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由貴は友人の美春とランチに来ていた。カフェの休日は月曜日と日曜日と祝日である。
そして今日は月曜日だが、細々と小説家として自由業を営んでいる美春とは、久しぶりの再会であった。瞬と付き合う上で相談したい旨を簡易メッセージで送ったら「詳しく訊かせろ」と即返事が返ってきた。
いつもは締め切りに追われて、鬼のような形相をしている美春宅は旦那様が主夫となって一家を支えていた。
「でさ、付き合うって何をしたら良いのかな、って」
「え、そこからなの!? あんた、今までも彼氏っぽいのは居たでしょ。何してたんだよ!?」
あまりに成人をすぎた女からの、初歩の初歩から手ほどきをせねばならない事実に、美春は注文したハンバーグにフォークを突き立てた。
「いや、居たって言っても、高校の時だし……お昼に誘われて宋と食べるからって断ったり、一緒に帰るのも自動的に宋とだったから断ったりしてた思い出しか無いんだよね」
「この重度のブラコン……歴代の男達に同情するよ」
呆れ果てて、美春はもう帰りたくなったが、さすがに成人してからもう数年が経つ。放っておけば、このブラコン女は、同じ過ちを繰り返すことだろう。
見せつけるように溜息を吐いて、ハンバーグからフォークを抜き、一口大にして口に運んだ。
「幼馴染の二つ年上の社会人なんだっけ? じゃあ、部屋に遊びに行くとかじゃない? 合鍵貰ったりさ!」
「合鍵なら、車を買う為の節約生活する時に交換した」
「……んじゃ、デート」
「デート……って、休日に遊びに行けば良い?」
「まあ、そうだね」
なるほど、と無表情に相槌を打ちながら、由貴はサーモンサンドを口に運ぶ。そして、空を見上げて瞬と出かけるなら何処だろうかと考えを巡らせた。
「ハルちゃん、いつもなら妄想が爆発するのに、今日は静かだね」
「あんたのあまりの恋愛スキルの無さに絶望してんだよ」
「ひどい」
「ひどくない! 二十三にもなって、高校の時にも受けなかった相談をされてる私の身にもなって」
「だって、さすがにこれは宋助には相談できないし……」
弟なら訊いてはくれるし、適格な答えをくれるかもしれないが、此処はやはり恋愛結婚にまで至った美春が最適かと思い、相談したが人選を間違っただろうか。
由貴は冬晴れの高く澄んだ空を見上げる。店内は平日なので、当然ながら主婦らしき人で溢れていた。
この付近でも比較的新しいこの店は、パンケーキがウリで、ランチの豊富さも有名だったのでリサーチも兼ねて美春と来たのだが、ランチの味は悪くはないと由貴は舌鼓を打った。
「あ、このサラダのドレッシング美味しいな。レシピ、訊いたら教えてくれると思う?」
「おい、目的が変わってんぞ」
美春の堪忍袋の緒が悲鳴を上げだしたのを覚って、由貴は真面目に話を戻した。
「じゃあ、ハルちゃんは旦那さんとデートに行った思い出の場所とかある?」
「んー……うちらは二人揃ってオタクだからなぁ。まあ、旦那がスポーツもできるオタクだったから、紅葉観に行ったとかかな」
「今ならもう枯れてるね」
食後のコーヒーを啜りながら、平然と言い放つ由貴に、美春の口角が引き攣った。
「……じゃあ、映画! これなら初歩でも問題ないんじゃない?!」
「映画……なるほど。その考えは無かった。ありがとう、参考にする」
やっとのことで決まった案に、美春は胸を撫で下ろした。しかし、映画にすら思い至らないとは。最初から
だが、弟至上主義の親友が、真剣に弟以外の男性に目を向け始めたのは良い傾向だと美春は考える。
「続くと良いね」
「うん。まずは宋助よりも大切な存在にしなきゃいけないんだよね。今まではそれで駄目にしてきたけど、あの人達ももう少しちゃんと見ていたら、何かが変わったのかな」
あまり過去を振り返りたがらない上に、恋愛に関しては積極的ではない由貴の口からこう言った話題でるのは珍しい。
どうやら今度の彼氏には、随分と誠実に関係を築こうとしている由貴の姿勢に、美春はやっと少しだけ笑った。
「ま、過去の経験も勉強になったってことでしょ。応援するよ、良い縁だと思いな」
「それが長続きする秘訣?」
「秘訣、とまでは行かないけど……。ほら、結婚をゴールインって言うけど、私はアレがあんまり好きじゃないんだよね。むしろ、結婚してからの方が長いんだし、スタートだよ。さすがに由貴はそこまでは考える必要はないけど、一期一会って考えは大事かな。私は『この人を逃したら、もう縁がない』ってずっと暗示を自分にかけてた」
「一期一会、か」
美春の言葉に、由貴はまた空を見上げる。きっと瞬と別れたら、友人には戻れるだろう。でも、何かが変質してしまうのは確かだ。そして、いつかこちらで家庭を持つと豪語している瞬の結婚を己はどんな目で見るのか、そんなことを考えながら、由貴は美春と別れ、家路に着いた。
そして、家の手伝いを終えてから瞬に簡易メッセージを送る。すぐに返事が返ってきたので、今日は残業では無いようだ。
それを確認してから、瞬の部屋を訪ねるとどうやら風呂上りだったらしい。タオルを頭にひっかけたままの瞬が出迎えてきてくれた。
「今度の日曜、空いてる?」
「今のところは、なんも無いなぁ」
「じゃあ、映画に行かない?」
「ええけど……ホラー映画とちゃうやろな……」
「大丈夫。さっき、今期上映してるホラーは無いって宋が言ってた」
「あったらホラーのつもりやったんか……」
基本的に映画に関しては、由貴はホラーやミステリーサスペンス、瞬はアクションしか観ない。しかも、瞬はホラー系が苦手である。
映画は好みのすれ違いが要注意だと宋助からアドバイスをされていたので、由貴は既にネットで調べてきたのだった。
「アクションなら、この『スペースハンター』が面白いって小説家の友達が言ってた」
「それ、有名なシリーズやで。これで三作目やったか」
「へえ。どんな話?」
「宇宙で巨大イカとか鮫と戦う」
「……やっぱ変えるか」
「ちょお待て! しょうもないように聞こえて、なかなか見応えはあるんやぞ。毎回、戦い方の知略が巧妙でコアなファンも多いんやって」
瞬が慌てて、フォローに出る。怪しいことこの上ないが、仮にも小説家の美春の薦めもあって、日曜に観る映画はこれに決まった。
「俺の好みでええんか?」
「うん。他に面白そうなのが見当たらなかったし、ある意味、そのストーリーは気になるもん」
スマホを弄りながら答えると、瞬がくしゃりと由貴の髪に手を差し入れる。照れているのか、視線は明後日の方向だ。
「あんまり俺に合わせすぎんでもええからな」
「ん。わかった」
その加減が、実はとても難しいと思っていることを由貴は口には出さなかった。いちいち確認していたらキリがない。
これが目下、由貴の悩みの種だった。宋助なら、大体は何が良くて何が駄目なのかがわかるし、遠慮なく指摘してくれる。だが、付き合いが長いとはいえ、瞬はやはり他人である。お互い、物事ははっきり言うタイプだが、それが過ぎてもすれ違いを生じる。
「やっぱり時間をかけるしかないのかなぁ……」
「何がや?」
「なんていうか、お互いの許容範囲の見極め」
「ああ、そうやって口に出してくれれば俺は構わんぞ。言い合いになる事もあるかもしれんけど、溜め込まれるよりはぶつかる方がええわ」
由貴が頭を抱えていた事柄を、瞬はあっさりと昇華させてくる。
「お前、宋には考えなしに何でも言うやろ?」
「うん……まあね。でも宋が嫌うことは言わない」
「俺にも同じようにしたらええだけや。俺も嫌とか気分悪いならちゃんと言うから、お前も言え」
「本当に良いの?」
