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プロローグ

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【タケルとサアヤの運命否定論】



 出逢いは運命なんかじゃなかった――必然だ。
 石垣いしがきタケルは十四歳にして、無神論者にくわえて運命否定論者になった。
 薄紅色の桜が、深緑の葉桜へと変わる春の日に、彼女と出逢ったからだ。

 これは有象無象の中から唯一を見つけ出した物語。



 きっかけなど他愛ない。
   この街は、新幹線も止まる中継駅を中心に造られている。駅の周辺は、尊がまだランドセルを背負っていた時に都市発展工事が着工され、中学二年になったら駅の周辺だけが見事に大都会に変貌した。だが、バスで十分も走れば、まだ田園風景が見えるし、駅前には小さな天守閣が目印の城跡が遺る広大な森林公園がある。
そんな自然と近代文明が混ぜ合わされた田舎都会。尊はこの街で産まれ、今日まで育ってきた。
 四月――オリエンテーションが終わっても授業はまだない。昼に学校が終われば、部活も禁止だと言われ、バスケで一汗かこうと思っていた尊の意欲は挫かれた。

「新入部員勧誘の為に僕らのかっこいいプレイを見せるべきじゃないの……!?」

 隣を歩く同じバスケ部の真木にこの鬱憤を吐き出したら「しゃあねえよ」とミントタブレットをぼりぼりと喰いながら言われた。

「一年なんか、小学生に毛が生えたようなもんだし、まだ全員の希望調査が集まってないんだってよ」

「マッキー、それ、誰からの情報?」

「学年主任のイサオちゃん」

 仮にも教師の敬称が「ちゃん」とはいかがなものか。だが、これは非常に些末な問題だ。要するに教師との距離が近いだけ。
 友人の真木はバスケ部の副キャプテンで、成績もいいから許されるのだろう。おそらく尊が学年主任に面と向かって「イサオちゃん」などと呼べば、理科の課題が三倍に増えることはうけあいだ。
 しかも真木はバスケをしている間だけはモテる。普段は「眠い」が口癖で、一歩間違えれば不良にカテゴライズされる部類だろう。生まれつき髪も細く色素も薄い。目も茶色がはっきりと解るし、鼻梁の通った顔は並みの中学生にしてはかっこいい。身長もそろそろ百八十に届きそうだという。
 対して尊はどこをどう取っても、平々凡々で周囲に埋没する一般人だ。バスケ部所属で成長期のはずなのに、身長はまだ百七十に届くか届かないかという微妙なライン――尊を形容する言葉で最も適しているのが「微妙」という絶妙な名詞だ。生まれつき色素の薄い真木と違って、黒髪黒目で、髪型も少し伸びたスポーツ刈り。

「僕、毎日牛乳一リットル飲んでるし、毎朝ランニング三キロ走ってるのに……どこでマッキーとこんなに差が生まれたんだろ?」

「別に無理して俺に合わせなくていいじゃん。尊はチームに貴重なスリーポイントシューターなんだから、身長なんか嫌でもにょきにょき伸びる。成長痛はひでえぞお」

「そ、そうかな――っ、あ、すいませ、ん……――!!」

 真木の話につられて前方注意を怠った。昔よりもずっと人が増えたこの街は、自動的に人口密度も上がった。
 しかも運が悪いことに、ぶつかったのが刃傷沙汰で有名な近所の高校生――ピアスをじゃらじゃらと付けた「いかにも不良な」お兄さん達だったから「やべ」と思わず口にしてしまった。

 慌てて口を塞いだが、時すでに遅し……。

「ぶつかったの、お前? やべえって言ったよな。ゴメンナザイも言えねえの?」

「あー、あの、前を見ていなかったのは本当にすみませんでした。僕の不注意です。ごめんなさい」

 真木はさりげなく後退しているわ、オニイサンのグループは「こいつ、うざくね?」「まじむかつく」と口々に言い合っているわで、尊は涙目になるのを押さえられなかった。高校生達が怖い訳じゃない。拳にものを言わせれば、空手の師範をやっている親父の方がもっと怖い。
 尊が一番恐れているのは試合前の怪我だ。乱闘なんかしたら、試合に出られなくなる。それはすなわちチームメイトに迷惑をかけることに直結する。
 しかし、尊の心配をよそに高校生は尊の胸倉を掴んだ。

