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愛を探すΩ ②
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番契約というのは、αとΩの間で行われる、互いを肉体的にも精神的にも縛る力を持った契約だ。番契約を行ったαとΩは、自分の番以外の人間と子孫を残せなくなるが、その代わり互いにより強い絆で結ばれるようになるという。医学的にそのメカニズムは解明されておらず、多くの学者が様々な研究や論文を発表しているが、いまだその実態は明らかでない。現代ではその制約の強さと契約後のトラブルの頻発により、番契約を行う人の方が少数派になっている。
番契約の存続期間は一生と言われるが、それが自分が死ぬまでなのか、相手が死ぬまでなのかは明らかになっていない。多くの場合、愛する番をなくした片割れはその悲しみに耐えられず、そう長くないうちに精神や肉体を病んでしまうからだ。番契約は、それほどに強い絆で相手を縛るものなのだ。
綾人さんの告別式で見た日比谷くんは、しゃんと背筋を伸ばして施主側の役割を果たしていた。その顔は青ざめていて、頬が少しこけてしまっているように見えたが、少なくとも全く寝られていないとか、何も食べていないとか、そんな風には見えなかった。一昨日の夜、突然かかってきた電話口で彼の番の訃報を聞かされた時は、あまりに淡々と言葉を紡ぐ日比谷くんが無性に心配になって告別式に参列することを決めたが、参列者に頭を下げ、しっかりとした様子で受け答えをしている彼の様子を遠目に見て、僕は薄情にも少し安心してしまったのだった。番契約も噂ほどに大したことはないのだな、と。
日比谷くんは僕と目が合っても、特別反応はしなかった。僕はそれが特段おかしなことだとは思わなかったし、きっと一週間もすればまた、大学で彼を見ることができるようになると思っていた。
「ああ、相馬。ちょうどいいところに来た」
学部の担任に呼び止められたのは、告別式の日からちょうど7日目のことだった。廊下で教務の事務員と会話をしていた担任は、横を通り過ぎようとしていた僕を手招きして、傍らに呼び寄せた。担任は疲れたような顔をしていて、手には何かの書類を持っていた。
「どうかしましたか?」
「うん、相馬、お前日比谷と下宿先が近かったよな?」
「そうですね、隣のアパートに住んでます」
この7日、日比谷くんは一切大学に姿を見せなかった。でも番契約を交わした恋人同士には忌引きが適用されるので、僕はそれが特段おかしなことだとは思っていなかった。
担任は手に持った書類をパタパタと叩きながら、困り顔で僕の方を見た。
「こんな時になんなんだが、日比谷に出してもらわなければいけない書類があってな。昨日から何回も連絡を取ろうとしているんだが、一回も繋がらないんだ。悪いんだが、お前、様子見てきてやってくれないか」
「それぐらい、いいですけど…書類も持っていけばいいんですか」
「頼めるか。会えなかったら、ポストに入れておいてやってくれ」
僕は軽い気持ちで頷いた。もちろん恋人を亡くしたばかりの日比谷くんの気持ちが明るいはずはないのだが、だからこそ一人で塞ぎ込んでいるのでは辛いばかりだろうと思ったし、気持ちの切り替えも必要だと思った。そこに仮にも半年近く交流を深めた僕のことを無碍にはしないだろうという傲慢な自惚れが存在したことは、否定できない事実だった。
日比谷くんの住むマンションは6階建てで、僕のアパートの南側にドンと位置している。そのせいでうちの小さなアパートには一切日が差し込まず、気を抜くとすぐにカビやらキノコやらが生えてくる。そんな物件だもので、駅近だというのに破格の賃料で貸し出されていて、奨学金が貰えるほど頭の良くない、僕みたいな中流階級の子供でも、一人暮らしを許されていたりする。
日比谷くんの家も別に特別お金持ちだというわけではないそうだが、奨学金により学費が全額免除されているということと、彼が高校生の時に取得した特許の使用料が今でもたまに入ってくることから、賃料の高さはあまり気にしたことがないと語っていた。安さを重視して生活の手間を増やすよりは、少しばかり割高でも質の高い生活を心がけていると。