「時間がかかるのは、最初から承知の上やん。それに腹の中を探り合うとか、空気を読むとか、俺もお前も無理やろ……」
最後の一言が持つ説得力には、思わず由貴も深く頷いてしまった。それが可笑しくて、思わず笑みが零れたら、瞬も釣られるように微笑む。
「ほら、そうやって笑ってくれてる方がええわ」
「ん。それなら、作ったけど、これも要らないか」
由貴がパーカーのポケットから取り出した、四つ折りの紙を手にして、瞬は絶句する。
「なんやこれ!? テストか!!」
「知るには一番手っ取り早いかと思って」
それはノートの紙に設問がぎっしりと書かれた物だった。好きな色から始まって、好みの芸能人やどんなメイクが好きかまで書かれている。
「由貴、これだけは言うとくわ……俺はテストが嫌いや」
「ちぇ、わかった。じゃあ、髪の長さくらいは答えてよ」
「……似合うてたら良い。以上」
「メイクも? 色も?」
「おう。……それ、宋には見せへんかったんか?」
「見せたよ。却下されたけど、どうしても気になったから持ってきた。作るの、結構頑張ったのになぁ……」
変なところはズレている由貴であった。
「もしかして、お前の回答分もあるんか?」
「あるよ。見る?」
「遠慮しとくわ」
瞬の回答は素早い。よっぽどこの形式の文章を見るのが嫌なのだろう。
結局、この日は日曜の約束を取り付けて、瞬の部屋を後にした。帰宅してから、先ほどのことをありのままに宋助に報告した。
「あの質問の紙、やっぱり要らないって言われた」
「だから言ったじゃない。瞬さんはああいうの嫌いだろう、って」
良いアイデアだと思ったのに、とまだ名残惜しそうに紙と睨めっこをする姉に、宋助はほとほと困ってしまう。
「これじゃあ、日曜の服……何を着ていけば良いかわからない」
「似合うなら何でもいい、って言われたんでしょ? なら、姉さんが好きな恰好で行けば良いってことだよ。但し、パーカーとジャージ以外でね」
「……それが一番難しい……」
その日から、普段は見ないファッション雑誌なんかを仕事の片手間に読む姉を見て、宋助は良い傾向だと隠れて笑うのだった。
◇
そして、来る日曜日。
ファッション雑誌やネットを参考にしたが、わざわざ買い足すのも馬鹿らしくなって、由貴は半ばやけくそで、クローゼットから服を選んだ。結果、白にアーガイル柄が入ったニットワンピースと黒のショートパンツ、そしてビジューが付いたネイビーのローファーと言う恰好で、瞬の待つ駐車場に現れた。肩を超す髪は、ハーフアップにして、メイクも軽め。由貴が考え抜いた末に決めた服装である。
「お、お待たせ。どう、かな……」
「お、おう。似合うてるから、良いと思うで」
「それなら、良かった」
二人でぎくしゃくしながら、車に乗り込んだ。そして、車の中での会話も何処となく堅い。二人して緊張がありありと伝わってくるが、それも映画が終わって昼食を食べる頃には普段となんら変わらない様子になった。
しかも昼食はラーメンという気楽さだ。
「面白かった。あれ、続編やらないのかな?」
「せやから言うたやろ。イカ、鮫と来たから、今回は蛸かと思たんやけど、まさかの亀とはな。相変わらず、予想を超えてくれるわ」
「甲羅の盾を攻略するところ、最高だったね。あ、餃子……一個頂戴」
「ん、元々二人で食うつもりやったから、もっと食え」
「やった」
食後はCDショップに寄ったり、瞬が趣味にしているサッカーのサポーターを見に行ったりと、最初のデートにしてはなかなか上出来だと由貴は思った。
瞬との時間も気兼ねせずいられるから楽しい。それでも、やはり今はまだ宋助を超える決定打は見出せなかった。
家の前まで送って貰った時、隠し事は無用とのことだったので、由貴はそれを正直に瞬に話した。これは余計なことだっただろうか、と思ったが、瞬からは軽く額を弾かれるだけだった。
「阿呆。ゆっくりでええって何回言わせるんじゃ」
「だって……楽しかったのに、申し訳なくて……」
「由貴」
不意打ちだった。項垂れた由貴が、おそるおそる顔を上げると、瞬の顔が至近距離にあって、柔らかい何かが唇を掠めていった。
「……まだ、早いかと思ったけど……まあ、なんや、初デートの思い出に……嫌、やったか?」
言葉と表情を失って、由貴はふるふると首を横に振るだけで精一杯だった。
「ニ、ニンニクくさいのに……!!」
「お互い様や。じゃあ、おやすみ」
頬を少し赤らめながら、瞬は、由貴の頭を軽く手を置いて去って行った。
「いい感じじゃない。おかえり――姉さん?」
瞬の背中が見えなくなってから、扉から出てきた宋助に由貴は飛びついた。
「宋、宋! いいい今の、キ、キ……だよな!?」
混乱気味の由貴からは、ほのかにニンニクと瞬の車の芳香剤の匂いがした。
「そうだね。瞬さんもやるなぁ」
「顔が……熱い……! なあ、変な顔してるか?! メイク崩れてるし、それに!」
「はいはい。落ち着いて、姉さん。嫌じゃなかったんだろ。じゃあ、良いじゃない。恋人同士なんだから」
宋助に手を引かれるまま、冷えた廊下からエアコンの効いた部屋の中に入る。父と母はもう眠っているらしい。しんとしたダイニングのテーブルに座らされて、温かい蜂蜜入りのミルクを出された。
由貴が子供の頃から、泣いた時や、落ち込んでいる時に、無言で弟が出してくれる由貴の大好物だった。
「少しは落ち着いた?」
「うん。ありがとう」
「それを飲んだら寝なよ。明日もカフェは休みだしさ」
こくりと甘いミルクの余韻に浸っていると、なぜか一滴の涙が由貴の眦から零れて落ちた。
「……どうしたの?」
「怖い。宋よりも、瞬の存在が大きくなっていくことは、悪いことじゃないと思ってた。でも、うまく言えないけど、宋よりも大切な存在なんてできるはずがない、って心のどこかで高を括っていたんだ。瞬に、惹かれていくのが、怖い。嫌われたく、ない……!」
話せば話すほどに、ぽろぽろと涙を零して、不安定な心情を吐露する姉に、宋助は優しく頭を撫でた。
「僕はいつでも姉さんの傍に居るよ。昔話――あれが、姉さんを僕に縛り付けているんだよね? だけど、今は違うだろ。僕は此処に居るから、今生では姉さんは好きなように生きて良いんだよ。僕を一番にしてくれる気持ちも嬉しいけど、僕に好きな女性ができたらどうするの? 未来は解らない。あらゆる可能性がある。だから泣かないで。今はまだ僕も姉さんを見ているから、ね?」
「ん」
「でも、今の姉さんと瞬さんは、とてもお似合いだよ」
いつものように邪気のない宋助の笑顔に由貴は、手を差し伸べる。すると、その手を取って、宋助は当然のように頬に当てて、満面の笑みを見せる。
洞穴の中で、瞼に覆われて由貴を映してくれなかった眼が、今はしっかりと由貴だけを見つめてくれている。それだけの事実が、由貴には至上の喜びだった。しかし、今は心にもう一人の違う笑顔がある。
その後、風呂に入り、自室のベッドに入ったがやはり思い出されるのは、瞬の子供騙しのようなキスと宋助の温かい手だった。
◇
この小さな街にも年の瀬が近づき、街はにわかにざわめき立つ。だが、年の終わりが近づくに連れ、瞬だけは溜息が日に日に増えていく。
「宮坂、どないしてん? そんなに溜息ばっかり吐いてたら、幸せが逃げるで」
「なんや、亮太。お前んとこは残業なしかい」
「その代わりに、今から忘年会や。お前の部署は仕事納めの日にも忙しいんやなぁ。ご愁傷様」
同郷の甲本亮太は、海外事業部の人間だ。部署違いの亮太は人の悪い笑みを作って、小さな缶を差し入れてくれた。
「ありがとさん……って、これ、コーヒーやのうて、おしるこやんけ!」
「貰えるだけありがたいと思え。疲れた時は甘いもん言うやろ。それに、俺よりも先に彼女作りよった罰じゃ」
