上 下
4 / 12

しおりを挟む
三、



練習試合を終えた夜、紗綾の提案で尊と真木は紗綾がバイトをしているカフェダイニングに夕飯を食べに来ていた。
 そのカフェダイニングは、駅から歩いて二分。少し隠れるように路地の隅っこにひっそりとある。夫婦二人と紗綾の三人でのんびりと営んでいるので、席数も少ない。しかし、内装はヨーロッパの家に訪ねてきたようなアットホームで出される料理も多彩だ。

「ここ、口コミでちょっと有名ですよね。母さんが来たがってました」

「紗綾ちゃん、制服似合うね。かっこいい」

 真木と尊はめいめい思ったことをそのまま口にする。紗綾は白いシャツに黒のロングエプロン姿だ。

「紗綾ちゃんのお友達って言うから、どんな女の子かと思ってたら彼氏を二人も連れてくるなんて大胆ねえ」

「奥さん、違います」

 わざとからかうオーナー夫妻の言葉に紗綾は冷静に返す。二人はずっとそわそわとしているので、紗綾は一番奥にある四人掛けの席に二人を案内した。

「料理のリクエストはあるかい?」

 笑ったら目尻に皺がよる気さくなオーナーが尋ねると、真木は「お任せします」と店の雰囲気を読んだが、尊は「がっつりしたお肉で!!」と目を輝かせる。

「お前なあ……」

「え、なに? お肉は駄目だった? マッキー、ベジタリアンだもんね」

「違う!!」

 正面に座った真木の強烈なデコピンを食らって、尊は涙目になっていた。オーナー夫妻と紗綾はくすくすと笑っている。

「成長期だもんなあ。じゃあ、ローストビーフと、野菜てんこ盛りの海鮮サラダと、生春巻きとかにしてあげよう」

「わあ、僕、生春巻き食べるの初めてです!! やったー!!」

「気を遣わせてすみません」

 対照的な二人が話すだけで、店が華やぐ。オーナーもご機嫌で、調理に取り掛かった。

「あの、支払いは私につけてください。二人には内緒で」

「やあね、水臭いじゃない。紗綾ちゃんが初めて友達を連れて来たんだから、気にしないで。今日は貸し切りにしちゃったから、二人と話してていいわよ」

「え、でも……」

「人見知りの紗綾ちゃんが連れてきたくなるくらい、大事なお友達でしょ? 閉店したら洗い物をバリバリ頑張ってもらうから大丈夫よ」

 にこにこと優しく笑う夫妻に深々と礼をして、紗綾はメニュー表を広げて会話をしている二人のテーブル脇に立った。

「あ、ごめんね。うるさかったかな?」

「ううん。大丈夫」

 「そっか。紗綾ちゃんは何がおすすめ?」と屈託なく尋ねる尊にメニュー表を指さす。その様子を見ていた真木が「素朴な質問なんすけど」と切り出した。

「紗綾さんって、合気道強いのにサークルには入らなかったんすね。霧女って、この辺じゃあ珍しく剣舞とか古武術とか薙刀とか……ああいう競技に力入れてる大学なのに、バイトの方をえらんだんすか?」

 真木はなかなか答えづらい質問を投げてきた。嘘がつけない紗綾は左斜め上に視線を逸らした。

「えーっと……」

「紗綾ちゃんは、うちの遠縁のお嬢さんなのよ。ほら、この辺ってちょっと治安悪いでしょ。だから警備員も兼ねてお願いしたの」

「ウエイトレスが警備員……」

「すぐ投げちゃうから、席数減らしたのよねえ」

「それで乱闘騒ぎの時に事情聴取が長いって逃げたのか。納得」

 できれば知られたくなかった。紗綾の場合は、もう手を掴まれたら条件反射で投げたり、動きを封じたりしてしまう悪癖なのだ。
 ちらりと黙っている尊の様子を見ると「お店って大変なんですね」とまったく的外れのところに感心している。真木が尊を「天然」と言っていた意味が少し解ったが、今は救われてほっとしている。
そうこうしていると、パントリーからオーナーが紗綾を呼んだ。

「はい、すみません」

「とりあえずサラダと生春巻きね」

「……通常の三倍くらいあるんですけど」

「大丈夫だよ。うちの息子も中学の時は余裕で食べてたから!!」

 あいにく姉しかいない紗綾には解りかねたが、せっかくの好意なので尊達のテーブルに運んだ。

「野菜チップスと海鮮のサラダです。生春巻きはチリソース、オリジナルレモンペッパーソース、胡麻ペーストの三種類でお楽しみください」

 仕事なので説明をしたら二人は歓声を上げて、スマホで撮影会をした後、三分もかからずに全てを平らげた。

「すっごい美味しい!! 家だったらおかわりしてる!!」

「今度、母さん連れてこようぜ。あの人、エスニック好きだし、これなら喜んで財布になってくれるわ」

 気持ちのいい食べっぷりに、オーナーも料理人魂に火が点いたのか、どんどんと紗綾に運ぶように指示してくる。当然、ローストビーフも三倍増しである。
 一組しかいないのに、意外と紗綾は忙しかった。食後のビッグパフェまで綺麗に平らげた二人は、オーナー夫妻にすっかり気に入られたらしい。
 紗綾は中学生男子の胃袋の恐ろしさを知った。