効率を重視する日比谷くんは、最上階なんて眺めがいいわけでもなければ昇るのにも降るのにも時間のかかるだけでいいところがないと言っていた。その言葉通り、ポストに貼られた日比谷という札は、彼が住んでいるのは2階の角部屋だということを示していた。玄関はオートロックなので、呼び出し音を鳴らしたが、反応はなく、僕は仕方なく彼に一報を入れて書類をポストに突っ込んだ。ポストの中はかなり前から全然回収されていないらしく、はみ出してきた宅配ピザのチラシの鮮やかさが目に痛かった。
自分の家に戻った僕は、来週提出のレポートに手をつけ、課題についてああでもないこうでもないと頭を捻った。三年生になっていきなり専門的になった課題は、僕みたいにあまり出来の良くない脳みそではすぐに置いて行かれそうになってしまう。結局二時間ほどかけて三割ほどを終わらせた僕は、そろそろ夕飯の時間になったなと思って冷蔵庫を覗いた。農家をしている祖父母から定期的に野菜が送られてくるので、僕は仕方なしに自炊をすることが多かった。料理は得意ではないが、せっかく送ってもらった野菜を腐らせるのはもっと気分が悪かった。
冷蔵庫の中には萎びかけた夏野菜とこの前使ったカレールゥが転がっていて、僕は安直に夏野菜カレーを作ることに決めた。煮込むのに多少時間はかかるが、手間なくたくさん作れて美味しいカレーは、僕の中で定番のメニューだった。三日分くらい作ればいいだろうと具材を大量に仕込み、煮込み始めてから卵を切らしていたことに気がついた。僕はカレーには玉子をのせなければ気が済まないたちで、しょうがなしに近くのコンビニまで買いに出かけることにした。
最近は日が長いと思っていたが、8時を過ぎると流石にもう真っ暗で、僕はポツポツと灯りのついた街灯の下を通ってコンビニまでたどり着いた。目当ての玉子を買って、アパートの近くまで帰ってきたところで、隣のマンションのエントランスに、見慣れた背の高い男のシルエットがあるのを見つけた。
「日比谷くん」
彼は驚いたようにこちらを振り向き、僕の姿を確認すると軽く片手を上げた。逆光になって見えなかったが、どうやらちょっと笑ったようだというのが気配でわかった。
「なんで玉子だけ持ってるんだ?」
日比谷くんは笑いを含んだ声で僕に問いかけた。エコバッグを忘れて、卵だけだからいいかと思ってそのまま玉子を抱えてきたのだが、指摘されると妙に恥ずかしく、僕は後ろ手に卵のパックを隠した。
「玉子が欲しかったんだよ…あのさ、メッセージ見た?」
「いや…携帯はずっと電源を切っている」
「そっか。先生が書類持ってけって言うから、ポストに突っ込んどいたよ。出して欲しいんだって」
「ああ…すまん。煩くて切ってたんだが、余計な手間をかけたな」
日比谷くんは気まずげにそう言った。交友関係の多い彼のことだ、恋人の訃報に連絡してくる知り合いも多いのだろう。それを煩わしいと思う日比谷くんの気持ちはわかったし、責めるつもりはなかった。
近くで見ると、日比谷君は少し痩せたようだった。それは彼の精悍な魅力を損なうものではなかったが、普段快活な彼のその姿は妙に痛々しく、僕はなんだか日比谷くんの母親にでもなった気分で彼を振り仰いだ。
「日比谷くん、痩せたね。ご飯、食べてる?」
「そうか? 食べているつもりなんだが…相馬は、これから夕飯か?」
「うん、夏野菜カレー食べようと思ってさ。日比谷くんもどう? もう食べちゃった?」
軽い気持ちで聞いたが、九割九分断られると僕は思っていた。だから彼が逡巡するように沈黙した後、肯いたのを見て、かなり驚いた。僕は彼の気が変わらないうちに日比谷くんの手を引き、6畳の小さな城に彼を招き入れたのだった。
玉子入りの夏野菜カレーは概ね好評だった。日比谷くんは最初、玉子をカレーに入れるのを気持ち悪がったが、僕の食べているカレーを一口食べて、釈然としない顔をしながら自分も玉子を割り入れていた。僕はてっきり日比谷くんは食事をしたら帰るものだと思っていたが、二回もおかわりをしてお腹が一杯になったらしい彼は、ごろりと寝転がってこの家に泊まると宣言した。隣なんだから帰ればいいのに、と思ってから、彼が自分の家にいたくないのだということに思い至った。日比谷くんと綾人さんは同棲こそしていなかったものの、かなりの時間を日比谷くんの家で過ごしていたそうだ。
