千年雪語り

紺坂紫乃

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【千年雪語り】


 肌を刺すような清廉な空気。
 舞い落ちる小さな冷たい結晶。
 
 思い出すのは、あの、冷たくも優しかった日々のこと。


「姉さん!」

 鈍色の重たい空から落ちてくる、雪とも霙とも取れる結晶に手を伸ばした時のことだった。
 後ろから、怒りと呆れを含ませた声が聞こえてくる。

宋助そうすけ

「もう、また上着も着ないで外に出て……風邪ひくよ」

 そう言って、ふわりと白いダウンジャケットが掛けられる。赤くなった鼻頭から、ツンとした痛みを感じた。

「宋、雪だ」

「うん。ストーブを出しておいて正解だったね。だから、中に入ろう? ああ、ほら……手もこんなに冷たくなってる。今日はもうお客さんも少ないだろうし、ゆっくりしようよ」

「そうだな。なあ、お前は今、幸せ、か?」

 引かれる手に、じんわりと熱が移って少し痒みを覚えた。
 不意の質問に、きょとりと宋助は目を丸くして「うん」と晴れやかに笑う。

「そうか」

 この屈託のない笑顔にどれほど救われたことだろう。
 きっと、弟は知らない。

 否、知らなくて良いのだ。
 
 宋助に手を引かれるまま、由貴は二人で営む小さなカフェのスタッフルームに入る。
カフェの中は白い漆喰の壁とパイン材の黄色が基調の明るい造りだ。時折、顔を出す両親がやっていた純喫茶を改装して、この北欧の家庭を模した物にしたが、やはり正解だった、と由貴は思う。
 スタッフルームも同じように、比較的広めに作ったが、これも正解だった。今日のような客が少ない日であっても、のんびりと羽根を伸ばせるし、なによりも、バリスタである由貴の宝でもある機器や資料の類が余裕を持っておける利点は大きい。
 弟に差し出されたブランケットにくるまって、ストーブの前でかじかんだ手をこすり合わせる。
 すると、ドアのカウベルが軽快に鳴った。

「……入ったところなのに……」

「そういう事は言わないの。姉さんは此処にいて。僕が出るから」

 そう告げて、宋助は颯爽と出ていく。我が弟ながら、実にフットワークが軽い。弟の厚意に甘えて、相変わらずストーブに手を翳していると、宋助がすぐに戻ってきた。

「姉さん、瞬さんだった」

「よお、儲かりまっかー?」

「それ、古い」

 幼馴染で、上の階の住人である瞬だった。

「瞬さん、何飲む?」

「任せるわ。あ、当たり前やけど、ホットな」

「宋、ホットに氷を満タン」

「な、阿呆! 殺す気か!!」

 由貴と瞬の遣り取りをくすくすと笑いながら、宋助はキッチンに消えていった。

「お前は俺になんか恨みでもあるんか」

「別に何も無いよ」

「……ほんま、お前と宋は双子なんか疑わしいわ」

「そんなことより、今日はどうしたの?」

「や……雪が降ってきたから、な……」

「ああ、それで」

 短い会話で終わってしまった。それでも、由貴には瞬の言わんとしていることが知れる。

 弟には話していない事。
 これは由貴と瞬だけが共有している事だった。


 ――前世の記憶。
 どこの三文オペラだと思うが、事実、由貴には自分と同じ顔をした女性の記憶がある。可笑しなことに、その記憶の中には、瞬と宋助も出てくる。
 否、二人と同じ顔をした男が出てくると言った方が正しい。
 そして、その記憶の中、ある雪の日に瞬らしき男とは出逢ったのだ。

「行ったぞー!! 追い込め!!」

「ちっ!」
 
 寒い。
 女は追われていた。

 胸には後生大事に布に包まれた“何か”を抱えて屋根の上を飛び回る。
 着地する度に、踏の中の爪先が痛んだ。
 雪が霙に変わって、視界も最悪だった。
 このままでは捕まるのも時間の問題だ。
 