(……尊くんの家にお邪魔した日のシチューも業務用の寸胴鍋だったの、忘れてた……)

「あらあ、タケちゃんも真木くんもはバスケ部なの? 玉崎中のレギュラーなんてすごいじゃない。うちの息子も二人とも玉崎中だったの」

「じゃあ僕らの先輩なんだ!! バスケ部だったんですか?」

「残念。上の子は文系だったから吹奏楽で、下の子がサッカーよ」

「うち、吹奏楽も強いっすよね」

「たぶんその世代よ」

 地元トークに花が咲いているようなので、紗綾はキッチンに下がってオーナーの仕込みと洗い物を手伝った。
 「あちらに混ざらなくていいのかい?」と尋ねられたが「いいんです。今日はありがとうございました」と返した。

「鷹おじさん、あの二人はすごいんです。バスケもだけど、まだ中学生なのに負けることを前向きに吸収できる子たちなんです」

「挫折しなければならなかった辛さを知らないだけじゃなくて?」

「はい。真木くん――背の高い方は、いろいろと苦労をしているみたい。でも、きっと私と同じ。小さい方の尊くんに救われているんだと思います」

 寡黙な紗綾がこんなに喋るのは滅多にないことだ。オーナーは、紗綾の祖父の甥にあたる。こちらに引っ越してきた春の紗綾は、見ているのが痛々しいほどに目に生気が無かった。元々、消極的な性格だが、家の混乱に疲れ切っていたのだろう。だから、ここでバイトを頼んでみた。二つ返事で答えたバイトに、友達を連れてきたいと紗綾の口から出てきたのは本当に驚いた。

「紗綾」

「はい?」

「また、あの二人を連れておいで。俺も雅子も嬉しかったんだ。だから貸し切りにしたんだよ」

「……はい。シフトは遠慮なく増やしてくださいね」

「そのつもりだよ」

 にっかりと白い歯を見せて笑うオーナーは、昼間に見た尊のブイサインを彷彿とさせる。その笑顔を見て、夏に岐阜に帰るか、紗綾は少しだけ迷った。





 バイトから上がると、時刻は十時を過ぎていた。充実した一日だったな、と気分よく路地を曲がって駅の方面に行こうとすると、不意に腕を引かれた。咄嗟に腕を捻って振り払えたが、「みーつけた」と言った男の後ろから、ぞろぞろと十人近くの男たちがにやにやと笑って出てきた。

「……あなた、確か北高の……」

「てめえのおかげで恥をかかされたんだ。俺も兄貴に怒られちまってよお、むしゃくしゃしてんだ」

 さすがに紗綾でもこの人数はさばききれない。しかも鉄パイプまで持っている。祖父に叱られるのとは違う恐怖を、紗綾は覚えた。

「逆恨みじゃない」

「この状況でまだ強気でいられるのかよ。兄貴が気に入るのもわかるなあ」

「兄貴?」

「そ。高池組の若頭にあんたの写真を見せたら、えらく気に入ってよお。おとなしく連れてきたら、見逃してくれるって言うから探したんだぜ」

 ヤクザ絡みだったのか、と紗綾は眉をひそめる。

「付いてくるよな? もしあんたが嫌だと言ったら、そこの店に火炎瓶が入っちまうかもよ?」

「――卑怯者!! 店は関係ないじゃない!!」

 あまりに腹が立って、目頭が熱くなる。こんな感覚は知らない。自分の中にこんな激情があったことを、こんな形で知りたくはなかった。

「だから、おとなしくついてくればって言ってんだろ――!?」

 男は見るに堪えないほど顔を歪め、「連れていけ」と顎で命令した。にやにやと紗綾の両腕を二人の男が掴んだ。気持ち悪くて吐き気がする。昼間に尊に触れられた感覚とは正反対だ。

「嫌だって言ってるでしょ!! 離せ!!」

「その強気がどこまで持つかねえ」

 屈辱で涙が浮かぶ。絶対的に抗えない力の前に屈したくもないが、今の紗綾ではどうすることもできなかった。


 ――怖い。

 そう思った瞬間、男たちに向かって火花が弾ける音がした。

「な、なんだ!? 爆竹!?」

 ピアスの男が怪訝に思っていると、紗綾を捕縛していた男二人が脚に鋭い痛みを感じて呆気にとられている紗綾は解放された。

「こっち」

 聞き覚えのある声がして、紗綾はピアスの男が叫ぶのを尻目に覆面の少年と共に、店の反対側の路地へと走った。残りの男達が追いかけようとするが、面白いくらいに足がもつれて倒れていく。結果的にはドミノ倒しのように男達は倒れ、その間に警笛が鳴った。