瞬は由貴と付き合いだしたことを、親友である亮太にだけは話してあった。つい先日まで、亮太にも彼女がいたが、クリスマスに喧嘩をして別れてしまったらしい。つまり、これは長年の恋を実らせた瞬への八つ当たりである。
「んで、彼女とはどこまで進んだん?」
瞬の同僚が殆ど帰っているのを良いことに、隣のデスクに腰掛けて、亮太はパソコンと面を突き合わせている瞬に、さも楽しそうに亮太は絡んでくる。
「別に。クリスマス前に映画を観に行ったっきり……。向こうがサービス業でクリスマスは忙しいから、最近は逢っとらん」
「はあ!? 同じマンションに住んでて、顔も合わせてないんか!! しかも、映画に行った『だけ』!? 普通、ホテルまで直行やろ。どこの中学生や!!」
「阿呆か! そんな展開、早すぎて向こうが失神する上に、あいつの弟に殺されるわ!! 女嫌いとブラコン拗らせすぎた二人やぞ。お互いスローペースでええんや」
亮太の言葉を一蹴して、瞬は再びパソコンに向き合う。嫌がらせのおしるこドリンクも、一応は口を付ける。
「はあ……難儀やなぁ。あんまり悠長にしとったら、他の男に盗られるで。俺みたいにな!」
少々、涙目になりながら亮太は回転式の椅子で遊んでいる。そうこうしている間に瞬は職務を終えたのか、パソコンの電源を落としていた。
「なあ、お前の彼女……サービス業ってカフェや言うてたっけ? そこは明日もやっとるんか?」
「おう。大晦日以外は営業する言うとったけど……お前、まさか行くつもりやあらへんやろな?」
「そのまさかや。明日から俺は休みやしぃ、彼女に振られて一人やしぃ、悪いようにはせんよって、ほんじゃあなぁ、お疲れさん!」
「あ、こら! 待たんかい、亮太!」
まるで漫画のような笑い方をしながら、亮太は疾風の如く去って行った。
「マジか……」
一人、静まり返ったオフィスで瞬の手だけが空を掻いた。
特にやましいことがある訳ではない。それに瞬よりも年上の亮太が由貴に手を出すとは思えないが、由貴との交際はできる限り、慎重に進めていきたい瞬としては、少々困った事態である。
明くる日のこと、宣言通り、亮太は由貴達のカフェの前に佇んでいた。瞬の所属する営業部が、忘年会を慣行している時刻を狙ってやってきた。この男、人は良いが、確信犯である。
そろり、とパイン材の扉を押し開けると、黒いエプロン姿の中性的な青年がにこやかに迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」
「あ、ども」
店内はオルゴールの耳に優しいメロディが流れ、以前、出張で訪れた北欧を思い出す造りであった。外は曇っているが、中は明るく、コーヒーの豆の匂いが満ちている。客はどうやら亮太だけのようだ。時刻が時刻なので、こんなもんか、と上着を脱いで、足元に置かれた籠に入れていると、先ほどの青年が温かいおしぼりとクリスタルグラスに入った水と共に、メニューを差し出してくれた。
「あ、ホットで頼んます」
「はい、かしこまりました。あの、間違えていたら、ごめんなさい。もしかして、瞬さんの御友人の方ですか?」
笑顔を崩さずに問われて、一瞬、亮太は反応が遅れた。その顔を見て、青年は笑みを深くする。
「昨日、瞬さんからお友達が来るかもしれないってメッセージを貰ったんです」
根回しの早いことである。しかも、くれぐれも由貴を出さないように宋助は忠告されていた。
だが、ちょうど今日はバリスタの修行で、由貴はキッチンに籠っている。
「瞬の彼女、ホールとちゃうんや?」
「ああ、姉は基本的にキッチンですね。うちではドリンクや軽食担当なので、ホールは僕が担当しています。それに、今日はお師匠さんが来てくれて、稽古中なので、余計にホールには出てこられないと思います。足を運んでくださったのに、ごめんなさい」
申し訳なさそうに宋助が断ると、亮太はわたわたと否定の言葉を口にする。
「いやいや、俺が急に来たせいでもあるし、なにも弟君がそんな顔することあらへんで、うん!」
「でも……」
「ほんまに!」
「そうでしょうか。あ、注文をまだ通していませんでしたね。急いでお持ちします。少々お待ちください」
宋助は、遠慮がちに笑うと駆け足でホールからキッチンに入って行った。
「なーにが『足を運んでくださったのに』よ。もう、宋ちゃんのこの演技に騙される野郎ばっかりね。本当、由貴の一番の防波堤は宋ちゃんなんだもの。恐ろしいわぁ!」
「サリーちゃん、客の男を見繕ってないで、こっちを見てよ。せっかく、今日一番うまく出来上がったのに……」
「良いじゃない。ただでさえ、こっちは男日照りなのよ! ……って、あら、本当に綺麗にできてるじゃない。豆の薫りも申し分ないわ」
どこからどう見ても、厳ついこの男・サリーちゃんは、由貴が専門学校に通っていた時分から、師事しているバリスタの師匠である。
日頃は男に甘く、女に厳しいが、仕事が絡むと鬼よりも怖い。世界的にも有名なバリスタで、由貴とはなにかと相性が良いのか、時折、店に顔を出しては由貴の仕事に悉く口を出して帰って行く。
サリーからのお許しが、やっと出たことで由貴はほっと息を吐いた。いったい、何時間集中していたことだろう。特に今日は指導が厳しかった気がする。
「お疲れ様。今日一番のコーヒーは瞬さんのお友達にお出ししたよ。サリーさんと姉さんも、少し休憩したら? お昼からぶっ続けだったでしょ?」
「由貴、これ、これよ! あんたに足りないのは! 宋ちゃんの如く、思いやりと女らしさを身につけなさい!」
「うるさい」
神経をすり減らして、疲労困憊のところにサリーのけたたましい声は頭痛がすると、由貴は耳を両手で塞いだ。
すると、随分と荒っぽくカウベルが鳴った。
「りょーおーたー……」
息も切れ切れに、目を据わらせて現れたのは瞬だった。
「げ」
「げ、とちゃうわ! ボケ!」
怒りながら、亮太の耳を引っ張り、追い出そうと試みているようだ。
「瞬さん、お疲れ様。忘年会は終わったんですか?」
コートも脱がずに、渾身の力で亮太の耳を引っ張っている瞬に宋助から声がかかる。
「いや、途中で抜けてきた。この阿呆、余計な事してへんやろな?」
「大丈夫ですよ」
宋助のこの一言に、下で「痛い、冷たい」と喚いていた亮太から漸く解放された。
安心したのか、苦い顔を作って亮太の対面に腰掛けた瞬のスマホが震える。
メッセージは由貴からだ。
『閉店後、家に行く』
短い一文だったが、これに漏れそうになる笑みを殺して瞬は、亮太から少し冷めたコーヒーを強奪して、飲み干した。
「あー!! なにすんねん、阿呆! めっちゃうまかったのに!」
「うるさいわ。てか、コーヒーに砂糖入れすぎや。甘……」
ホールが一気に喧しくなったことを、キッチンから覗いていたサリーが、瞬に目を付ける。
「なんか……一気に関西の空気になったわね。それにしても残念。あとから来た方の彼、ワイルドさなら断然好みなんだけど、ちょっと細すぎるわね」
「……サリーちゃんの理想の男って、シュワちゃんでしょ? 基準が高すぎるし、それを基準にされる男も可哀想だよ……」
さりげなく人の彼氏を評価しないでほしい。由貴は内心で、そう呟いて裏口からサリーを見送った。これ以上、長居されて瞬のことがバレることを避けたかった。
それでなくとも、サリーは恋の話には常に飢えているので、自分達はいい鴨にされる。
「あ、サリーさんは帰ったの?」
「強制送還。これ以上居たら、絶対に絡んでくる」
「僕もそれが正解だと思う……。瞬さんのお友達もそろそろ帰りそうだから、上に行ってきなよ。此処の片づけはもうほとんど無いでしょ。クリスマスも逢えなかったんだから、アレ、ちゃんと渡すんだよ?」
