明日、君は僕を愛さない

山田太郎

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2020年2月14日

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 恵方巻に願ったのが良かったのか、英介がそれ以上記憶を取り戻す様子はなかった。それまでと同じく、時折純平以外を見ていると感じることはちょくちょくあったが、見る限りは小康状態を保っているようだった。
 純平はそれまで以上に自分の言動に気を使うようになった。家の中からコーヒーに関連するものは徹底して無くしたし、英介が好きだと言ってくれたことは積極的にするように心がけた。芹の言動を参考にし、英介が安らぎを感じられるように努力をした。
 そして、2月14日の朝がやってきた。




「今日は19時くらいに帰れると思う」
「うん。待ってる」
 笑顔で英介を送り出した純平は、汚れてもいい服に着替え、腕まくりをして大掃除を始めた。床や水回りは英介がこまめに掃除しているが、棚の上やソファのクロスなどは二人とも働いているということもあって、あまり手が回っていない。今日は金曜日なのだから本当は純平も仕事があるのだが、そこはフリーランスらしく融通を利かせ、一日を使って今晩の準備をすることにしたのだ。
 洗濯機にカーテンやクロスなどを詰め込み、夜に向けて仕込みを始める。今晩のメニューは英介が褒めてくれたグラタンと、サラダとチキンとピラフだ。そして英介がいない間に何度か練習したガトーショコラをデザートに出そうと思っている。
 まだまだ英介のように早くは作れないが、包丁の扱い方にもかなり慣れてきて、言われなければどちらが作った料理かわからなくなるほど、純平も腕を上げていた。
 下準備が終わるとちょうど洗濯機が鳴り、一つ一つ丁寧にハンガーに吊るして、拭き掃除に移る。掃除が終わったのはちょうど昼に差し掛かろうという時間帯で、軽く昼食をとると、純平は本格的に調理に取りかかり始めた。今回は品数が多いので、早い時間から作り始めないと間に合わない。冷やす時間が必要なケーキから作り始め、英介が帰ってきた時にちょうど出来上がるように調整しながら調理を進める。結局全ての準備が終わったのは19時ギリギリで、お日様のいい匂いがするようになったソファにドサリと腰掛け、純平はぐっと伸びをした。
「あー…肩凝った…」
 ずっと下を向いていたせいで、背中はガチガチだったし、立ちっぱなしで疲れていたが、全ての準備が整った食卓を見ると、やり切ったという満足感に胸が満たされた。
 英介は喜んでくれるだろうか。すごい、と目を丸くして驚いてくれるのではないだろうか。
 そんな想像をしながら、英介から連絡が来ていないかとスマホを持ち上げる。メッセージアプリに通知を知らせるバッチがついていて、開くとそれはやはり英介からの連絡だった。
『ごめん、ちょっと遅くなるかもしれない』
 純平はその文字を見てちょっと残念な気がした。せっかく熱々を食べてもらうように作ったのに。でも冷めたらまた温め直せばいいし、ちょっとだと言っているのだからそう遅くはならないだろう。
 了解、という文字を打ち込もうとした時、純平の手の中でスマホがブルブルと震えた。着信は英介からで、純平は一も二もなくその電話をとった。
「英介、」
『ごめん! 純平、今発注ミスが判明して、今日は多分帰れない!』
「な…」
 頭が真っ白になった。約束しただろっ、と喚き散らしたかったが、走りながら電話をかけているのであろう英介の息を切らした声と、背後から聞こえてくる怒号に何もいえなくなった。一瞬してカラカラになった口の中で粘つく舌を何とか動かして、言葉を紡いだ。芹ならきっと、こんな時に英介を責めたりしない。
「いい、いいから…そっちに集中しろよ、大変なんだろ」
『純平…?』
 声が震えていたのだろうか。英介が訝しげに純平の名前を呼んだが、すぐに「高遠ォ!お前何してんだ!」という怒鳴り声に意識を持っていかれたようだった。
『今行きます! すみません! 純平、ほんとにごめん! 明日、絶対に埋め合わせするから!』
 ブツッと切れた通話に、スマホを握りしめたまま、のろのろと純平はその腕を下ろした。仕方がない。仕事だし、英介のせいじゃないし、謝ってくれた。責めたってどうしようもない。頭では理解できたが、目の裏がかあっと熱くなって、喉の奥がひくひくと引きつった。涙がこぼれそうになって、純平は慌てて上を向いた。こんなことで泣いたら、今までと全然変わらない。英介の嫌がる、面倒な奴には戻りたくなかった。
 涙の衝動が引いた後に残ったのは、どうしようもない虚しさだった。すっかり冷めてしまった料理にラップをかけ、一つ一つ冷蔵庫にしまっていく。腹が空いていないわけではなかったが、2人で食べるように作った料理を1人きりで食べるような気持ちにはなれなかった。
 片付けが終わった後、ソファの隅に小さく体育座りをしてテレビを流しながら、純平は一人カップ麺を啜った。久しぶりに食べたカップ麺はいやに塩辛く、前まで美味しいと思って食べていたのが嘘のようだった。
 純平は何をする気にもなれず、夕食を食べ終わっても、ぼうっとテレビの中で芸人がよくわからないネタを披露しているのをソファの上で眺めていた。時計の音がやけにうるさく、部屋中に響き渡っているように聞こえた。