「お前、運動部? その制服、玉中だよな。先輩にぶつかっておいて真っ先に謝れねえって、上下関係やばいだろ。俺が先輩の流儀教えてやるよ」

「結構です。ぶつかったのは確かに僕が悪いです。それは謝りますけど、これ以上はただの暴力ですよね? 離してください」

「尊!!」

「あ? まじなんなんだよ、お前。謝るなら土下座くらいしろっての――っ!!」

 尊の胸倉を掴んでいた高校生の眉間に、赤いピンヒールが刺さっていた。

「へ?」

「い、ってえええ!!」

「おい、誰だ!!」

「彼はちゃんと謝ったでしょ? 聞こえなかったの? これ以上は、ただの理不尽な暴力ですよね」

 周囲の喧騒でもよく通る透き通った水晶のように綺麗な声だった。
 振り返ると、尊の後ろに立っていたのは、赤いヒールを履いたモデルのようにすらりとした女性だった。化粧は薄く、睫毛は長い。どこか哀愁を感じさせる眼、ダークブラウンの髪はシンプルなポニーテールのアレンジ――どう見ても、男の眉間にヒールを刺すような風体には見えない。ならば、さっきのは尊の見間違いだろうか。
 そう思った時、キチキチというカッターナイフ独特の音がした。

「ふざけんなよ、くそアマ!!」

「危ない!!」

 咄嗟に女性の前に立ちはだかった尊は、強く後ろに引かれた。

「ありがとう」

 女性はそう告げると、カッターを差し出した高校生の手に触れた――刹那、高校生は宙を舞って、背中から煉瓦レンガで舗装された道に強く叩きつけられて気絶している。
 他の連中も刃物を取り出したが、ここで誰かが「こっちです!!」と叫び、警官がわらわらと黒い波のように押し寄せてきた。

「逃げましょ。事情聴取は長いから困る」

 彼女は水晶の声で尊にそう囁くと、尊と真木を半ば引きずるようにして雑踏の中に紛れ込んだ。

「ここまで来れば大丈夫……たぶん」

「……あ、あの、ありがとう、ございました。僕らはバスケ部なので、捕まったら試合に出られない……」

 まだ工事が途中の路地裏に入り込んで、汗ひとつかいていない女性に礼を述べた。
 彼女は無言で、尊の左肩――カッターで学ランだけが切り裂かれていた――に触れる。

「私も助けてもらった。今後は気をつけて」

 女性はふわりと淡く笑うとヒールを鳴らしながら、颯爽と去って行った。尊と真木は呆然と立ち尽くす。

「……なんだったろうな、あの人」

「マッキー……」

「なんだよ? あ、加勢しなくてごめんな!!」

「いや、それは全然いい。無問題」

「尊?」

 真木は不審に思い、親友の顔を覗き込み、ぎょっとした。尊は目をキラキラと輝かせ、彼女が消えた背をどこまでも追うように頬を紅潮させていた。






 あの日以来、尊は街に出れば彼女を探している。しかし、当たり前だがあの日は偶然の産物にすぎない。しかも部活が始まり、仮入部の新入生に割く時間の方が圧倒的に多く、帰宅時間は早くても夜の八時だ。