「……」
「……やっぱり僕と行く?」
由貴が複雑そうな顔をしたので、宋助が小首を傾げてみる。
こういう時は、概ね拒否は許されない。
「いい……行って、くる。……けど、引かれないかな」
「大丈夫だよ」
小さな子供を諭すように、宋助は由貴の頭を撫でる。まったく、どちらが姉なのか、疑わしくなる。そして、キッチンからスタッフルームに回って、由貴は着替えを済まし、瞬の家に向かう。
インターホンで呼び出すが、どうやら瞬はまだ友人と共に居るようで、反応は無かった。仕方なく合鍵で入って、照明をつけ、暖房を入れる。部屋が温まるまでは炬燵に入って膝を抱き寄せる。
「寒い……」
暗い部屋の中は、あの雪の日の洞穴を彷彿とさせる。
「蓮莉……」
こうしていると、ひどく不安になってくるのだ。
あの時は蓮莉がずっと話していたから、一人ではないと実感できた。だが、もし今、宋助の首を抱いていたらと思うと背筋に言い知れぬ恐怖が走った。
「あ……瞬、宋? 何処……?」
一人で部屋の中で、蹲っていると、ドアの開く音に心を救い上げられた。
「由貴? すまん、遅なって……って、泣いとるんか? どないしてん?」
「……っ瞬!」
にべもなく、正面から抱き付くと、コートに染み着いたアルコールと煙草の匂いがした。それが現代を生きている実感を甦らせてくれる。酸素を欲していたかのように、めいっぱい空気を吸いこんだ。
「なんやわからんけど、落ち着け」
「ん、ごめん」
背中を摩ってくれる瞬の手は優しい。心なしか、声音も柔らかいことにひどく安堵する。
「少し、昔を思い出しただけ……もう、大丈夫。それより、瞬、酒と煙草の匂いがする」
「おい、復活したらそれかい。まあ、普段通りになったなら、ええわ。亮太も追い返したし、風呂入ってくる」
「うん、じゃあ晩御飯作ってあげる。冷蔵庫の中、勝手に漁るよ」
「任せるわ」
もう癖になっているのだろうか。由貴の頭の上に、大きな手を置いて、瞬は浴室に消えていった。
これだけのことが、どれだけ由貴に安寧をもたらしてくれるのか、彼は知らない。
由貴も知らなかった。宋助といる時とはまた違う平穏。
それは日に日に大きくなって、由貴の中に瞬を刻み付ける。
「好き、だよ……」
思わず零れ落ちた言葉は水音にかき消された。
合鍵を貰って以来、時折、由貴は瞬に夕食を作る。なので、瞬の家の冷蔵庫は男の一人暮らしにしては充実している。
「お、今日も美味そうやな」
「簡単だけど、今度店の定番メニューにするスペイン風オムレツとフルーツサラダ。さすがにスープはインスタントだけど、足りる?」
「充分! いただきます!」
「どうぞ」
二人でかちゃかちゃと食器を鳴らしながら、平らげていく。食事の最中、テレビは観ない。これは瞬の実家も、由貴の実家も同じだったから、いつの間にか、二人で過ごす時間も当たり前になってしまった。
「ところで、今日は喧しいのが来て悪かったな。後で宋にも謝っといて」
「ああ、あの友達? 私は奥に居たし、先生が来てたからちゃんとは見てないけど、宋が何も言ってなかったから良いんじゃないかな」
焼き色が気になっていたオムレツだが、ツナの風味がうまく出てくれたので成功だな、と由貴は満足する。
「それならええんやけど。んで、今日の本題は?」
「これ」
由貴が差し出したのは、またもや字がたくさん書かれた薄い紙束だった。少し、警戒しつつ、瞬はそれに目を通して、吃驚した。
「……一泊二日の温泉旅行?!」
「宋が商店街の福引で当てた。今、父さんと母さんが行ってるんだけど、私達にも別口で買ってくれたの。これがクリスマスプレゼントだってさ」
瞬が固まっている間に、由貴はフルーツサラダから、林檎をかっぱらっていく。
「や……宋の厚意はありがたいんやけど、お前、これはあかんやろ。泊まりやぞ。それはまだ早いと言うか……」
「良いよ」
「へ?」
「クリスマス……今なら言えるけど、瞬と過ごせなかったのが少し残念だったなぁって。それに、もうお互い大人だし、ちょっと進展しても良いかな。少し前の私なら迷わず宋助と行ってただろうけど、今は瞬と行きたい。……嫌?」
思わず、箸が止めて瞬は目を手で覆った。思わぬ展開に瞬の理性のメーターが振り切れそうだ。
「由貴」
「なに?」
「とりあえず、飯食うてまうぞ。それから、改めて話があるから、はよ食え」
「わかった」
それからは黙々と二人で食事を平らげることだけに努めた。
そして、手を合わせて食べ終わったことを示すと、由貴の前に瞬が正座をするので、つられて由貴も正座になる。ついでに何やら、瞬は小さなラッピングされたままの箱を差し出した。
「これ、クリスマスにせめてプレゼントだけでもと思って買った」
普段なら包装紙も適当に破く由貴だったが、それをしてはいけない空気だったので、慎重に開ける。
中から出てきたのは、飾り石が付いた小さなシルバーのペアネックレスだった。
「ゆ、指輪はまだ早いと思って、これにしてんけど……けど、指輪にしても良かったか?」
「と、言いますと?」
「結婚を、前提に……旅行、行ってください……」
真っ赤な顔をして、頭を下げた瞬に、由貴はぷっと吹き出して「そうですね、行きましょう」と答えた。
その笑顔は、いつかの――あの死を覚悟した笑顔よりも、ずっと輝いて見えた。
◇
「姉さんはいい加減に気づくべきなんだよね。呆れるくらい鈍いと言うか……盲目と言うのか……過去、どんな状況だったにしろ、姉さんの生きる標となったのは死体だった僕じゃない。瞬さんと――貴女だ。ね、蓮莉さん」
『厳しいなぁ、宋助は。空海は一族を失って、君だけが心の支えだったんだよ?』
スマホをスピーカーモードにして、歌うように宋助は話かける。
「そう、“風魔”という特殊な状況下だったことが、核なんだろうなぁ。僕はね、嘘は言っていないよ。本当に死後のことは知らない。でも、生前のことは覚えている。姉さんは、僕の死後の方があまりに強烈で、覚えていないんだろうけど、一族を殺したのは他でもない――僕だったんだよ。父も、母も――すべて。この世に僕ら二人だけになるように。そして、僕はその咎で打ち首になった」
事実を語る宋助の瞳には、仄暗い焔が灯る。
『どうして、一族を殺したの?』
機械を介して聞こえてくる蓮莉の声は、疑問に満ちていた。
「“風魔”はね、年がら年中、戦に身を置いている一族だった。川の水が血で赤く染めあがる程にね。子供だろうが、容赦はされない。そんな一族に辟易としたのが、僕だ。だから、一族すべてを殺した。僕はいつか見た人間の子供のような静かな日々が欲しかったから」
『ふうん。お姉さんには話さないの? 瞬には私と会話しているところを見られちゃったんでしょ?』
この問いに、宋助は失笑する。
「そう。ドジをしてしまった。僕が『蓮莉』しか知りえない情報をうっかり話してしまったんだもの」
宋助の中には、『蓮莉』という人格がある。
二重人格、というのだろうか。
それとも生まれ変わる時の記憶の混線か。
前世の死後のことは知らない。
だが、『蓮莉』としてなら、彼は姉が己に命を分け与えて死んだあの日のことを鮮明に覚えている。
話すつもりはない。
このスマホの中にあるのも、声を合成して作った擬似人格である。
――宋助は『風魔』であり、『蓮莉』である。
この事実を知れば、せっかく波乱の過去から抜け出して、瞬と幸せな日々を緩やかに築き上げている姉の依存がまた深まってしまうことだろう。
瞬ほど姉を想う人間を、宋助も蓮莉も知らない。
だから、あの二人には話さないことが吉なのだ。
幸福を知らなかった哀れな“風魔”に平穏を。
宋助と蓮莉は、くすくすと忍び笑いを漏らした。
end...
