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雨歌恋歌
4話
しおりを挟む朝は少々早い梅雨明けだろうか、というくらいに晴れていた。しかし、それも段々と鈍色の雲に覆われ、昼休みに入る頃にはゲリラ豪雨さながら唐突に降り始めた。会社の同僚たちも口々に「傘を持ってきていないのに」やら「夜までには晴れてくれ」と真剣な表情でてるてる坊主を作り始める課長の姿まで見られた。
例に漏れず、美桜も傘を持ってきていない。折り畳みもどうだったか記憶にないなあと営業部に提出する資料のまとめをコピーし終えてから鞄を確認したが折り畳みは入っていなかった。仕方がなく持参の弁当を広げた。デスクで弁当を食べている間も雨音は激しくなる一方だった。
「……どうしよう……」
電車通勤では無いので傘が無いのは死活問題だ。かぼちゃのコロッケを口に入れた瞬間、美桜のスマートフォンが震えた。ディスプレイを確認して少し驚く。
『傘、ありますか?』
圭輔からの短いメッセージだった。素直に「今朝晴れていたので持っていません」と返信する。少しの間があり食べ終わった弁当を片付けると再びランプが光る。
『ご迷惑でなければ迎えに行きます』
安易に甘えることに躊躇った。しかし、いつかのように濡れて帰るには雨量が多すぎるのでほんの少しの予防線を張った返信をした。
『ありがとうございます。じゃあ、夜になっても止まないようだったらお願いします』
現在地のマップを添付して返信する。圭輔からは『わかりました。帰り際に必要なら呼んでください』と美桜の意思を汲んでくれた返事が返ってきた。先日触れられた頬が熱を帯びたのが解った。
「こんな駆け引きみたいなメッセージ……悪いことしちゃった」
彼の誠実さに胸が痛んだ。熱を持ったままの頬をそっと撫でた。そろそろ無駄に美化されただけの十年を捨てる頃合いなのかもしれない、と美桜は激しい雨音に耳を澄ませた。
◇
案の定、雨の勢いは止まず圭輔にメッセージを送った。てっきり徒歩で来るとばかり思っていたら、黒の軽自動車が眼の前に止まって悪戯っ子のように圭輔が顔を出した。
「お疲れ様です。傘じゃあ防ぎきれないと思って車にしました。どうぞ乗ってください」
「ありがとうございます」
助手席に乗ると車内はまだ新車の匂いがした。流れてくるBGMもしっとりしたジャズで圭輔の外見からは失礼ながら意外だった。
「お言葉に甘えてしまってすみません。助かりました」
「いえ、俺も米を買いに行ってたので、気にしないでください。後部座席にありますよ」
言われた通り、後部座席には十キロの米が二つあった。一人暮らしなのに、こんなに食べるのだろうかと美桜は袋をじっと眺めた。
「……全部俺が食う訳じゃないですよ? ちょっと寄り道しますね。一つは頼まれ物なんです。……本当は逢いたくないんすけど」
誰のところへ持って行くのか、となぜか美桜は素直に訊けなかった。ただ一つ解ったのは、その頼んだ人物が女性だろうということだった。
車で走ること二十分ほどだろうか、仕事の疲れから舟を漕いでいた美桜は圭輔の上着を掛けられて助手席に座っている。運転席に圭輔の姿は無かった。後部座席を確認すると、米袋がひとつ消えていて、圭輔と女性の声が聞こえそろりと窓から外を窺った。二人が話をしているのが運転席側だったので、シートベルトをしている美桜からは詳細が窺えなかった。
「おそい」
「うるせーな……それがわざわざ買ってきてやった人間に対する態度かよ」
「なに、あたしに文句つけんの?」
「もういいよ……お前と話してたら疲れるから帰るわ――これだから女の相手は嫌いなんだ」
