タケルとサアヤの運命否定論

紺坂紫乃

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五、


 女性が柔らかい生き物だとは知っていた。八つも歳の離れた姉に、幼い日からもみくちゃにされていたからだ。だが、姉は父から空手を教わっていたので、思春期になってもやや筋肉質だった。
 第一、姉には苦手意識の方が勝ってしまい、『女性』のイメージには繋がらない。バスケに出逢って、真木という相棒とも呼べる親友ができたらバスケが世界の中心だ。毎日ボールと転げまわる方が楽しい。

 ――しかし、初恋の『女性』に抱き着かれては、平常心など存外脆いものだと雷に打たれたように、尊は思い知った。

 クールなところも魅力だった『お姉さん』が、泣きながら自分を頼って抱きしめてきたら、健全な十四歳の男の理性など豆腐より頼りない。
 『吊り橋効果』という言葉を学んだので、特殊な状況下で高揚感を恋愛感情だと思ってしまう現象。まさしく紗綾が尊を抱きしめる――紗綾の方が背が高いので、尊が抱きしめるというよりは、抱きしめ「られている」現状が、吊り橋効果だと言い聞かせて、紗綾をなだめるに徹した。

 甘い、柔らかい、シャンプーのほのかな匂いに誘われて――「もっと触れ合いたい」

 尊はそんな誘惑を心を無にすることで乗り切った。タクシーの中で手を繋いでいたのは、少しだけ崩れた理性から顔を出した本能と、紗綾という『女性』が好きだというささやかな意思表示。

 夜は眠れたが、朝練ではミスばかりで、先輩からはお叱りどころか心配される始末だ。察しのいい真木に「原因は?」と尊自身がもう自覚している前提で話を聞いてくれたのは本当に助かった。

「簡潔にまとめると、好きな女の子に抱きしめられるとむらむらするんだって解りました。大人の階段を上った気分です。我慢して、我慢して、手を繋ぐにとどめた僕は自分を褒めたい。でも、やっぱり好きな人よりちびなのは、プライドが許さないので、身長が一日で十センチ伸びればいいのにと思いました」

「……レポートじゃねえんだから普通に喋れ。まあ、健全な証拠。初恋なら尚更。午後からの練習までには切り替えろよ。お前ならできる」

「はい、副キャプテン」

 相棒ゆえに、真木は尊の性質をよく把握している。尊はスイッチの切り替えがうまい。複雑に思うところがあっても、コートに立てば豹変する。朝は、ショックが大きすぎたせいで、切り替わろうとあがいていただけだ。
 宣言通り、放課後の尊は見違えるほどの好プレイを見せたが、帰路では「部室でみんながグラビア雑誌で盛り上がってる理由がよく分かった」と言い出し、真木は純粋培養だった尊が汚れたような妙な気分になった。





 尊の家から逃げかえった夜、当然ながら紗綾は眠ることができなかった。もうすぐ二十歳になる女性が、たかが頬にキスされたぐらいで、と自分に言い聞かせるが、あの時の尊の表情を思い出すと、寝返りを何度もうってしまう。

(……今時、中学生でもお付き合いなんて普通なのに……私の初恋って、誰だっけ?)

 「あれ?」と思わず暗い天井に漏らす。残念ながら、初恋すら思い当たらない。二十歳を目前に控えておきながらなんたる様だと、紗綾は己に絶望し、朝を迎えてしまった。
 今朝は尊からLINEは来なかった。少しだけ気持ちが沈んで、紗綾はどこかで尊のまっすぐな思慕に期待をしていたようだ。ため息が止まらないが、今日は学校とバイトがある。紗綾はまたため息をして、メイクに取り掛かった。
 部屋から出ると、ぎょっとした。
 部屋の前の廊下に、千鶴がちょこんと座っていたのだ。

「千鶴さん……!?」

「おはよ。昨日ぶり。今からどこか行くの?」

「学校です。夕方からはバイトがあります」

「じゃあ、帰ってくるまで待ってるわ。いってら」

 何時からあそこにいたのか、訊きそびれた。エレベーターに向かおうとして振り返ると、千鶴は微動だにしない。

(……まさか夜まであのままじゃないよね? 隣が家だし、いや、でも昨日の尊くん達の様子を見ていると……)