お風呂に入りに行った日比谷くんの寝床を作りながら、僕は彼と一緒にいられて嬉しいと騒ぐ恋心にそっと蓋をした。
僕が日比谷くんに淡い恋心を抱いていたことは確かだったが、恋人を失ったその傷につけ込もうなんてことは、誓って言うが考えたこともなかった。僕は誰よりも近くで彼が自分の運命について幸せそうに語る姿を見てきていたし、彼がどんなに番を大切にしていたか、誰よりもよく知っていた。僕はそんな日比谷くんだから好きになったのだし、自分がそのポジションになりかわろうなんてつもりは少しもなかった。
夜中、僕は誰かが布団の中に入ってくる気配で目を覚ました。誰か、というかこの部屋には僕と日比谷くんしかいないのだから、その正体は日比谷くんしかいないのだが、その手が僕のスウェットの裾から中に差し入れられたことが信じられず、僕は呆然と彼の名前を呼んだ。
「日比谷くん…?」
日比谷くんは僕の首筋に鼻を埋め、すん、と匂いを嗅ぎながら、ヤらせろよ、と低い声で短く囁いた。その声がどうにも寂しそうで辛そうで、僕は何も言えずに僕の薄い腹をなぞる彼の手を掴んだ。日比谷くんは逆に僕の手を捕まえると、抵抗を封じるように布団に押しつけ、そのまま僕の上にのしかかってきた。月明かりが照らし出した彼の顔は笑っていたが、僕はそれが彼の泣き顔に見えた。
「本当は、今日クラブにでも行って誰かひっかけて来ようかと思ってたんだ。でも、相馬と会ったからな。お前、Ωだろう。付き合えよ」
そう言いながら、彼は僕ではない、遠くの誰かを見つめている目をしていた。
「隣に誰もいないと、眠れないんだ…」
長いまつ毛が影を落とす彼の目元には、確かに色濃く隈が浮かんでいた。日比谷くんのお誘いはとても魅力的だったし、こんなこと二度とないだろうなと思う気持ちもあった。でも彼の傷を負った心は、そのことでさらにずたずたに引き裂かれるのだという事を僕は不思議と理解していて、それだけはしてはいけないのだと悟ってしまった。
僕は捕えられていない方の手を日比谷くんの背中に回し、彼の体をぎゅっと引き寄せた。
「そんなことしなくても、一緒に寝てあげるからさ」
日比谷くんは僕の腕の中で身を硬くしていたが、しばらくしてふっと力を抜き、僕の横にゆっくりと寝そべって、僕の体をぎゅっと強く抱き込んだ。愛を失って迷子になってしまった彼が、今夜だけでもゆっくり眠れますようにと、僕は願った。
番契約の存続期間は一生と言われるが、それが自分が死ぬまでなのか、相手が死ぬまでなのかは明らかになっていない。多くの場合、愛する番をなくした片割れはその悲しみに耐えられず、そう長くないうちに精神や肉体を病んでしまうからだ。番契約は、それほどに強い絆で相手を縛るものなのだ。
綾人さんの告別式で見た日比谷くんは、しゃんと背筋を伸ばして施主側の役割を果たしていた。その顔は青ざめていて、頬が少しこけてしまっているように見えたが、少なくとも全く寝られていないとか、何も食べていないとか、そんな風には見えなかった。一昨日の夜、突然かかってきた電話口で彼の番の訃報を聞かされた時は、あまりに淡々と言葉を紡ぐ日比谷くんが無性に心配になって告別式に参列することを決めたが、参列者に頭を下げ、しっかりとした様子で受け答えをしている彼の様子を遠目に見て、僕は薄情にも少し安心してしまったのだった。番契約も噂ほどに大したことはないのだな、と。
日比谷くんは僕と目が合っても、特別反応はしなかった。僕はそれが特段おかしなことだとは思わなかったし、きっと一週間もすればまた、大学で彼を見ることができるようになると思っていた。
「ああ、相馬。ちょうどいいところに来た」
学部の担任に呼び止められたのは、告別式の日からちょうど7日目のことだった。廊下で教務の事務員と会話をしていた担任は、横を通り過ぎようとしていた僕を手招きして、傍らに呼び寄せた。担任は疲れたような顔をしていて、手には何かの書類を持っていた。
「どうかしましたか?」
「うん、相馬、お前日比谷と下宿先が近かったよな?」
「そうですね、隣のアパートに住んでます」
この7日、日比谷くんは一切大学に姿を見せなかった。でも番契約を交わした恋人同士には忌引きが適用されるので、僕はそれが特段おかしなことだとは思っていなかった。