由貴は友人の美春とランチに来ていた。カフェの休日は月曜日と日曜日と祝日である。
そして今日は月曜日だが、細々と小説家として自由業を営んでいる美春とは、久しぶりの再会であった。瞬と付き合う上で相談したい旨を簡易メッセージで送ったら「詳しく訊かせろ」と即返事が返ってきた。
いつもは締め切りに追われて、鬼のような形相をしている美春宅は旦那様が主夫となって一家を支えていた。
「でさ、付き合うって何をしたら良いのかな、って」
「え、そこからなの!? あんた、今までも彼氏っぽいのは居たでしょ。何してたんだよ!?」
あまりに成人をすぎた女からの、初歩の初歩から手ほどきをせねばならない事実に、美春は注文したハンバーグにフォークを突き立てた。
「いや、居たって言っても、高校の時だし……お昼に誘われて宋と食べるからって断ったり、一緒に帰るのも自動的に宋とだったから断ったりしてた思い出しか無いんだよね」
「この重度のブラコン……歴代の男達に同情するよ」
呆れ果てて、美春はもう帰りたくなったが、さすがに成人してからもう数年が経つ。放っておけば、このブラコン女は、同じ過ちを繰り返すことだろう。
見せつけるように溜息を吐いて、ハンバーグからフォークを抜き、一口大にして口に運んだ。
「幼馴染の二つ年上の社会人なんだっけ? じゃあ、部屋に遊びに行くとかじゃない? 合鍵貰ったりさ!」
「合鍵なら、車を買う為の節約生活する時に交換した」
「……んじゃ、デート」
「デート……って、休日に遊びに行けば良い?」
「まあ、そうだね」
なるほど、と無表情に相槌を打ちながら、由貴はサーモンサンドを口に運ぶ。そして、空を見上げて瞬と出かけるなら何処だろうかと考えを巡らせた。
「ハルちゃん、いつもなら妄想が爆発するのに、今日は静かだね」
「あんたのあまりの恋愛スキルの無さに絶望してんだよ」
「ひどい」
「ひどくない! 二十三にもなって、高校の時にも受けなかった相談をされてる私の身にもなって」
「だって、さすがにこれは宋助には相談できないし……」
弟なら訊いてはくれるし、適格な答えをくれるかもしれないが、此処はやはり恋愛結婚にまで至った美春が最適かと思い、相談したが人選を間違っただろうか。
由貴は冬晴れの高く澄んだ空を見上げる。店内は平日なので、当然ながら主婦らしき人で溢れていた。
この付近でも比較的新しいこの店は、パンケーキがウリで、ランチの豊富さも有名だったのでリサーチも兼ねて美春と来たのだが、ランチの味は悪くはないと由貴は舌鼓を打った。
「あ、このサラダのドレッシング美味しいな。レシピ、訊いたら教えてくれると思う?」
「おい、目的が変わってんぞ」
美春の堪忍袋の緒が悲鳴を上げだしたのを覚って、由貴は真面目に話を戻した。
「じゃあ、ハルちゃんは旦那さんとデートに行った思い出の場所とかある?」
「んー……うちらは二人揃ってオタクだからなぁ。まあ、旦那がスポーツもできるオタクだったから、紅葉観に行ったとかかな」
「今ならもう枯れてるね」
食後のコーヒーを啜りながら、平然と言い放つ由貴に、美春の口角が引き攣った。
「……じゃあ、映画! これなら初歩でも問題ないんじゃない?!」
「映画……なるほど。その考えは無かった。ありがとう、参考にする」
やっとのことで決まった案に、美春は胸を撫で下ろした。しかし、映画にすら思い至らないとは。最初から
だが、弟至上主義の親友が、真剣に弟以外の男性に目を向け始めたのは良い傾向だと美春は考える。
「続くと良いね」
「うん。まずは宋助よりも大切な存在にしなきゃいけないんだよね。今まではそれで駄目にしてきたけど、あの人達ももう少しちゃんと見ていたら、何かが変わったのかな」
あまり過去を振り返りたがらない上に、恋愛に関しては積極的ではない由貴の口からこう言った話題でるのは珍しい。
どうやら今度の彼氏には、随分と誠実に関係を築こうとしている由貴の姿勢に、美春はやっと少しだけ笑った。
「ま、過去の経験も勉強になったってことでしょ。応援するよ、良い縁だと思いな」
「それが長続きする秘訣?」
「秘訣、とまでは行かないけど……。ほら、結婚をゴールインって言うけど、私はアレがあんまり好きじゃないんだよね。むしろ、結婚してからの方が長いんだし、スタートだよ。さすがに由貴はそこまでは考える必要はないけど、一期一会って考えは大事かな。私は『この人を逃したら、もう縁がない』ってずっと暗示を自分にかけてた」
「一期一会、か」
美春の言葉に、由貴はまた空を見上げる。きっと瞬と別れたら、友人には戻れるだろう。でも、何かが変質してしまうのは確かだ。そして、いつかこちらで家庭を持つと豪語している瞬の結婚を己はどんな目で見るのか、そんなことを考えながら、由貴は美春と別れ、家路に着いた。
そして、家の手伝いを終えてから瞬に簡易メッセージを送る。すぐに返事が返ってきたので、今日は残業では無いようだ。
それを確認してから、瞬の部屋を訪ねるとどうやら風呂上りだったらしい。タオルを頭にひっかけたままの瞬が出迎えてきてくれた。
「今度の日曜、空いてる?」
「今のところは、なんも無いなぁ」
「じゃあ、映画に行かない?」
「ええけど……ホラー映画とちゃうやろな……」
「大丈夫。さっき、今期上映してるホラーは無いって宋が言ってた」
「あったらホラーのつもりやったんか……」
基本的に映画に関しては、由貴はホラーやミステリーサスペンス、瞬はアクションしか観ない。しかも、瞬はホラー系が苦手である。
映画は好みのすれ違いが要注意だと宋助からアドバイスをされていたので、由貴は既にネットで調べてきたのだった。
「アクションなら、この『スペースハンター』が面白いって小説家の友達が言ってた」
「それ、有名なシリーズやで。これで三作目やったか」
「へえ。どんな話?」
「宇宙で巨大イカとか鮫と戦う」
「……やっぱ変えるか」
「ちょお待て! しょうもないように聞こえて、なかなか見応えはあるんやぞ。毎回、戦い方の知略が巧妙でコアなファンも多いんやって」
瞬が慌てて、フォローに出る。怪しいことこの上ないが、仮にも小説家の美春の薦めもあって、日曜に観る映画はこれに決まった。
「俺の好みでええんか?」
「うん。他に面白そうなのが見当たらなかったし、ある意味、そのストーリーは気になるもん」
スマホを弄りながら答えると、瞬がくしゃりと由貴の髪に手を差し入れる。照れているのか、視線は明後日の方向だ。
「あんまり俺に合わせすぎんでもええからな」
「ん。わかった」
その加減が、実はとても難しいと思っていることを由貴は口には出さなかった。いちいち確認していたらキリがない。
これが目下、由貴の悩みの種だった。宋助なら、大体は何が良くて何が駄目なのかがわかるし、遠慮なく指摘してくれる。だが、付き合いが長いとはいえ、瞬はやはり他人である。お互い、物事ははっきり言うタイプだが、それが過ぎてもすれ違いを生じる。
「やっぱり時間をかけるしかないのかなぁ……」
「何がや?」
「なんていうか、お互いの許容範囲の見極め」