「――疾!」

 仕方なく、女は風を呼んだ。
 突風が逆巻いて、雪が弾け飛ぶ。
 そして小さな竜巻を生んで、女は消えた。


 なんとか小さな洞穴に入り、かじかむ手で枯れ葉と小枝を集めた物に火打石で焚き火を作る。 ぱちぱちと木の中の空気が爆ぜる音に、漸く一息がつけた。

「ごめんな、寒かっただろ?」

 そう言って、女は胸に抱いていた布を解いた。
 中から現れたのは、宋助と同じ顔の少年の首だった。丸い頭で、綺麗に切り揃えられた髪は、外を覆う雪のような白である。彼の双眸が固く閉ざされて、女を映してくれないことがひどく哀しい。
 女はとても愛おしそうに少年の首を抱いて、はらはらと涙を零した。洞穴に女の啜り泣く声だけが響いていた。
女が泣くと由貴の眼からも、涙が溢れてくる。胸が締め付けられるように痛んだ。だから、あの少年は女のとても大切な存在であることは手に取る様にわかった。
 洞穴から見える外の世界は、真っ白に覆い隠されていた。


 それから、少しだけ眠っていたようだ。昨晩の逃避行が災いして、どっと疲れが出ていた。だが、女の耳は微かに聴こえる人の声を拾い、野生動物さながらに跳ね起きた。

「おい、ほんまに見たんやろうな?」

「本当だってば! 昨日、ここから明かりが漏れてたの!」

 若い男と女の声。

 女は急いで少年の首を抱き寄せて、臨戦態勢に入る。
 追手なら――殺す。
 女は感覚を限界まで研ぎ澄ませる。
 ひょっこりと顔を出したのは、瞬と同じ顔の男だ。

「お、ほんまにおった。姉ちゃん、何処から来たんや? 此処は山賊が出るよって、危ないで」

「……来るな……!」

 女が唸るように、呟く。

「ほら、左門の顔が怖いから怯えてるじゃん。あ、大丈夫だよ。出ておいでよ、此処は本当に危ないからさ――あ、私は蓮莉れんり――山賊じゃないから安心して。ね?」

 蓮莉は十五くらいだろうか。底抜けに明るい笑顔で、威嚇してくる女を宥めようと笑顔を作る。中に踏み込もうとした左門を止めて、女の警戒が解けるのを根気強く待っていた。
 二人の吐く息は白い。外にはまだ雪がちらついていることが、査問と蓮莉の背後に見えた。

 その後はどれくらいの時間が過ぎただろうか。
 一向に出てくる気配のない女を待って、蓮莉は洞穴の入り口から動こうとしなかった。そんな蓮莉を置いて、左門は何処かに消え、蓮莉は着物を手繰りよせて、一人で中にいる女に話しかけ続けた。

「……風邪を、ひく……」
 
 先に根負けしたのは、女の方だった。細心の注意を払いながら、蓮莉に己の上掛けを掛けてやると、蓮莉はこれ以上無い程に笑って礼を述べた。
 その笑顔が、どことなく宋助と重なる。

「ありがとう。……貴女、綺麗な髪だね。雪みたいに真っ白だぁ……!」

 蓮莉の眩い笑顔に、目頭が熱くなった。

「……お前、知らないのか? この、髪のこと……」

「知ってるよ。“風魔”って一族の証拠なんでしょ?」

 蓮莉の言葉に、女は身を固くする。

「知っているなら、どうして……」

「『どうして殺さないのか?』って?」

 どこまでも明瞭な蓮莉の心が読めない。
 こんな人間を、女は知らないからだ。
 人間は総じて、風魔である己を――弟を迫害してきた。
 
 その結果があれだ。
 弟を守りきれなかった。

「風魔のことは耳に胼胝たこができるくらいには、うるさく言われてる。でも、貴女はさっき私に上着をくれたじゃない。そんな人が私を攻撃する? しないでしょ。だから、信じてみても良いんじゃないかなーって、それだけ」