圭輔が言い放った言葉に、美桜の心臓が鷲掴みになったように痛んだ。
あの女性は誰だろう。あんなに冷たい圭輔の語調は初めて耳にする。美桜の知らない圭輔がそこには居た。
美桜の知っている圭輔はなんだかんだと世話焼きで、龍の親友で、お酒が入ると子供のように無防備に饒舌になる――それが圭輔だと思っていた。すっかり失念していたが、そう言えば女性が嫌っていること……それゆえに恋愛は難しいと嘆いていたことも。
気がつけば美桜の手を濡らすものがあった。車内なのに雨漏りだろうか、などと見当違いも甚だしい。
――なんで私は……
「美桜さん、目が覚め……って、どうしたの!?」
「あ……えっと、雨漏りが」
「目から雨漏りする訳ないでしょう……。ちょっと急いで帰るから、話だけでも訊きます。タオルがないので、その上着を使って下さい。バカ姉貴の買い物も終わったのでさっさと帰るに限る……!!」
「……お姉さん、ですか?」
「不本意ながら……上から二番目の。俺が一番嫌いな奴」
顔はちゃんと見えなかったのが災いしたのだろうか。美桜はほんの少し胸を撫で下ろした。しかし、なにがそんなに悲しかったのかは美桜自身にも解らなかった。
勢いの変わらない雨のせいで車窓から見えるテールランプが乱反射して歪んで見える。過ぎ去っていくそれらを圭輔が美桜を形容した「蛍」とイメージしてしまう。
「なんで泣いてたんですか?」
運転席から冷たい車窓ばかり眺めていたら、圭輔がそう問うてきた。美桜は答えに窮する。
「ケースケくんが……解らなくなってしまって……」
なんとか紡げたのはそんな曖昧な回答だった。これでは一層圭輔は混乱するだろう。現にハンドルを握りながらも「え!? 俺、なにかしました?」としどろもどろに訊き返してくる。これでは圭輔を責めているようだと美桜は「その」と頭の中で必死に現状に相応しい言葉のピースを探した。
「わ、私の知っているケースケくんと、お姉さんに接している時のケースケくんが……別人すぎて混乱を」
「そりゃあ、人間扱いしない姉貴と好きな女じゃあ対応が違うでしょう」
「え……?」
「え……あ、あの……!!」
思わず急ブレーキをかけそうになった圭輔は「しまった」とばかりに滑った口を片手で塞いだ。顔から湯気が出そうとはこのことだ。美桜の視線を感じるのに、とてもじゃないが助手席側には顔は向けられそうにない。
なんとか止まった信号でハンドルに額をぶつけた。今すぐ誰か助けてくれるなら藁でも掴みたいところだ。無様すぎて、とてもじゃないがやはり龍の兄貴には勝てそうにないと痛感する。そうこうしていると青信号になってしまい、顔を上げざるを得なかった。
「……どうも胃袋掴まれたみたいで」
「はあ」
「すみません。もうすぐ家なので仕切り直しさせてください……これじゃあ、かっこわるすぎる」
「はい」
家まではあと五分ほどだったが、圭輔にはこの五分がじれったくて仕方がなかった。二人の間に会話も無い。暗がりでよく解らなかったが、心なしか美桜も顔が赤く見えたのは外からの灯りのせいだろうか。
マンションの隣にある三台程度が止められる駐車場に車を停めた。そこまでは良かった。仕切り直しをと言ったものの、なんと切り出したものかをまったく考えていなかった圭輔はまたハンドルに額を当てたまま動かない。頭の中は生涯でこれほど使ったことがない勢いで言葉と感情が駆け巡っている。
「……私も、ケースケくんとの時間が心地よいみたいです」
先陣を切ったのは美桜だった。圭輔はがばりと頭を上げて、やっと美桜と顔を合わせられた。
「え、っと……龍の兄貴は? 十年も片想いだったんでしょ?」
「はい、十年なんです。だから思い出に昇華させるのにすごく時間がかかると思うんです。私は諦め悪いというか、未練がましいので……そんな私でもケースケくんは望んでくれますか?」