担任は手に持った書類をパタパタと叩きながら、困り顔で僕の方を見た。
「こんな時になんなんだが、日比谷に出してもらわなければいけない書類があってな。昨日から何回も連絡を取ろうとしているんだが、一回も繋がらないんだ。悪いんだが、お前、様子見てきてやってくれないか」
「それぐらい、いいですけど…書類も持っていけばいいんですか」
「頼めるか。会えなかったら、ポストに入れておいてやってくれ」
僕は軽い気持ちで頷いた。もちろん恋人を亡くしたばかりの日比谷くんの気持ちが明るいはずはないのだが、だからこそ一人で塞ぎ込んでいるのでは辛いばかりだろうと思ったし、気持ちの切り替えも必要だと思った。そこに仮にも半年近く交流を深めた僕のことを無碍にはしないだろうという傲慢な自惚れが存在したことは、否定できない事実だった。
日比谷くんの住むマンションは6階建てで、僕のアパートの南側にドンと位置している。そのせいでうちの小さなアパートには一切日が差し込まず、気を抜くとすぐにカビやらキノコやらが生えてくる。そんな物件だもので、駅近だというのに破格の賃料で貸し出されていて、奨学金が貰えるほど頭の良くない、僕みたいな中流階級の子供でも、一人暮らしを許されていたりする。
日比谷くんの家も別に特別お金持ちだというわけではないそうだが、奨学金により学費が全額免除されているということと、彼が高校生の時に取得した特許の使用料が今でもたまに入ってくることから、賃料の高さはあまり気にしたことがないと語っていた。安さを重視して生活の手間を増やすよりは、少しばかり割高でも質の高い生活を心がけていると。
効率を重視する日比谷くんは、最上階なんて眺めがいいわけでもなければ昇るのにも降るのにも時間のかかるだけでいいところがないと言っていた。その言葉通り、ポストに貼られた日比谷という札は、彼が住んでいるのは2階の角部屋だということを示していた。玄関はオートロックなので、呼び出し音を鳴らしたが、反応はなく、僕は仕方なく彼に一報を入れて書類をポストに突っ込んだ。ポストの中はかなり前から全然回収されていないらしく、はみ出してきた宅配ピザのチラシの鮮やかさが目に痛かった。
自分の家に戻った僕は、来週提出のレポートに手をつけ、課題についてああでもないこうでもないと頭を捻った。三年生になっていきなり専門的になった課題は、僕みたいにあまり出来の良くない脳みそではすぐに置いて行かれそうになってしまう。結局二時間ほどかけて三割ほどを終わらせた僕は、そろそろ夕飯の時間になったなと思って冷蔵庫を覗いた。農家をしている祖父母から定期的に野菜が送られてくるので、僕は仕方なしに自炊をすることが多かった。料理は得意ではないが、せっかく送ってもらった野菜を腐らせるのはもっと気分が悪かった。
冷蔵庫の中には萎びかけた夏野菜とこの前使ったカレールゥが転がっていて、僕は安直に夏野菜カレーを作ることに決めた。煮込むのに多少時間はかかるが、手間なくたくさん作れて美味しいカレーは、僕の中で定番のメニューだった。三日分くらい作ればいいだろうと具材を大量に仕込み、煮込み始めてから卵を切らしていたことに気がついた。僕はカレーには玉子をのせなければ気が済まないたちで、しょうがなしに近くのコンビニまで買いに出かけることにした。
最近は日が長いと思っていたが、8時を過ぎると流石にもう真っ暗で、僕はポツポツと灯りのついた街灯の下を通ってコンビニまでたどり着いた。目当ての玉子を買って、アパートの近くまで帰ってきたところで、隣のマンションのエントランスに、見慣れた背の高い男のシルエットがあるのを見つけた。
「日比谷くん」
彼は驚いたようにこちらを振り向き、僕の姿を確認すると軽く片手を上げた。逆光になって見えなかったが、どうやらちょっと笑ったようだというのが気配でわかった。
「なんで玉子だけ持ってるんだ?」
日比谷くんは笑いを含んだ声で僕に問いかけた。エコバッグを忘れて、卵だけだからいいかと思ってそのまま玉子を抱えてきたのだが、指摘されると妙に恥ずかしく、僕は後ろ手に卵のパックを隠した。
「玉子が欲しかったんだよ…あのさ、メッセージ見た?」
「いや…携帯はずっと電源を切っている」