 信じた訳ではない。それでも、女は蓮莉の邪気のない話し方が心地よかった。

「……空海、だ」

「え?」

「私の、名前」

「くうかい、空海、ね! ありがとう!」

 ただ名を教えただけで、蓮莉はまた破顔する。なぜ礼を述べられたのかは解らなかった。

「困った時にでも、呼べ。風が蓮莉の声を運んできてくれる。だから、どこに居ても駆けつけると約束する。……じゃあな」

「え、ちょっと待って! 空海!」

 空海はそれだけを告げると、竜巻を起こして、雪雲を散らし、自らもその風に乗って去って行った。
 彼女の去った後には、微睡みを呼ぶような陽光が降り注いできた。
 
 その数か月後、蓮莉からのか細い声が空海の元に運ばれてきた。
 空海が急いで駆け付けると、腹から血を流して息も絶え絶えな蓮莉の姿がそこにはあった。

「何が、あった……?!」

 蓮莉の寝台から少し離れたところに立っていた、あの左門という男の胸倉を掴んで、空海は詰問する。
 寝台には、空海が来た事すら目に入らず、横たわる彼女を懸命に励まし続ける若い男が居た。

「山賊に襲われたんや。あいつ……恋人を庇って刺されて、急いで医者を呼びに行ったんやけど、此処の医者はもう手だてがない言うて帰って行きよった……くそっ!」
 
 唾棄するかのように、そう言い捨てて、左門は苦悶の表情を浮かべる。

 ああ――そういうことか。

 この時、空海はすべてを悟った。
 この数か月、己も何度も弟の後を追おうとした。
 しかし、どうしてもできなかった。
 死の恐怖からではない。 蓮莉が呼ぶまでは、と思ったからだ。

 たった一度だけ逢った少女――空海を迫害しなかったたった一人の――。
 
 理由など、それだけで充分だった。
 空海は、左門に「大丈夫だ」とほんのりと笑った。
 そして、蓮莉の手を取っていた男に少しだけ間を空けてもらうと、横たわる蓮莉の額に手を当てた。

「おまえ――風魔!?」

「……ふう、ま? 空海……?」

 吃驚する男を尻目に、空海は応える。

「ああ、約束したろ? お前が呼ぶから来たよ、蓮莉。大丈夫……もう、苦しくない」
 
 静かな、胸が痛みだすほどの声音だった。
 こんな優しい声で、人間と己が話せることが空海には不思議でならない。

 きっと、蓮莉だから。

「うん。本当だ……苦しく、ない、ね」

 その声を聞いたのが、最期だった。

 その後のことは、空海――もとい、由貴は覚えていない。
 
 だが、こんなに心地いいのかと思う程に、心は安らかだった。


「もう時代も、何も覚えていないんだ。時効だろう?」

「せやけど……俺には大事なんや」

「ふうん」

 あの後の事は瞬と邂逅した時に聞いた。
 瀕死だったはずの蓮莉は、嘘のように傷が消えて、眠る様に死んだ空海の遺体に縋って、彼女は泣いていたという。
 今生ではまだ蓮莉には逢っていない。
 