「ああ、そうやって口に出してくれれば俺は構わんぞ。言い合いになる事もあるかもしれんけど、溜め込まれるよりはぶつかる方がええわ」
由貴が頭を抱えていた事柄を、瞬はあっさりと昇華させてくる。
「お前、宋には考えなしに何でも言うやろ?」
「うん……まあね。でも宋が嫌うことは言わない」
「俺にも同じようにしたらええだけや。俺も嫌とか気分悪いならちゃんと言うから、お前も言え」
「本当に良いの?」
「時間がかかるのは、最初から承知の上やん。それに腹の中を探り合うとか、空気を読むとか、俺もお前も無理やろ……」
最後の一言が持つ説得力には、思わず由貴も深く頷いてしまった。それが可笑しくて、思わず笑みが零れたら、瞬も釣られるように微笑む。
「ほら、そうやって笑ってくれてる方がええわ」
「ん。それなら、作ったけど、これも要らないか」
由貴がパーカーのポケットから取り出した、四つ折りの紙を手にして、瞬は絶句する。
「なんやこれ!? テストか!!」
「知るには一番手っ取り早いかと思って」
それはノートの紙に設問がぎっしりと書かれた物だった。好きな色から始まって、好みの芸能人やどんなメイクが好きかまで書かれている。
「由貴、これだけは言うとくわ……俺はテストが嫌いや」
「ちぇ、わかった。じゃあ、髪の長さくらいは答えてよ」
「……似合うてたら良い。以上」
「メイクも? 色も?」
「おう。……それ、宋には見せへんかったんか?」
「見せたよ。却下されたけど、どうしても気になったから持ってきた。作るの、結構頑張ったのになぁ……」
変なところはズレている由貴であった。
「もしかして、お前の回答分もあるんか?」
「あるよ。見る?」
「遠慮しとくわ」
瞬の回答は素早い。よっぽどこの形式の文章を見るのが嫌なのだろう。
結局、この日は日曜の約束を取り付けて、瞬の部屋を後にした。帰宅してから、先ほどのことをありのままに宋助に報告した。
「あの質問の紙、やっぱり要らないって言われた」
「だから言ったじゃない。瞬さんはああいうの嫌いだろう、って」
良いアイデアだと思ったのに、とまだ名残惜しそうに紙と睨めっこをする姉に、宋助はほとほと困ってしまう。
「これじゃあ、日曜の服……何を着ていけば良いかわからない」
「似合うなら何でもいい、って言われたんでしょ? なら、姉さんが好きな恰好で行けば良いってことだよ。但し、パーカーとジャージ以外でね」
「……それが一番難しい……」
その日から、普段は見ないファッション雑誌なんかを仕事の片手間に読む姉を見て、宋助は良い傾向だと隠れて笑うのだった。
◇
そして、来る日曜日。
ファッション雑誌やネットを参考にしたが、わざわざ買い足すのも馬鹿らしくなって、由貴は半ばやけくそで、クローゼットから服を選んだ。結果、白にアーガイル柄が入ったニットワンピースと黒のショートパンツ、そしてビジューが付いたネイビーのローファーと言う恰好で、瞬の待つ駐車場に現れた。肩を超す髪は、ハーフアップにして、メイクも軽め。由貴が考え抜いた末に決めた服装である。
「お、お待たせ。どう、かな……」
「お、おう。似合うてるから、良いと思うで」
「それなら、良かった」
二人でぎくしゃくしながら、車に乗り込んだ。そして、車の中での会話も何処となく堅い。二人して緊張がありありと伝わってくるが、それも映画が終わって昼食を食べる頃には普段となんら変わらない様子になった。
しかも昼食はラーメンという気楽さだ。
「面白かった。あれ、続編やらないのかな?」
「せやから言うたやろ。イカ、鮫と来たから、今回は蛸かと思たんやけど、まさかの亀とはな。相変わらず、予想を超えてくれるわ」
「甲羅の盾を攻略するところ、最高だったね。あ、餃子……一個頂戴」
「ん、元々二人で食うつもりやったから、もっと食え」
「やった」
食後はCDショップに寄ったり、瞬が趣味にしているサッカーのサポーターを見に行ったりと、最初のデートにしてはなかなか上出来だと由貴は思った。
瞬との時間も気兼ねせずいられるから楽しい。それでも、やはり今はまだ宋助を超える決定打は見出せなかった。
家の前まで送って貰った時、隠し事は無用とのことだったので、由貴はそれを正直に瞬に話した。これは余計なことだっただろうか、と思ったが、瞬からは軽く額を弾かれるだけだった。
「阿呆。ゆっくりでええって何回言わせるんじゃ」
「だって……楽しかったのに、申し訳なくて……」
「由貴」
不意打ちだった。項垂れた由貴が、おそるおそる顔を上げると、瞬の顔が至近距離にあって、柔らかい何かが唇を掠めていった。
「……まだ、早いかと思ったけど……まあ、なんや、初デートの思い出に……嫌、やったか?」
言葉と表情を失って、由貴はふるふると首を横に振るだけで精一杯だった。
「ニ、ニンニクくさいのに……!!」
「お互い様や。じゃあ、おやすみ」
頬を少し赤らめながら、瞬は、由貴の頭を軽く手を置いて去って行った。
「いい感じじゃない。おかえり――姉さん?」
瞬の背中が見えなくなってから、扉から出てきた宋助に由貴は飛びついた。
「宋、宋! いいい今の、キ、キ……だよな!?」
混乱気味の由貴からは、ほのかにニンニクと瞬の車の芳香剤の匂いがした。
「そうだね。瞬さんもやるなぁ」
「顔が……熱い……! なあ、変な顔してるか?! メイク崩れてるし、それに!」
「はいはい。落ち着いて、姉さん。嫌じゃなかったんだろ。じゃあ、良いじゃない。恋人同士なんだから」
宋助に手を引かれるまま、冷えた廊下からエアコンの効いた部屋の中に入る。父と母はもう眠っているらしい。しんとしたダイニングのテーブルに座らされて、温かい蜂蜜入りのミルクを出された。
由貴が子供の頃から、泣いた時や、落ち込んでいる時に、無言で弟が出してくれる由貴の大好物だった。
「少しは落ち着いた?」
「うん。ありがとう」
「それを飲んだら寝なよ。明日もカフェは休みだしさ」
こくりと甘いミルクの余韻に浸っていると、なぜか一滴の涙が由貴の眦から零れて落ちた。
「……どうしたの?」
「怖い。宋よりも、瞬の存在が大きくなっていくことは、悪いことじゃないと思ってた。でも、うまく言えないけど、宋よりも大切な存在なんてできるはずがない、って心のどこかで高を括っていたんだ。瞬に、惹かれていくのが、怖い。嫌われたく、ない……!」
話せば話すほどに、ぽろぽろと涙を零して、不安定な心情を吐露する姉に、宋助は優しく頭を撫でた。
「僕はいつでも姉さんの傍に居るよ。昔話――あれが、姉さんを僕に縛り付けているんだよね? だけど、今は違うだろ。僕は此処に居るから、今生では姉さんは好きなように生きて良いんだよ。僕を一番にしてくれる気持ちも嬉しいけど、僕に好きな女性ができたらどうするの? 未来は解らない。あらゆる可能性がある。だから泣かないで。今はまだ僕も姉さんを見ているから、ね?」
「ん」
「でも、今の姉さんと瞬さんは、とてもお似合いだよ」
いつものように邪気のない宋助の笑顔に由貴は、手を差し伸べる。すると、その手を取って、宋助は当然のように頬に当てて、満面の笑みを見せる。