「そっか。先生が書類持ってけって言うから、ポストに突っ込んどいたよ。出して欲しいんだって」
「ああ…すまん。煩くて切ってたんだが、余計な手間をかけたな」
日比谷くんは気まずげにそう言った。交友関係の多い彼のことだ、恋人の訃報に連絡してくる知り合いも多いのだろう。それを煩わしいと思う日比谷くんの気持ちはわかったし、責めるつもりはなかった。
近くで見ると、日比谷君は少し痩せたようだった。それは彼の精悍な魅力を損なうものではなかったが、普段快活な彼のその姿は妙に痛々しく、僕はなんだか日比谷くんの母親にでもなった気分で彼を振り仰いだ。
「日比谷くん、痩せたね。ご飯、食べてる?」
「そうか? 食べているつもりなんだが…相馬は、これから夕飯か?」
「うん、夏野菜カレー食べようと思ってさ。日比谷くんもどう? もう食べちゃった?」
軽い気持ちで聞いたが、九割九分断られると僕は思っていた。だから彼が逡巡するように沈黙した後、肯いたのを見て、かなり驚いた。僕は彼の気が変わらないうちに日比谷くんの手を引き、6畳の小さな城に彼を招き入れたのだった。
玉子入りの夏野菜カレーは概ね好評だった。日比谷くんは最初、玉子をカレーに入れるのを気持ち悪がったが、僕の食べているカレーを一口食べて、釈然としない顔をしながら自分も玉子を割り入れていた。僕はてっきり日比谷くんは食事をしたら帰るものだと思っていたが、二回もおかわりをしてお腹が一杯になったらしい彼は、ごろりと寝転がってこの家に泊まると宣言した。隣なんだから帰ればいいのに、と思ってから、彼が自分の家にいたくないのだということに思い至った。日比谷くんと綾人さんは同棲こそしていなかったものの、かなりの時間を日比谷くんの家で過ごしていたそうだ。
お風呂に入りに行った日比谷くんの寝床を作りながら、僕は彼と一緒にいられて嬉しいと騒ぐ恋心にそっと蓋をした。
僕が日比谷くんに淡い恋心を抱いていたことは確かだったが、恋人を失ったその傷につけ込もうなんてことは、誓って言うが考えたこともなかった。僕は誰よりも近くで彼が自分の運命について幸せそうに語る姿を見てきていたし、彼がどんなに番を大切にしていたか、誰よりもよく知っていた。僕はそんな日比谷くんだから好きになったのだし、自分がそのポジションになりかわろうなんてつもりは少しもなかった。
夜中、僕は誰かが布団の中に入ってくる気配で目を覚ました。誰か、というかこの部屋には僕と日比谷くんしかいないのだから、その正体は日比谷くんしかいないのだが、その手が僕のスウェットの裾から中に差し入れられたことが信じられず、僕は呆然と彼の名前を呼んだ。
「日比谷くん…?」
日比谷くんは僕の首筋に鼻を埋め、すん、と匂いを嗅ぎながら、ヤらせろよ、と低い声で短く囁いた。その声がどうにも寂しそうで辛そうで、僕は何も言えずに僕の薄い腹をなぞる彼の手を掴んだ。日比谷くんは逆に僕の手を捕まえると、抵抗を封じるように布団に押しつけ、そのまま僕の上にのしかかってきた。月明かりが照らし出した彼の顔は笑っていたが、僕はそれが彼の泣き顔に見えた。
「本当は、今日クラブにでも行って誰かひっかけて来ようかと思ってたんだ。でも、相馬と会ったからな。お前、Ωだろう。付き合えよ」
そう言いながら、彼は僕ではない、遠くの誰かを見つめている目をしていた。
「隣に誰もいないと、眠れないんだ…」
長いまつ毛が影を落とす彼の目元には、確かに色濃く隈が浮かんでいた。日比谷くんのお誘いはとても魅力的だったし、こんなこと二度とないだろうなと思う気持ちもあった。でも彼の傷を負った心は、そのことでさらにずたずたに引き裂かれるのだという事を僕は不思議と理解していて、それだけはしてはいけないのだと悟ってしまった。
僕は捕えられていない方の手を日比谷くんの背中に回し、彼の体をぎゅっと引き寄せた。
「そんなことしなくても、一緒に寝てあげるからさ」
日比谷くんは僕の腕の中で身を硬くしていたが、しばらくしてふっと力を抜き、僕の横にゆっくりと寝そべって、僕の体をぎゅっと強く抱き込んだ。愛を失って迷子になってしまった彼が、今夜だけでもゆっくり眠れますようにと、僕は願った。
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