 由貴は、早く逢いたいと思う。
 瞬は逢わなくていいと言う。
 
 何度、問い質しても、瞬はそれにだけは答えてはくれなかった。

「お待たせ。何の話?」

「昔話」

 湯気が立つロイヤルミルクティーを瞬の前に置き、由貴には淹れなおしたコーヒーを持ってきてくれた宋助に短く答える。

「あの、よくわからないけど懐かしいって話?」

「そう」

「お前はほんまに覚えてへんのやな」

 ロイヤルミルクティーに息を吹きかけながら、瞬は宋助に問う。

「だって、その話は僕の死後の話でしょ? そりゃ、覚えてなくて当然じゃない」

 苦笑しながら、宋助は黒猫が描かれた愛用のマグに口を付ける。漂ってくる香りが同じだから、きっと中身は由貴と同じコーヒーだろう。

それに少しだけ嬉しくなって、由貴はコーヒーを啜った。




 三人がスタッフルームで近況だの、近所に新しくできた店が美味しかっただのと、他愛もない話に花を咲かせていると、突如内線のメロディが鳴り始めた。

「はい」

 一番近くにいた由貴が受話機を取ると、宋助は溜息をつく。

「おじさんとおばさんか?」

「うん。たぶん、姉さんの表情から行くと買い物の催促だろうね」

 宋助の予想通り、食材の買い出しの電話だったらしい。由貴はうんざりとした顔で電話を切った。

「どうする? 外、雪が強くなってきているから、危ないよ」

「うーん……でも、行かなきゃ後で煩いからなぁ。牛乳と卵って、此処から使っちゃ駄目なの?」
 
 面倒くさいことがありありと伝わってくる由貴の提案に、宋助が顔を顰めた。

「駄目だよ。こっちも昨日仕入れたばかりだし、基本的に下と上は関与しない約束でしょ」

「だよねー……」

 どうしたものか、と二人が困り果てた時に、なぜか瞬だけがとても活き活きとした顔で提案を持ち出した。

「しゃあないな。それなら、俺が車出したるわ。どっちが行く?」

「わあ、ありがとう。瞬さん! 助かるよ」

「じゃ、お言葉に甘えて。私が行くよ。お客さんが来たら、宋じゃないと困るでしょ?」

「わかった。じゃあ、姉さんもお願いね。二人とも、気を付けて行くんだよ」

 瞬の提案のまま、由貴は着ていたダウンジャケットとスタッフルームに置いてあった赤いマフラーに顔を埋めて、瞬の車が置いてある、マンションの隣の駐車場に歩いていった。
 案の定、フロントガラスには雪が積もっていたので、持ってきたやかんからお湯をかけて溶かしていく。タイヤにチェーンを付けている間、由貴もおざなり程度に手伝う。

「父さんに話して、駐車場に屋根を付けられないか相談しようかな」

 そして漸く中に入り、エンジンを回して、エアコンから温風が出てくるまで、震えながら由貴は呟いた。

「いや、いらんやろ。この辺はあんまり雪が降らへんし、今日のはイレギュラーやん」

「でも、洗車の手間が少しは省けるでしょ? せっかく生活費を切り詰めて買ったんだから、大事にしなよ」

 この軽自動車には、由貴と宋助も購入に一枚かんでいるので、何かと思い入れがある。二人よりも二つ年上の瞬が大学在籍中に免許を取り、生活費を切り詰める為、食事を由貴達の家で済ませることで、やっと買った物なので、由貴は何かとこの車に乗りたがる。
 いつもは宋助にべったりの由貴とのドライブに瞬は少しだけ気分が良い。

「そう言えば、年末年始はどうするの? また三箇日だけの帰省?」

「せやなー。帰ったら、姉貴らがうるさいし、何かとパシらされるから……」

瞬には姉が三人いる。以前は由貴達も関西方面に住んでいたのだが、母の実家の都合であの喫茶店を次ぐことになり、この街に引っ越してきたのだ。
 だがその後、すぐになぜか二人の後を追いかけてくるように、こちらの高校を受験した瞬があのカフェのあるマンションで下宿を始めた。由貴と宋助はこれを姉から逃げてきたんだな、と察している。

「いつも思うけど、瞬の実家でのヒエラルキーって最底辺だよね……。弟がいる友達に話を聞いたことあるけど、瞬みたいに奴隷にはされてなかったよ。なんでだろ……お姉さん達、私や宋助には優しいのに」

「あいつらは妖怪や。騙されんな。人にはええ顔しときながら、俺には人権なんかあらへん」

 どうやら瞬の姉に対するトラウマは相当に根深いらしい。その証拠に、瞬はあまり実家に帰りたがらないし、就職も即決でこちらに決めてしまった。「あとはこっちで家庭を持ったら、完璧や」と言うのが口癖である。