洞穴の中で、瞼に覆われて由貴を映してくれなかった眼が、今はしっかりと由貴だけを見つめてくれている。それだけの事実が、由貴には至上の喜びだった。しかし、今は心にもう一人の違う笑顔がある。
その後、風呂に入り、自室のベッドに入ったがやはり思い出されるのは、瞬の子供騙しのようなキスと宋助の温かい手だった。
◇
この小さな街にも年の瀬が近づき、街はにわかにざわめき立つ。だが、年の終わりが近づくに連れ、瞬だけは溜息が日に日に増えていく。
「宮坂、どないしてん? そんなに溜息ばっかり吐いてたら、幸せが逃げるで」
「なんや、亮太。お前んとこは残業なしかい」
「その代わりに、今から忘年会や。お前の部署は仕事納めの日にも忙しいんやなぁ。ご愁傷様」
同郷の甲本亮太は、海外事業部の人間だ。部署違いの亮太は人の悪い笑みを作って、小さな缶を差し入れてくれた。
「ありがとさん……って、これ、コーヒーやのうて、おしるこやんけ!」
「貰えるだけありがたいと思え。疲れた時は甘いもん言うやろ。それに、俺よりも先に彼女作りよった罰じゃ」
瞬は由貴と付き合いだしたことを、親友である亮太にだけは話してあった。つい先日まで、亮太にも彼女がいたが、クリスマスに喧嘩をして別れてしまったらしい。つまり、これは長年の恋を実らせた瞬への八つ当たりである。
「んで、彼女とはどこまで進んだん?」
瞬の同僚が殆ど帰っているのを良いことに、隣のデスクに腰掛けて、亮太はパソコンと面を突き合わせている瞬に、さも楽しそうに亮太は絡んでくる。
「別に。クリスマス前に映画を観に行ったっきり……。向こうがサービス業でクリスマスは忙しいから、最近は逢っとらん」
「はあ!? 同じマンションに住んでて、顔も合わせてないんか!! しかも、映画に行った『だけ』!? 普通、ホテルまで直行やろ。どこの中学生や!!」
「阿呆か! そんな展開、早すぎて向こうが失神する上に、あいつの弟に殺されるわ!! 女嫌いとブラコン拗らせすぎた二人やぞ。お互いスローペースでええんや」
亮太の言葉を一蹴して、瞬は再びパソコンに向き合う。嫌がらせのおしるこドリンクも、一応は口を付ける。
「はあ……難儀やなぁ。あんまり悠長にしとったら、他の男に盗られるで。俺みたいにな!」
少々、涙目になりながら亮太は回転式の椅子で遊んでいる。そうこうしている間に瞬は職務を終えたのか、パソコンの電源を落としていた。
「なあ、お前の彼女……サービス業ってカフェや言うてたっけ? そこは明日もやっとるんか?」
「おう。大晦日以外は営業する言うとったけど……お前、まさか行くつもりやあらへんやろな?」
「そのまさかや。明日から俺は休みやしぃ、彼女に振られて一人やしぃ、悪いようにはせんよって、ほんじゃあなぁ、お疲れさん!」
「あ、こら! 待たんかい、亮太!」
まるで漫画のような笑い方をしながら、亮太は疾風の如く去って行った。
「マジか……」
一人、静まり返ったオフィスで瞬の手だけが空を掻いた。
特にやましいことがある訳ではない。それに瞬よりも年上の亮太が由貴に手を出すとは思えないが、由貴との交際はできる限り、慎重に進めていきたい瞬としては、少々困った事態である。
明くる日のこと、宣言通り、亮太は由貴達のカフェの前に佇んでいた。瞬の所属する営業部が、忘年会を慣行している時刻を狙ってやってきた。この男、人は良いが、確信犯である。
そろり、とパイン材の扉を押し開けると、黒いエプロン姿の中性的な青年がにこやかに迎えてくれた。
「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」
「あ、ども」
店内はオルゴールの耳に優しいメロディが流れ、以前、出張で訪れた北欧を思い出す造りであった。外は曇っているが、中は明るく、コーヒーの豆の匂いが満ちている。客はどうやら亮太だけのようだ。時刻が時刻なので、こんなもんか、と上着を脱いで、足元に置かれた籠に入れていると、先ほどの青年が温かいおしぼりとクリスタルグラスに入った水と共に、メニューを差し出してくれた。
「あ、ホットで頼んます」
「はい、かしこまりました。あの、間違えていたら、ごめんなさい。もしかして、瞬さんの御友人の方ですか?」
笑顔を崩さずに問われて、一瞬、亮太は反応が遅れた。その顔を見て、青年は笑みを深くする。
「昨日、瞬さんからお友達が来るかもしれないってメッセージを貰ったんです」
根回しの早いことである。しかも、くれぐれも由貴を出さないように宋助は忠告されていた。
だが、ちょうど今日はバリスタの修行で、由貴はキッチンに籠っている。
「瞬の彼女、ホールとちゃうんや?」
「ああ、姉は基本的にキッチンですね。うちではドリンクや軽食担当なので、ホールは僕が担当しています。それに、今日はお師匠さんが来てくれて、稽古中なので、余計にホールには出てこられないと思います。足を運んでくださったのに、ごめんなさい」
申し訳なさそうに宋助が断ると、亮太はわたわたと否定の言葉を口にする。
「いやいや、俺が急に来たせいでもあるし、なにも弟君がそんな顔することあらへんで、うん!」
「でも……」
「ほんまに!」
「そうでしょうか。あ、注文をまだ通していませんでしたね。急いでお持ちします。少々お待ちください」
宋助は、遠慮がちに笑うと駆け足でホールからキッチンに入って行った。
「なーにが『足を運んでくださったのに』よ。もう、宋ちゃんのこの演技に騙される野郎ばっかりね。本当、由貴の一番の防波堤は宋ちゃんなんだもの。恐ろしいわぁ!」
「サリーちゃん、客の男を見繕ってないで、こっちを見てよ。せっかく、今日一番うまく出来上がったのに……」
「良いじゃない。ただでさえ、こっちは男日照りなのよ! ……って、あら、本当に綺麗にできてるじゃない。豆の薫りも申し分ないわ」
どこからどう見ても、厳ついこの男・サリーちゃんは、由貴が専門学校に通っていた時分から、師事しているバリスタの師匠である。
日頃は男に甘く、女に厳しいが、仕事が絡むと鬼よりも怖い。世界的にも有名なバリスタで、由貴とはなにかと相性が良いのか、時折、店に顔を出しては由貴の仕事に悉く口を出して帰って行く。
サリーからのお許しが、やっと出たことで由貴はほっと息を吐いた。いったい、何時間集中していたことだろう。特に今日は指導が厳しかった気がする。
「お疲れ様。今日一番のコーヒーは瞬さんのお友達にお出ししたよ。サリーさんと姉さんも、少し休憩したら? お昼からぶっ続けだったでしょ?」
「由貴、これ、これよ! あんたに足りないのは! 宋ちゃんの如く、思いやりと女らしさを身につけなさい!」
「うるさい」
神経をすり減らして、疲労困憊のところにサリーのけたたましい声は頭痛がすると、由貴は耳を両手で塞いだ。
すると、随分と荒っぽくカウベルが鳴った。
「りょーおーたー……」
息も切れ切れに、目を据わらせて現れたのは瞬だった。
「げ」
「げ、とちゃうわ! ボケ!」
怒りながら、亮太の耳を引っ張り、追い出そうと試みているようだ。
「瞬さん、お疲れ様。忘年会は終わったんですか?」
コートも脱がずに、渾身の力で亮太の耳を引っ張っている瞬に宋助から声がかかる。