「……やっぱり、もう逢えないのかなあ……」

 もう一度だけでもいい。名前だけでも知りたい。だが、無情にも時間だけが過ぎ、気がつけば五月に入っていた。
 夜風も湿気を帯び、緑の萌える匂いが強くなってきた。

 ――諦めの方が強くなっていたある日、奇跡は起こった。

 その日は一年生の野外オリエンテーションで、部活の顧問も昼には引率に行かねばならず、男子バスケ部は昼で練習が打ち切られた。
 しかも親も親戚の法事だとかで、駅からバスで三つ目の停留所にあるマンションの五階にある自宅も、尊一人。食事は母が冷凍した惣菜やら、レトルトカレーで済ませ、部屋でゲームをしていると、突如チャイムが鳴った。時計を確認すると、夜の十時を過ぎている。宅配便にしては遅すぎる。

「こんな時間に……誰だろう?」

 インターフォンのカメラで注意深く観察しながら「はい」と答えると、カメラには眼鏡の女性が映っている――尊は目玉をひんむいて、二度三度と確かめるが、間違いなくあの女性だ。

『夜分にすみません。隣に越して来た瀬戸内と申します』

「いいいい今、行きます!!」

 あまりの驚きに尊は、どたどたと階下に配慮しない足音で勢いよく玄関のドアを開ける。勢いがよすぎたせいで眼鏡の女性はやや後ろ反りになっていたが、尊の顔を確認すると「あ」と少しだけ目が大きく広がった。

「君、あの時の……」

「は、はい!! 僕、石垣尊と言います。あの時は本当にありがとうございました!!」

 いつかのようにきらきらと目を輝かせて、尊は女性に礼を述べた。彼女もその様子に僅かに口角が上がる。

「いえ、私を助けようとしてくれたから、こちらこそありがとう。私、瀬戸内せとうち紗綾サアヤと申します。丘の上の霧音きりね女子大学に在籍していて、バイトの関係でご挨拶が遅くなったのですが……尊くんは、今、一人?」

「はい。両親は親戚の法事に信州まで行っていまして……」

「そう。じゃあ、これ。タオルなんですけど、よかったらお渡しして下さい。また後日、ご両親にもご挨拶に参ります」

「あ、あの紗綾……さん」

 立ち去ろうとした彼女は「紗綾でいいよ。なんなら敬語も要らない」と実にフランクな人柄のようだ。

「じゃあ、僕も尊でいい。バイトしているって、いつなら話ができますか!?」

「え?」

 しまった、と尊は慌てふためく。

「え、っと……刃物持った不良にも物怖じしなかったこととか、僕はもっと紗綾ちゃんのことが知りたいなあと……思いまして……」

 尻すぼみになっていく言葉が情けなくなってきた尊は、思わず紗綾から視線を外してしまう。

「毎週水曜日なら、バイト先が定休日。大学のレポートや試験期間じゃなかったら、たぶんいつでも家に居る。なんなら連絡先、教えてくれる? 直接尋ねてくれた方がいい。イレギュラーに友達と飲み会が入る場合もあるから」

「い、いいの?」

「なにが?」

「だって、そんな簡単に個人情報教えて」

「お隣さんだもん」

 尻ポケットに入れていたスマホ同士をコツンとぶつける。これだけで情報交換ができるとは、と現代っ子であるにもかかわらず、尊はまた目を輝かせた。

「あとで連絡が遅れる時間を送る――じゃあ、また」

「う、うん!! タオルありがとう!! また!!」

 紗綾が去った後は、かすかな化粧品の残り香がした。優しくてほのかに甘い匂い――尊は「夢かな」とのろのろと部屋に戻る。すると、メッセージの着信を知らせる電子音が鳴った。

「紗綾ちゃん!!」

「授業とバイトの時間。変動することもあるから、訊いてくれると助かる」

 なんとも彼女らしい簡素なメッセージだ。それだけでも尊は嬉しく、「了解」とデフォルメされた猫のスタンプを送った。

「スタンプ可愛い。猫、好きだよ。それじゃあ、おやすみ、よい夢を」

 返ってきたメッセージに「紗綾ちゃんもお疲れ様。よい夢を」と返した。

 この日から、尊と紗綾の奇妙な友人関係が始まった――。

to be continued...
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