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第一章:旅の始まりと騎士の英雄

5話:冷たい世界と、あたたかな友人たち

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 夕日なんてとっくに沈んでしまった。橋に残る熱だけが優しくて、無表情な月が俺たち三人を見下ろしていた。
「――ってことはつまり、トーヤはその女のせいでひどい目にあわされたってことかよ?」

 ネフェロが口をへの字に曲げながらそう告げた。
「ふむふむ、確かにそうだとも言えるね。だが、それだけではあまりに見ていない事実が多すぎる。話によれば、その人はトーヤにとても大事な用があるみたいだし……、それにトーヤをひどい目に合わせたのは本意ではないようだ」

 ウィレムは顎に指を添えながら、相変わらずからかうような笑みを見せる。
 二人にこれまでの経緯を伝えた。もちろん、俺が異世界から来たなんてことは省いて。話した内容はソフィアという女性のせいでこの町にやってきてしまい、死にそうな目にあったのだということ。そしてそれが単なる手違いであったこと。ソフィアは俺に何か頼みごとがあるのだということ。頼みごとを引き受けなければ帰らせてくれないのだということ。

 ネフェロは終始眉をひそめてくれた。苦いものを食べたあとのように顔にしわを作り、俺に優しい言葉を投げかけてくれた。ウィレムはというと、そんなネフェロの様子を見てにやにやと笑いながらも、俺の話を黙って聞いてくれていた。時折何かを考えるような仕草をとっているのが、少しうれしかった。

 この世界は、どうやら思ったよりも味方がいるようだ。
 俺は二人から顔を背けた。

 するとウィレムが俺の顔が見える位置まで回り込んできて、
「泣きそうじゃないか。なにがそんなにうれしいんだい?」
「――――なッ!」

 この人は。 
 ははは、と悪びれることなく笑うウィレムに、ネフェロと俺が若干身を引いた。
 なあトーヤ、とネフェロが俺に近づく。

「このひと何なんだよ。身分は高いようだが、おかしいぞ?」
「ああ。俺もそう思うよ」

 ならなんでいるんだ、とネフェロが目で訴えかけてくる。口に出さないのは、俺もよくよくかんがえればわからない。だが。
「まあ、いい人なんだ。多分」

「そ、そうか……うん、トーヤがいいなら、いいんじゃねぇか……?」
 話をもどそうか、とウィレムが両手をぽんと合わせる。話を脱線させた張本人が。もう慣れてきた。こっちが調子を合わせなければ、まともな会話なんてこの人とはできないのだろう。

「トーヤ。君はその人のことを憎く思っているんだね? 自分にひどいことをしたから、と」
「はい。あいつが俺をここに送らなければ、俺は今頃楽しい日常を過ごしていたんです。だから」
「わざとじゃないから許してくれ、と言われていたようだけど?」

「それは……、でも、俺はそんな言葉じゃ……」
「なんでもする、とまで言ってくれていたんじゃないのかい?」
「……そう、ですね」

 俺がうつむいたタイミングで、俺とウィレムの間にネフェロが割って入った。
「許せないものもあるってことっすよ。それはその人の勝手っすよね?」
 ウィレムは大きく頷いた。

「ああその通りだ。許せないなら許さない方がいい」
「え……、ならどういうことっすか。トーヤに何を言わせようとしてるんすか?」
「トーヤをひどい目に合わせたというその人についてだよ。なんというか印象が、偏っている気がしてね」
 
「印象が……?」
「本当に、トーヤはその人が憎くて許せなくなっているのか、ということさ」
 汗が一筋流れた。

 まっすぐな疑問をぶつけられ、今まで口に出せていた答えが途端に出てこなくなる。憎んでいるからです。それだけでいいはずなのに。俺は本当にソフィアを憎んでいるのだろうか。そこの見えない海を潜るように、答えがどこにあるのかわからなくなる。でも、俺をひどい目に合わせたのは間違いなくソフィアなのだ。彼女を憎まなければ、俺がただ死ぬ目に合っただけで、損をしたのは俺だけで、そんなことはひどくて、あまりに理不尽が過ぎて――。

 ネフェロは俺の肩に手を置いた。
「心を落ち着かせろ。それからでいい。どんな答えを出しても、俺はトーヤの味方だ」
「あ、ああ……。そうだな。ありがとう」

 無意識に震えていた呼吸が、ネフェロのおかげでゆっくりと静かになっていった。
 そういえば昨日も取り返しがつかなくなるまえに、ネフェロの寝言に落ち着かせてもらった。一番近くにいる存在だからだろうか、ネフェロを前にすると、怒りとか苦しみとか、嫌なものがすっと消えていく。