「なら、宋助が移動しない限りは瞬との関係は嫌でも続いていく訳か」

「お前……宋助の移動にも付いていく気かい!! それより、自分が他の場所に嫁入りする、って考えは無いんか」

「ああ、なるほど」

 その考えは無かった。
 はた、と虚を突かれたように由貴は空を見上げた。ちょうど、信号で車が止まり、ハンドルに頭を凭せ掛けて、瞬が目いっぱいの溜息を吐いた。

「なによ」

「あのなぁ……いくら昔の記憶がアレやったからとは言え、お前の宋助に対する執着心はちょっと異常やで。少しは弟離れしたらどうや?」

「やだ。離れないために、専門学校に通って、あのカフェを継いだんだから……瞬も知ってるでしょ」

 このまま詰め寄られると厄介だな、などと由貴が思っている時――姉から敢えて離れた弟と、弟に執着する姉。
瞬と由貴はあらゆる点で対照的だった。

 結局その気まずい空気のまま、いつも利用している会員制の大型スーパーで買い物を済ませ、帰路に着いた。

「なあ、宋助から離れられへんのは解った。けど、いつまでも子供のままではおられへんやろ」

「……わかってる」

 なぜだろう。
 今日の瞬は、随分と意地が悪い。長年、由貴が見ない振りをしてきた部分に触れてくる。
 居心地の悪さを感じた由貴は、車がカフェの前に止まるなり、さっさと降りようとした。

「ありがと」

「ちょい待ち」

 由貴の考えが読まれていたのか、右腕を瞬に捕られる。

「……なに? さっきの話の続きなら勘弁してよ」

「ちゃうわ。……俺と、その、付き合わへんか?」

「は?」

 あまりに突飛な告白に由貴の表情が固まる。
 いつもの軽い冗談だと一蹴したいのに、瞬が目を逸らさず、あまりにも真摯な表情を見せるものだから、由貴の中には徐々に困惑が生まれ、渦を巻く。

「か、考えさせて」
 
 なんとか乾いた口で、それだけを伝えた。

「わかった。一週間、待つから」

 そう言った瞬の顔は見られなかった。
 いったい、どんな顔をしていたのだろうか。
 この時、俯いてしまったことに、由貴は少しだけ後悔した。
 カフェに戻ると店内には二組の客が居た。若い子連れの夫婦と、いつもヘッドフォンをしている常連の高校生だ。
 カウベルの音に反応して、出てきた宋助に消えそうな声で「ただいま」と言うと、怪訝な顔をしながらも宋助が「おかえり」と笑う。

「耳、冷たいね」

 温かい手が由貴の冷えた耳をすっぽりと覆う。飛びついて、先ほどのことを話したいが、手に持った荷物が先だ。名残惜しくも、由貴はスタッフルームから二階の家に続く階段を上って行った。

「買い出し、ありがとう。さて、なにがあったの? 瞬さん」

 後から入ってきた瞬に、にっこりと笑って宋助が詰め寄る。


 部屋に入ってくるなり、頼まれた物を収納し終えると、由貴は幽鬼のように半ば千鳥足で自室に籠ってしまった。母はこれに首を傾げ、早めに店を閉めて上がってきた宋助に事情を話す。

「大丈夫。僕が訊いてくるよ」

「頼むわー。夕飯は出てくるように伝えて頂戴」

 スタッフルームから直結しているダイニングキッチンには、夕飯の支度に忙しなく動く母の姿があった。父は喫茶店を引退してからは、このマンションの管理人なので、町内会の会合で出かけているらしい。

「姉さん、入るよ」

 ドアをノックして返事を待たずに入ると、部屋の一番奥に配置されているベッドの上に白い塊がもぞりと動いた。
不貞腐れた時の由貴の癖である。もう成人して、いい歳だというのに、子供の頃から変わらない姉の姿に、宋助は笑みを禁じ得なかった。

「聞いたよ。瞬さんに告白されたんでしょ? どうして逃げるの?」

 部屋の中は小ざっぱりとしていて、エアコン稼働音だけが響いていた。女の子の部屋だというのに、由貴はぬいぐるみや衣類で溢れた部屋を嫌う。部屋を飾るのは、最低限のアクセサリーとバリスタ関連の本が並ぶ本棚くらいである。