「いや、途中で抜けてきた。この阿呆、余計な事してへんやろな?」
「大丈夫ですよ」
宋助のこの一言に、下で「痛い、冷たい」と喚いていた亮太から漸く解放された。
安心したのか、苦い顔を作って亮太の対面に腰掛けた瞬のスマホが震える。
メッセージは由貴からだ。
『閉店後、家に行く』
短い一文だったが、これに漏れそうになる笑みを殺して瞬は、亮太から少し冷めたコーヒーを強奪して、飲み干した。
「あー!! なにすんねん、阿呆! めっちゃうまかったのに!」
「うるさいわ。てか、コーヒーに砂糖入れすぎや。甘……」
ホールが一気に喧しくなったことを、キッチンから覗いていたサリーが、瞬に目を付ける。
「なんか……一気に関西の空気になったわね。それにしても残念。あとから来た方の彼、ワイルドさなら断然好みなんだけど、ちょっと細すぎるわね」
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さりげなく人の彼氏を評価しないでほしい。由貴は内心で、そう呟いて裏口からサリーを見送った。これ以上、長居されて瞬のことがバレることを避けたかった。
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「あ、サリーさんは帰ったの?」
「強制送還。これ以上居たら、絶対に絡んでくる」
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「……」
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暗い部屋の中は、あの雪の日の洞穴を彷彿とさせる。
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「あ……瞬、宋? 何処……?」
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「由貴? すまん、遅なって……って、泣いとるんか? どないしてん?」
「……っ瞬!」
にべもなく、正面から抱き付くと、コートに染み着いたアルコールと煙草の匂いがした。それが現代を生きている実感を甦らせてくれる。酸素を欲していたかのように、めいっぱい空気を吸いこんだ。
「なんやわからんけど、落ち着け」
「ん、ごめん」
背中を摩ってくれる瞬の手は優しい。心なしか、声音も柔らかいことにひどく安堵する。
「少し、昔を思い出しただけ……もう、大丈夫。それより、瞬、酒と煙草の匂いがする」
「おい、復活したらそれかい。まあ、普段通りになったなら、ええわ。亮太も追い返したし、風呂入ってくる」
「うん、じゃあ晩御飯作ってあげる。冷蔵庫の中、勝手に漁るよ」
「任せるわ」
もう癖になっているのだろうか。由貴の頭の上に、大きな手を置いて、瞬は浴室に消えていった。
これだけのことが、どれだけ由貴に安寧をもたらしてくれるのか、彼は知らない。
由貴も知らなかった。宋助といる時とはまた違う平穏。
それは日に日に大きくなって、由貴の中に瞬を刻み付ける。
「好き、だよ……」
思わず零れ落ちた言葉は水音にかき消された。
合鍵を貰って以来、時折、由貴は瞬に夕食を作る。なので、瞬の家の冷蔵庫は男の一人暮らしにしては充実している。
「お、今日も美味そうやな」
「簡単だけど、今度店の定番メニューにするスペイン風オムレツとフルーツサラダ。さすがにスープはインスタントだけど、足りる?」
「充分! いただきます!」
「どうぞ」
二人でかちゃかちゃと食器を鳴らしながら、平らげていく。食事の最中、テレビは観ない。これは瞬の実家も、由貴の実家も同じだったから、いつの間にか、二人で過ごす時間も当たり前になってしまった。
「ところで、今日は喧しいのが来て悪かったな。後で宋にも謝っといて」
「ああ、あの友達? 私は奥に居たし、先生が来てたからちゃんとは見てないけど、宋が何も言ってなかったから良いんじゃないかな」
焼き色が気になっていたオムレツだが、ツナの風味がうまく出てくれたので成功だな、と由貴は満足する。
「それならええんやけど。んで、今日の本題は?」
「これ」
由貴が差し出したのは、またもや字がたくさん書かれた薄い紙束だった。少し、警戒しつつ、瞬はそれに目を通して、吃驚した。
「……一泊二日の温泉旅行?!」
「宋が商店街の福引で当てた。今、父さんと母さんが行ってるんだけど、私達にも別口で買ってくれたの。これがクリスマスプレゼントだってさ」
瞬が固まっている間に、由貴はフルーツサラダから、林檎をかっぱらっていく。
「や……宋の厚意はありがたいんやけど、お前、これはあかんやろ。泊まりやぞ。それはまだ早いと言うか……」
「良いよ」
「へ?」
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◇
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『厳しいなぁ、宋助は。空海は一族を失って、君だけが心の支えだったんだよ?』
スマホをスピーカーモードにして、歌うように宋助は話かける。
「そう、“風魔”という特殊な状況下だったことが、核なんだろうなぁ。僕はね、嘘は言っていないよ。本当に死後のことは知らない。でも、生前のことは覚えている。姉さんは、僕の死後の方があまりに強烈で、覚えていないんだろうけど、一族を殺したのは他でもない――僕だったんだよ。父も、母も――すべて。この世に僕ら二人だけになるように。そして、僕はその咎で打ち首になった」
事実を語る宋助の瞳には、仄暗い焔が灯る。
『どうして、一族を殺したの?』
機械を介して聞こえてくる蓮莉の声は、疑問に満ちていた。
「“風魔”はね、年がら年中、戦に身を置いている一族だった。川の水が血で赤く染めあがる程にね。子供だろうが、容赦はされない。そんな一族に辟易としたのが、僕だ。だから、一族すべてを殺した。僕はいつか見た人間の子供のような静かな日々が欲しかったから」
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二重人格、というのだろうか。
それとも生まれ変わる時の記憶の混線か。
前世の死後のことは知らない。
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話すつもりはない。
このスマホの中にあるのも、声を合成して作った擬似人格である。
――宋助は『風魔』であり、『蓮莉』である。
この事実を知れば、せっかく波乱の過去から抜け出して、瞬と幸せな日々を緩やかに築き上げている姉の依存がまた深まってしまうことだろう。
瞬ほど姉を想う人間を、宋助も蓮莉も知らない。
だから、あの二人には話さないことが吉なのだ。
幸福を知らなかった哀れな“風魔”に平穏を。
宋助と蓮莉は、くすくすと忍び笑いを漏らした。
end...
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