 そうだ。友達とはこういう存在のことを言うのだった。この世界に来てから、そんなことも忘れてしまっていた。
 どんな答えでも味方。そう思うと、不思議なことに俺が固執しているものなんて途端に色あせて見えた。

 思えばネフェロに出会えたのは、ソフィアのおかげでもあるのかもしれない。
 俺の目をじっと見つめるウィレムに、笑いかけてみた。

「俺、その人に俺と同じ目に合ってくれって、そういったんです」 
 するとウィレムは初めて表情を崩し、真剣な表情を浮かべた。
「なるほど。それで?」

「でもきっとそれって、俺だけがそんな目に合うのは理不尽で、不公平だと思ってしまった体と思うんです」
「理不尽、不公平か……それが、君の憎んでいたものの正体だと?」
「そう……だと思います」

「その人は君を不幸にした張本人じゃないのかい?」
 確かにその通りだ。その事実は変わらない。だがソフィアを恨んで、何か前に進むことがあるだろうか。あるはずがない。どれだけ探してもそんなものはない。なぜなら悪いのは不幸そのものだから。ソフィアではないから。

「罪を憎んで人を憎まず、という言葉が俺のいた国にはあります。これって多分、人を憎んでいたら、許せるものも許せなくなるって意味もあると思うんです。前に進むはずのものもすすめなくなって、立ち止まってしまうって……」

「そうか。いい言葉だ。……だけど、その答えに君は納得しているのかい? 理屈じゃない。気持ちが、だ」
 俺は首を横に振った。 

 納得は、まだ完全には出来ない。心はまだソフィアのせいにしたがっている。きっと彼女を目の前にしたら、またひどいことを言ってしまうかもしれない。でもこの答えなら、今日は無理でも明日は許せるかも知れない。明日が無理でも明後日なら。どれだけかたい氷でも、いずれは溶けて消えてしまうように、俺もきっと彼女を許せると信じて。

「できるように、頑張りたいんです」
 ウィレムは目を見開いて、初めて驚いた様子を見せた。

「……どうやら君は、私が思っているよりもよほど強い人間だったみたいだ。……正直、君が怒って帰ってしまうことも想像していた。でも君は私の話を真剣に考えてくれた。それはなかなかできることじゃない」
「そんなことありませんよ。俺は弱い。何度も死にかけてますし、足だって何度も踏み間違えそうになる。だから、俺がそう見えたのだとしたら、きっとあなたがすごいんじゃないでしょうか」

「……ふむふむ、そうか。まったく」 
 ははは、とウィレムはいつもの調子を取り戻して笑い、

「いい答えを見つけられそうで良かったよ。そうだトーヤ。私とも友達にならないか?」
 ウィレムが差しだしてきた手を、俺はしっかりと握った。

 おいおい、とネフェロが口を出してきた。
「いいのかトーヤ。この人たぶんいかれてるぞ?」

 どうやらウィレムに対して気を使おうとはもう思わなくなったようだ。おそらくウィレムはそういうことを思わせない独特の雰囲気があるのだ。
 ウィレムはネフェロの言葉を聞いて噴き出した。

「ネフェロ、君は友達思いだな。大丈夫。心配しなくとも取って食ったりはしないさ」
 眉根を寄せるネフェロに、ウィレムのにやけが大きくなった。

 俺も自然と笑みがこぼれていた。
「またソフィアに会うことがあったら、その時はちゃんと話し合ってみようと思います」

「そうするといい。きっとうまくいくさ」 
 ネフェロがそうだぞ、と続く。

「トーヤは大丈夫だ。俺もついてるしな」
「ああ、二人ともありがとう――」

 異世界なんて理不尽なことばかりだ。乞食まがいのことをしても食べ物がもらえないし、働こうとしても殴られるし、昼間のうちは水すら飲めないし。だがそんな風に世界が冷たい分、出会った人は余計にあたたかかった。心細さなんて、もう蒸発して消えていった。

 この世界は足りないものだらけで俺に与えられるものは微々たるものなのだが、やさしさだけは溢れるくらいにもらえる。

 だから、今ならこんな俺でも踏み出せる気がする。

 この残酷で美しい世界を。
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