初めてちゃんと対峙した美桜はいつもの眠そうな目ではなかった。車内が暗くても白い彼女の白い顔とすらりとした首ははっきりと見て取れる。むしろ暗がりにこそ映えるのではないかとも思った。
「『先輩』のすごさは龍から山ほど聞きましたよ……とても俺みたいな年下のガキが勝てるような男とは思えません。ええっと、まだるっこしいな!! なにが言いたいかと言うと、俺は女性が苦手ですけど、美桜さんだけは一緒に過ごしていても苦痛じゃないんです。むしろ俺以外の男の隣に立たれると腹が立ったくらいには……惚れてます」
確かに圭輔は先輩とは対極に位置する人間だ。兄弟と婚約者を抱えて、なお一家の長として毅然と、しかしどこかまだ余裕を見せる先輩とは異なる。そんな男に十年間見向きもされない時間がある種心地よかったのは何を考えているか解らないと揶揄される美桜でも「恋をしている」という自身の情緒面での保険だったとも言える。純粋な恋からただの保険という趣着に変質してしまったからには、このぬるま湯からの脱却の時なのだろうか。
「……仕切り直してもかっこわるいですね」
「そうですね、でも」
美桜は圭輔の肩に額を預ける。汗ではなく、洗濯洗剤の匂いがした。
「私には確かに響きました」
微妙な温度が心地よくて、また眠ってしまいそうだが、圭輔だけはブリキの人形のようにぎこちない動きで手を動かしている。
「え、えっと美桜さん……?」
「不束者ですが、よろしくお願いします」
「あ、はい。こ、こちらこそ」とカタコトで話す圭輔が可笑しくて美桜はくふっと笑う。声を上げて笑うのではなく、そんな噛み殺しているのか、含みのある笑い方も実に彼女らしいと圭輔は思った。車内で泣いている時も豪雨の外に反して、しとしとと「雨漏りが」などと訳の分からない言い訳をする姿も、美桜にはよく似合う。
「ケースケくん」
「なに?」
「私、蛍を見た事が無いの。――今年、来年でも良い。ケースケくんと並んで見たいなあ」
「喜んで。俺のとっておきの場所があるから、そこで二人で見よう」
繋がれた手は大きく熱い。圭輔の肩に頭を置いたまま二人は車内からなかなか出ようとしなかった。
「雨、止まないね」
「ん」
会話も最低限。車内のBGMだったジャズはいつのまにか雨を称えるバラードに代わっていた。
◇
蒸し暑い八月。
二人で纏まって取れた盆休みに圭輔の故郷を訪れた。
「そこ、石段があるから気を付けて」
圭輔に手を引かれて、スニーカーを履いた美桜は古びた社とお稲荷さんだけが残った水田の淵に立った。
圭輔が黙るように、と人差し指を立てて唇に当てる。その指で水田の下を指すと、黄緑色の小さな明かりがふよふよと不規則に空を漂う。
「……綺麗」
美桜が触るつもりもないのに両手を差し出すと、一つ消えてはまた一つと蛍はとめどなく自由に空を泳いでいた。
「この不規則な飛び方と儚いところ、やっぱり美桜に似てる」
「そうかな」
「人間はもっと強かだけど」
ここは都会の物よりもずっと濃厚な緑が萌える匂いがする。
「あと、何度蛍が見られるかな」
「十回見たら結婚しようか」
「……そんなに待てないかも」
圭輔の提案に美桜はそんな答えを返してきた。彼女はまたくふっと笑う。敵わないなあ、と圭輔は頭を美桜の肩に置いた。
翌年の秋、美桜の親友は真っ白なドレス着た。
「おめでとう」
美桜が二人にそう告げると、二人は声を揃えて「春には美桜にそれを言わないとね」とブーケトスは無しで、ブーケを美桜に渡してくれた。
end...
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