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Mission:大地に光を

第91話:帰還 ~新米パパは気が抜けない~

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 ひどい大雨であるだけではなく、暴風と雷、おまけに深夜とあって、通行人は全くいなかった。街灯に照らされていた路地に、さらに一筋の光がさす。自動車のランプだ。しばらくして減速した自動車は、路上に駐車してアイドリングを始めた。

「もしかしてハズレかな」
 運転席の男が助手席に声をかけた。
「こんな大雨じゃなぁ」
 助手席の男は、車内の暖房の温度を上げる。
「あと二〇分くらいしたら、俺、寝ようかな」

 その言葉に相槌をうちかけた運転席の男が、ふとバックミラーを見てあっと声を上げた。
「当たりだ」
「は?」
「当たりだよ! ほら、後ろ!」
 助手席の男が振り向く。リアウィンドーから一人の男がこちらに走るのが見えた。
「嘘だろ……」  
 助手席の男は口をぽかんと開けていた。後ろから車のドアが開く音がする。雨音が大きくなった。後部座席に人が転がり込む。

「使えよ」
 助手席から声がしてタオルが投げられ、ずぶ濡れの男がタオルを手に取る。
「助かりましたよ」
「助かったも何も、当たり前だよ。なあ章」
「そうそう。僕らがすごいわけじゃない」
 伊勢章は、アクセルをじわりと踏んだ。自動車が発進する。

「僕らは単に三嶋を迎えに来ただけじゃないしね。ただ、本社に帰るついでにここにいるだけだよ。もうすこし遅かったら多分二人とも寝てたけど」
「……電話できたのはほんの一瞬でしたし、来ないかと思ってました」
「そんなわけないだろ」
 裕が頷く。

「潜入捜査官の言うことは絶対だ。あれだけ連絡が取れなかったらさすがに気づくよ。三嶋になにかあったんじゃないかなって。そんな奴から連絡が来てみろ。すべてを放り出してでも迎えに行くに決まってる」
「ありがとうございます」
 それに、連絡が公衆電話だったから、と章は付け加えた。
「午後十一時にここへ来てください、とだけ言ったもんだから、逆に信用できた」
 潜入捜査官に余裕なんてない。言わなくても互いにわかっていることだ。

「なあ裕、あのオービス、光ってたと思う?」
「うーん、俺は見てない」
 横たわる三嶋を揺らしつつ、現場から逃げるように走り去る章は苦い顔だ。
「章くんがオービスに捕まったんですか? 珍しい」
 三嶋が久しぶりに笑う。
 
「もしかすると雷光かも。そうであって欲しい」
 章がぐっとハンドルを握りなおす。
「オービス直前に、ちょっとしたトラブルがあって忘れたんだよ。あってはならないミスだった」
 思い出したくもない記憶だが、勝手に章の脳内にその時の情景がフラッシュバックしてきた。

 関東から関西圏に向かうまでに設置されたオービスの位置など、伊勢兄弟は完全に頭に叩き込んでいる。センサーもアプリも必要ない。
 それゆえ伊勢兄弟は、県警から本社までいく際には深夜であるのをいいことに平気で飛ばす。その速度で捕まれば免停は免れない。

「どこで光ったんですか?」
 うろたえる伊勢兄弟の珍しい姿に三嶋が笑みを浮かべた。
「名古屋を過ぎたぐらいかな」
「それはそれは……。もし捕まったら面倒ですねぇ。わざわざ愛知県まで行かないといけないでしょ」
「警察官の言うことじゃないだろ、それ」
 裕のツッコミに、けらけらと三嶋は笑った。

「前科はあるんですか?」
「ないよ。僕、ちゃんとゴールドだもん」
「でもまあ、呼び出されるまでは免許あるから。だよな?」
「いえ、私は交通課じゃないので。よくわかりません」
 本当は知っているのだが、あっさり言うと面白くないので黙っている。
「その発言だって警察官の言うことじゃないよなぁ。しかも準キャリアで」
 章はどこか楽観視しているようにも見える。が、それは虚像であることを裕は知っている。

「諏訪君は交通課でしょ。聞いてみたらどうです?」
「あいつはしれっと嘘をつくから信用できない」
 ハンドルを握る章がぶすっと頬を膨らませる。
「いや、嘘をつくってのは違うだろ」
 裕がたしなめる。
「知らないことをしれっと誤魔化すだけだ」

「でも適当に言われる身にもなってみろ。『オービス? 光ったんなら引っかかってるっしょ。オービス光るってどんだけ出してんすか、免停間違いなしっすねぇアハハ』って言われるに僕は一万円かける」
 百パーセントの確率で出てくるであろうセリフに裕と三嶋は頷くしかない。

「免停って何か月だっけな」
「何キロ出てたんですか?」
「雨で八〇キロ制限だったから、プラス五〇キロくらい」
「実際に何キロで取られるかはわかりませんけど、五〇キロを境に一か月か三か月になります」

 章は眉間にしわを寄せてため息をついた。
「うーん三か月かぁ、長いなぁ」
「三嶋の潜入期間の半分以下だけどな」
 裕が指を折って潜入期間を数える。

「そんなになってたんですね……」
「半年以上だもん。ほんと頑張ったなぁ三嶋」
 章が後ろを振り向いて感嘆してみせた。危ないから前を向け。
「そうですかね?」
 いろいろあった。楽でないと言えば嘘になる。しかし、全てのことに必死だったから頑張った頑張っていないという次元ではなかった。

「そんな三嶋にご褒美があります」
 裕の眼鏡が光る。
「嬉しいですね。なんですか?」
「三嶋の奥さんから連絡があった。一週間前、子供が生まれたって」

 何を企んでいたのかと身構えていた三嶋の力が一気に抜けた。
「嘘ですよね?」
「さすがの僕らでもそこまで性格は悪くない」
「でも……」
「何疑ってるんだ、教団に毒されすぎだ。本当だよ。考えてもみろ。あれだけどれだけ経ったかわかってるだろ?」

 三嶋は目をつむった。妻が妊娠していたのは知っていた。潜入が長くなるのを覚悟はしていたものの、産まれるまでには帰れるだろうと思っていたし、潜入中には出発時に見た妻の姿ばかり思い起こしていたものだから、彼女が出産するという概念自体なかった。

「それにしても生まれただなんてあります?」
「タイミングばっちりじゃん。よかったね」 
 あまりに突然の報告に、喜びの他に様々な感情が湧き上がる。
「会いに行くんだろ? また名前教えてよ。新米パパさん」
 苦笑するつもりだったが、ただのにんまりとした笑顔になった。そんな自分に困ったかのように三嶋は頷く。

「今は本社に向かうけど、本社に着いたら章だけ置いて今度は俺が三嶋を送るから。今は寝なよ」
「ありがとうございます」
「どこまで送る? 三嶋の実家?」
「やめてくださいよ。実家には一生分関わったんですから、この先一生関わらなくてもいいと思ってるくらいなんですよ」

 そういうと三嶋は大きなあくびを一つして、目を閉じる。ついさっきまで全く眠くなかったのに、急に意識が遠のき始めた。安心して寝られるのは何ヶ月ぶりだろうか、と考える間もなく三嶋は眠りに落ちていた。
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