 気になって仕方がないので、紗綾は急ぎ足で戻って「あの、ご用件は?」と尋ねてしまった。

「学校じゃないん?」

「二限からなので、少しなら時間はあります。早めに言って、先生に稽古をつけてもらおうと思って――」

「稽古? なんの?」

 しまったと紗綾は視線を逸らしてしまった。真木から『合気道のことは黙っておいた方がいい』と注意されていたのにすっかり忘れてしまった。

「瀬戸内ってさ、合気道で有名な先生が居るよね。お父ちゃんが話してくれた」

 もう逃げられない。紗綾は「はい、そうです」と諦めてすべてを認めた。所詮、この人には敵わない。真木くらいのスルースキルが欲しいと紗綾は切実に願う。

「合気道……ふうん、あたしもお父ちゃんに空手教わったから、オーストラリアでもやってんだ」

「そうなんですか」

「時間、少しならあるんでしょ。行こうぜ」

「え、どこにですか?」

「北斗の家の裏にある喫茶店。マスターがすげえ渋いんだ」

 結局、合気道の話はなぜ聴かれたのかわからないまま、紗綾は大人しく千鶴に付いていった。この人には抗えないという妙な圧力が、無気力な背中から感じる。

 千鶴はまだ「Crosed」の札が掛けられている赤い屋根の純喫茶に当たり前のように入っていく。

「マスター、久しぶりー」

「誰かと思えば、ちづじゃないか。まあ、まだ開けてない店に入ってくるのはお前くらいだなあ」

「やだなあ、褒めんなよ」

「いや、褒めてないよ。あれ、お連れさんかい? 千鶴!! 女の子じゃないか!! どこで拉致してきたんだ!!」

 壮年のマスターは、渋いというより丸かった。しかも千鶴に対してどういうイメージを持っているのか、紗綾の中での千鶴はますます謎が深まる人物になっている。

「弟の彼女。美人だろ」

「かの……!? ち、違います!!」

「えー、もういいじゃん。彼女で。あんたら、面倒くさいんだもん」

「千鶴、とりあえず拉致したんじゃないならいい。適当に座れ。お嬢さんはなにを飲む? 自慢じゃないがうちのコーヒーは美味しいぞ!?」

「……じゃあ、コーヒーをブラックでお願いします……」

 千鶴が常連なだけあって、マスターもなかなか癖の強い人物のようだ。水は千鶴が直接マスターから貰ってきてくれた。完全なる千鶴のホームだ。千鶴に礼を述べて、水を一口含むと、サイフォンで蒸されたコーヒーの香ばしい匂いが店内を包む。

「でさ、昨日も北斗に邪魔されたてさ、ぶっちゃけあたしはどうでもいいんだけど、尊はあんたのこと好きじゃん。あんたも尊が好きだろ。両想い。なんで付き合わないのかが、あたしには解らん訳よ」

 コーヒーの香りを堪能していたら、ド直球で千鶴は紗綾に質問を投げてくる。危うく水が気管に入るとこだった。紗綾が、目を逸らしていると淹れ立てのコーヒーを運んできてくれて「おいおい」と助け船を出してくれる。

「ちづよお、いくら尊といい感じだからって、彼女が困ってるじゃないか。親しき中にも礼儀あり!! 第一、あんまり興味ないんだろ?」

「牛なんかメスの匂いを嗅いだら即ヤるんだぞ!? なのに、人間の尊とこの子はもじもじして、北斗は『バスケが第一だからメンタルをいじるな』とかさあ、くっついてもバスケはできるじゃん!!」

 比較対象が牛……紗綾どころか、マスターも笑みがひきつっている。今すぐに尊と真木に助けを求めたいが、紗綾は少しだけ呆れながらも千鶴に歩み寄ろうと心掛けた。

「あの……バスケの話は置いておいて、個人的な相談をしてもいいですか?」

「内容による」

「千鶴さんは、誰かとお付き合いしたことあります……よね」

「うん。五人くらい」

「最短記録は六時間の伝説持ちだぞ、こいつは」

 マスターの補足に、紗綾は心が折れそうになる。が、なんとか踏ん張ってみせた。残念ながら、紗綾には同年代で恋愛相談ができる友人がいない。野生化した千鶴でも参考には聞いておきたいと思っている。

「お恥ずかしい話ですけど、私は、初恋も……まだです。なので、恋愛経験が皆無です。でも、尊くんといると安心します。たくさん助けてくれました。恩と恋を混同しているのかもしれません。一度、バスケしてる尊くんを見ました。すごく輝いていて、素敵でした。今はバスケが一番なら邪魔になりたくないです!! 千鶴さんは面倒にいえるかもしれませんが、見守っていてください――お願いします……!!」

 話しているうちにどんどんと感情が堰を切ってあふれ出す。こんなに話したのはいつ以来だろう。少し疲れた。だが、譲れないものが紗綾にもあったようだと自身でも驚く。

 尊が好きだから、こんなに必死なのかと、紗綾の心もすとんと腑に落ちた。

 マスターは目を丸くしている千鶴に「お前の負けだよ。口出しは禁物だぞ」とコーヒーを淹れ直してくれると言って、カウンターに戻った。
 千鶴は険しい顔をしたまま、紗綾を見つめてくる。

「あたしには、バスケ優先で恋愛が邪魔とか、やっぱり理解できん。邪魔するような奴を
選ぶからじゃんって思う。思うけど……尊と北斗の試合を見たことがないあたしは、紗綾ちゃんが感じたきらきらを知らんから……黙ってる。どうせ来週にはオーストラリアに帰るし、それまでにまた美味いものを持ってきてよ」

 もごもごと口ごもりながら、千鶴は視線を合わさずにそう言った。紗綾は「次はプリン持っていきます」と紗綾が返すと「とろとろのやつがいい。蒸したの嫌い」ときっぱりリクエストした。

 マスターが淹れ直してくれたコーヒーを堪能したら、授業が始まる時間が迫っていたので千円札を置き、二人に深々と礼をして、紗綾は走って出て行った。

「お前が論破されるなんてなあ……」

「マスター」

「なんだ? 懲りたのか?」

「あたし、かすうどん食いに帰国したのにまだ食ってない……!! どうしよう!!」

 「知らん」とマスターは冷たく言い放つ。千鶴という生物を受け入れたオーストラリアの家には称賛を送りたいマスターであった。

to be continued...
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