった。白い薄手の服を纏い、柔らかなスカートのすそを海風になびかせていた。長い黒髪が顔に張り付くのをおさえ、眩しそうに信長を見ている。

「運賃はしっかり、帰蝶さまからいただいてる。到着するまで養生してくれ」

助左衛門が言った。

「帰蝶、俺は長い長い夢を見ていた気がする」

呟いた信長の手を、帰蝶が握った。

「夢などではなかったわ。戦って、悩んで苦しんで、あなたは破滅するまで生き続けたの。たしかに、壊したものは計り知れない。でもきっと、あなたが壊した荒野には、きっと新しい花が咲く。そうやって誰かの夢がまた、あの日ノ本の地に咲き乱れるはず」

「帰蝶」

信長は帰蝶の体を抱きしめた。折れそうに細い体から、生きる力がみなぎっているのが分かる。

「俺たちは生きている」

信長は甲板を滑りゆく影に気づいて上空を見上げた。


二羽の鷹が、二人を見送るかのように美しい曲線を画きながら大空を舞っていた。


【完】
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