「そりゃ、逃げるだろ。瞬のこと……そんな風に見た事、無い」

 布団の隙間から、声だけが漏れる。焦れったくなって、宋助は布団を無理やり剥ぎ取った。中からは驚いた表情の由貴が出てきた。

「あ、こら! 上着、着たまま寝てたの!?」

 宋助に指摘されて、渋々、由貴はダウンを脱いでクローゼットに直した。そのまま、放ってしまいたかったが、また弟に怒られることが目に見えていたからだ。

「僕からしたら、やっとか、って感じだよ。瞬さんが姉さんの事が好きなのなんて、昔から見ていたら解らない方がどうかしてる……」

「……好き、とは言われて、ない」

「ああ、だから付き合うのに迷ってるの? それとも僕のことと混同しているのかな?」

「両方、かな。それより、いつから宋は知ってたの?」

「え、瞬さんがこのマンションに引っ越してきた時から」

「……何年前だよ」

 衝撃の事実に由貴は頭を抱えた。
 過去、学生時代にお付き合いらしきことはしたことはある。だが、誰もが彼氏よりも弟を優先する由貴から自然と離れていった。思い起こせば、瞬のように真正面から宋助への依存を指摘してくる男はいなかった。

「とりあえず、一週間は猶予があるんでしょ。その間にゆっくり考えてみなよ」

「宋は、何も思わないのか?」

「僕? 僕は……そうだな、瞬さん以外の人だったら警戒心を持つように忠告したかもしれないね」

 宋助の言葉に、由貴の頭はますます混乱を極めた。
 宋助は、瞬なら認めるということだろうか。
 心の何処かで、宋助から制止が入ることを期待していたのかもしれない。
 由貴は、生まれて初めて、弟との距離を感じた。


 当然ながら、由貴達の事情など知らない母から夕飯のおかずだったロールキャベツを瞬の家まで持っていくように命令された。

「僕が行くよ」

「なに言ってるの。カフェの片づけをサボったんだから、由貴が行きなさい」

「えー……」

「え、じゃない。早く行きなさい。聞けば、母さんが頼んだ買い出しに、瞬くんが車を出してくれたっていうじゃない。その御礼も兼ねて、あんたがいってらっしゃい!」

 殆ど、母に追い出されるようにして、由貴はまたタッパーとダウンジャケットと共に廊下に出された。
 仕方なく、廊下をとぼとぼと歩いて、階段を上がって自宅と同じ扉を前に、深呼吸をしてからインターホンを押した。

『へい』

「夕飯の宅配です」

 意外と平常心でいつも通りのテンションで受け答えができた自分を内心で由貴は褒める。
 由貴の声と察したら、部屋の中からは慌ただしい足音が聞こえ、息を切らしたスウェット姿の瞬が出てきた。

「これ、母さんから。車を出してくれた御礼」

「……お前、なんでいつもと変わらんのや!!」

「うるさいな。これでも一応、緊張はしてる」

 なんとも形容しがたい空気が二人の間に流れた。
 視線を逸らしながらも、先に口を開いたのは瞬だ。

「まあ、その、おばさんにはまた礼を言いに行くわ」

「うん」

「じゃあ」

「あ、瞬、待って」

 居心地が悪いから、早く中に消えようとした瞬の心中など、別に幼馴染でなくとも解る。だが、由貴には疑問があった。
 それを明白にして、帰るはずだったのに、どうしてこうなったのだろうか。

「宋から聞いた。此処に引っ越してきた時から、す、好きでいてくれた、って。……なんで、今、なの? 幼馴染のままじゃいけなかったの?」

 この疑問を悶々と抱えたまま、一週間を過ごしたくは無かった。ただ、それだけだ。

「冷えるから、とりあえず入れ」

 相変わらず、瞬は視線を合わせてはくれない。その仕草が気に入らなかったけれど、由貴は促されるままに部屋に入って行った。
 瞬の部屋は、当たり前だが瞬の匂いがする。
 きちんと整頓されている宋助の部屋よりも僅かに服が散乱していたり、キッチンに洗い物が溜まっていたりと生活感をとても感じる。男の一人暮らしの部屋など、瞬以外に入ったことはないが、居心地が悪いと感じたことは無い。むしろ、今日のように何かを意識して入ったことが無かった。
 それだけ三人の距離は近かったはずである。だが、たった一日で様相など一変してしまうのだと、由貴は痛感して、部屋の真ん中にある炬燵に入った。
すると、対面にやはり不貞腐れた様子の瞬が座る。