「警察だ!! 動くな!!」

 そう少し遠くから聞こえてほっと一息吐いた。紗綾を引っ張っていた覆面も足を止める。

「……あの、尊くん、だよね?」

「当たり――っと、マッキーから電話だ。ちょっと待ってね」

 紗綾が呆けている間に、尊は「うん、大丈夫。ありがとう、マッキー。僕は紗綾ちゃんとタクシーで帰るから、うん、また明日ね。おやすみ」と会話を終わらせる。

「真木くんも……?」

「うん。僕ら、軽めのミニスタンガンを持ってるんだ。学校の許可もあってね。それよりも、大丈夫?」

 いつもの眩しい笑顔ではなく、試合前の大人びた尊が顔を覗き込んできたら、もうこらえきれなかった。ぼろぼろと涙腺が決壊して、しゃくりあげながら紗綾は泣いた。尊は灰色のパーカーからタオルハンカチを取り出して、紗綾の目に優しく当てる。

「あのね、紗綾ちゃん。さっき聞いたと思うけど、この街は申請すれば、ミニスタンガンを持たせてくれるくらいには治安の悪い街なんだ。さっき高池組って言ってたでしょ? あそこと警察が水面下で睨み合いをしている。僕の父さんは空手の師範だって言ったよね。紗綾ちゃんのお祖父さんとも共通の知り合いがいるって。あれ、警察関係のおじさんなんだ。僕もマッキーも、子供の頃から何度も逃げる方法を教えられてきた。まさか北高の一部と高池組が繋がってるとは知らなかったから、今回紗綾ちゃんを怖い目に合わせたのは僕の責任。本当にごめん……」

 紗綾はふるふると首を振った。

「ちが……私も、自分の力を過信してた……大人数相手じゃ限度がある。私もそう教えられてきたのに、すっかり忘れて……」

「紗綾ちゃんは悪くないよ。マッキーに言わせれば、僕も悪くないんだって。悪いのは北高と高池組だから、さっきの紗綾ちゃんへの脅迫は全部警察に筒抜けだから、近く高池組にも捜査が入るよ。あとは父さん達に任せて、僕らは日常に帰ろう。今夜は僕の家に泊まって。母さんから連れて帰ってきなさいってきついお達しがあったから、ね」

 紗綾はタオルハンカチを握りしめたまま、こくりと頷いた。尊はにっこりと笑うと、紗綾の手を握った。少年の手は、バスケの突き指だらけで意外にもごつごつとしている。

「尊くん」

「どうかした?」

「少しだけ、少しだけ……案山子カカシになってて」

「へ?」

 よく解らなかったが言われた通り、棒立ちになった尊に紗綾は矢も楯もたまらず抱き着いた。

「少し、だから……!!」

「僕でいいなら、好きなだけどうぞ」

 尊は紗綾の背中を軽く叩く。その優しいリズムに誘われて、また涙が溢れた――。





 その後、尊と手を繋いだままタクシーでマンションに帰り、尊の家族に温かく迎えられて風呂に入れられた。尊はダイニングでテレビを見ていた父親に何かを話している。

「紗綾ちゃん、お店の方もご連絡したから大丈夫よ。おばちゃんもね、実は元婦警なの。何事もなくて良かったわ」

「尊くんと、真木くんのおかげです……」

「尊、ぼやっとしているけど、いざという時は度胸あるでしょ!! そういう風に育てたからね!! 真木くんほど頭は回らないけど自慢の息子よ。もう少しだけバスケよりも、進路を具体的に考えてくれたら最高なんだけどね」

「尊くんは……心配要らないと思います。まだ出逢ったばかりの私の言葉は軽率かもしれませんけど、きっと時期が来たらぽろっと夢を見つけていそう」

 「ありがとう。紗綾ちゃんは尊をよく見てくれているのね」と尊の母は笑うと尊にそっくりだった。ここが尊を育んだ環境なのだと思うと、とても安心する。

「母さん、お客さんの布団って、姉ちゃんが使ってたやつでしょ。干さなくても使えるの?」

「定期的に干してるわよ。いいから、あんたはお布団引いてあげて!!」

「はーい」

 尊は両親の寝室に紗綾の布団引いてくれた。紗綾は尊の母と共に、尊の父が尊の部屋で眠ることになり、申し訳ないと同時にありがたくて仕方がない。ベッドではなく、久しぶりの敷布団は、すぐに睡魔を引き寄せてくれる。

 不思議と悪夢は見なかった。

to be continued...
しおりを挟む

処理中です...