明日、君は僕を愛さない

山田太郎

文字の大きさ
上 下
8 / 13

2020年2月3日

しおりを挟む
 あまりにも英介が思い出さないから忘れていた。いや、実はずっと考えないようにしていただけなのだろう。この関係は、英介が記憶を取り戻したら終わりなのだということを。


 英介が芹を呼んだあの次の日、全てを失うつもりだったのに、英介は変わらなかった。芹のことを思い出した様子もなく、それまでと変わらず、純平を甘やかした。
 それでも、変化は確実に起きていた。英介が純平と過ごす中で、純平でない「誰か」を見ているのだと感じることが度々あるようになった。それは本当に些細な違いだったが、態度や視線の端々に、確実に彼女の存在を感じた。
 きっかけはきっと、あの日純平が纏わせて帰った芹の淹れたコーヒーの香りだったのだろう。意味がないことと知りながら、純平は家にあったインスタントコーヒーの買い置きを全て捨てた。朝の飲み物は紅茶に変えた。テレビでコーヒーという単語が出るたびにチャンネルを変えるようになった。
 それでも、英介の変化は日々確実に、進んでいた。



「今日節分だけどさ、恵方巻作ろうよ。こんなおっきいの」
 朝からテレビを見ていた英介が、節分のニュースを見て興奮したように純平の書斎に駆け込んできた。テレビの前に連れて行かれて見せられた恵方巻は確かに太く、口の中に入るのか怪しいほどの大きさだった。
「食べれないだろ、こんなの」
「大丈夫だよ、俺の咥えてるんだし」
 思わず手が出そうになったが、すんでのところで堪え、「馬鹿っ」と毒つくだけに済ませた。確かに英介のモノは大きいが、それとこれとを比べないで欲しい。赤くなった純平に英介はからかうような笑みを浮かべていたが、それに気がついた純平に背中を叩かれ、痛い痛いと大げさに嘆く。
「恵方巻作るったって、具材がないぞ、卵とカニカマぐらいしか」
 英介を放って冷蔵庫の中を確認していた純平は、スカスカの棚を見て眉を寄せた。明日買い物に行こうと思っていたから、冷蔵庫の中はほぼ空に近かった。
「ほんとだ。野菜もキャベツと玉ねぎぐらいしかない」
 ひょいと純平の肩口から顔を出した英介は、冷蔵庫の中を見て、一緒に買い物に行こうか、と言い出した。いつもは手が空いている方が買い出しに行くので、二人で買い物に行くことはほとんどない。珍しい提案だったが、久しぶりのデートだと思えばそう悪い案ではない。純平は頷き、いそいそとコートを羽織った。
 近所のスーパーは日曜日だということもあって普段よりも人が多かった。カートを押しながら、ついでだからと足りない具材もかごの中に入れていく。今日は野菜が安く、棚を回りながら色々物色する。
「恵方巻って何か中に入れるものが決まってたっけ」
「7種類がいいとか、そんな話は聞くけど、正直なんだっていいと思うよ。好きなもの入れるのが一番」
「ふーん。方角は細かい癖に、そういうのは大雑把なんだな、節分って」
 そもそも山野家には節分に恵方巻きを食べるという文化がなかったので、太巻きに何が入っているのかもよく知らない。それに対して兄弟の多い英介の家は、節分には各々好きな太巻きを作って、全員で恵方を向いて食べるのが恒例行事だったらしい。
「俺は普通のスタンダードな太巻きが好きだったけど、妹は海鮮巻きが好きだし、弟たちはツナマヨとか、揚げ物とか好きなものいれてたな」
「そうなんだ。本当になんでも入れていいんだな」
 感心して頷く純平の前で、英介は得意そうに笑う。
「そうだ。あれ入れようよ、あれ。純平の好きな、アボカ、ド…」
 2人の間に奇妙な沈黙が落ちた。英介は忙しなく瞬きを繰り返し、自分の口から零れ落ちた言葉に首を傾げた。
「アボカド…は、純平、別に好きじゃない、よね…?」
「…そう、だな」
 純平は自分の顔が泣き出しそうに歪んでいくのを自覚していた。純平の前で食べたことも好きだと言ったこともない食べ物。それを好きだと言った人物だなんて、そんなの一人しかいない。英介にそれ以上そのことを考えさせたくなくて、純平は拗ねた振りをして英介の脛を蹴飛ばした。
「英介、俺の好きなものも覚えてないの?」
「いてっ、そんなわけないない。純平が好きなのはサーモンだよな、なんで間違えたんだろ、おっかしいな」
 首をひねる英介の手を、そんなこともあるさと引っ張って野菜の棚から引き離す。英介はそのことについてすぐに忘れたように、他の食材の前ではしゃいでいたが、純平の胸の中にはぐるぐると黒い不安が渦巻いていた。