「なんか、飲むか?」

「良い。あんまり長居すると母さんにまた怒られるから、さっきのだけ、答えて」

 なぜか、答えに窮す瞬は、数秒の沈黙の後に口を開いた。

「……昔から、俺の周りの女は明るいゆうたら聞こえはええけど、実際は喧しい女ばっかりで、正直、女は苦手やった。その価値観を変えたのは、蓮莉や。けど、あいつには恋人がおったし、妹みたいな感じやったから、恋愛対象やなかった……」

「それで?」

「お前と初めて逢った、あの雪の日。野生動物みたいな女やと思った」

 どこかしら、話の雲行きが怪しくなったので、由貴は話を遮ろうかと思ったが、早合点は悪い癖だといつも宋助に注意されているので、なんとかここは堪えた。

「蓮莉が瀕死の時、覚えてるか? あの時、お前は俺に笑った。死ぬ覚悟をしたのに、お前は穏やかに笑って、蓮莉に命を譲ったんや」

「うん。あの時は……なんていうか、気づいたから。弟の後を追わずに生き続けた理由みたいな物が」

「あの笑顔が、忘れられへんかった」

 この時、やっと瞬が顔を上げた。

「だから、今生でもう一回逢えた時にも、お前は宋助の横で同じように笑っとったから、あの笑顔を向けられる宋が羨ましかった。――俺にも向けられたら、と思った時には、もう幼馴染ではおれん。特別な存在になりたかったから、告白、しました……」

 なぜ最後は敬語なのだろう、と普段ならつっこんでいるが、今はそんな余裕すら由貴には無かった。胸を擽られる様な、面映ゆい感情が熱となって顔に集まるのが解った。

「……どんな顔して笑ってるんだろう、私は」

「そこはどうでもええやろ……ああ、もう! ほら、帰れ! 俺は全部話したんや。これ以上は恥ずか死ぬわ!」
急に追い出すように手を引かれて、玄関まで引き摺るように連れて行かれる。また母のように放り出されるのは勘弁願いたい。

「ちょ、っと! 人の話も聞いてよ!!」

 乱暴に瞬の手を引き離して、由貴は足を止めた。
 炬燵から飛び出たせいでタイツ越しに感じるフローリングは冷たい。その冷たさが今はありがたかった。逆上せそうな頭をクリアにしてくれる。

「考えさせてとは言ったけど、考えたところで答えは一緒なんだと思う。私には昔も今も宋助が一番で、今の幸せな時間が大切なんだ。敢えて変える選択は怖い。だから、急には変えられない。でも、ゆっくりでも良いって言ってくれるなら、瞬を一番にできるように頑張る。私も、また逢えて嬉しかったから。急に恋人になれなくても、少しずつ瞬の存在を大きくできるようにしてみるから、そんな私でも良いなら――付き合って、下さい。……あと、ずっと想っていてくれて、ありがとう」

 決死の回答に、黙ったままの瞬が怖くて、由貴はそろりと上目使いに瞬の様子を見た。
 すると、そこには目を真ん丸に見開いて、放心している瞬がいた。

「ちょっと! なにか言っ……!」

 語尾は瞬の肩口に吸い込まれて消えた。抱きしめられていると気づいた時には、今度は由貴が放心する番だった。

「俺の気の長さ、なめんな。……待っとるわ」

「……うん」

 男に抱きしめられたのも、宋助以外には瞬が初めてだ。弟は、身長こそ幾分か由貴よりも高いが、線が細いせいか中性的な印象だが、瞬はしっかりとした腕や胸板に男性なんだと感じた。
 それから、どうやって自室にまで帰ったのかは覚えていない。出迎えてくれた宋助に「付き合うことになった」と言ったら、「そっか」とだけ返された。そして、先ほどのように、正面から宋助に抱きついてみたが、やはり瞬に感じたような男性の意識は感じられなかった。

「なに?」

「いや。今までの私は本当に世界の中心が宋だったんだな、と改めて思った」

「そうだね。ちょっとブラコンがすぎるかなぁ」

 弟の悪意のない笑顔に少々傷つく。
 しかし、確かに新しい一歩を踏み出したのは確かだ。
 なぜだろう。
 遠い昔の、初めて洞穴で出逢った時のような、瞬の笑顔も見てみたいと、由貴は思った。

to be continued...
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