明日、君は僕を愛さない

山田太郎

文字の大きさ
上 下
7 / 13

2020年1月25日

しおりを挟む
 純平と英介は、あの夜からまた肌を重ねるようになった。芹に対する罪悪感は胸の中にずっと居座っていたが、純平が今まで以上に英介の求めを断る事が出来なくなったのが大きな理由の一つだった。
 2人の生活は一見すると完全に昔に戻ったようになっていた。いや、純平が素直に英介に気持ちを伝えるようになったぶん、昔より良い関係になっているようにさえ思えた。それは、もし、今のような状態で英介が芹に出会っていたとしても、英介が芹に惹かれることなどなかったのではないかと思えるほどであった。
 事故のあった日から1ヶ月が過ぎたが、英介が記憶を取り戻す兆しは全くといっていいほどなかった。何もかも順調であるように思えたが、純平が未だに芹と連絡を取り合っているという事が、一つ予定外の事態だった。




「オリジナルブレンドです」

 芹の店は木と鉄を基調にしたシックなカフェだった。カウンターの中でくるくると忙しそうに働く芹を眺めながら、純平は彼女が入れてくれたブレンドコーヒーに口をつけた。
 コーヒーにはミルクと砂糖派の純平でも、すっきりと飲みやすいコーヒーは、そのまま芹の人柄を想起させた。人一倍人に対する好き嫌いの激しい純平の懐にも、するりと入ってくる嫌味のない性格。純平のことを嫌う人は多いだろうが、芹のことを嫌いだという人は少ないだろう。それでいて自分がないわけではなく、一本筋の通った芯の強さも持っている。
 カウンターでコーヒーを飲む純平に、他の客の軽食の準備をしていた芹が、お口にあいますか、と話しかけた。
「美味しいです。正直コーヒーはよくわからないんですけど、飲みやすいし全然苦くないし」
「よかったです。以前お砂糖をたくさん入れてらっしゃったので、軽めのものがいいかなと思って」
 にこりと笑った芹は、また忙しそうに働き始めた。この時間と場所を指定してきたのは芹だったが、やはり邪魔だっただろうかと、申し訳ない気持ちになった。
 そもそも純平はもう二度と芹に会うつもりはなかったのだ。英介と芹との接点を完全に断つべく、すぐにでも引越して行方をくらますつもりだった。英介に記憶を失ったままでいて欲しい以上、今からでもその行動に出るべきだというのはわかっていた。それなのにまた、こうして芹の店なんかに来て、芹が淹れたコーヒーを飲んでいる。純平は自分がなぜこんな意味のない、むしろ害になり得る行動をとっているのか、自分でもよくわからなかった。
 純平が来てから30分ほど経つと、客足はだいぶ落ち着いて、芹にも余裕が出てきたようだった。
「すみません、こちらから呼びつけておいて、お待たせしてしまって」
「いえ、全然。美味しかったです。ごちそうさまです」
 申し訳なさそうに頭を下げる芹に、純平はとんでもないとかぶりを振った。実際待っているのは苦痛でなかったし、芹が客ににこにこと対応している姿は見ていて飽きなかった。芹は飛び抜けて美人というわけではなかったが、愛嬌のある笑顔をしていた。
 純平にとって芹は恋敵のはずだったが、性別も性格も人間的にも負けているせいか、芹を見ていても嫉妬や嫌悪の気持ちは湧いてこなかった。
「もう、1ヶ月になるんですね…」
 カウンターでグラスを磨いていた芹が、ぽつんと呟いた。唐突な話だったが、純平も何がとは聞き直さなかった。わかり切った話だからだ。
「英介さんは、元気でしょうか」
 この1ヶ月、芹は一度も英介に会いたいとは言わなかった。突然現れた友人と名乗るよくわからない男の言うことをよく聞いてくれたものだと思う。でもそれはきっと、いつまで待っても来ない連絡や、ちょくちょく見せていた英介の写真がそうさせたのだとも思う。
「元気です。まだ、記憶は取り戻していませんけど…」
 予想していたのか、芹はそれについて何も答えなかった。笑顔のまま、ただ無言でグラスを拭く手を止め、ゆっくりとその手を下ろした。
 芹の眼の下にうっすらと隈があるのがわかった。化粧でうまく隠しているが、夜あまり眠れていないのかもしれない。とたんに純平は後ろめたい気持ちになって、視線を彷徨わせた。自分が卑怯者であると自覚しながら、芹の真っ直ぐな目に晒されるのはひどく精神にこたえた。
 寝取られたものを寝取り返しただけと言えばそれまでだが、英介に恋人がいると知らなかった芹と自分とでは、罪の重さが格段に違うように感じた。芹のやつれた顔を前にして、今まで絶対に言わなかった問いがするりと口をついで出てきた。
「あいつに、会いたいですか」
 言ってすぐに後悔した。会いたいと言われたところで、会わせられるわけがない。
 芹は驚いたようにぴくりと肩を動かしたが、ゆっくりと視線を落として、また手元のグラスを磨き始めた。
「よく…わからなくなってきました。最初は、英介さんが私と別れたくて話を作ってるのかと思ったんですけど」
 だけど、時間が経つにつれ、純平の話を聞くにつれ、英介が本当に記憶を失ったのだと認めざるを得なくなった。そうしたらきっと、愛している男に「誰?」と聞かれる恐怖がむくむくと頭をもたげてきたのだろう。
「会ったら思い出してくれるかもしれないけど、思い出さないかもしれない。思い出したくないから、思い出さないのかもしれないと思うと…会ってはいけないような気がするんです」
 あくまで英介が自然に思い出すのを待ちたいという芹に、純平は思わず言葉を詰まらせた。
「本当に…英介のことが好きなんですね」
「綺麗事かもしれないけど、あの人が笑っていてくれるなら、それでいいと思うんです。もちろん、思い出して欲しいし、ぶん殴ってやりたい気持ちはありますけどね」
 最後は茶目っ気たっぷりにごつんとゲンコツを落とすジェスチャーをした芹は、にこりと笑ってそう言った。
 純平は何も言えなかった。逃げるように会計を済ませ、家路を急ぐ。正直言って芹の言葉は全く理解できなかった。好きな人が笑ってくれるだけでいいだなんて、そんなの本当に好きじゃないんじゃないかと理不尽な怒りさえ湧いてきた。
 それでも、芹の英介に対する想いが深く、思いやりに満ちたものだということはわかった。そして、英介が選んだのは芹だったのだ。
 帰ってきた純平を出迎えた英介は、純平のコートを甲斐甲斐しく脱がせながら、ふとあることに気がついたようにコートの匂いを嗅いだ。
「純平、コーヒー飲んできたんだ」
 英介には本屋に行くと言って家を出てきていた。実際に本屋にも寄ったが、芹の店に滞在した時間が長かったから、コートに匂いが移ってしまったのだろう。
「うん。知り合いがやってる店が開いてたから…」
 芹に会っていた罪悪感から、純平は英介の顔を見る事が出来なかった。だから、その時英介がどんな表情をしていたのかも、知らずにいた。




