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Episode 3
「行ってきます。」
朝、桃子は淡々とした声でそう告げ、玄関を出た。
昨夜、涼介はまるで彼女を自分に繋ぎ止めるかのように、執拗に体を求めてきた。
あの優しかった彼はもういない。
今の彼は、桃子を逃がさないために何でもする男になっていた。
けれど、離れる勇気が持てない。
エレベーターで降りる間、桃子は自嘲気味に笑った。
冷静に考えれば、こんな関係は異常だ。
でも、涼介が自分を必要としていることに、どこかで満たされている自分もいた。
外資系企業に転職してからというもの、毎日が慌ただしく、感情を切り離して働くことが求められる。けれど、ふとした瞬間に彼のことを思い出してしまう。
あの優しかった頃の涼介を、まだ忘れられない。
大学時代、桃子は自分に自信がなかった。
鉄道会社を経営する家に生まれ、何不自由ない暮らしをしてきたが、親からは厳しく育てられ、何をするにも「榛名家の名に恥じないように」と言われ続けた。
美貌とスタイルには恵まれていたが、周囲から「お嬢様」と距離を置かれることが多く、心を許せる存在はいなかった。
そんな桃子に、正面からぶつかってきたのが涼介だった。
「もっと自信持てよ、桃子は俺が保証するくらい綺麗なんだからさ。」
彼は気取らず、まっすぐに彼女を見つめた。
香月家が石油会社を経営する一族だと知ったのは、付き合い始めてからずっと後だった。
彼にとって家柄は関係なく、桃子そのものを見てくれていると信じていた。
しかし、時折見せる独占欲が、彼の中の"歪み"を少しずつ露わにしていく。
「他の男に近づくな。桃子は俺のものなんだから。」
彼は笑いながら言った。冗談のように見えたその言葉が、彼の本質を映していると気づくのは、もっと後のことだった。
会社に着くと、桃子は一瞬だけスマホを確認した。案の定、涼介からのメッセージが届いている。
「昨日は良かった。桃子の身体は格別だ。桃子は俺だけを見ていればいい。」
一見、愛情に満ちた言葉。けれど、そこには暗い執着が絡みついているのがわかる。
このままでは、きっと壊れる。
頭ではわかっている。だけど、彼を拒絶できるほど、桃子の心は強くなかった。
その日の夜、帰宅すると、マンションの鍵が開いていた。
「涼介?」
問いかけると、リビングのソファに彼が座っていた。仕事終わりにそのまま来たのだろう、ネクタイを緩め、グラスを片手にしている。
「早かったな。」
「どうして……鍵、返してくれなかったの?」
別れ話をしたときに、彼に返してほしいと頼んだ合鍵。けれど彼は頑として手放そうとしなかった。
「返すわけないだろ?」
彼は立ち上がり、ゆっくりと桃子へ近づく。
「俺たちは終わってないんだから。何度でも言うけど、桃子は俺から逃げられないよ。」
囁く声に、背筋が凍った。
もう、普通の恋人には戻れない。
そう確信した瞬間だった。
ベッドに押し倒される直前、桃子はかすかな恐怖を感じた。
だけど、それ以上に彼の腕の中にいる安心感が、彼を拒めなくしていた。
彼の執着が増すほど、桃子もまた、彼に囚われていく。
「こんな大きな胸を他の男に見せたら、襲われちゃうだろ。」
「待って、シャワー浴びさせて」
「シャワー? 他の男と寝てきたのか?」
「違うよ。仕事で帰ってきたばかりで臭いから」
「桃子は臭くないよ」
涼介は素早く私のスーツを剥ぎ取り、下着だけにさせて見つめる。
そして、涼介が選んだ透けている、いやらしい下着を必ず着けていないと不機嫌になる。
「桃ちゃん、こんないやらしい下着で仕事してたの? ダメだろ?」
「涼介が買ってくれたから」
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「うん、浮気はもうしないで」
「それはわからないよ。桃子が他の男と話すからだろ」
「それは仕事だから」
「俺の会社に就職して。しないと浮気する」
「そんな·······」
まるで、逃げられない鳥かごの中で、羽ばたくことを許されない。
この関係に終わりがあるのかどうかさえ、もうわからなくなっていた。
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