 ギイッと玄関の扉の軋む音で目が覚めた。いつの間にかソファの上で眠ってしまっていたようで、つけっぱなしにしていた暖房のせいか喉がカサカサに乾いていた。時計はとっくにてっぺんをまわり、終電ももうない時間だった。
 リビングに入ってきた英介は、純平が起きていたことに驚いたような顔をして、大股でこちらに近寄ってきた。
「ただいま、純平…ほんとに、ごめん」
 英介は責められるのを覚悟しているような顔で佇んでいたが、純平は何も言えなかった。胸の中はなんで自分を優先してくれないんだとか、今日は大事な日だったのにとか、帰ってくるって言ったくせにとか、英介を詰りたい気持ちでいっぱいだったが、それが口をついで出てくることはなかった。英介のせいではないと思う気持ちも確かにあったが、何よりそんなことを言って嫌われたくないという思いが純平の口を鈍らせた。
「ううん…仕事だろ、しょうがないよな」
 本当は全然しょうがなくなんてない。荒れ狂う胸の内を押さえ込んで、純平はへらっと笑ってみせた。
 英介は純平の顔を見て、なんだかすごく変な顔をした。ほっとしたというのでもなく、拍子抜けしたというのでもなく、どちらかというと心配しているという言葉が似合うような顔だった。きっと泣き叫んで喚き散らす純平の姿を思い浮かべていたのだろう。
 そんなことしないよ、と思いながら、純平は英介の横を抜け、キッチンに入った。流しで水を汲み、コップに入った冷水を飲むと、かさついた唇がピリピリと痺れた。
「飯はちゃんと食べたのか?」
「うん、軽く食べた」
 後を追うようにキッチンに入ってきた英介にそう聞くと、カップ麺だけど、と図らずも同じものを食べていたことがわかった。久々に食べたら喉乾いちゃって、と言いながら冷蔵庫を開けた英介は、扉を開いた姿勢のまま、動きを止めてしまった。
「飲み物、取るんじゃないの。早く閉めないと痛むだろ、食材が…」
 普段うるさく言うのは英介のくせに、と思いながら彼の背中に声をかけると、英介は結局何も取らずにバタンと勢いよく冷蔵庫の扉を閉めて純平の方を振り返った。
「ほんとにごめん!」
 気がついたら英介のつむじがずいぶん下の方に見えていた。英介が深々と頭を下げて純平に謝っているのだと、認識するまでに数秒を要した。
「純平が今日のこと楽しみにしてるって知ってたのに…めっちゃいっぱい料理作ってくれたのに、約束守れなくてごめん」
「いい、いいから…いいから、頭上げろって。謝らなくていい」
 英介が純平の作った料理に気がついて謝っているのだと気がついたが、純平は情けないほど動揺していて、そのことを喜ぶどころではなかった。こんなことを言わせるために料理を作ったわけではない。面倒くさい奴になってしまう。嫌われてしまう。
 ぐいぐいと英介の頭を上げさせようと引っ張る純平の腕に引かれて、英介はようやく顔を上げた。英介は泣きそうな顔をしていて、それが一層純平を不安にさせた。
「純平…怒ってる?」
「怒ってない、怒ってないから。気にしてないし、気にしなくていいからっ」
「なんで‼︎」
 叫ぶように言った純平の声は英介の怒鳴るような大声にかき消された。英介は泣き出しそうな顔のまま、両手で純平の肩を掴んで揺さぶった。
「怒ってよ、純平! 最近変だよ! 全然怒らないしわがままも言わないし、そのくせずっと我慢してるじゃないか‼︎ 前みたいに言ってくれよ! 言ってくれないと俺、何が辛いのかわかんないよ‼︎」

 ガツンと、殴られたような衝撃が純平を襲った。うまく呼吸ができず、引きつったような息が漏れた。クリスマスの日の英介の台詞や、芹の笑顔、嬉しそうに笑う英介の顔。この二月で見たいろいろな出来事がぐるぐると頭の中を回り、チカチカと明滅して消えていく。

「変ってなんだよ…」
 自分の声が遠くで響いているような感覚があった。耳の奥でわんわんと大きな耳鳴りが響き渡っていた。
「お前が、前の俺じゃ嫌だって言ったんだろ…っ」
 だから、怒らないようにした。癇癪だっておこさないようにしたし、わがままだって言わないようにした。料理だって覚えた。おかえりって言った。素直になろうとした。
「なのに、なんで…」
 喉がひくひくして、目の前の戸惑ったような英介の顔が大きく滲んだ。ずっと泣かないようにしていた。あの日から、英介の前では、一度も泣かなかったのに。
「どうすればいいか、わかんないよぉ…っ」
 純平はその場にずるずると座り込んで子供のように泣きじゃくった。ただ、英介のことが好きなだけなのに、英介に好きになって欲しいだけなのに、何もかもうまくいかないのが辛くてたまらなかった。
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