 大量に買い込んだ食材は、マイバックひとつでは足らず、2人で一つづつ袋を持って帰り道を歩く。辺りはすっかり暗くなっていて、二人の足音だけが響いていた。
 英介はどこか上の空で、話しかけても鈍い返事が返ってくるばかりだった。純平は何度も話題を振ったが、英介の気のない生返事に、とうとう口から言葉が出なくなって黙り込んだ。英介がどこかに行ってしまいそうで、純平は思わず英介の空いている方の手を握った。
「純平…?」
 英介は驚いたように純平の方を向いた。ようやくこちらを向いた英介の瞳に、純平は泣きたい気持ちになった。
「珍しいね、純平から手を繋いでくれるなんて」
 英介は優しく微笑んで、純平の手をしっかりと握り直してくれた。付き合い始めた頃、外で手を繋ぐことを拒否したのは純平の方だった。そのうち英介も手を繋ごうとはしなくなり、二人の間にはいつも半人分くらいの微妙な隙間が空いていた。
 二人はそのまま、無言で帰り道を歩いた。言葉は交わさなかったが、先ほどまで純平を見ていなかった英介が、きちんとこちらを意識しているのが手のひらから伝わってきた。
 家の前までついて、鍵を出すために手を離した後もそれは変わらなかった。買ってきた食材を不器用な手つきで切りながら、淳平は隣で卵焼きを作っている英介に、あのさ、と話しかけた。
「14日、早めに帰れる?」
 2月の14日といえば、知らない人はいないバレンタインデーだ。英介もその意味を正しく受け取ったのだろう、にっこりと笑って頷いた。
「帰ってくるよ」
 帰れると思う、とか、帰れるように頑張る、とかではなく、帰ってくると言った英介の気持ちが嬉しかった。純平は照れくさくなって、約束だからな、と俯いて念を押した。
 買ってきた食材をほとんど切り刻んだのではないかと思うほど大量の具材を前に、二人はあーだこーだとはしゃぎながら大きな太巻きを作った。欲張っていろいろ詰め込んだので、朝テレビで見たものよりもひと回りぐらい大きな恵方巻になった。
「あご、外れそう」
「外れても、途中で口からはずしちゃ駄目だから」
「無茶言うなよな…」
 今年の恵方は西南西だった。それがまた分からなくて、二人で騒ぎながらあっちでもないこっちでもないとくるくる回り、腹を抱えて笑い合った。
 恵方巻は1本丸ごと黙って食べると願い事が叶うと言われている。英介は無病息災などとじじむさいことを言っていたが、お前の場合は交通安全だろと純平に突っ込まれると、もう去年当たったから大丈夫などと訳の分からない理屈を展開していた。
「純平は? 何をお願いするの?」
 いよいよ食べようという時にそんな質問をされて、純平は一瞬言葉に詰まった。
「…うーん、俺も無病息災かな」
「俺のことじじむさいって言えないじゃん!」
「うるさいな、あっ、マグロ落ちるぞっ!」
「えっ、早く、早く食べよう」
 齧り付いた太巻きは具材の入れすぎでお尻からボロボロと具材が落ちてしまったが、二人とも笑いを堪えながら無言で一本きちんと食べ切った。
「願い事、叶うといいね」
「そうだな」
 英介の無邪気な微笑みに、純平はその目を見ていられずに視線を外した。

 ーー叶わない方がいいんだ、本当は。英介がこれ以上記憶を取り戻しませんように、なんていう自分勝手な願い事は。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

愛を求める少年へ、懸命に応える青年のお話

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:19

Heart ~比翼の鳥~

BL / 完結 24h.ポイント:28pt お気に入り:33

ポイズンしか使えない俺が単身魔族の国に乗り込む話

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:411pt お気に入り:8

憂鬱喫茶

ホラー / 完結 24h.ポイント:468pt お気に入り:0

傾国の王子

BL / 完結 24h.ポイント:674pt お気に入り:12

記憶をなくしたあなたへ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:781pt お気に入り:897

melt(ML)

BL / 連載中 24h.ポイント:241pt お気に入り:13

好きな人は、3人

恋愛 / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:3

処理中です...