 その夜も二人は肌を重ね合った。その日の英介は何かを埋めるように激しく純平を求め、二人は情熱的に交じり合った。
 先に寝てしまった英介の寝顔を見ながら、純平は半身を起こしてぼうっと事後の余韻に浸っていた。身体は火照って熱かったが、心はどこか寒々しく、昼間見た芹の笑顔が何度も脳裏に思い出された。
 自分は今さら迷っているのだろうか。もうこんなに引き返せないところまで来ているのに。何もかも捨てても、英介を手に入れると決めたのに。
 そしてそれは上手くいっているのだ。英介は今は純平のことが好きだし、このまま芹と決別することも可能だろう。それなのに、なぜこんなに胸が痛むのだろうか。
「うーん…」
 ごそり、と隣で英介が寝返りを打った。あどけない寝顔に、純平は自分が悩んでいるのがなんとなく馬鹿らしくなって、笑みを漏らした。悩んだって、今さらどうしようもないのだ。
 はだけた布団をかけ直してやろうと覆いかぶさった時、英介が何やらむにゃむにゃと寝言を呟いているのが聞こえた。不明瞭なそれに何か良い夢でも見ているのだろうかと純平が思った時、突然はっきりと英介がその言葉を発した。

「芹…」
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

愛を求める少年へ、懸命に応える青年のお話

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:19

Heart ~比翼の鳥~

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:33

ポイズンしか使えない俺が単身魔族の国に乗り込む話

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:411pt お気に入り:8

憂鬱喫茶

ホラー / 完結 24h.ポイント:468pt お気に入り:0

傾国の王子

BL / 完結 24h.ポイント:674pt お気に入り:12

記憶をなくしたあなたへ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:781pt お気に入り:897

melt(ML)

BL / 連載中 24h.ポイント:241pt お気に入り:13

好きな人は、3人

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

処理中です...